その昔、夫の浮気に苦しんでいた頃の話。
夫は何度も、私を新しい奥さんと入れ替えようとした。
私はそのたびに、嘆き悲しんだ。
浮気そのものより、自分が不要な人間だと
思い知らされるのが辛かった。
額に「肉」ならぬ「不」のハンコを押された気分は
この上なく惨めだった。
しかし何回か繰り返すと慣れて、余裕も出てくる。
私は夫の相手に共通する、ある点に注目するようになった。
「一生懸命」…それは、彼女達にあって
私に無いものであった。
あの人達には、遠慮というものが無い。
最初から勝ちに行くつもりなので、建前や体裁はいらないのだ。
そしてイノシシのように突き進む。
その一生懸命が、報われることはなかった。
一生懸命の使いどころを間違えたからだ。
それを世間では、バカと呼ぶ。
一方の私は、血を流す心をひた隠し、斜に構えて
彼女達の一生懸命を鼻で笑っていた。
一生懸命でない者は、体裁がいるのだ。
体裁をつくろいつつ、内心では脅威を感じていた。
彼女達の一生懸命に押されていたのだ。
バカよりバカだった。
自分が一生懸命であれば、横から来る一生懸命は恐れるに値しない。
一生懸命は最大の武器であり、強固な城壁となる…
使用目的の正邪はともかく、私は彼女達からそれを学んだ。
とはいえ、それを知った頃、私はもう若くなかった。
若くなくなる…それは美しくなくなることであり
体力が衰えることでもあったが
子供が成長したり、親が老いることでもあった。
そうなると皮肉なもので、自分は不要どころか
必要不可欠な人間と実感することばかりだ。
働き手であり、介護者としてである。
もはや、私を他の誰かと入れ替えることなんてできない。
誰もこんなことはしたくないので、交代要員が出てこないからだ。
まったく、どうなっとるんじゃ!
チャレンジャー、募集。
ともあれ、ようやく一生懸命は知った。
しかし一生懸命だけでは
どうにもならないことの方が多かった。
尻癖の悪い旦那や、よその女性がどうなろうと知ったこっちゃない。
自分1人の気持ちだけ、泣いたり笑ったりして
納得させればよかったのが
子供や夫の親のことになると、その人達も納得させなければ
おさまらない問題ばかりだからである。
ことに夫の親関係は、消耗に次ぐ消耗だ。
老人特有の迷いや気まぐれに振り回されながら
いまだ“センター”で歌い踊っているつもりの彼らに
つもり舞台をこしらえる作業は骨が折れる。
一生懸命やればやるほど、彼らは「もっと」と
新たなサービスを望み、私は疲労困憊するのだった。
私はいつしか、彼らのことを「おとうさん」「おかあさん」でなく
「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼ぶようになった。
子供達が彼らをそう呼ぶので、ついそうなったのだが
不思議なことに「おとうさん」や
「おかあさん」のすることには腹が立っても
「じいちゃん」や「ばあちゃん」のすることは水に流せる。
たまに「おとうさん」「おかあさん」と呼んだら
生々しさすら感じるようになった。
ここで初めて思ったが、そもそも結婚相手の親を
父母と呼ばなければならない社会通念こそが
間違っているのではないのか。
よそのおじさんやおばさんを無理に父母と呼ぶから
ゴチャゴチャするのではないのか。
子供の結婚によって、いきなり父母になった親達もしかり。
父母の称号に自身の人間性が追いつかないまま
体面だけは急いで整えたくなるので
つい尊敬や忠孝を求めてしまい、嫁の怨みを買う。
頻発するこのような事故を防止するためには
名前で呼びゃいいんだ、名前で…などと、1人で自論をつぶやく。
その点、じいちゃんばあちゃんはいいぞ。
他人の年寄りでもそう呼ぶし、昔話にも出てくる。
対象が漠然としているので、構える必要が無い。
孫でもない者にそう呼ばれるのは嫌かもしれないが
ここは平和と安全のために、辛抱してもらおうではないか。
一生懸命で乗り切れないことは、小ワザを使う…
よしよ~し、今後もこの調子で…と悦に入る。
が、消耗及び疲労困憊の主たる原因が
日に数十回昇降する、家の階段にあったと知るまでには
この後、さらに数ヶ月の期間を要するみりこんであった。
夫は何度も、私を新しい奥さんと入れ替えようとした。
私はそのたびに、嘆き悲しんだ。
浮気そのものより、自分が不要な人間だと
思い知らされるのが辛かった。
額に「肉」ならぬ「不」のハンコを押された気分は
この上なく惨めだった。
しかし何回か繰り返すと慣れて、余裕も出てくる。
私は夫の相手に共通する、ある点に注目するようになった。
「一生懸命」…それは、彼女達にあって
私に無いものであった。
あの人達には、遠慮というものが無い。
最初から勝ちに行くつもりなので、建前や体裁はいらないのだ。
そしてイノシシのように突き進む。
その一生懸命が、報われることはなかった。
一生懸命の使いどころを間違えたからだ。
それを世間では、バカと呼ぶ。
一方の私は、血を流す心をひた隠し、斜に構えて
彼女達の一生懸命を鼻で笑っていた。
一生懸命でない者は、体裁がいるのだ。
体裁をつくろいつつ、内心では脅威を感じていた。
彼女達の一生懸命に押されていたのだ。
バカよりバカだった。
自分が一生懸命であれば、横から来る一生懸命は恐れるに値しない。
一生懸命は最大の武器であり、強固な城壁となる…
使用目的の正邪はともかく、私は彼女達からそれを学んだ。
とはいえ、それを知った頃、私はもう若くなかった。
若くなくなる…それは美しくなくなることであり
体力が衰えることでもあったが
子供が成長したり、親が老いることでもあった。
そうなると皮肉なもので、自分は不要どころか
必要不可欠な人間と実感することばかりだ。
働き手であり、介護者としてである。
もはや、私を他の誰かと入れ替えることなんてできない。
誰もこんなことはしたくないので、交代要員が出てこないからだ。
まったく、どうなっとるんじゃ!
チャレンジャー、募集。
ともあれ、ようやく一生懸命は知った。
しかし一生懸命だけでは
どうにもならないことの方が多かった。
尻癖の悪い旦那や、よその女性がどうなろうと知ったこっちゃない。
自分1人の気持ちだけ、泣いたり笑ったりして
納得させればよかったのが
子供や夫の親のことになると、その人達も納得させなければ
おさまらない問題ばかりだからである。
ことに夫の親関係は、消耗に次ぐ消耗だ。
老人特有の迷いや気まぐれに振り回されながら
いまだ“センター”で歌い踊っているつもりの彼らに
つもり舞台をこしらえる作業は骨が折れる。
一生懸命やればやるほど、彼らは「もっと」と
新たなサービスを望み、私は疲労困憊するのだった。
私はいつしか、彼らのことを「おとうさん」「おかあさん」でなく
「じいちゃん」「ばあちゃん」と呼ぶようになった。
子供達が彼らをそう呼ぶので、ついそうなったのだが
不思議なことに「おとうさん」や
「おかあさん」のすることには腹が立っても
「じいちゃん」や「ばあちゃん」のすることは水に流せる。
たまに「おとうさん」「おかあさん」と呼んだら
生々しさすら感じるようになった。
ここで初めて思ったが、そもそも結婚相手の親を
父母と呼ばなければならない社会通念こそが
間違っているのではないのか。
よそのおじさんやおばさんを無理に父母と呼ぶから
ゴチャゴチャするのではないのか。
子供の結婚によって、いきなり父母になった親達もしかり。
父母の称号に自身の人間性が追いつかないまま
体面だけは急いで整えたくなるので
つい尊敬や忠孝を求めてしまい、嫁の怨みを買う。
頻発するこのような事故を防止するためには
名前で呼びゃいいんだ、名前で…などと、1人で自論をつぶやく。
その点、じいちゃんばあちゃんはいいぞ。
他人の年寄りでもそう呼ぶし、昔話にも出てくる。
対象が漠然としているので、構える必要が無い。
孫でもない者にそう呼ばれるのは嫌かもしれないが
ここは平和と安全のために、辛抱してもらおうではないか。
一生懸命で乗り切れないことは、小ワザを使う…
よしよ~し、今後もこの調子で…と悦に入る。
が、消耗及び疲労困憊の主たる原因が
日に数十回昇降する、家の階段にあったと知るまでには
この後、さらに数ヶ月の期間を要するみりこんであった。