殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

マリア様のおみやげ

2017年11月25日 09時41分56秒 | みりこん昭和話
毎年、11月の終わりになると

私の通っていた幼稚園の行事を思い出す。

それは「マリア様のおみやげ」と呼ばれた。

「マリア様のおみやげ」とは幼児相手の言葉であって、実際は

供え物を持って幼稚園に行く日であった。


「マリア様のおみやげ」には、いくつかの条件があり

注意点がワラ半紙に刷られて配布された。

1・食べ物であること

2・わざわざ買わず、家にある物

3・古い物はいけない

4・腐りやすい物はいけない

5・調理した物はいけない

6・園児が気になるのでお菓子はいけない

7・登園時に幼児の力で運べる重さと大きさの物

ざっとこんなところ。


私が4才、妹が3才で同時に入園した年‥

このプリントを見た家族は当惑した。

全注意点を見事クリアしたおみやげを見つけるのは、至難の技だ。

何を持って行けば、おみやげとして認められるのか‥

家族会議は重ねられた。

難関は、2の『わざわざ買わず、家にある物』。

『家にある物』という表現に、我が家の大人たちは頭をひねった。


マリア様のおみやげを幼稚園へ持って行く日が迫った頃

父から画期的な提案がもたらされる。

「2〜3日前に買って家に置いとけば

家にある物、ということになるのでは?」

この提案は、即座に採用された。


では何を買えばいいのだろう‥ということになる。

文面を読む限り、幼稚園が望んでいるのは果物のような気がする‥

という結論に達し、祖父がさっそくバナナを買って来た。


ここで母が物言いをつける。

「バナナは庭に成らないわ」

あまりにも不自然過ぎると言うのだ。


そこで祖父、今度は柿を買って来た。

「秋だから、柿を持って来る子供は多いはず。

あんまり同じような物ばかりでは‥」

やっぱり母は気に入らない。


ミカンも同じ理由で却下され、祖父は彼の好物、干し柿へと触手を伸ばす。

「調理した物はいけないと書いてあるわ」

誰よりも生真面目な母は、バッサリ。

「干すのは調理か?」

「生じゃないんだから、広い意味で言えば調理じゃないの?」

祖父と母は言い合いをしていたが、しょぼくれた干し柿は

私の持って行きたい物ではなかったため却下。


「もういい!私が探す!」

母はそう言って、近所の果物屋へ行った。

そして買って来たのは、インドりんご。

やはりこれといった物は見つからなかったらしい。


インドりんごというのはりんごの品種の名前で、当時の流行だった。

それまで主流だった硬くて酸っぱい紅玉種のりんごとは異なり

ダイナミックに大きくて酸味が少なく、果肉が柔らかい。

入れ歯の年寄りも、乳歯が怪しくなってきた子供も食べられるため

母のお気に入りでもあった。


「インドりんご!」

祖父はせせら笑う。

「インドだぞ!インドのりんごが庭に成るもんか」

庭に成らないという理由でバナナを却下された復讐だったが

母は無視して、私と妹にこれを2個ずつ持って行くようにと言った。

私は3個を希望したが、当時はスーパーのレジ袋なんか無く

何でも茶色の紙袋に入れて持ち運んだため、安定感に乏しかった。

妹が抱えて歩けるのは2個が限界。

小さい彼女を不甲斐なく思った。


インドりんごは我が家で2日間寝かされ

私と妹はそれを幼稚園へ持って行った。

園児たちがそれぞれ持ってきた供え物は先生が受け取り、講堂の床に集められる。

キリスト系の幼稚園だったので、仏前ではなくマリア像の前に捧げられるのだ。


芋や野菜もあったが、やはり柿とミカンが圧倒的に多かった。

その中で、私と妹が持ち込んだインドりんごの赤い色は美しかった。

礼拝の時、それを眺めてうっとりした。

私が気に入ったということで、翌年からもインドりんごに決定。


山と積まれた「マリア様のおみやげ」は

園長先生たちクリスチャンの手によって孤児院へと運ばれると

牧師様のお話で聞いた。

我々園児がマリア様におみやげを持って行くのではなく

マリア様が孤児院の子供たちに贈るので、マリア様のおみやげと呼ぶそうだ。


園長先生のお話によると、孤児院は山のてっぺんにあり

険しい崖の道を車で登って届けるのだという。

そんな怖い場所に、孤児たちが本当に住んでいるのだろうか‥

4才の私は、この疑問に苦しんだ。


「お届けしたら、孤児院のお世話をする人たちが

“もう食べ物が無くなって、困っていたんですよ”

と言って、とても喜んでくださいました」

後日、園長先生の報告を聞いた私は、ますます苦しんだ。

だって芋と野菜が少しで、果物ばっかり‥

孤児はそれでお腹がいっぱいになるのだろうか‥

マリア様のおみやげが届いた時は食べられても

あとの日は、お腹をすかせて泣いているのだろうか‥

私も孤児になったら、そうなるのだろうか‥

4才の頭と心は締め付けられた。


そこで苦しい胸の内を父に打ち明ける。

「そんなわけないじゃん。

ごはんは毎日食べないと死んでしまうよ」

父は笑い、決定的な事実を述べた。

「車で行けるような近くに孤児院はありゃせん」


後で父は、母に小言を言われていた。

罪状は「口の軽い子供に本当のことを言った」というものだった。
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お誕生会

2015年11月26日 15時09分22秒 | みりこん昭和話
半世紀前の話である。

私が小学生の頃、同級生同士で行うお誕生会が盛んだった。


呼ぶ方は食事やおみやげ

呼ばれる方はプレゼントを用意する必要があるため

イベントの出費は親に頼ることになる。

親はスポンサーとして、ある条件のもとに招待客を厳選する。

その条件とは「今後も我が子と仲良くしてもらいたい子供」である。


成績優秀で、なおかつ家の素性がはっきりしている子供は

あちこちのお誕生会から引っ張りダコであった。

時には「親が呼べと言ったから呼んだに過ぎず、本人同士は仲良くない」

という悲劇もあったが、お誕生会に招き合う間柄こそが

親の認めた天下晴れてのお友達というわけだ。


小学校1年生の6月…

初めてお誕生会に招かれた日のことは、今でも覚えている。

今でも覚えているもなにも、私は生まれた時からの記憶があるので

おおかたのことは覚えているのだが、その日のことはとりわけ鮮明だ。


それはトンちゃんという女の子のお誕生会だった。

転勤族の娘で、入学と同時にこの地へ来たトンちゃんのため

親が心をくだいたと思われる。


当日、私はよそ行きの服を着せられた。

プレゼントとしてリボンをかけた文房具を母チーコから渡され

「お行儀よくね」と送り出される。


トンちゃんの家に着くと、お母さんとトンちゃんが外で待っていてくれた。

通された部屋の天井には、折り紙で作ったクサリが華々しく垂れ下がり

トンちゃん親子の意気込みが感じられた。

招かれた8人の子供一人一人に座布団が用意されていて

なんだか大人になったような気がした。


テーブルの真ん中にはデコレーションケーキ…

食事のメニューは甘口のカレーライス、デザートはハウスのプリン…

お飲み物はストロー付きのカルピス…

さんさんと陽の降り注ぐ明るい和室で歌う、ハッピーバースデーの歌…

ケーキに立てた7本のろうそくをプーッと吹き消すトンちゃん…

拍手をする私達…

他人の慶事を心からことほぐ、これが最初の一歩であった。

我々田舎の子供が「社交」を知った記念日だ。


以後、同級生の間でお誕生会が広まった。

じきに招かれた子供の誕生日がきて、お返しにトンちゃんを招くからだ。

年末になると私の誕生日が訪れたので、我が家でもお誕生会を催した。

2年生になるとトンちゃんは転校していなくなったが、お誕生会の習慣は続いた。


うちの場合、家に招くメンバーの選別は比較的ユルいが

招かれて行く際には、吟味が厳しかった。

第一条件は「お兄さんのいない家」。

年上の男性と顔見知りになるのを避けるためである。

明治男の祖父によれば、これが一番危ないのだそうで

小さい頃から知っているという油断が、身を持ち崩すきっかけになりやすく

引いては不幸の始まりになるという理由からだった。


これは女系家庭で異性に免疫の無い、我が家だけの法律であり

お兄ちゃんのいる家がけしからんというわけではない。

小さい時にお兄ちゃんのいる家を避けたところで

やがて悪いお兄ちゃんに引っかかり、長期に渡って辛酸を舐める羽目になるのだから

細心の注意も無駄だったといえよう。


ともあれお誕生会に招かれた際は、家族構成について尋問を受け

合格すれば許可が出る。

お兄ちゃんのいない家しか行けないため

私が参加できるお誕生会は、他の子より少なかった。


が、お誕生会に招かれるって、いいことばかりではないと

知り始めたのも事実である。

2年生、3年生になると、ウザい生き物が出現するからだ。

ちょっと前まで赤ん坊だった「弟」という生き物である。


そやつらはパーティーに乱入し、お調子に乗って奇声を発したり

主役の姉や招待客に乱暴をはたらくようになる。

弟のいない私は、これが嫌で仕方がない。

弟が生息する家に招かれた時は、あまり嬉しくなかった。


3年生の時に催した私のお誕生会では

招待客の一人フジちゃんが「お腹が痛い」と泣き出した。

食当たりを心配したチーコが自転車で送り、フジちゃんの親に謝ったが

盲腸だった。


4年生のお誕生会は、流れると思われた。

春にチーコが胃癌の手術をしたからだ。

5時間以上の大手術になると聞いていたが、実際には2時間で終わった。

開けたら手遅れで、すぐに閉じたであろうことは

異様に短い手術時間や家族の表情から、子供なりにわかっていた。

しかしチーコは患部を切除したと思い込んでおり

かんばしくない予後に苦しみつつも、不屈の闘志でお誕生会を仕切った。


5年生の時には、ほぼ寝たきりとなり

6年生の春にチーコは死んだので、私のお誕生会歴は4年生で終わった。

しかし5年、6年と持ち上がった担任が厳しい人で

お誕生会の習慣を「この町の悪癖」と断じ、全面禁止にしたため

我々のクラスは全員、4年生でお誕生会から足を洗ったことになる。



誕生日と聞くと、今でも思い出すのは白いバタークリームのケーキ。

当時の田舎に、生クリームのケーキは存在しなかった。

どこのお誕生会に呼ばれても

町でただ一軒のケーキ屋で作られる同じケーキが

テーブルの中央に鎮座していた。


真っ白な土台に、バタークリームでできた、ピンクの薔薇…

葉っぱに見立てた、緑色も鮮やかなアラザン(フキの砂糖煮)…

アクセントとして配置される真っ赤なチェリー…

このチェリーは缶詰ではない。

噛んだらジュルリと中味が出て、気分が悪くなるほどに甘い砂糖漬けであった。


ところどころに散らした、ジンタン状の銀の玉もお決まり。

美しい銀の玉はぜひとも味わってみたいところではあるが

乳歯が抜け、永久歯待ちの子供には 、魅惑の銀玉を噛み砕く作業が困難だったため

未知なる味のまま現在に至っている。
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8月6日

2015年08月06日 07時38分12秒 | みりこん昭和話
8月6日…

♩この~日 何の日 気になる日 原爆記念の日ですから ♩


今年は戦後70年。

ということは、広島と長崎に人類初の核兵器が使用されて

70年でもある。

次の節目には生きているやらどうやらわからないので

今日、記しておこうと思う。



私の母チーコは広島生まれ。

原子爆弾が落とされた時は、13才だった。


戦時下の学生達は、学校で勉強する代わりに

勤労奉仕と呼ばれる作業に駆り出されていた。

夏休みなんてありゃしない。

出兵した成人男子に代わって工場で働いたり、道路工事をしていたのだ。

子供まで働かせる理不尽や、罪の無い者が死に追いやられる不条理を

「お国のため」と呼んでいた、それが戦争である。


8月6日の朝も、チーコは同級生と一緒に屋外で作業をしていた。

空襲に備えて家々を取り壊し、火が燃え移らないように道路を拡張するお手伝いだ。


13才の女学生にできる作業といえば、倒した家の瓦を運ぶぐらい。

チーコは早朝から現場に赴き、黙々と瓦を運んでいたが

8時を回って陽射しが強くなると、どうにも暑くてたまらなくなり

隊列を離れて軍手をはずした。


その瞬間、空がピカッと光ったと思ったら

大きな音がして地面が揺れた。

そして夜のように真っ暗になった。


辺りは妙に静かだった。

さっきまで共に瓦運びをしていた多くの者は、一瞬にして

命と共に身体まで消えてしまったからだ。

チーコの居た場所は、爆心地の近くだったのである。

生きているわずかな者が、自分の身に何が起きたかを知るまでの

短い、不気味な静寂が流れた。


爆風で飛ばされたチーコは、すぐに立ち上がって駆け出した。

学校で決められた避難場所へ集合するためだ。

何か異変が起きた時はここへ集まるようにと

日頃から言われていた、町はずれの小高い丘にある公園である。


最初は二人の友達と一緒に避難場所を目指していた。

「あんた、血だらけよ」

「あんたこそ、真っ黒よ」

「あはは」

「あはは」

非常時の興奮のためか、最初は笑いながら走っていたが

いつの間にか一人になっていた。

後で知ったが、チーコの同級生は全員死亡していた。



同じ朝、チーコの父サキオは、母アキヨと自宅に居た。

軍の物資輸送船で、ニューギニアなどの南方戦線へ

食料や燃料を運ぶ仕事をしていたサキオだが

戦争が激しくなると、乗る船が無くなった。

魚雷や戦闘機でことごとく爆破されたからだ。

そのためしばらく前から陸に上がり、内勤になっていた。


自宅に被害は無かったが、何やら大変なことが起きたのは

一人娘が作業に出かけた方角である。

サキオは自転車で家を飛び出した。

しかし爆心地に近づくにつれ、自転車では進めなくなった。

道路は真っ黒に焼け焦げた死体や

倒れた人々で埋まっていたからだ。


自転車を乗り捨てて徒歩になると、倒れた人々が次々とサキオの足をつかむ。

「助けて…助けて…」

サキオは、その手を振りほどきながら進んだ。


そのまま3日間、家に帰らず

娘を探して広島中を歩き回ったサキオは

4日目の朝、ある橋の上を通った。

足元を見ると、折り重なった遺体の隙間から

見覚えのある小さな布きれが目に入った。

自分が着ていた浴衣の生地だ。

妻がこれをほどいて、娘に夏用のモンペを作ったことを

サキオは知っていた。


何体もの遺体をはねのけ、モンペの主を引っ張り出したサキオ。

モンペの主は重傷を負っていたが、まだかすかに息があった。


だが、ここで問題発生。

顔が倍ぐらいに腫れ上がっているため

それが我が子かどうか、全くわからないのだ。


「チーコか?!チーコちゃんなのか?!」

何度も呼びかけたら

「うぅ」とかすかに声を出した。

娘の声だった。


「お父ちゃんだよ!助けに来たよ!」

チーコは目を開けようとするが、腫れたまぶたは

ウミでふさがっている。

サキオがウミを口で吸ってやると、チーコはうっすらと目を開け

「お父ちゃん…」と小さな声で言った。



瀕死のチーコは、両親の手厚い看護で少しずつ回復していった。

顔や身体の火傷は、奇跡的に傷跡が残らなかったが

被爆直前に軍手をはずしたため、原爆の熱で焼けた両手の指は

くの字に曲がってしまった。

チーコは、あの時軍手をはずしたことを悔やんだ。

しかし、軍手をはずそうと瓦運びの列を離れたために

生き延びたのも事実であった。


やがて一家は、チーコの療養のために広島を引き払い

サキオの姉を頼って農村に引っ越した。

ほどなくサキオは、軍隊で取得した運転免許が幸いして

近くの町の企業に迎えられたため

一家は農村を出て、勤務先のある町へ再び転居する。

チーコは2年遅れで中学と高校に通い

卒業後は洋裁学校を経て洋裁講師になった。


サラリーマンになって10年余り経った頃

50才を過ぎたサキオは突如、起業を思い立つ。

一家は同業者のいない町を探して

縁もゆかりもない小さな田舎町にやって来た。


チーコはその町で結婚し、女の子を産んだ。

無事に生まれるか、とても心配だった…

元気な赤ちゃんだったのでホッとした…

放射能の影響があるといけないので、母乳を一滴も与えなかった…

その女の子が私である。



以上は、小さい頃から祖父母や母に聞かされていた話だ。

「うちだけが大変だったんじゃない、みんな大変だったんだよ」

大人達はいつもそう結んだ。



チーコは私が小6の時に、38才で死んだ。

原爆が起因の胃癌と白血病による、壮絶な最期であった。

死ぬ何ヶ月か前、チーコに好きな言葉をたずねたことがある。

彼女は即座に答えた。

「平和」と。



以後の私は学業に励むでもなく、平和や反戦に関心を持つでもなく

母無き子として、世をすねて暮らした。

結婚後にいたっては、長引く浮気戦争に参戦し

あげくは老人兵に手を焼く、不甲斐ないおばさんに成り果てる。


そんな私でも、争いの中に長く身を置いてわかったことがある。

争いはいつも、誰かの我欲から始まるということだ。


「自分だけが得をしたい」「自分の思い通りにしたい」

この我欲を発した者と、「そうはさせない」と反発する者の間に

憎しみが生まれる。

憎しみは争いを生む。


憎しみには、相手を傷つけ侮辱する残酷を

正義と思わせてしまう魔力がある。

悪いから、生意気だから、気にいらないから

言うことをきかないから…

理由はいくらでも出てきて、残酷は進み続ける。

これが家なら家庭不和、学校ならいじめ、国同士なら戦争だ。


まず自分から、我欲をちょっとセーブしたり

身の回りの憎しみを一つずつ、七転八倒しながら消していくことだって

小さな平和の芽になるのではなかろうか。

世界の戦火を消す力は無くても、平和の芽を育てることはできる…

私はそう思っている。
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ピンキー効果

2015年06月03日 09時12分45秒 | みりこん昭和話
私は子供の頃、アレルギー体質だったように思う。

最初に遭った災難は、4才の頃。

当時は中華そばと呼ばれていた、ラーメンの出前だ。


その頃の私は、大人の食べ物に興味を示すようになっていた。

少しもらって食べた途端、両足のカカトに突っ張るような違和感を感じる。

真っ赤なブツブツがみるみる広がって、痒いのなんの。


すぐに近所の医院へ連行されたものの、診察を受ける頃には跡形もなく消えており

医師には症状が確認できなかった。

母の方も商売人の立場上、近所の店の品物で異変が起きたと口にするのをはばかり

出前の中華そばが原因とは言えなかったので、うやむやになった。


その後、トッピングのシナチクだけ食べたことがあるが

やはりカカトに斑点が発生した。

一つ下の妹も中華そばに同じ反応を示したが

彼女はそれ以前に、冬になると手の指が乾燥して血がにじんだり

いつもヒジの内側やヒザの裏側がかぶれていたため

母は私達を連れて、あちこちの病院巡りをするのがライフワークだった。

半世紀以上前、アレルギーなんて言葉は今のように一般的ではなく

どこへ行っても皮膚病として片付けられていた。

今思えば妹のあの症状は、かの有名なアトピーというものではなかったのか。



やがて私は小学生になった。

中華そばを食べてカカトに問題が起きたことなどすっかり忘れていたし

もう大丈夫かどうか実験するチャンスも無かった。

2軒隣にあった中華そば屋は、すでに店を閉じていたからである。


そんな私に、虫刺されという新たな問題が降りかかる。

この辺りではブト、地方によってはブヨと呼ばれる小さな虫が

私を苦しめるようになった。

幼稚園の頃と違って行動範囲が広くなり

草むらでも遊ぶし、学校の校庭にもたくさんいた。

特に通学路に沿って流れるドブ川は、奴らのパラダイスであった。


ひとたび刺されようものなら、プーッとマンジュウのごとく腫れ上がる。

顔や腕も腫れるが、昔の女の子はスカートなので足の被害が多発した。

引力の関係か、足が一番重症だった。


特に、太ももの内側を刺されたら悲惨。

柔らかいので敵も取り組みやすいらしいが、柔らかいだけに被害甚大である。

縦15センチ、横10センチ、高さ3センチくらいの熱を持った立方体が

突然太ももの大半にへばりつく。


こうなると足の形が変わってしまって、歩きにくい。

腫れた皮膚は真っ赤になるばかりでなく、えらく固い物質に変化するため

足を片方ずつ前に出すという歩行の動作が難しくなるのだ。

一週間ぐらいはガニ股移動。


病院へ行ってもたいした塗り薬は無く、じきに病院をあてにしなくなった私は

問題の立方体にオロナイン軟膏を塗り

その上に薬局で買った冷湿布を貼るという新療法を開発。

こっちの方が早く腫れが引くのだ。


湿布すると、腫れて熱を持った広範囲は楽になる。

ただし、敵に刺された一点は汁まで出てひどく痒い。

しかし湿布をしているため、掻きむしれない。

この世の不条理を感じる日々であった。


毎年これじゃあやっとられんので、そのうち子供なりに色々考える。

そして虫の多い真夏より、身体がまだ今年の毒に慣れていない初夏と

敵が有終の美を飾ろうとする秋がよく腫れることを究明。

真偽は確かではないがそう思い、初夏と秋を警戒して

湿布の在庫管理に余念の無い私であった。


また、敵は黄色を好むらしいのも知った。

帽子の色は黄色に決まっており、雨降りの前のムシムシした夕方なんて

みんなの帽子に群がるからだ。

何とかならないものかと思案したが、帽子を脱ぐと頭をやられそうで

勇気が出なかった。


祖父と父の不仲、明日にも離婚しそうな父母の夫婦関係

母の胃癌、意地悪な同級生…

私は色々なことと戦う子供であった。

だが、ブトのヤツがもたらす熱い立方体とも同じウェートで戦った。



5年生になって、突如として救世主現る。

救世主…それはパンタロン。


当時「ピンキーとキラーズ」というグループの歌が大流行していた。

ボーカルのピンキーがはく「パンタロン」という名のおしゃれズボンも

メジャーとなった。


やがて県内都市部にあるデパートの子供服売り場にも

パンタロンが並ぶようになる。

ピンキーに憧れていた私は、親にパンタロンをねだった。

おしゃれのつもりで入手したパンタロンだが

足全体を布地で覆うことによって、敵の襲撃がピタリと止まった。

刺されてからあれこれやるより、まず隠して刺されないようにする…

あれが予防の大切さを知った最初だったように思う。


こうして私は、図らずも熱い立方体に別れを告げることができた。

中学になると制服がスカートになったので、再び奴らに狙われることになるが

小学生の頃みたいには腫れず、やがて私のアレルギー時代は終わった。

成長して体質が変化したのかもしれない。

しかし私の性根が、ブトよりもっと強い毒を保有するようになったのも

一因ではないかと考えている。
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三つ子の魂・後編

2014年02月20日 20時12分59秒 | みりこん昭和話
その後も私は、光彦を警戒し続けていた。

しかし彼は教科書の件以降、私を避けている様子だった。


母チーコが末期の胃ガンで入院した小4の始め

久しぶりに近づいて来て、小声でこう言った。

「これで成績が下がったろう」

怒りは無かった。

その頃すでに、入学式の日にこうむった冤罪の原因を思い出していた私は

やっぱり…と思ったまでだ。


出席番号の近い光彦と私は、式の前に行われるテストを並んで受けたのだ。

フリーハンドで三角や四角の図形を描く、簡単なテストである。

お絵かきが大好きな私は慣れており、スラスラ描いて終わった。

隣に座っていた知らない子…つまり光彦は

初めての試みに長いこと悪戦苦闘していた。

悲劇はこの時に始まっていたのだ。


6年の始め、母チーコは死んだ。

「もう勉強どころじゃないよな」

光彦はまた言ったが、それは彼の杞憂に過ぎない。

ご心配なく…私は三角や四角をたまたま描けたが

学業においては凡児である。


光彦とは、中学まで同じ学校だった。

順調に凡児の道を歩む私は、もはや敵ではないため

彼の視界から完全に消えていた。


安全を確保して初めて、様々なことを考える余裕ができる。

憎たらしいので困らせてやろうと思った…腹が立ったので隠した…

言い方はいくらでもあるが、彼のしたことは

まぎれもなく窃盗である。

泥棒をしておいて平気なのはなぜか…

私は 興味を抱き、ひそかに観察を始めた。


しかしごく普通の家庭で、両親と姉に可愛がられて育ち

イケメン、スポーツマン、成績優秀、さらに表向きは快活で友達の多い彼に

邪悪の芽吹く要素は見当たらなかった。

だとすれば先天性腐敗か、親からして腐っているのだ…

私はそう結論づけた。

いかにもモテそうな条件を備えながら

不思議と彼に憧れる女子が皆無だったことも、その結論を裏打ちした。


廊下や職員室で教師達の交わすささやきも、幾度となく耳にする。

「また田島ですか」

「ええ、やっぱり裏に田島がいました」

光彦の苗字は、トラブルの黒幕として挙がるのだった。


彼の性格を矯正しようと試みる教師はいなかった。

内面をほじくり返す博打に出るより、このまま秀才として送り出すほうが

誰にとっても安全である。

光彦は学業に励みつつ、ライバルを蹴落す器用さを発揮しながら

やがて教師の期待通り、難関を突破して進学校へ進んだ。



前置きが長くなったが、光彦。

3年に一度開かれる大がかりな同窓会とは違って

いつもの地元在住メンバー10数名の中では、やはり人となりが際立つ。


その夜の会合は、同窓会事務局担当のヤスヒロが呼びかけて開かれたものだ。

光彦と同じ高校に進んだヤスヒロは、彼が帰省するたびに

一緒に飲んでいるという。

「同じ高校に進“め”なかった子達と交流するのも、たまにはいいもんだね」

光彦は明るくのたまう。


その場にいない者の悪口を最初に振っておきながら

誰かが「そうそう、こんなこともあった」と思い出話を続けると

「あ~!聞きたくなかったな~!そういう話!

やめようよ!ね!やめようよ!」といい子ぶる。

まったく、期待を裏切らん男よのぅ!

変わらぬ腐りっぷりに、一人ほくそ笑む私よ。


気づけば、雰囲気が悪くなっていた。

誰かが何か言うたび、光彦は小馬鹿にしたり揚げ足をとりつつ

カラオケに古手のつまらぬ曲を次々と入れては人に歌わせ

その歌唱力や人物を辛口で批評するという持ち前の器用さを

ここでも発揮したからだ。

他の者にさんざん前座を務めさせておいて

おのれはトリのつもりで、うまくもないEXILEなんぞ歌うからだ。


みんなの兄貴分、祐太朗が険悪なムードを察知し

急いで最後の曲を入れる。

流れてきたのは、AKB48の「恋するフォーチュンクッキー」。


私と祐太朗は、さっきまでこんな話をしていた。

「いつ考えても、今が一番いいって思う。

そりゃ色々あるけど、言動に制約があった若い時よりずっといい。

僕、まだ未来が楽しみなんだよ」

「私もだよ…死ぬまで、ずっと楽しみ」

「みりこんは死なないと思う」

「死なせてよ、人並みに」


祐太朗と私の関係は、幼馴染みに超がつく。

あっちはうちと違って、ええとこのボンだが

誕生日が近いため、生まれた病院の新生児室に

2人並んで寝かされていた仲なのだ。

人生や経営について語り合える、数少ない相手である。


そんな会話をした直後なので、歌詞が沁みること。

みんなで一緒に歌い、踊る。

若いモンだけでなく、年寄りも楽しませてもらうぞ!


終わり良ければすべて良し。

楽しかったのかも…な宴会は、お開きとなった。



それから3日が経った。

事務局のヤスヒロからメール。

「光彦君の奥さんのお父さんが亡くなったそうだけど

これ、どうしたらいい?」

ヤスヒロは会計係の私に判断をゆだねるべく

光彦から届いたメールの全文を添付していた。


「昨夜、妻の父が他界しました。

同窓会からは香典も弔電も出ないのですか?

妻の家族に対する僕の立場もあるので、よろしくお願いします。

場所は◯◯県◯◯市…」


同窓会の規約では、配偶者の親は対象外だ。

3日前にみんなと会ったからといって、特別措置を望む図々しさ!

ブラボー!


私はすぐさまヤスヒロに返信した。

「却下」。


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三つ子の魂・前編

2014年02月16日 13時12分45秒 | みりこん昭和話
先日、同窓会の事務局から招集がかかった。

「光彦が帰省しているそうなので、集まって飲みませんか?」


同級生の光彦は、某通信会社勤務。

順調に出世街道を歩んでいると聞いていた。

10年ぶりに見る光彦は相変わらず

整った面立ちとスレンダーボディを保ち、おしゃれな服を着こなしている。


実は私、この男が大嫌い。


話は小学校の入学式の日にさかのぼる。

式が終わって、付き添いの親達は教材を受け取りに別室へ行った。

我々子供は教室に入り、先生のお話を聞いて解散する運びとなった。

その時、この男はいきなり私を指さして、先生に訴えたのだ。

「この子が、僕のあだ名を言った!」


私は驚愕した。

まず、あだ名という単語の意味、知らず。

次に入学式からその時まで、私は言葉を発しておらん。

さらに幼稚園が違うこいつとは、見ず知らずの初対面。


私に落ち度があるとすれば、苗字が同じ「た」行であることのみ。

出席番号が近くて、たまたまこいつの横に座ったからだ。

みりこん、6才にして冤罪(えんざい)を知る。


ヤツがしつこく言い続けるので

先生は「どんなあだ名?」とたずねた。

「だから、あだ名…」

「どんな?言ってごらんなさい」

ヤツは答えられず、白い男雛のような顔を真っ赤にして

すごすごと引き下がった。

この一件により、自分に恥をかかせた仇として

ヤツの歪んだ性根に私が刻み込まれたことなど、知るよしもなかった。


そのまま1年生を過ごすうち、我が6年間の人生で最大の不幸が起こった。

ある日、社会科の教科書が忽然と消えたのだ。

半世紀近く前、教科書を無くすのは、大変不道徳でウカツな行為だった。

母チーコと一緒に、家、学校、通学路などを何日も探し回ったが

その行方はようとして知れない。


「このまま探し続けて勉強が遅れるより、新しいのを手に入れよう」

チーコはそう判断し、学校や、教科書を卸す書店に頼んでみたが

予備が無いと言われた。

当時の教科書業界は、四角四面のお役所的なムードが強く

小売のシステムも無かったので

右から左というわけにはいかなかったのだ。


もっとも、事故や天災で教科書を失う場合もあるので

本当は手立てがあったかもしれないけど

不注意で教科書を無くすような不届きな子供に

救いの手は差し伸べられないのであった。

チーコは書店で東京の出版社の電話番号を聞き出し

電話で何度も交渉して、予備を探してもらうことになった。


教科書が無い間は、先生が指導者用のものを貸してくれた。

児童用よりも一回り大きいそれは、同級生の羨望を集めた。

特に光彦は「いい気になるなよ」

「先生のつもりになってるんなら大間違いだぞ」

などと、執拗にからんだ。


2ヶ月後、新しい教科書が届いた。

初めてそれを学校に持って行った日

皆は、無くした教科書が再び買える事実に驚いていた。

光彦が遠くから口惜しそうに眺めているのを見て、胸がすいた。


しかし午後になって、不幸が再び私を襲う。

昼休みに、なんと私の無くした教科書が

男子トイレから出てきたのであった。


今のようなトイレではなく、皆が並んでいっせいに用が足せる

長いコンクリート製のミゾだ。

そのミゾでたっぷりとおしっこを吸収した教科書を

火バサミでつまんで持って来たのは、あの光彦であった。

私のじゃない!と言いたいのは山々だが、困ったことに名前が書いてある。


残酷な興奮でホオズキのように赤くなった光彦の顔を見た瞬間

私はすべてを理解した。

教科書を隠したのも、トイレに捨てたのも、こいつだったのだと。

みりこん、6才にして陰謀を知る。


このことは、誰にも言わなかった。

今も、誰にも言ってない。

感覚だけの確信であり、証拠が無いからだ。


いいさ、新しいのがあるもんね~!

前のは捨てるもんね~!


しかし帰りの会で、さらなる不幸に見舞われる。

「みりこんさんは、教科書が出てきたんだから

そっちを使わないといけないと思います」

こんな提案が出されたのだ。


「新しいのがあるから古いのを使わないというのは

わがままだと思います。

教科書もお金なので、大切にしないといけないと思います」

言ったのはもちろん、光彦である。

クッソ~、光彦め。


たとえ屁理屈であっても、議場で提案が出されたからには

それについて話し合い、裁決しなければならない。

民主主義の哀しいところよ。

先生は止めたが、私は多数決を承諾した。

ここで泣いて甘えては、今後の子供稼業に支障が出る。


多数決の結果、私は古い教科書を使うことに決まった。

光彦が事前に男子に計画を話し

手を上げるよう指示していたと知ったのは、その後だ。

男子のほうが、女子より人数が多かったのが敗因である。

みりこん、6才にして根回しの重要性を知る。


家にションベンまみれの教科書を持ち帰り、決定の旨を母チーコに伝える。

チーコはその仕打ちに激怒したが、決定に従うと言う娘のために

教科書を丁寧に洗って乾かし、花模様のブックカバーをかけてくれた。


一旦水分を吸収した過去を持つ紙は、いつまでもブヨブヨのシワシワで

取れない黄色や茶色のシミは、便所帰りを物語り続けた。

社会の授業のたびに、光彦や、彼に迎合する男子達に

臭いとかションベン女と呼ばれながら過ごす。

一年生が終わって、ションベン本と永遠にお別れできた時は

心から嬉しかった。



続く




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みりこん家のオキテ

2014年02月12日 14時42分27秒 | みりこん昭和話
節分の日、隣のおじさんが車ごと川へダイブした事件について

詳細を聞きたがる人が多いので、このところ義母ヨシコは対応に忙しい。

その日も近所の人と、庭先で話し込んでいた。

外で1時間も立ち話をしていたため、ご飯を食べるのに

手がかじかんで箸が持てず、うろたえるヨシコ。


「お湯に手をつけて…ストーブより早いから」

私は蛇口から適温の湯を出し、切羽詰まったヨシコは従順に従う。

「本当だ!手だけじゃなくて、体までサッと温かくなった!

よく知っていたわねえ!」

いつになく感心するヨシコ。

「子供の頃、お祖父ちゃんに聞いた」

と私。

「他にもあるよ…ゲップの出にくいジュースの飲み方とか」

「ワハハ!お祖父さん、面白い人だったのね!」

と笑うヨシコ。


そうなのだ…亡き祖父は、役に立つのかどうかわからないことを

私と妹によく教えていた。

ゲップの出にくいジュースの飲み方は、簡単である。

グビグビ飲まずに、少しずつ飲むだけだ。

そのタマモノかどうかは知らないが、私はこれまでゲップをしたことが無い。

ゲップ…一度でいいからやってみたい、夢の行為である。


そんなことを話すとヨシコが爆笑するので、いい気になり、もっと話す。

「それから、船が爆撃で沈没した時に生き残るコツとか…」

戦争中、戦地に物資や兵隊を運ぶ輸送船の乗員として

太平洋を往復していた祖父は、何度かこういう経験をしていた。


「え…?どうやるの?」

「海に投げ出されたら、まず冷静になって周りを見回して

自分のつかまってる板より、もっと大きい板を探す。

泳いで行ってその板をつかんで、また周りを見回す。

みんな必死だから、奪い合いもあるし死人もいるけど、極力気にしない。

その繰り返しでだんだん大きな板を手に入れて

最終目標は、上に乗っかれる板。

その板の上でサメをよけながら救援を待つ、わらしべ長者方式」

…ギャハハ!ヨシコはのけぞって笑う。


他にも手旗信号やら、敬礼の仕方やら、切腹の作法やら

祖父は幼い孫に向かって真剣に言い聞かせ、訓練させるのだった。

幼い私と妹は、戦争や原爆で何度も九死に一生を得た祖父の中に潜む

かすかな狂気を感じていた。

逆らうと面倒臭いことになるので、おとなしく非常時向けの訓練に従った。



実用性はあまり無さそうな訓練に加え、我々姉妹は小学生の頃から

出産に備えたトレーニングを毎日行っていた。

祖父が日頃主張する数々の事柄の中に

お産で身体を痛める女性が多い、というのがあったからだ。

強い母胎を育成することが、ひいては自分や家族の幸せにつながると言う。

体の弱い妻と娘を見てきたからであろう。


たいしたトレーニングではない。

腕立て伏せと逆立ちだ。

逆立ちのほうは、最初、引力を利用して

私の首を長くするために行われていたが、そのうち目的がこっちになった。

これを祖父の号令のもと、何年も続けていた。


その成果は、長男の出産で証明されることになる。

今はどうだか知らないが、30数年前

出産後の子宮は、数週間かけて元通りのタマゴ大に戻るのが一般的だった。

しかし私の子宮は、出産直後から驚異的な速さで回復を始めた。

医師は就寝中の看護学生を急いで起こすよう指示し

寝ぼけまなこで集まった学生達に、代わる代わる私のお腹を触らせて

収縮の過程を触診させた。


入院中、レアな子宮を持つ産婦として、私はちょっとしたスターであった。

産後の経過も良く、祖父のおかげだと思った。


やがて退院の日。

産後は夫の実家で厄介になることに決まっていたので、私は迎えを待った。

しかし、迎えはなかなか来なかった。

午後になっても、日が暮れても来なかった。


ついぞ昨日まで、娘と毎日やって来てワイワイと賑やかだった姑が

退院となったら来ないのを病院の人々はいぶかしみつつ

「ごちそう作ってくれてるのよ」

「きっとお布団干してくれてるんだわ」

口々にそう言ってなぐさめてくれた。

レアな子宮の持ち主は、誰も迎えに来ない気の毒分野においても

レアケースとなったもよう。


夜9時を回って、やっと夫とヨシコ登場。

「ヒロシが野球に行って、なかなか帰って来なくてねえ」

ヨシコはヘラヘラ笑いながら言った。

ようするに私と新生児は、野球に負けたのだった。

しょせん、その程度の存在でしかなかった。

その後もよそのおネエちゃんに負け続けることになるのだが

当時は知るよしもなかった。


約30年後、両親の面倒を見る運命になることも当然知らなかった。

亭主の浮気もきつかったが、精神面だけの問題であった。

老人相手のほうは、浮気より精神的苦痛が少ない分、肉体労働が加算される。

浮気と比較して、ダメージはプラマイゼロというところか。

どうにか続いているのは、産後の面倒を見てもらった恩義があるからだ。


さて、ヨシコはなおも祖父の話を聞きたがるので

私は調子に乗り、やがて話は我が実家に伝わる珍妙なオキテに及ぶ。

「トイレ、刺身、おでん…この単語の使用は禁止。

トイレはご不浄、刺身はお造り、おでんは関東炊きと呼ばないと怒られた」

「なんで?」

「知らん」

「ワハハ!」


他にも、赤飯を家で炊くのが禁止とか、行ってはいけない島というのがあった。

何代か前、赤飯を炊いたら死人が続いたり

一族の誰かが用事や観光でその島に行ったら、留守中に家が火事になったり

やはり死人が出たので、相性が悪いんだろう、という結論になったそうだ。


私が小学一年の時、父が用事でたまたまその島に行くことになったので

付いて行ったら、翌朝うちの祖母が死んだ。

中学の遠足でも行ったが、その時は何も無かった。

今、赤飯を炊いて問題の島へ行ってみたら、どうなるんだろう…

時々そう考えているのは、秘密だ。


「あと、ミカンを焼いて食べるの禁止」

「ミカンを?なんで?」

「貧乏になるから」


その時、折悪しく、ヨシコはストーブでミカンを焼いていた。

焼いて温まり、甘さを増したミカンは、ヨシコの大好物なのだ。

「だから貧乏になったのかしらねっ!」

ヨシコは怒って部屋を出て行った。


ま、いいか…祖父が私に一番多く語った内容は、話してないから。

「あの会社は、潰れるぞ。

チンピラ上がりの社長をいつまでも相手にしてくれるほど

世の中は甘くない。

あいつらは見栄っ張りだから、ギリギリまでそれを隠すだろう。

常に潮の流れをよく見て、早めに撤退しなさい。

船と一緒に沈むのは、船長だけでいい」


逃げ遅れて沈没したけど、例の教えの通り

より大きい板を模索しながら救援を待った私を、祖父が見たら何と言うだろうか。

あの世に行ったら聞いてみたいが、返事はおそらくこれだろう。

「プラマイゼロ!」
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羽子板

2012年01月05日 10時53分48秒 | みりこん昭和話
明けましておめでとうございます。

本年もどうぞよろしくお願い致します。




子供の頃、正月には毎年、羽根つきをした。

普段はしないのに、なぜか正月には、しなければ気がすまなかった。

三が日が過ぎると、なぜか途端にやる気が失せる

期間限定の不思議な遊びであった。


元日、晴れ着を来て写真館へ行き、妹と二人で記念写真を撮ったら

心はすぐに羽根つきへと向かう。

羽根つきは、まず近所にある駄菓子屋で

プレー用の羽子板と羽を買うことから始まる。

元日から営業しているのは、商売気というより

コマや羽子板を買いに来る子供に、いちいち店を開けさせられるのが

面倒だからと思われる。


羽子板は、小ぶりな木の板に

花や人形の絵が描いてあるシンプルなものと

板の下方の持ち手に近い部分に、直径2センチほどの穴が空いており

そこに小さな鈴がぶら下がっている豪華版とがあった。

羽を打つたびに、チリン、チリンと鳴る仕掛けである。


小さい頃は、鈴に惹かれて豪華版を求めていたが

勝負にこだわる年齢になると、鈴の穴が

羽の行方に差し支えることを発見する。

シンプルイズベスト。


私は無敵であった。

なにしろ対戦相手は、一つ下の妹のみ。

周辺の子供は皆、母親の実家へ出かけていたからだ。

我が家の場合、家がそのまま母親の実家なので

帰省する必要が無いのだった。


3年生の時だったか、妹は着物を早く脱いだ。

洋服に着替え「羽根つきで姉ちゃんに勝ちたい…」

などと、母に耳打ちしている。

なにをこしゃくな…こっちは着物のまま勝ってやるわい。


が、洋服の妹は、身軽で強かった。

私はジリジリと追い上げられ、負けそうになる。

これはいけない…ということで、私はタイムをかけ、家にとって返した。

家には“羽根つきをしてはいけない羽子板”

というものがあるのを思い出したのだ。


いつもガラスケースに入っているそれは、子供の私にとって

かなり大きいものであった。

片面には、ごついアップリケが貼り付けてある。

着物を着て日本髪を結った女性の上半身。

肩や髪が羽子板の幅に収まりきらず、はみ出しているさまが横柄そうに見え

つり上がった細い目に、以前から軽い恐怖を感じていた。

しかし、勝つにはこれしか無い!と思った。

“羽根つきをしてはいけない羽子板”には、隠れた魔力があるに違いないのじゃ!


問題の羽子板をこっそり持ち出す。

お…重たい。

この重さは、秘めたる力の重量…私にはそう思えた。


羽子板を抱え、意気揚々と勝負の場に戻った私を見て

妹は「いけないんじゃないの…?」とは言ったが

姉に逆らう勇気は持たなかった。


   「さあ、来い!」

得意げに振り上げようとするが、羽を追うどころか

持ち上げるのがやっとこさ。

勝負は逆転というより、自滅。


その時、私はひらめいた。

そうだ…使用法を間違っていた…

表のアップリケの部分で打てば、つり目のオネエさんが

キャッチしてくれるのではないか。


私は峰打ちをする武士のように、羽子板の向きをくるりと反転させ

アップリケの面を妹に向けた。

しかし、羽はアップリケの凸凹に当たって

イレギュラーな方角への落下を繰り返すだけであった。

オネエさん、キャッチして投げ返してくれそうな気配は無い。

ふがいない女だ。


振り回しているうちに、アップリケの上半分が

板からバラリとはがれた。

羽を打とうと羽子板を動かすたびに、半分はがれたアップリケが

バッタンバッタンと遅れて羽子板に跳ね返る。

ろくに打ち返せないまま、点差はさらに開いた。


「姉ちゃん…もうやめようよ…」

妹は心配そうに、何度も言う。

    「いいや!まだまだじゃ!」

しつこく食い下がる私。


やがてアップリケの全身が、土台から完全に分離して地面に落ち

羽子板はグンと軽量化された。

勝負はこれからじゃ。

やっと羽子板に慣れてきて、いよいよ魔力が発揮されるのじゃ。

アラジンの魔法のじゅうたんだって、最初はうまく乗れなかったじゃないか。


「私、帰る…」

妹は、家の中に入ってしまった。

   「ダメじゃ!まだやるんじゃ!」

その背中に向かって叫ぶ。

家の前で臨戦態勢のまま待つが、妹は戻ってこなかった。


しかたがないので、私も帰ることにする。

落ちたアップリケを拾ったが、顔の部分は泥で汚れてしまった。

羽子板と一緒に、父の事務机にそっと放置。


始末に困ったものは、こうしておけばたいていどうにかなる。

行き詰まった工作の宿題も、壊れたおもちゃも、どうにかなっていた。

空の財布を置いておけば、小銭が入れられていた。

露店で買ってつつきまわしたあげく、ぐったりしたヒヨコだって

新築の小屋に入れられて、元気にピヨピヨ鳴いていた。

私にとっては魔法の机であった。


後で見たら、羽子板は予想通り、ガラスケースに戻っていた。

ただし羽子板の女性は、色白ではなくなり

褐色の日焼け美人になっていた。
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人選ミス

2011年11月12日 12時44分53秒 | みりこん昭和話
高2の時、クラスに、なにかっちゅうと私に突っかかる女、ひでよがいた。

中学では番張っていたと吹聴するような、その程度の女である。

ええとこのお嬢という自己申告の触れ込みであった。

家が遠すぎて、同じ中学から来た者はいなかったので、言いたい放題だ。

いけ好かない女であった。


当時、英語の教科書に、私のお気に入りの話が載っていた。

初めてのファンレターをもらった、若く貧しい小説家が

手紙の主を食事に招待した。

文面から、若い娘だと思い込んでいたが

待ち合わせたレストランに現われたのは、太った中年のご婦人であった。

小説家は驚いたが、気を取り直してご婦人をエスコートする。


食欲旺盛なご婦人を横目に、彼は財布の中味を案じてヒヤヒヤしていた。

そこへ運悪く、グリーンアスパラガスのカゴを抱えたウェーターが…。

「本日は、良いアスパラガスがございます」

「私は小食なので、もうお腹がいっぱいですの。

 でもバター焼きにしたグリーンアスパラガスがあれば、別ですわ!」

そこで小説家は、しぶしぶ一人分だけオーダー。


やっと食事が終わったと思ったら、今度は桃のワゴンが近付いて来た。

「本当においしいお食事でした。

 あとは桃さえあれば、すばらしいですわ!」

そう言われて、小説家はしかたなく桃をオーダー。

ご婦人は結局、彼の小説をあまり読んでおらず

彼はその後の数日をパンと水だけで過ごしたという、かわいそうな話だ。

小説家のお人好しと、ご婦人の図々しさが、私のツボであった。


この時、クラスは騒然となった。

桃は知っている…けどグリーンアスパラガスとは、どんなもんぞや?

当時、我が町の食料品店に、グリーンアスパラガスは存在しなかった。

我々が認識するアスパラといえば、缶詰の白いやつか

田辺の胃腸薬だけである。


ここで、ひでよが得意げに言った。

「おいしいよね~、グリーンアスパラガス!」

おまえの住む山奥に、そんなハイカラなもんがあるものか…

私は意地悪く思った。


どんな味?どんな味?と男子達が無邪気に聞くものだから

ひでよは困って言った。

「う~ん、どんな味って~…香ばしい!」

香ばしいって?どんな感じ?と、またたずねられ、怒り出すひでよ。

「あ、おめえ、ほんまは食ったことねえんだろ」

「貧乏人にはわからないわよ!」

このやりとりの後、ひでよは多少おとなしくなった。


やがて2年の3学期も終わりに近づき、3年生の卒業式があった。

私は卒業を迎えた女子数名に呼び出された。

ツッパリと呼ばれる女の子達である。

あまりしゃべったことは無い。

リーダー格の女の子が、時々体操服を借りに来たので、貸してやったくらいだ。

ぺちゃんこに加工した学生カバン以外は

荷物を持たずに学校へ来るのが、イケテるとされた時代であった。


私の通った高校は、おとなしくてのどかだったので

男子にも女子にも、際だった不良というのはいなかった。

よってツッパリの基準は、あくまでファッション優先の校内比であり

世間一般で通用する水準ではないため、恐れるほどではなかった。


そこで紙袋を渡され

「3年になったら、これをはいて」

と言われた。

「学校の女子をちゃんとシメるのよ」

私の住む地方では、シメるというのは意地悪をすることではなく

支配するということである。


なんと、この人達は女子をシメていたつもりだったのか。

私達は、この人達にシメられていたのか。

初めて知った。

ああ、驚いた。


紙袋に、どんないいものが入っているのかと思ったら

古びた制服のスカートが出てきた。

長いやつである。

所々ほつれているし、はき古されて、テカテカ光っている。

「ええ~?」

私の顔は曇った。

反応がいまひとつの私を残し、彼女達は去って行った。


どうも、何代かに渡って受け継がれたものらしい。

どうも、これを渡された者は、おカシラみたいな人になるらしい。

どうも、適任者がいないので、体操服を借りていた私に回ってきたらしい。

スカートの主と私の体操服のサイズが、同じMのロングだったからにすぎない。

この人事、適当にもほどがある。


私は困った。

こんな汚いものをはいて、何か勘違いをして、いばれということか。

それはみっともなくて、恥ずかしいことではないのか。

しかも3年になるにあたり、町内の田平洋装店で

新しいセーラー服をあつらえている最中であった。

そっちのほうが、断然いい。


私はそのうちひらめいた。

「3年になったら、あの人達、もういないじゃん!」

あのグループに、地元の子はいなかった。

ボロスカートをはかなくても、誰もとがめる者はいないのだ。

この名案に、有頂天であった。


が、そこで再び問題発生。

スカートの処分方法だ。

どこへ捨てようか。

子供というのはかわいそうなもので、何かをどこかへ捨てたとしても

必ず大人に見つかって怒られることを、私は幾たびかの経験で知っていた。


すると都合の良いことに、ひでよがこのスカートを欲しがった。

「私がもらってあげてもいいけど?」

おお!ひでよ!なんていいヤツだ!

一瞬でひでよを見直した、ゲンキンな私であった。


そうよ!あの人達は、私じゃなくひでよに渡せば良かったのよ!

きっと感動的な贈呈式ができたはずよ!

正当な継承者を発掘したような気になり、ホイホイと進呈した身勝手な私であった。


3年生になり、ひでよは得意満面で、長いスカートをひきずっていた。

しかしある日、何の拍子か、ウエストのベルト芯とプリーツの部分が

大きくお別れしてしまい、バサリとひでよの足元に崩れ落ちた。

縫い目が朽ちていたようだ。

周りに女子しかいなかったのが、不幸中の幸いであった。


ジャージに着替え、仏頂面で授業を受けたひでよ。

「みりこんの陰謀だ」と私をにらんだひでよ。

ひでよは、本当にいいヤツだ。
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いきもの係

2010年09月02日 09時30分25秒 | みりこん昭和話
小学3年生の時、クラスで何か生き物を飼おうということになった。

少し前までは「カイコ」を飼っていた。

2年の時、理科の観察に使ったので

行きがかり上、余生の面倒も見たわけだ。


お世辞にもかわいいとは言えないイモ虫達は、毎日たくさんの桑の葉を食べ

やがてひっそりとマユにこもり

さらには小太りな白い蛾となって、死んでいった。

おおっぴらには言えないけど

今度はもっとかわいいものを飼いたいという願望が

クラスには、あった。


学級会で、先生が言った。

「家で飼っている生き物で、学校へ持って来てもいいという人は

 発表してください」

カエル、メダカ、金魚、ゲンゴロウ…色々な生き物の名前があげられた。


体温の無い生き物は、いまひとつ盛り上がりに欠ける。

その地味さに溜息が漏れる中、私は満を持して言った。

「カナリア」

…クラスで飼う生き物は、即座にカナリアと決定した。


家に帰って、その旨を家族に伝える。

うちにいる1羽のカナリアは、人が鳥カゴごと預けて行ったきり

長い間、取りに来ないものであった。

昔は「すぐに帰って来ます」と汽車に乗ったら、それっきり…

ということが、よくあった。


母チーコは「預かりものを勝手にはできない」とシブった。

「あんた、世話なんて、したことないじゃないの。

 今まで、そこにいるかとも言わなかったのに、急に…」

しかし私とて、もう後へは引けない。


翌朝、鳥カゴを持って、意気揚々と家を出るが

その直後、早くも挫折。

昔の鳥カゴは、鉄製で重たいんじゃ。

ハンドバッグじゃあるまいし、快適に持ち歩けるようには、できていない。

持ち手の輪っかが指に食い込み、すっかりイヤになった。

チルチルミチルは、すごいなあ…と尊敬した。

これを持って旅までするんだから、たいした力持ちだ。


「ほら、ごらん!」

チーコの勝ち誇った顔。

父か祖父を呼び、車で送ってもらおうとするが

チーコに阻止される。

「自分で持って行くと言ったんだからね!最後までやりなさいよ!」


途方に暮れる私を見かねた祖父の発案で、1本の太い木の棒が用意された。

1メートル余りのこの棒に、鳥カゴの輪っかを通してぶら下げ

姉妹で肩にかついで運べと言うのだ。

気の毒なのは妹だが、我が家の場合

ひとつ違いの姉妹は、常に一蓮托生の雰囲気があった。


学校までは、そんなに遠くなかった。

500メートルほどだろうか。

それでも、鳥カゴが傾かないように、妹に高さを合わせたら

こっちはヒザを曲げて歩くことになる。

やらせている手前、仕方がないが、大変しんどい。


ようようの思いで学校へたどりつき

得意満面で教室にカナリアを持ち込むと

みんな、歓声をあげて喜んでくれた。

ああ、満足。


さっそくカナリアの世話をする、いきもの係を決めることとなった。

一人の男子から、もっともな意見が出る。

「いきもの係は、みりこんさんがいいと思います。

 それは、カナリアの飼い方を知っているからです」

先生は、何か言いたげな表情だったが

他にめぼしい意見も出なかったので、私は栄えあるいきもの係に就任する。


実は、飼い方なんて、知ら~ん。

さわったこともない。

よく見たこともない。

それどころか、鳥は苦手じゃ。

しかし、いまさらそんなこと、言えやしない。


おっかなびっくり、カナリアを世話すること数日…土曜日がやってきた。

昔は、土曜日も昼まで学校があったのじゃ。

「日曜日は一日中、カナリアを放っておくことになる。

 さて、どうするか」

という話になった。


そこでまたまた、もっともな意見が出る。

「かわいそうなので、係の人が家に連れて帰ったらいいと思います」

私もなるほど、と思い、鳥カゴを持って帰ることにした。


棒が無かったので、手で持つしかなく

重さと指の痛さで、2、3メートル歩いては休むを繰り返す。

友達に協力してもらうという手もあったはずだが

なにしろ、いきもの係としての使命感に燃えていたので、思い浮かばず

持ってやろうと名乗り出る者もいなかった。

家に着いた頃には、息も絶え絶えであった。


月曜日の朝、いきもの係としては、またもやカナリアを

学校へ運ばなければならない。

また妹に、文字通り片棒をかつがせる。

文句も言わず、ただ、かつげと言われるから

かつぐというさまが、少々フビンであった。


そして土曜日はすぐにやってくる。

えっさ、ほいさと、カゴ屋のような姿は

往復のたびに、道行く人々の失笑をかった。

「何かがおかしい…どこかが間違っている」と思ったが

当時、それが何であるかは、よくわからなかった。


休日が来るたびの棒かつぎは、1ヶ月ほど続いただろうか。

夏休みが始まって、棒かつぎも休憩だ。

そして新学期…

私はもう二度と、カナリア様をかついで練り歩く気にはなれなかった。


学校で級友に「カナリアは?」と聞かれるのを恐れたが

誰一人、カナリアの消息をたずねる者はいなかった。

その時初めて、みんな、どうでもよかったのだとわかった。

バカなことをした。

しかし、その教訓は生かされることなく、現在に至っている。
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肝試し

2010年08月13日 16時46分23秒 | みりこん昭和話
お盆だからか、妙に思い出す人がいる。

子供の頃うちにいた、ミツさんという50代の女性である。

社員として家事を担当しており、ついでに祖父の彼女もやっていた。

昔は、戦争未亡人の老後の身が立つように、やもめの身が立つように

間に立って引き合わせる世話好きな人がいたのだ。


私が生まれたのは小さい町だが、会社や商家が多く

家事をしてくれる人を雇うのは、珍しいことではなかった。

うちは裕福ではなかったけど、商売をしている上に

母が病弱、祖母が寝たきりだったので、代わりの女手が必要であった。

通いや住み込みの人が何人か入れ替わり

祖母が死んで数年後、ミツさんに行き着いた。


ミツさんは、明るくて気っぷのいい人だった。

ご主人が戦死して以後、色々な仕事をしながら、一人息子を育てた。

その一人息子は、一族にとって許されない結婚をしたとかで

音信不通になっていた。

うちで暮らし始めてから、父親の違う娘というのも出現し

何かとあわただしくて、刺激的な日々であった。


彼女は、私と妹に色々な話をしてくれた。

苦労話ではなく、面白い話ばかりだった。

勤め先の旅館の池で、裸になって泳いだ話…

ヨッパライにからまれて、大立ち回りした話…

どれも子供にとっては、楽しい冒険談に思えた。


恐い話もしてくれた。

若かりし頃のミツさんは、隣の町へ、歩いて買物に出かけた。

店の人と話し込んで、すっかり遅くなり

暗くなった道を急いで帰っていた。

自分の住む集落の明かりが見える場所まで来た。

あそこまで行けば、家はもうすぐだ…。


ところが、歩いても歩いても、明かりが近付かない。

どれほど歩いただろう。

家で子供が待っているから、早く帰らなくちゃ…

と思って足を早めるんだけど、やっぱり明かりは遠いまま。


ハッと気がついて、買物カゴの中を見たら

さっき買ったはずの油揚げが無くなっていた。

「おや、まあ、狐にばかされたんだわ…」

それがわかると、家にたどり着けたという。


ヒトダマを見た話もあった。

墓地に夜な夜な出るという話を聞き、職場の人達と見に行ったという。

「青白くて、ぼ~っとしてて、あれじゃ役に立たないわ」

何の役に立たないのか、と聞くと

家に持って帰っても、電球の代わりにはならない…ということであった。


私が小学6年生の夏のこと、子供会で、毎年恒例の肝試しをした。

我々子供会の面々は、6年生になるのを待ち焦がれていた。

おどかされる立場から、おばけになっておどかす立場になれるのだ。


私は、ごくノーマルな女幽霊になることにした。

洒落者のミツさんプロデュースの元、浴衣やヘアピース、メイクで

それらしき幽霊ができ上がった。

いちじく畑の中で、蚊に食われながら息をひそめ

下級生が来たら、躍り出るあの気分!


肝試しが終わり、下級生にどれが一番恐かったか、たずねたところ

皆、口を揃えて「ボロボロ屋敷の前に立っていたの」と言う。

通称ボロボロ屋敷…そこは廃屋で、ジメジメした淋しい場所だった。

おばけに扮して待つほうが恐いので、誰もそこに立ってはいなかった。

私からそれを聞いたミツさんは

「楽しそうだから、つい出てきちゃったんだろう」

と言ったので、ホッとしたものだ。


水商売経験者特有の粋な印象に加え、自分の父親の彼女というのもあって

潔癖な母はミツさんを嫌い、我々子供が近付くのを好ましく思っていなかった。

しかし、至れり尽くせりの看病で、祖父と共に母の死を看取ったのは

他ならぬミツさんであった。


私が高校生の頃、ミツさんは祖父と別れ、郷里へ帰った。

二人は、仲がいい時はいいんだが

どっちも気性が激しいので、喧嘩も激しかった。

ミツさんは喧嘩をすると、郷里の弟の所へよく家出をしていた。

プイと出て行き、何日かすると、いつの間にか戻っている。


その日、いつもと違っていたのは

ミツさんのバッグに、日傘が2本刺し込んであったことだ。

それまでは、いつも1本だけだった。

さすがに今回は、本気を感じた。

それでも、年中行事のような出入りにうんざりしていた私は

じきに帰って来ると、たかをくくっていた。


それきり、ミツさんと会うことはなかった。

10年後、ミツさんは病気で亡くなる。

その頃には、時々見舞いに行くようになっていた祖父の話によると

娘に看取られて、穏やかな最期だったという。


8年ほどのつきあいであったが、ミツさんの存在は

私に少なからず影響を与えた。

何でも面白がる宴会体質なんぞ、そのたまものである。


あれが最後になるなら、一応引き止めるなり、礼を言うなりして

惜しまれながら去るという花道を作ればよかった…と今も思う。

さんざん世話になっておきながら、生意気盛りの冷ややかさで傍観していた。

サービス精神が、足りなかった。

つまらぬ格好取りは、ヒトダマよりも役に立たない。
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命がけ小学生・3

2010年02月28日 11時33分48秒 | みりこん昭和話
6年生になってすぐ、私の母チーコが2年の闘病を経て死亡した。

それから間もなく、父の再婚相手として先生が浮上したことがあった。

この縁談は、父も先生もまだ知らないうちに、まず私に打診された。

泣いて抵抗したのは言うまでもない。


冷静に考えれば、先生にも好みがあろうし

父が私の嫌がる相手と再婚するわけはないんだけど

大人って、子供が動揺すると面白がってますます言う。

わたしゃマジで自殺しようかと思った。


また氷とマグマの日々を折りたたむように過ごし

やっとの思いで卒業を迎えた。

あの日の嬉しさは、今でも覚えている。

「君たちの未来に幸あれ!」

先生は、はなむけの言葉を叫んだ。

この2年に比べりゃ、どんなことでも幸だよ…。


…それから20年の歳月が流れた。

初めての大がかりな同窓会が催され、30才を過ぎた我々は先生と再会した。

卒業から間もなく、先生は縁あって結婚した。

我々は、その結婚相手に同情したものだが

やはりそこではうまくいかなかったそうで、今は別の人と結婚していると聞いていた。


「あなたたちをまっすぐな方向へ導こうと

 私は躍起になっていたような気がするの。

 まっすぐ行こう、行こうと思えば思うほど

 別の方向にそれてしまったような…

 あなたたちは私が担任で幸せだったのかしらって、今でも思うのよ」

ごめんなさいね…先生は柔和な顔で言った。


「いいえ!」

我々は口々に言った。

「私たちは、先生に出会って幸せでした!ありがとう!先生!」


この気持ちに偽りはない。

この世の不条理を身を持って体験させてもらった。

もしあれが無かったら、別件でもっと苦しい思いをしたと思う。

少なくとも私は、今までに起きたことのいったい何割を耐えられたかわからない。


隣のクラスの担任は、学園ドラマの主人公のように明るい熱血男性教師だった。

いつも聞こてくる歓声や笑い声を

どんなにうらやましい思いで聞いていたことか。

しかし、彼とて我々の現状に目をそむけていた。

校長も教頭も、同僚の教師たちも、我々の苦しみには気づかないふりをした。

言葉を濁してごまかし、さらに遠巻きにした。


それを見て悟った。

「困っている人がいたら助けましょう…」

先生たちは言うけど、口と腹は違うのだと。

生活のためには、仕方が無いのだと。


降りかかった火の粉は自分で払え…

人を頼るな、あてにするな…

我々は小6にして、世の無常の切れ端を味わう幸運に恵まれたのだった。


4年生の時、隣のクラスにかなり個性的な初老の女の先生がいた。

お気に入りの子には優しいが、そうでない子には容赦なかった。

その先生に好かれたい子は、競って家からブラシを持参し

昼休みには群がるようにして

大仏状のオバサンパーマをブラッシングしていたと記憶している。


男言葉でいきなり怒鳴りつけるタイプで、私もターゲットの一人だった。

学年単位での授業中、よそ見をしたことを発端に

しばらく目の仇の栄誉を得る。

全校の朝礼の時に、手が揺れたとか首が動いたという身に覚えの無い罪により

名指しでマイクで怒鳴られたりしていたので、かなり怖かった。


結婚してから知ったが、彼女は私の夫の会社の近所にある

やはり似たような会社の奧さんだった。

彼女はこの同窓会の少し前、隣人と口論の果てに殺害された。

あの口調でまくしたて、怒りをかったと想像するのは容易である。

どんな先生であれ、恩師が不慮の死を遂げるのは悲しいものだ。

先生が目の前に元気でいてくれることが嬉しかった。


今も同級生で集まれば、当時の話題になる。

先生は、泣き叫んだりまとわりついたりする「熱い子供」

つまり我々とは逆の子供像を求めていたのではないか…。

そういえば先生は、我々の前に現われる前後にも

確かにどこかの担任をしていたはず…。

しかし厳しいという声はあっても、悪い話は聞こえたことが無かった…。

我々の持つ冷めた雰囲気が、先生の眠れる感情を刺激したのかもしれない…。

少しは先生に媚びたり、あやしてサービスしてやる必要があったのではないか…。


「気の利かない子供だったよね」

「もっとオトナな子供であるべきだったね」

そんなことを言っては、アハハ、ウフフ…と笑い合うのだ。

我々同級生が仲がいいのは、共にこの艱難辛苦を越えたからだと思う。

同級生は同級生でも、同じクラスだった者とことさら仲がいい。


当時の先生の年齢をとうに越えた現在、いいことも思い出す。

先生は、クラスの誰にも平等に厳しかった。

すり寄る者さえ蹴散らした。

それは今、いさぎよく小気味よい印象として浮かんでくる。

イバラの道より、気まぐれな情けや分けへだてのほうが

人の心をすさませると知った。


先生はアナウンサーの他に作家になりたかったそうで

我々は作文の書き方をたたき込まれた。

文法はもちろんのこと、嘘、誇張、自慢、美化で自分を飾れば

必ずどこかでほころびが出て、行き詰まると厳しく教えられた。


きれい事を書いても他人には必ずわかり、結局は自分の首を絞めることになる…

文末を「これからも~していきたい」の優等生で終わらせるな…

私は…を多量に使うと、自己主張が強い人間だとバレるので控えろ…

タイトルに凝るのはいいが、内容が伴わなければ読み手の失望は三倍…

「努力します」や「頑張ります」でごまかして、真相から逃げるな…


これらは作文だけでなく、人前で話す時や、生き方にも応用できたので

知っていると確かに便利だった。

仰げば尊し我が師の恩…何十年も経って、やっとこさ身に沁みる。

なかなか強烈な恩である。


                    完
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命がけ小学生・2

2010年02月26日 08時36分08秒 | みりこん昭和話
5年生で行われる林間学校は、山のお寺へ登山して一泊する。

我々は遠足や運動会を始め、こういう大がかりな行事を心待ちにしていた。

よそのクラスの子供や先生のいる所では安全なのだ。

ホッと一息つける日だった。


楽しみにしていた林間学校の日は大雨で、登るはずの山に土砂崩れが起きた。

体育館で判断待ちをしたものの、結局その日は解散。

他のクラスと違い、我々はそんなことで騒いだりしない。

他者の目がある安心感、教室という密室にいなくていい安堵感は

山だろうと体育館だろうと同じである。

林間学校は日延べして行われたが、山寺で禅修行の真似事をするよりも

下界のほうがよっぽど修行になった。


6年生では、クラス替えも担任の変更も無いと決まっている。

それでも万が一…我々は、はかない希望を抱いた。

持ち上がりになりませんように…七夕の短冊にも書いた。

サンタさんに、プレゼントはいらないから担任を変えてくださいと

祈った者もいた。

いつもは行かない初詣に行った者もあった。


願いもむなしく、先生は恒例にしたがって持ち上がりとなった。

「転校させてくれと親に頼もう」ということになり

有志各自、家で親に願い出るが撃沈。


もちろん体罰もあった。

この先生は顔をたたく。

悪い事をした時もたたくが、そうでない時もたたく。


理科の授業で使う朝顔の葉っぱを全員見事に忘れた時があった。

前日、暗くなるまで罵倒が続くいつもの「修行」があり

遅くなったので、朝顔のことなどすっかり忘れていたのだ。


理科の授業は別の先生が受け持っていたため

「恥をかかせた」ということで、全員ビンタの刑だ。

なんだか理不尽のような気もするが、抗議してさらに興奮を長引かせるより

黙ってさっさと打たれたほうが早く終わる。

全人格を否定される暴言よりも、そのほうが傷が浅いことを

我々はすでに知っていた。


このような状態を見かねた保護者たちが

先生に抗議したことがある。

うちと違って、若く教育熱心なお母さんたちだ。


話がどうなったのか、我々子供は内容を知らない。

しかし、抗議した親の子供は「卑怯者」と罵倒されていた。  

ことあるごとに「あなたもお母さんみたいに、人を傷つける大人になるのね」

と皮肉を言った。

見せしめである。

昔の田舎のこと…教師の立場は強く

先生をさらに追求するような向こう見ずの親は、当時はいなかった。


先生は時々、自分が苦学生だった頃の話をした。

最初に入学した大学は、理想と違っていたので

翌年、別の大学に入り直したという。

「お金が無くて、空きっ腹を抱えて歩いているとね…」

100円札が落ちていたそうだ。

それを拾って店に走り、食べ物を買った。

下宿に帰って夢中で食べたところで、ハッと気付いたという。

「自分は泥棒をした…」


先生はそれから毎日キャベツだけを食べて過ごし

やっとの思いで100円を貯めて交番へ持って行った。

お巡りさんはわけを聞いて、一緒に泣いてくれたという

「ちょっといい話」というやつだ。


先生はそれを話すたびに泣く。

しかし我々は、別の受け止め方をしていた。

帰り道でヒソヒソ話し合う。

「ふたつも大学へ行ったら、苦しいのは当たり前じゃ…」

「そうじゃ…わがままじゃ」


ここに我々の油断があった。

その発言を先生に密告したクラスメイトがいたのだ。

囚われの身のような毎日に、11~2才の子供は疲弊していた。

みんなで頑張ろうと誓い合っても、中には権力にすり寄る者が出てくる。


一部始終を先生に知られ、そりゃもう怒られたのなんの。

40年近く前のことだ…

「曲がっている」「腐っている」「生きている価値がない」

えんえんと続くののしりの言葉には、今では考えられないほどの威力があった。


やっと解放された時には、一同放心状態になり

「みんなで死のう…」「死んだらわかってもらえるかも…」

などと話したものである。

ま、子供のことなので、一夜明ければ忘れる。


唯一の希望は、この日々に必ず終わりがあることだ。

卒業さえしてしまえば解放される。

皆、それに向かって懸命に耐えていた。

もはや憎たらしいとか、怖いの段階ではない。

我々はただひたすら耐え、あきらめ、許し、忘れる作業を繰り返すのみだった。


6年生の秋には、楽しみにしていた修学旅行がある。

当日、待てど暮らせど我々の乗る観光バスが到着しない。

さんざん待って、先生の一人がバス会社に連絡した。

日にちを間違えて予約していたそうで、修学旅行は翌日に延期となった。


我々は淡々と家に帰り、翌朝また旅行かばんを持って家を出た。

そんなことも、全くたいしたことではなかった。

旅行は楽しかった。


                  続く
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命がけ小学生・1

2010年02月24日 18時21分06秒 | みりこん昭和話
私が通ったのは、ごく普通の公立小学校である。

5年生と6年生の2年間を思い出すと

灰色の空と、静まりかえった教室が浮かんでくる。


以前にも書いたが、同じ学年におそろしく乱暴で意地の悪い男の子がおり

入学当初からずっと、流血回避のために体の防御に心を砕く毎日だった。

5年生になるとそれに加え、担任から自身の精神を防御する必要が生じた。

まったく忙しい2年間であった。


担任は、当時37~8才の独身女性。

顔を思い出すと、思い詰めたような大きな目がふたつ浮かんでくる。

非常にきまじめな人で、教室は何かの探究者の道場みたいだった。

冗談を言って笑う、微笑みながら生徒に話しかける…などということは一切無い。

道場主の感情の起伏が激しいため

あたりの空気は常時、氷かマグマのどちらかに満たされていた。


何に向かって着火するのか、見当がつかない。

いつも長袖のカッターシャツに半ズボンの男の子がいた。

「半ズボンには半袖でしょう。バランスが良くない」

と、皆の前で執拗に責める。


翌日、言われたとおりに半袖で登校すると

「換えろと言ったわけではない…バランスが良くないと言っただけです」

とまた責める。

着る物、髪型、持ち物、言葉、態度…

誰の何に反応するか、毎日がロシアンルーレットの気分である。


先生はアナウンサーになりたかったそうで、発音にうるさい。

ここらへんでは習慣の無い「鼻濁音(びだくおん)」を使えと言う。

ガギグゲゴを鼻にかけて言うってことだ。

無理だっぺ…。


ガギグゲゴの使用を極力避ける会話に切り替えることで切り抜ける。

「ワタシ、ヤリマス」「オカシ、スキデス」

先生に聞こえる所では、どこかのホステスさんみたいにしゃべるしかない。


さらに標準語の使用が義務づけられ、方言の使用が禁止となる。

困るがや…。

不便ではあるが、無口になることで対応。


アナウンサーになってくれていれば、我々の前に現われることはなかったものを…

それがいかに狭き門かを知らなかったので、当時はそう思った。

今考えると、もしも先生が夢を叶えていたら

見た目もしゃべりかたも、某国で将軍様を讃えるあのアナウンサーにそっくりだ。


先生は給食の時間になると、食べ方の厳しい指導と共に

教室の後ろに貼ってある図画の批評をする。

「バックの色が変。センスが悪い」

「心の濁りが色彩に出ている」

うまければうまいで「子供らしい純粋さが無い」。

先生はそれをランチタイムの雑談と思い込んでいたようだ。


私なんて毎回「絵がマンガ的。進歩が無い」

と言われ、図画の時間は苦痛だった。

今度はどんなひどいことを言われてさらし者になるか

皆、絵を描くたびに案じた。


もっと厄介なのは日記だ。

図画はたまにしか無いが、日記は毎日提出する。

日記帳に赤い字で書かれた、批評の恐怖が待っている。

家族でどこかへ出かけて楽しかった…「他にやることはなかったのですか?」

友達の誰々ちゃんが好き…「そういうことは書かずに心で思うものです」

お祭に行った…「まだそんなことで浮かれているのですか?」


単純なことを書けばこれなので、皆だんだんひねるようになる。

ゴミが落ちていたので拾った…「あなたは自慢をして満足ですか?」

お父さんが早く帰って来たので、夕食が賑やかで嬉しかった…

「賑やかでなければ嬉しくないというのは間違っています」

遊園地に行ったが、そこで他人の態度などに色々疑問を持った…

「楽しい所では心から楽しめる人になりましょう」


子供とて学習する。

「もう反応しそうなことは書くまいや」ということになり

自分の心を現す内容を避け、日記は短い記録となる。

記録なら「感想を書きなさい」系の返事ですむからだ。

浮き立った気持ちに水を浴びせられるより、そっちのほうがよっぽどマシである。


しかしそれも皆で続けると

「このところ皆さんの子供らしい心が感じられません。

 心が無機質ではいけないのです」

帰りのホームルームは長い説教になり、外が暗くなるまで続く。


言ってるうちに本人も興奮してきて

「恥を知れ」「ひとでなし」の罵詈雑言になり

やがて「先生は学校を辞める」「自殺する」になるのがお決まりのコース。

最後は一人で号泣して「帰れ!出て行け!」と言うので

その時を待ち、すみやかに下校するのみ。


翌朝「先生、死んでるかな?」と足取りも軽く登校するのだが

いつも生きていた。

「昨日はああ言いましたが、私も考えて

 ここで皆さんに負けてはならないと思いました」

あ、そうですか…残念。


                  続く
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家庭科部隊

2009年11月27日 10時03分40秒 | みりこん昭和話
中学時代の家庭科の副読本。

題名…『フルコースのいただきかた』

順を追ってテーブルマナーを解説する薄い冊子だ。


この本はまず、同年代のおかっぱ頭の少女が

テーブルに着くところから始まる。

とりすましてナイフとフォークを操る小さい白黒写真が掲載されている。


家庭科の授業の休憩時間…我々ガキ一味は

同じクラスにいる家庭科部の部員たちの厳しい視線と

「またやってる!」の小言を尻目に

写真のおかっぱ少女の仕草を真似て喜んでいた。


クライマックスはなんといってもデザート…

“くだもののいただきかた”。

皿の上に、バナナが一本。

なぜにバナナ…。

ここで爆笑する段取りになっている。


今でこそ、スポーツやダイエットにいいとかで

かなり格上げされたものの

バナナは、我々が子供の頃は

おばあちゃんの部屋に行くと黒くなったのが置いてある

ダサい果物の代表選手であった。


検討の結果

バナナが高級品だった世代の人たちがこの冊子を作った…

ケーキなどの派手なものでは子供が興奮するから…

という結論に落ち着く。


出演のおかっぱ少女も、こころなしか表情が冴えない。

それでも口を真一文字に結び

ナイフを使ってバナナの表皮を果敢に切開。


最後の写真は、一口大にされ

皮の中でおとなしく横たわるバナナを見下ろして

満足げなおかっぱ少女。

たった今、仇討ちをすませた武士のようである。

我々もまた、家庭科部隊の執拗な制止を振り切って

最後まで演じた安堵と達成感に浸った。


これは我が校だけの現象であろうが

家庭科部隊には、非常にきまじめな面々が揃っていた。

きまじめではあるが、その性質は

学業のほうにあまり生かされていなかったと記憶している。


幼い頃から親の手伝いで家事と親しんだ者が多く

記憶や理解よりも、経験と反復によって成り立つ

家庭科だけがよりどころであったと思われる。


彼女たちは、モノマネにはしゃぐ我々が許せない。

興奮しやすい者に至っては

「やめてよ!家庭科を侮辱しないで!」

などと乙女っぽく叫ぶ者もいる。


「へ~んだ!お尻ペンペン!」

そう返されて、泣きやがる。

なにしろきまじめなので

注意したら反省して謝る…という

望ましい展開以外には当惑してしまうのだ。

泣かした…ということで、ますます非難ごうごう。


そもそも我々は、この家庭科部隊と折り合いが悪かった。

永遠に相容れない水と油であった。


家庭科の時間は彼女たちが仕切るような雰囲気があり

その根拠の無さに反発していたのかもしれない。

ブラスバンドだからといって、運動部だからといって

音楽や体育の授業を仕切ろうという発想は起きない。


部隊はなぜか末っ子ばかりで構成されており

得意科目でお姉さんぶりたい背伸びも垣間見えた。

これまたゴーマンな長女ばかりだった我々は

それを敏感に感じ取り

意固地になっていた面も確かにあった。


休憩時間、数人で教室にかたまって

コソコソとリリアン刺繍などの手芸にいそしむ部隊。

コソコソしているわりには、誰か近寄ると

「針が危ない」「気が散る」

と、待ちかまえたように小言を言う。

危ないなら家でやれ…なんて言おうものなら

泣くわ、わめくわ、先生に言いつけるわ大騒動であった。


部活でお菓子を作ったと見せびらかし

男子にだけ頬を染めながら「ひとつずつよ…」

などともったいぶって食べさせる。

そうじゃ…お菓子をくれなかった恨みなのかもしれない。


止められるとますますやっちゃうのが子供。

よせばいいのに意地になり

我々はさらにモノマネにのめり込んだ。


今思えば、本当にしょうもないことに燃えていたものよ…。

目の仇にされてまで、やり遂げるようなもんではない。

やれやれ…バカなことをした。


つまらぬことに心血を注ぐ性分は

あの頃すでに発露していたのだ。

その情熱をもう少し勉学の方向へ向けるべきなのは

私のほうだったかもしれないが

時、すでに遅し。
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