夫の会社の社員、ろくちゃんは57才…未婚。
ゆるキャラのおじさんだ。
40代の頃に一度、夫の会社に勤めていたことがある。
夫の姉カンジワ・ルイーゼにおじょうずを言えないろくちゃんは
ルイーゼに目の仇にされ、いびり出されたのであった。
辞めてからは、同業者のところを転々としていたが
その間にお人好しにつけこまれ、だまされて
親から譲り受けた家を失い、病気で内臓もひとつ失った。
去年、夫と私は、町外れにある「年金岬」の近くを通りかかった。
年金岬とは、家で邪魔にされる身の上の定年退職者が
せめて晩のおかずでも釣ろうと群がる岸壁である。
無職になって、生活に困窮していると聞いていたろくちゃんも
そこで釣りをしていた。
「あ、ろくちゃんだ!晩メシ釣ってる」
「ねえ、今、社員を募集してるじゃん。
ろくちゃんに戻って来てもらえば?」
「え~?ろくちゃん?トロいからな…」
夫はそう言うけど、本当はまたルイーゼと
世渡りのヘタな彼との板挟みになるのが嫌なのだ。
でもお気に入りの若手が辞めてから
ルイーゼの社員に対する情熱も、薄れつつあった。
今回は安全だと思われる。
「だって、ほら、あんなに痩せ細ってるじゃん…このままだと死ぬよ。
あの人だったら明日からでも来れるし、経験者がいいわよ。
行きなさいよ!」
夫はシブシブ車を停めて、近付いた。
「お~い、ろくちゃん、ウチ来るか~?」
かくして、ろくちゃんは翌日から再び会社に戻ってきた。
車中で交わした失礼な会話をろくちゃんが知るよしもなく、たびたびこう言う。
「あの時、釣りをして専務に会ってなかったら、ワシは飢え死にしとった」
夫は夫で、ろくちゃんの命を救ったような気分を味わい
ろくちゃんはろくちゃんで、たまたま釣りをしていたおのれの強運に酔いしれる。
ま、似た者同士というところか。
そのろくちゃんに、彼女が出来たらしい。
彼女いない歴57年にして、初の快挙である。
我々夫婦は、それらしき現場をたまたま目撃していた。
あれは2ヶ月前…
日曜の朝、ファミレスへモーニングサービスを食べに行った時である。
ろくちゃんが一人で、足取りも軽く店に入って来た。
我々を見つけ、見たこともないような満面の笑みで手を挙げる。
少し遅れて、30代後半くらいの地味な女性が、彼の席に座った。
フードの付いた黒いコートのくたびれ加減は
いかにも子育て中のお母さんという感じだ。
「女と会っとるが~!」
ファミレス、女、恋…ろくちゃんから一番遠いところにありそうなモノ。
彼にも、やっとこさ遅い春が…?
夫と顔を見合わせ、斜め後ろの席に全神経を集中させる。
ろくちゃんは、ちょっと気取って「コーヒー」と注文し
「ドリンクバーですね?」と言われて、うろたえる。
必死に笑いをこらえる我々。
「保険だ、保険」
夫がささやく。
女性がバッグから、パンフレットや書類を出していた。
なんだ、そういうことね。
コートを脱がない彼女に、やっつけ仕事の雰囲気を感じたが
ろくちゃんは嬉しくてたまらない様子。
大病してるから、高額な生命保険は無理だろう…
財産も無くなったし、少なくともだまされて何か失うことは無い…
軽い失望と安堵が入り交じった心持ちで、我々は店を出た。
そして先週…夫婦でちょっと遠出をした。
トイレ休憩のために立ち寄った道の駅で、ろくちゃんの白い軽自動車を発見。
助手席にいたのは、なんとあの女性であった。
「続いてたんだ…」
こんなに遠くまでドライブする仲になっていたとは…
などと言いながら、こっそり立ち去る。
そして昨日、ろくちゃんが言ったという。
「専務…ゴールデンウィークはいつから休みになるかなぁ。
ワシ、彼女と日本海へ旅に出るのさ~」
社員の私生活には無関心な夫だが、この時はさすがにたずねたと言う。
「こないだの保険屋さんだろ?
年が離れてるみたいだけど、大丈夫なんかい?」
大丈夫、大丈夫…と、ろくちゃんはニコニコしていたそうだ。
「何が大丈夫なんだか…。利用されてるんじゃないかなぁ。
万が一うまくいっても、子供がいたらいきなり父親だしなぁ。
うちの給料じゃ、養えんぞ」
夫はしきりに心配する。
わかるよ…あんたも生保レディには苦い思い出があるもんねぇ。
自分も入って、知り合いも紹介して、人脈が尽きた頃に捨てられなすったわねぇ。
他人のことより、自分の心配をしたほうがいいと思うけど。
「親戚とか紹介してるようだから、一応、ほどほどにしとけよ…とは言った」
夫の案じる通りかもしれない。
しかし、たとえそれがまやかしであっても
今、彼のハートに明るい光が射していることは確かだ。
とっかえひっかえの夫と違い、思い出は彼の中で輝き続けるだろう。
ろくちゃんから目が離せない春である。
ゆるキャラのおじさんだ。
40代の頃に一度、夫の会社に勤めていたことがある。
夫の姉カンジワ・ルイーゼにおじょうずを言えないろくちゃんは
ルイーゼに目の仇にされ、いびり出されたのであった。
辞めてからは、同業者のところを転々としていたが
その間にお人好しにつけこまれ、だまされて
親から譲り受けた家を失い、病気で内臓もひとつ失った。
去年、夫と私は、町外れにある「年金岬」の近くを通りかかった。
年金岬とは、家で邪魔にされる身の上の定年退職者が
せめて晩のおかずでも釣ろうと群がる岸壁である。
無職になって、生活に困窮していると聞いていたろくちゃんも
そこで釣りをしていた。
「あ、ろくちゃんだ!晩メシ釣ってる」
「ねえ、今、社員を募集してるじゃん。
ろくちゃんに戻って来てもらえば?」
「え~?ろくちゃん?トロいからな…」
夫はそう言うけど、本当はまたルイーゼと
世渡りのヘタな彼との板挟みになるのが嫌なのだ。
でもお気に入りの若手が辞めてから
ルイーゼの社員に対する情熱も、薄れつつあった。
今回は安全だと思われる。
「だって、ほら、あんなに痩せ細ってるじゃん…このままだと死ぬよ。
あの人だったら明日からでも来れるし、経験者がいいわよ。
行きなさいよ!」
夫はシブシブ車を停めて、近付いた。
「お~い、ろくちゃん、ウチ来るか~?」
かくして、ろくちゃんは翌日から再び会社に戻ってきた。
車中で交わした失礼な会話をろくちゃんが知るよしもなく、たびたびこう言う。
「あの時、釣りをして専務に会ってなかったら、ワシは飢え死にしとった」
夫は夫で、ろくちゃんの命を救ったような気分を味わい
ろくちゃんはろくちゃんで、たまたま釣りをしていたおのれの強運に酔いしれる。
ま、似た者同士というところか。
そのろくちゃんに、彼女が出来たらしい。
彼女いない歴57年にして、初の快挙である。
我々夫婦は、それらしき現場をたまたま目撃していた。
あれは2ヶ月前…
日曜の朝、ファミレスへモーニングサービスを食べに行った時である。
ろくちゃんが一人で、足取りも軽く店に入って来た。
我々を見つけ、見たこともないような満面の笑みで手を挙げる。
少し遅れて、30代後半くらいの地味な女性が、彼の席に座った。
フードの付いた黒いコートのくたびれ加減は
いかにも子育て中のお母さんという感じだ。
「女と会っとるが~!」
ファミレス、女、恋…ろくちゃんから一番遠いところにありそうなモノ。
彼にも、やっとこさ遅い春が…?
夫と顔を見合わせ、斜め後ろの席に全神経を集中させる。
ろくちゃんは、ちょっと気取って「コーヒー」と注文し
「ドリンクバーですね?」と言われて、うろたえる。
必死に笑いをこらえる我々。
「保険だ、保険」
夫がささやく。
女性がバッグから、パンフレットや書類を出していた。
なんだ、そういうことね。
コートを脱がない彼女に、やっつけ仕事の雰囲気を感じたが
ろくちゃんは嬉しくてたまらない様子。
大病してるから、高額な生命保険は無理だろう…
財産も無くなったし、少なくともだまされて何か失うことは無い…
軽い失望と安堵が入り交じった心持ちで、我々は店を出た。
そして先週…夫婦でちょっと遠出をした。
トイレ休憩のために立ち寄った道の駅で、ろくちゃんの白い軽自動車を発見。
助手席にいたのは、なんとあの女性であった。
「続いてたんだ…」
こんなに遠くまでドライブする仲になっていたとは…
などと言いながら、こっそり立ち去る。
そして昨日、ろくちゃんが言ったという。
「専務…ゴールデンウィークはいつから休みになるかなぁ。
ワシ、彼女と日本海へ旅に出るのさ~」
社員の私生活には無関心な夫だが、この時はさすがにたずねたと言う。
「こないだの保険屋さんだろ?
年が離れてるみたいだけど、大丈夫なんかい?」
大丈夫、大丈夫…と、ろくちゃんはニコニコしていたそうだ。
「何が大丈夫なんだか…。利用されてるんじゃないかなぁ。
万が一うまくいっても、子供がいたらいきなり父親だしなぁ。
うちの給料じゃ、養えんぞ」
夫はしきりに心配する。
わかるよ…あんたも生保レディには苦い思い出があるもんねぇ。
自分も入って、知り合いも紹介して、人脈が尽きた頃に捨てられなすったわねぇ。
他人のことより、自分の心配をしたほうがいいと思うけど。
「親戚とか紹介してるようだから、一応、ほどほどにしとけよ…とは言った」
夫の案じる通りかもしれない。
しかし、たとえそれがまやかしであっても
今、彼のハートに明るい光が射していることは確かだ。
とっかえひっかえの夫と違い、思い出は彼の中で輝き続けるだろう。
ろくちゃんから目が離せない春である。