殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

続・同居論

2022年09月30日 10時02分19秒 | 前向き論
『庭に咲いてる白い彼岸花』


前回の記事、『同居論』で、しおやさんからご質問をいただいた。

私にとって面白い質問だったので、記事にさせていただくことにした。


①義理姉さんの昼ごはんは?

ご存知の通り、うちには嫁いだ小姑が毎日帰ってくる。

我々と同じ年に結婚して以来42年間、隣市からせっせと通う日課は変わらない。

彼女が結婚と同時に、家業の事務をするようになって以来の習慣である。


第1期同居の頃は、朝7時半に来て夕方6時半まで居たので

昼食どころか夕食も実家で済ませていた。

彼女の一人息子も、小さい頃は一緒だった。

そして帰りには、彼女の夫の夕食をテイクアウト。

そうすればギリギリまで実家に居られるというわけだ。

ちなみに毎週金曜から日曜の夜までは、息子と二人で実家に泊まるので人数が増えた。


平日の昼と夕、そして週末の接待は十数年続いた。

私は途中で家出したので、全てを見たわけではないが

彼女の息子が部活や塾通いをする年頃になると、母親の実家には目もくれなくなり

週末の連泊だけは無くなったようだ。


そのまま、さらに十数年が経過。

50才を過ぎた義姉は、父親の会社から給料が出なくなったので

老人ホームの給食調理員として働き始めた。

早朝から昼過ぎまでの勤務なので、仕事が終わったその足で実家を訪れ

昼ごはんを食べて夕方まで過ごしていた。


それから2年後だったか、我々が第2期の同居を始めた。

義姉の習慣はそのままで、夕食のテイクアウトも徐々に再開された。

外で働いて苦労をしている娘を、手ぶらで帰したくない義母の親心と

どうせたくさん作るんだから、やるやらないで揉めるのはバカバカしく

義姉夫婦の食べる分ぐらい、あげても知れているという私の適当心によるものだ。


さらに数年後、職場のシフトが変わり、義姉は9時から2時までの勤務になった。

昼食を職場で食べるようになったので、夕食のテイクアウトは続いていたものの

義姉が実家で昼ごはんを食べる習慣はここで初めて終了。


しかし同じ頃、義姉の夫がパーキンソン病になり

庭の離れで生活していた彼女の舅と姑が寝付いた。

義姉は実家で昼ごはんは食べないが、夫婦と義理親4人分の夕食を持ち帰るようになった。

つまり、テイクアウトは倍増。

病人を抱えて働く娘を不憫に思う義母の母心と

2人分も4人分もたいして変わらんという私のアバウト心によるものだ。


さらにパーキンソン病で役に立たない義兄の代わりに

毎日来て両親の世話をしてくれる叔父さんの分が追加された。

そして叔父さんには奥さんがいるから、その人の分も必要になった。


こうなりゃもう、ヤケよ。

もちろん作るのは私で、費用もうちら夫婦の家計から。

他の誰が出してくれるというのだ。

が、食べるのは病人と老人、たいした量がいるわけではない。

自分が病院の厨房で培った実力が発揮できる自己満足で、けっこう楽しんでいた。


喜ばれただろうって?

毎日帰って来る小姑を甘く見ちゃいかんよ。

全部、義姉が作ったことになっとりますがな。

同居ってね、感謝されたいなんて思ったら自滅するよ。

黒子になり切る覚悟が大事。

それができない人は、同居しちゃいけないの。

プライドがズタズタになりっぱなしで病気になっちゃうから。


そのまま、また数年。

義姉の舅と姑が1年おきに亡くなり、叔父さんも来なくなったので

夕飯のテイクアウトは一旦終了。

現在、義姉は仕事を辞め、病気の進んだ彼女の夫に付いている時間を増やした。

時々、道で倒れて動けなくなるので、近所に迷惑がかかるからである。


それでも午後1時から3時までは、毎日来る。

夕飯のテイクアウトは、こちらが多めに作った時や珍しげな献立の日に時々。

義姉の里帰りは42年前と変わらず鬱陶しいが

実家の滞在時間が短縮され、その上、食事を出さなくてよくなったのは

何だか開放感がある。

不運に慣れた人間は、小さなことでも喜べるようになるものよ。



②リフレッシュの方法は?

月に一度あるか無いかだけど、友だちとの女子会。

昨夜も行った。

ただし、出かけさえすりゃあいいというわけにはいかん。

リフレッシュ効果を狙うには条件がある。

短時間であることと、本当に好きな少人数のメンバーであること。

だからマミちゃん、モンちゃんと3人で過ごす2〜3時間が最高。

楽しかった。


遠出、あるいは長時間、留守にするのはあかん。

ごはんの支度をして出ないといけないでしょ。

男どもは外食させられても、家に居る義母はそうはいかない。

出かける前に急いで家事をして、料理までしてたら疲れる。

で、帰ったら留守中の家事が溜まっとる。

出かける前後がしんどいから、リフレッシュどころかストレス。


メンバーはすごく大事。

苦労話や自慢話の独演会を聴講するだけだったり、大人数で騒がしいとくたびれる。

だから、幼馴染みのマミちゃんとモンちゃん限定。

あの二人は、愚痴とおしゃべりを混同しない大人の女。

だから楽しい。


約束して、その日が来るのを待つ…

その間の楽しさも、リフレッシュになっているかも。

そしてその日が来たら

「おいしいね!」、「楽しいね!」、「次はいつにする?」

そんな他愛の無いことを話すだけで幸せになり

しぼんだ細胞の一つ一つが水分や栄養を得て膨らんでいくような気がする。

いい友だちに恵まれた幸運に、感謝するしかない。


いつも気持ち良く出してくれ、メンバーの送迎を引き受けたり

彼女らに優しい言葉をかけてくれる夫や息子たちの気持ちもありがたい。

この家族を与えられた幸運を噛みしめる。

が、この家族の素は義母なんだから、乗りかかった船…

最後まで面倒見るわよ。

だから他の人には、うっかり船に乗りかかりなさんな…と言ってるわけ。


それからなんと言っても、このブログね。

書くのも楽しいけど、皆様の優しいコメントがありがたくてね。

幸せを感じるわ。

いつも本当にありがとうございます。



③一階に義姉さんがいては、睡眠不足解消の昼寝もおちおちできないのでは?

昼寝はしません。

うっかり昼に寝たら、夜8時半に寝られなくなるので

生活リズムが崩れて翌日がしんどくなるから起きてます。


たとえ昼寝をしたとしても、誰か家に来たり電話が鳴ったり

用事で義母に呼ばれたりで寝られません。

特に来客は私が出るしかないので、二階で寝ていたら

階段を降りて門まで走るのに消耗します。

玄関脇の居間に陣取る義母は、耳が遠くて玄関チャイムの音が聞こえないと主張しますが

犬が吠えるので、わからんわけがないのです。

座ったまま立ち上がりたくないので、耳のせいにしていると思います。


それでも昼寝をするとなった場合、義姉は気になりません。

静かなだけ、義母よりまだマシです。



あ〜あ、好き勝手しゃべらせてもらったわ。

ありがとさ〜ん!
コメント (10)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

同居論

2022年09月28日 14時52分55秒 | 前向き論
コメント欄で、義理親との同居について話した。

同居が是か非かと言えば、非の一択というのが私の意見。


20代半ばから30代半ばまでの10年間、夫の両親と三世代同居を経験し

耐えられなくなって家を出た。

そして50代の始め、義父の会社の倒産騒ぎや両親の病気という、よんどころない事情によって

夫と二人の息子たちと共に再び夫の実家へ舞い戻って12年。

7年前に義父を見送り、今は残された義母と生活中だ。

つまり私の同居に関する歴史は、初回の第1期と現在の第2期に分類される。


若い頃の第1期と、年配者になってからの第2期。

二通りの同居生活を体験してみてやっぱり思うのは

「同居はするべきではない」。

若い時も年取った今も、同居生活が理不尽の嵐であることに変わりは無かった。

この経験から、私は義理親との同居を迫られた長男のお嫁たちを何人も止め

「今は大丈夫だけど、親が一人になったり身体が弱ったらいずれは…」

そう口走るお嫁さんたちには、同居のリスクを唱えてきた。

実生活では、20人を下らないと記憶する。


弱った義理親に手を差し伸べるお嫁さんたちの頭の中には予定表があって

1ページ目には、義理親、ご主人、親族から感謝される図が載っている。

義理親が回されてくるような人は、そもそもお人好し。

自分が火中の栗を拾うことで、多くの人が助かると本気で思っているのだ。


そして予定表の2ページ目は、いきなりこうなる。

「数年後、義理親は嫁に感謝しながら静かに息を引き取る」

終わり。


これが、あかんのやて。

1ページ目と2ページ目の間に、本当は何十ページもあるのよ。

でも同居なんてしたことが無いから、エピローグとプロローグしかわからないのよ。

同居で味わう数々の理不尽や精神的重圧を話していたらキリが無いし

聞く方もウンザリするだろうから

今回は比較的わかりやすい物理的な面に特化してお話ししたいと思う。



「うっかり同居してくれるな」

私が声を大にして主張する原点は、家の構造にある。

現代建築の構造を無視して同居するから、思わぬ不幸が訪れるのだ。


中途からの同居には、一家で義理親の家に引っ越す場合と

義理親が子世代の家に引っ越す場合のふた通りがある。

離れのある豪邸や完全二世帯住宅ならいざ知らず

一般的に一階部分は足腰の観点から義理親が使い

子世代は二階で生活するケースが多くなると思う。


うちもこのケース。

その昔、第1期の中途同居のために夫の実家を改築したわけだが

何の知識も無いまま、単に二階の部屋数を増やしただけで現実的な配慮を一切しなかった。

この安直が、自らを苦しめることになったのである。


音というのは、下から上がよく聞こえるものだ。

よって一階の生活音は、ことごとく騒音となって二階に伝わる。

ドアやガラス戸の開閉、廊下を歩く音

あ、今、台所へ行った、冷蔵庫を開けた、瓶を出した…なんてのが丸聞こえ。


もちろん、少し大きい話し声も聞こえる。

音は高音より低音の方が響くので、二階に居ても義父から怒られているようで

彼の在宅中は気の休まる時間がほとんど無かった。

ドカン!とした大きなことより、このような些細な日常が

真綿で首を絞めるようにジワジワと、自身を追い詰めていたように思う。


が、そんなのはまだかわいい。

同居における最大の問題であり、最大の盲点は夜間のトイレ。

第2期の同居をしてみて、これは大変な問題だと知った。


第1期の同居では親も我々も若かったので、さほど気にならなかった。

親は頻尿ではなかったし、我々も若さに任せて睡眠が深かったからだ。

しかし親も我々も年を取った第2期、義母はトイレが近くなっており

我々もまた寄る年波で、睡眠が浅くなりつつあった。


うちは二階のトイレを我々が、一階のトイレを義母が使う。

音は下から上がよく聞こえると言ったが

義母がトイレの水を流すと、配管を伝って二階へ水の音が響く。

私の寝室はトイレに近いため、この音で目が覚めてしまうのだ。


今どきは研究が進んで、あんまりうるさくないのかもしれないが

全くの無騒音というわけではあるまい。

うちは古いので、下から上に伝わってくる水音が容赦ない。

身体は眠っていても、音がするたびに何となく意識が戻る。

これが毎晩となると、睡眠不足は必至。

赤ん坊ならミルクを飲ませたら3時間は静かだが

バリバリの夜間頻尿である義母は、2時間に1回トイレに通う。

私が午前3時や4時に起床するのは、水洗の音で眠れないからである。

外で働く人であれば、まず身体を壊すだろう。


頻尿の治療薬があるって?

既往症の薬との兼ね合いがあるので、現状では無理。

元気なまま夜間頻尿になる人ばかりではないのだ。

耳栓をするという手もあるが、そうまでして同居を続ける意味自体に疑問が生じるため

意地で避けている。


寝室を変えるという手段は、使えない。

旅館じゃあるまいし、庶民の家の部屋数なんて知れていよう。

台所や応接間を除いた8部屋のうち4部屋は、義母とその荷物が占領しているので

残りの4部屋を4人で使うしかなく、私が動けば別の犠牲者が出ることになるからだ。

男共には、しっかり寝て稼いでもらうに限る。


もう慣れたので、耐えられるうちは耐える所存だが

明日は我が身なんだから、義母を責めるつもりは毛頭ない。

彼女も辛いのだ。

もうじきいなくなると思い込んで同居に踏み切った、私のミスである。


よく考えれば、昔の日本は水洗トイレではなかった。

そして老人の多くは、頻尿になる前にいなくなった。

さらにトイレは人が寝ない居間の近くか、老人の部屋の近くで

いずれにしても外に面した廊下の先、農家では完全に外だったりした。


同居というライフスタイルは、それら各種の条件下で初めて成立するものだ。

親孝行も人の道も、この条件が普通だった頃の話である。

便利で清潔な現代建築に居住しながら、心だけ遥かな昔に遡るのは間違っている。

また、それを望む親や、それを強いる周囲も間違っている。

病気になって、親より早くあの世へ行けと言っているのと同じだ。

それが親孝行になるかどうか、ちょっと考えればわかることである。


トイレ一つでもこれほどのストレスがあるのだから、他のことも推して知るべし。

そういうわけで、安易に親との同居を決め

このようなつまらぬ、しかし重大なことで苦しまないようにしてもらいたい。

日々が何か面白くない、やる気が出ない…

同居していて、そのような気持ちが続く時は

水洗トイレの音が原因の寝不足かもしれないので、頭の片隅に入れておいてほしい。


冒頭の写真?

うちの前で見る朝焼け。

うるさくて目が覚めるから、こういう時間に起きてんのよ。

その代わり、ベッドに入るのは夜の8時半よ。

早いって?

義母の夜間頻尿が始まる前に少しでも睡眠を取って、体調を整えるのよ。

ハン!
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

キャンプだホイ!

2022年09月25日 12時03分46秒 | みりこんぐらし
このシルバーウィーク、長男がキャンプに行くと言い出した。

付き合い始めて半年の彼女と二人だそう。


彼は一昨年あたりだったか、キャンプ飯に凝っていた。

独身の長い男はどこかでこういうものにハマる時期があるのか

メスティンとかいう飯ごうみたいな器などの調理器具を買い込み

庭で家族とは別に煮炊きをして、一人で食事をしていた。


youtubeで見たとかで、サンマの缶詰を使った炊き込みご飯なんかを振る舞ってくれたこともある。

本人はご満悦だったものの、youtubeにこういう簡単便利な物を載せる人と

私のような年配者は味覚が違うようで、美味しくはなかった。

が、先で独居老人になったり、家を失って路上生活者になったり、災害に遭遇した時

キャンプ飯は役に立つと思い、奨励したものだ。


飽きっぽい長男は、お約束でじきに飽き、道具一式は放置されていた。

しかしいよいよ今回、彼女の前で道具と腕前を披露する時が来たのだ。


テントに寝袋、椅子やら何やら、大荷物は用意された。

けれども白いご飯の炊き方を忘れたと言う。

キャンプ飯に凝っていた終盤は炊き込みご飯ばっかり作っていて

人にも配っていたが、基本の白いご飯はお留守になっていたのだ。

彼女様は、炊き込みご飯がお好きでないらしい。


そこで母が教える。

米の用意に水加減、始めチョロチョロ中パッパ、ジュージュー吹いたら火を止めて…

「何かが鳴いたらフタを取るんだっけ?カラス?」

長男は問う。

バカ…赤子じゃ。

フタ取ったらダメじゃ、フタ取らずに蒸らすんじゃ…。


これはアカンと思った私は、キャンプの心構えから教えることにした。

「ご飯さえちゃんと炊けたら、あとは何か焼きゃあええけん、どうにかなる」

「女子が幻滅するのは、段取りの悪さ」

「慣れんのにあれこれやろうと思わず、ご飯に一点集中」

来月42才になる息子にキャンプ道を説く、62才の母。


マザコンと呼びたければ呼べ。

20才しか離れてない我々母子は、兄弟や友だちに近い面を持ち合わせている。

共にファミコンのスーパーマリオに興じ、ミニ四駆の組み立てやカスタマイズをし

野山を駆け回り、釣りに付き合ってきた。


そして私は、婚期を逃した息子たちの幾多ある女性遍歴をつぶさに見てきた。

つまり姑になりそこなった回数が人様より多いので、その方面ではベテランを自負している。

だから息子たちと関わる女子に、何の期待も持ってない。


今どきの女子は計算高いらしく、男と付き合い始めたら早い時期に家へ来たがる。

家と家族の値踏みをして、付き合いを続けるかどうか判断するのだ。

息子が急に優しくなるから、付き合い始めたのはわかる。

彼女からせっつかれても、うちら親の協力が無ければお宅訪問は実現しないからだ。


そして訪問は、向こうの親の指示であることが多い。

自営と聞いて、心配になるらしいのだ。

そりゃまあねぇ、公務員や一流企業と違って不安定だから気持ちはわかりますよ。

そういうわけで親の介入が強いのも、今どき女子の特徴である。


一度や二度なら、うちらもいい所を見せようと張り切るだろうし

そういった偵察めいた行為に気づかないまま結婚になだれ込むんだろうけど

相手が変わるだけで何度もとなると、いい加減飽きてくる。

こちとら、小わっぱに値踏みをしてもらうつもりは無い。

何様じゃ…というのが本音である。

はっきり言ってウンザリ、飽き飽きじゃ。


夫も私も将来、嫁に世話をしてもらおうだの孫の顔が見たいとは1ミリも思わない。

世間の年寄りが言うように、息子たちがずっと一人でかわいそうとも思わない。

事故か心中以外、死ぬ時は皆、一人だ。

ただ、若い女の子にとって大切な一時期を、頼りないうちの子と浪費するより

もっと良い人を探すことに使う方が良いのではないかと思い、申し訳ない気はしている。


ともあれ、息子と彼女はカタツムリのような荷物を背負い

お二人でバイクにまたがって、島にあるキャンプ場に出かけなすった。

翌朝、帰って来たが、ご飯がうまく炊けたそうで、彼女様もご機嫌であった。


ところで息子には偉そうにキャンプの心得を説いた私だが、実はキャンプをしたことが無い。

キャンプには家族思いでこまめな旦那が不可欠だと思っているのもあるが

そもそもインドア派の私とキャンプは縁遠い。

学校でもキャンプに行くことはなく、高校の時に同級生の男女大勢で近くの島へ渡り

そこのキャンプ場でカレーを作って食べたことがあるだけだ。

もちろん日帰り。


同級生のA子…ほら、還暦旅行の時に仲良し4人組で同じ部屋に泊まりたいと希望した

万年乙女の女親分…が采配を振るい、おっかなびっくりカレーは作られたが

ご飯は思いっきり焦げた。


食事が作られている間、私と歌の上手なサヨちゃんは

キャンプ場から遠く離れた宿泊施設まで氷をもらいに行っていた。

暑い時期なので、水やジュースに氷があったら美味しかろうという

優しいサヨちゃんの発案。

宿泊施設には彼女の親戚が勤めていたので、事前に頼んであったのだ。


重たい氷を二人で抱え、ようようキャンプ場へ戻ってきたら

A子はかろうじて無事だったカレーを自分の手柄にし

ご飯が焦げたのを人のせいにして怒り狂っていた。


真っ黒で、噛んだらジャリジャリいうご飯で食べるカレーは本当に美味しくなかった。

そして食後、A子は散らかし放題の焦がし放題で散乱した調理器具や食器を指差し

私とサヨちゃんに言い渡した。

「あんたら、カレー作る時におらんかったんじゃけん、後片付けしてよね!

私らにだけ作らせて、あんたらは食べるだけなんてズルいわ!」


おめぇが今飲んどるジュースの氷を取りに行っとったんじゃ…

そう言おうとしたが、心美しきサヨちゃんは

「わかったわ」

と微笑んで後片付けを始めたので、私も黙って一緒にやった。

後の皆が楽しそうにバレーボールなんてやってるのを横目に

焦げついた飯ごうを洗うのは、まことに骨が折れた。


ようやく片付けが終わったら、もう帰る時間になっとるじゃないの。

初めてのキャンプめいたイベントは、ちっとも面白くなかった。

だけどA子の横暴よりサヨちゃんの潔さが強く印象に残り、良い思い出になった。


そんなわけで、カレーは誰が作ってもカレーになるが

ご飯を焦がしたら何もかも台無しになると、その時に知ったことを息子に話しただけ。

いい加減なものである。
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

デンジャラ・ストリート 壊れゆくシルバー

2022年09月16日 09時36分09秒 | みりこんぐらし


私の住む川沿いの通りは、後期高齢者が大半を占めるシルバー通り。

時折、老人ならではの事件が起きるため

私はここをデンジャラ・ストリートと呼んでいる。


が、ストリートでは近年、老人が減り始めた。

亡くなったり、施設に入ったり、離れて暮らす子供の所へ転居する人が出てきたからだ。

この春、うちの左隣に住む一人暮らしのおばさんも

90才になったのを機に広島市内に住む息子夫婦に引き取られていったので

空き家になった。

あと数年もすれば、人が住んでいる家より空き家の方が多くなるだろう。


さて、空き家になった隣の、そのまた隣のAさん宅も数日前、ついに無人となった。

そこに暮らしていたAさん夫婦は、それぞれ長年に渡って入退院を繰り返していたが

年々弱っていく一方。

彼らの50代半ばになる一人息子は東京在住の独身…つまり戦力外で

ご主人が気難しいため、近くに住む親戚も寄り付かない。

夫婦は何とか二人で乗り越えようと頑張っており

奥さんと仲のいい義母ヨシコは、うちのおかずを持って頻繁に訪問するのが

ここ何年も習慣になっていた。


そして今年5月、奥さんが脳梗塞で倒れて救急搬送。

7月末に退院したが、ボンヤリと別人のように変わり果て

家にはホームヘルパーが出入りするようになった。


ヘルパーの助けを借りながら、奥さんの介護をするようになったご主人だが

なにしろ彼も病人なので、この暮らしはしんどかったらしい。

人の手を借りなければ生活できないとは、自分たちの弱みをさらすことでもある。

高齢の男性、特に気難しいタイプにとって

プライドが傷つきっぱなしの耐え難い日々であることは想像に容易い。

その苛立ちはヒステリーとなって現れ

ヘルパーを派遣する施設はトラブルのたびに別の所に変わった。


やがてご主人の苛立ちはヘルパーだけでなく、近隣住民にも向けられるようになった。

通りかかる者を睨みつけたり、些細なことで難癖をつけては大声で罵詈雑言を吐くのだ。


我が家にも、その魔手は伸ばされた。

8月の始め、ご主人は月番のことで勘違いをしたらしく

うちへ電話をかけてきて文句を言った。

隣がいなくなったので月番の回ってくる順番が変わったが

それを忘れていた人が、当番でないA家に月番の帳面や木札なんかのセットを

黙って置いて帰ったのが原因。

彼は月番セットを持って来たのが我が家だと思い込み、嫌がらせをされたと言うのだった。


壊れた年寄りほど厄介なものはない。

電話に出たヨシコが知らないと言っても聞き入れず

大声で長々と罵声を浴びせたあげく、電話は切られた。


「何よ!あれだけ良くしてやった恩も忘れて!」

ヨシコの怒るまいことか。

親しい相手にも突然、牙をむく…

それが壊れた老人の恐ろしいところである。

心臓カテーテルの入っているヨシコが、びっくりしてコロッといったら

うれ…いや、大変だ。

歩く凶器に変わり果てたご主人に、私も腹を立てた。


しかし、怒っているだけでは終わらない。

問題はまだ残っている。

ご主人は、A家に置かれた月番のセットを取りに来るよう言った。

正確には、「おまえが取りに来い!すぐ来い!」と怒鳴った。

だから月番セットを取りに行き、正しい月番の家に渡さなければ

この一件は終わらないのだ。


とはいえ、いきなり怒鳴られてショック状態のヨシコが行くはずもなく

「あんた、行って来てよ」

こともなげに言うので、この役目は私に回ってきた。


「え〜?刺されたら救急車、呼んでよね」

ヨシコにそう言い、A家に行くことを承諾した私は

9年ほど前だったか、隣で起きた事件を思い出していた。

当時のことは記事にしたが、隣のおじさんが包丁を振り回して暴れ

警察沙汰になったのだ。

おじさんは救急車で精神病院へ送られ、やがて亡くなった。


おじさんが暴れ始めた時、おばさんはうちへ助けを求めに来たが

包丁のことは言わなかった。

そのため、何も知らない私は隣へ様子を見に行き

おじさんに会うというスリリングなことをやらかした。

後で警察官は、私の無事を喜んでくれたものだ。


それが唯一の前例ながら、壊れた老人は何をしでかすかわからないと痛感した私。

今回はその経験を生かし、刺されても軽傷で済むよう木綿のエプロンに着替える。

薄い柔道着のようなピンクの生地に、ゴツいアップリケが付いているものだ。

大柄だった隣のおじさんと違い、Aさんは私の肩ぐらいの身長。

病気でやせ細っているので、戦っても多分、私が勝つと思うが

刃物が出たらわからない。

重たいので着なかったエプロンが、護身用として初めて日の目を見た瞬間である。


さらに延長戦になった場合を考慮して、ポケットには応戦用の軍手をしのばせ

爺やの拘束、あるいは自身の止血に役立つかもと思い

首からはタオルをかけて出発した。

出発なんて大袈裟だが、二軒先とはいえ、隣の家は広くて横に長く

その先には畑があるので、距離はけっこうあるのだ。


A家に着いて門から中を覗くと、玄関横にある郵便受けの上に

月番の道具が置かれているのが見えた。

黙って持って帰るという手もあったが、きちんとケリをつけておかないと

さらに凶暴化する恐れもあるので、覚悟を決めて敷地の中に入り、チャイムを鳴らす。


こういう時は、チャイムを鳴らした後が大事じゃ。

すぐに玄関ドアから離れなければ。

ドアの近くに立ったままだと、中から刃物が先に出現したらひとたまりもない。

少なくとも三歩は引いて、反応を待つ。


子供の頃、うちの祖父がよく言っていた。

「門でなく、玄関にチャイムのある家を訪問する時は

チャイムを鳴らしたら、いったん軒の外へ離れなさい」。

チャイムを鳴らす時と同じ位置に立ったまま、家の人が出てくるのを待つのは

はしたないというのだ。


洋風のドア形式だと、中からドアが開く時に何歩か下がることになるので

その時になって後ずさりする姿はみっともない…

和風の引き戸であれば、中の人が開けた時に至近距離で対面することになり

これも失礼になる…

はしたないとは、そんな理由からである。

これを逆から言えば、玄関のドアと密着したまま

中からの応答を待つ人物が家に来た場合

まともな躾を受けずに育ったのは一目瞭然なので

そのような人物と親密になる必要は無いという意味もあった。


女の孫に、習っても役に立ちそうもない切腹の作法なんかを教える祖父だったので

幼い私はさほど真面目に聞いてなかったが

高齢化の進んだ今、中から何が飛び出してくるかわからない時代になった。

チャイムを鳴らしたら玄関から離れるという教えが

60年近くを経て役に立ったというわけよ。


さて、チャイムを鳴らしてしばらくすると、ご主人がインターホンで返事をした。

「はい…」

思いがけず、弱々しい声。

「おじちゃん、こんにちは!月番の道具、持って帰りますね〜」

努めて明るく言うと、ご主人はインターホン越しに答える。

「はい…よろしくお願いします…」

もう、さっきとは違う人になっとる。

そうよ、それが壊れた老人というものよ。

身構えて行ったというのに、何だか残念なようなホッとしたような気持ちで家に帰ると

ヨシコは電話の子機を片手に、門の近くでスタンバイしていた。

やっぱり、刺されるのが前提だったのね…。


その後、ヨシコと私は話し合い

おかずの差し入れは終了…もう金輪際、接触はすまい…

とりあえずそう決めた。

親切ごかしに壊れた老人に近づいて、危険な目に遭うのはゴメンだ。


が、わざわざ決めるまでもなく、接触の機会は無くなった。

ご主人はそれから数日後、持病の悪化で救急搬送されたからだ。

同じ日、介護の必要な奥さんは施設へ入所した。


そして数日前、ご主人は帰らぬ人となり、家族葬が執り行われた。

葬儀には奥さんも施設から直行して参列していたが

もう家には帰れそうにない。


かくしてA家は無人となった。

近隣住民にはひとまずの安全がもたらされ

我が家には、A家の差し入れのために買い置きした

大量の弁当パックが残されたのである。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近時事・エリザベス女王

2022年09月11日 11時45分43秒 | みりこんばばの時事
英国のエリザベス女王が亡くなった。

そりゃ、ご高齢だし、いつかはこういう日が来るのはわかっていた。

だけどショック。

「世界で一番かっこいい女性」

そう思っていたからだ。

ついぞ2日前まで、公務を行なっていたというではないか。

どこまでかっこいいんだ。



エリザベス女王に、ささやかな関心が生まれたのは中1の時。

学校の図書室で借りた、英国関連の本だ。

戦争中に姉妹でラジオ放送に出演し、国民を励ましたという写真が載っていた。



この写真。


高貴なおうちに生まれたら、頼まれればやらなきゃならないことがあるだろうから

その行動について何ら感銘を受けたわけではない。

ごくたまにテレビニュースで見かける英国の偉い女の人と

この美少女が同一人物だったことに驚いた。

それだけ。


2年後の1975年5月、その元美少女が来日するというではないか。

私は中3になっていたが、自分本意に言えば、けっこうキツい時期だった。

私の生い立ちは、もうさんざん話したので省略するが

立つな座るな笑うな泣くな…の毎日。

最終的には差出人の無い手紙が私に届いたことで

味方だと思っていた祖父と父にも見限られた。


その手紙は、知らない卒業生からのラブレター。

便箋には名前が書いてあったので、判明した。

故意だか失念だか知らないが、封筒が匿名だったことが家族の疑惑を膨らませ

それまでは反抗的でわがままな子というプロフィールだったのが

この一件で『男好き』という烙印まで押されてしまった


男親というのは娘、あるいは孫娘のこういうことをひどく嫌うものだ。

無実を訴えても言い訳としか思われず、冤罪の情けなさを思い知る。

男から手紙が来るなんて、年端もいかないのに色目を使う子だったのか…

匿名であるからには、双方納得の上だろう…

私は彼らが最も嫌う類いの女の子、ということになった。


彼らもショックだったろうが、私が一番ショックだったと思う。

信じてもらえなくて悲しい…なんて騒ぎじゃないぞ。

手紙をよこした男は満足かもしれないが、私には迷惑以外のなにものでもない。

世の中には突然降りかかる災難があると知り、ただひたすら情けなかった。


ともあれ私は疑惑と監視の対象となり

家庭のガンとして孤立を深める一方であった。

おかしな話だと思われるかもしれない。

けれども家族構成が複雑ということは、家族の絆や信頼が希薄ということであり

このような事態が起こりやすいのだ。


エリザベス女王の来日があったのは、そんな時だった。

本で見て、ちょっと知っただけの人なのに

知っている人が日本に来てくれたというのが子供心に嬉しく

私は明るい気持ちになったものだ。



テレビに映る女王陛下の姿を見ると、胸がすいた。

それは威厳というものかもしれないし、品というものかもしれない。

そういうものは人を感動させ

小さなゴチャゴチャしたものを吹き飛ばす威力があるのだと思った。


だからといって、女王陛下の威厳や品をほんのちょっとでも身につけよう…

などとは考えない。

おバカさんな女子中学生として、ただ口を開けて見ていただけ。

それでも来日の数日間は楽しく、日頃のウサを忘れられた。


以後、威厳や品とは程遠い半生を送り、依然としてケモノ道担当の私だが

畏れ多くも言わせてもらうと

女王陛下はかっこいいまま年を取られ、かっこいいまま去られた。

何でかっこいいかというと、言い訳をしないからだと思う。

英国王室は本当に色々あって、マスコミの餌食になってきたけど

女王陛下自身が言い訳をすることは無かったし

誰かを使って回りくどい言い訳をさせることも無かった。

それが威厳であり、品であったと思う。

女王陛下、ありがとうございました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

手抜き料理・老人時代

2022年09月08日 10時31分03秒 | 手抜き料理
我々夫婦は、老後の話をよくする方だと思う。

「婆さんと犬がいなくなったら、旅行に行こう」

夫の今のブームは、これ。

「たまの遠くより、近い所へたびたび行ってゆっくりしたい」

少し前の記事、『首問題』でお話しした、夫の友人夫婦に影響されたのだと思う。

その夫婦はとても仲良しで、毎週のようにあちこちへ出かけている。

ご主人の方と毎日のように会っている夫は、話を聞くうちに感化された様子だ。


そうだね…旅行、いいね…

私はいつもそう答えつつ、ただの夢物語と聞き流す。

双方の両親はすでに他界、子供たちも独立して夫婦だけになったあの人たちと我々では

環境が違いすぎるからだ。

犬はともかく、婆さんの方は不死身。

姑仕えが終わる頃、我々の寿命も尽きそうな気がする。

いや、我々の方が先かもしれない。

旅行より、あの世へ旅立つ日の方が早いかもよ。


それに私は、夫と旅行をしたくない。

友だちと行くならいいけど、この男は手がかかる。

偏食が激しいので現地の名物料理は食べられず、行ってから帰るまで

どこでも食べられる麺類やファストフードの店を探し歩く羽目になる。

荷物を持たせればどこかで置き忘れ、いつの間にか手ぶら。

よその子供の泣き声に振り返ったら、夫とぶつかって転んでいる。

でなければ夜中に熱を出すか、腹を下して大騒ぎ。

それらに加え、地獄の底から聞こえてくるような大音響のイビキが

もれなくセットで付いてくる。


結婚して42年、夫と泊まりがけで旅行したのは新婚旅行と下の妹の結婚式

あとは県外で仕事に必要な免許の講習と試験があった時

それから、どこかの風呂へ出かけ、帰るのがかったるくなって

つい泊まったことが1〜2回あるぐらいだが、私は十分に辟易した。

合間で夫は歴代の愛人とあちこち行っていたけど

あいつら、よう我慢しとったわ…と感心する。



それはともかく、人生100年時代と言われるようになった現在

20年ほどの子供時代よりずっと長く

40年ほどある大人時代に匹敵する長さになった、“老後”。

老後は、リタイアしてからあの世へ行くまでのオマケ期間ではなく

一まとまりのれっきとした時代となった。

もはや老後ではなく、老人時代と呼ぶ方がふさわしいだろう。


還暦を過ぎて、我々夫婦もこの老人時代に突入した。

まだ新人ではあるものの、心してかからなければならないという意識はある。

これから訪れると決まっているのは、夫の退職と年金生活。

そして夫婦の永遠の別れ。

さらに現時点では不確定ながら、病気と介護もスタンバイ中と思われる。

簡単に言えば、生活のレベルダウンと孤独は必須

そこに痛みと情けなさを伴う可能性大ということだ。


これらと上手く付き合うには、どうすればいいか。

いくらものぐさな私でも、さすがに考える。

しかしどれも、訪れてみなければわからない。

周りを見回して、およそわかった気になっていたが

年金の受給手続きひとつでさえ、現実に訪れてみなければ何もわからなかったのだ。

総年収を12で割った金額が28万円以上になると厚生年金がもらえないことや

65才になると、その28万枠が41万枠に拡大されるなんてことも

全然知らなかったのだから、他のことだってわかるわけがない。

「それでも明るく生きられるか」

今のところは大ざっぱに、それをテーマとして生活しようと思うばかりである。


このような心境になって以来、私が日々こしらえる料理は傾向が変わった。

以前は家族全員を喜ばせたくて、あれこれ腐心したものだが

死なない姑や、いつまでも独身のボンクラ息子どものために

汗水たらして作る気が無くなり、照準が夫に向いたのだ。


だって夫は家族の中でただ一人、私のためにお金を稼いでくれる。

息子たちも幾ばくかの食費を入れるが、全額貢いでくれるのは夫だけだ。

私がその誠意に応えたいと思うのは、人として当然のことではないか。

要は、カネよ。


そんなわけで、私は夫の好物や夫の健康だけを考えるようになった。

夫の好物は息子たちの好物と共通していることが多く

夫の健康を考えることは、家族の健康を考えるのと同じなので

以前と比較しても大差は無いのだが、照準を一人に絞ると他の人の反応なんかどうでもよくなり

なんだか肩の力が抜けて、とても楽になった。


で、最近、朝食によく作るのが

『卵サンド』


卵は夫の好物だが、義母も息子たちも卵サンドが好き。

朝なので美しく作る余裕は無いが、味は同じだろうから勘弁してもらう。


作り方は簡単で、申し訳ないぐらい。

①茹で卵を作る

※写真の物で8個使用。

前日に水から茹で、しっかり沸騰したら火を止めて

そのまま翌朝まで放置すれば茹で卵ができている。

以前、記事にしたが、茹で卵を作る時は卵のお尻(丸っこい方)を

カレースプーンでコンコンと軽く叩き、割れ目を入れてから茹でるとカラ剥きしやすい。


②卵を粗みじん切りにする

※100均で売っている茹で卵スライサーで、卵を横向きにスライスしたら

形を崩さないよう向きを変え、縦にして再びスライス。

これで卵はバラバラになる。


③卵ペーストを作る

※バラバラになった卵をボールに入れ

マヨネーズをたっぷり、塩こしょうと薄口醤油それぞれ少々

あればパセリのみじん切りを加えて混ぜる。

パセリは原型のまま冷凍しておき、使う際に手で揉みながら入れると早い。


④サンドイッチ用のパンに卵ペーストを乗せ

その上にもう1枚、パンを置いて挟み、食べやすい大きさに切ったら出来上がり

※パンが足りなければ、または忙しければ、2枚のパンで挟まなくても

卵ペーストを1枚に乗せたままオープンサンドにするのもいい。

卵ペーストが余れば、次の食事でレタスなんか添えたサラダでどうぞ。


美味しく作る秘訣はただ一つ。

サンドイッチ用のパンを使うこと。

サンドイッチ用のパンは、読んで字のごとくサンドイッチに適している。

パンが薄くて柔らかいだけでなく、自己主張をせず脇役に徹するケナゲさを持っているため

どんな具を挟んでも合う。


また、普通の食パンと違って水分の吸収が緩やかなので

パンにあらかじめバターを塗っておく手間が省ける。

家でサンドイッチを作るのが面倒なのは、このバター塗りがかったるいから。

弁当など、長時間に渡って放置するなら塗った方がいいけど

短時間で食べてしまう場合、バター塗りは必要ない。



『牛赤身のステーキ・みりこん風』


近年の夫は脂っこい物を嫌い、ステーキを食べなくなった。

私もこの変化を歓迎している。

ステーキを1枚ずつ5人に焼くのは消耗するし、高くつく。

来るべき年金生活のためには、節約を心がけなければ。


そこで軽い、国産牛の赤身を使う。

赤身はグラム400円前後。

そこいらのスーパーで売られているステーキ用のロース肉と比較すれば半額以下だ。

ただし安い赤身肉は、味が淡白で硬いと相場は決まっている。

これを柔らかく焼くのが、腕の見せ所である。


①室温に戻した肉を包丁の背で気休めにたたき

塩こしょうを振ってニンニクのスライスを乗せる

※肉を早めに冷蔵庫から出し、室温に戻しておくのが最大のコツ


②肉を買う時にオマケでもらう牛脂を熱したフライパンに入れ

さっきのニンニクを肉から回収して軽く炒める

※牛脂で香り付けをすると、何やら美味しいような錯覚を起こすものだ。

錯覚が必要無い人は何の油を使ってもいいし、油を使わなくてもいい。


③焼けたニンニクをフライパンから回収して別皿に移し、いよいよ肉を焼く

※肉の厚さにもよるが、表と裏、それぞれ1分から1分半程度。

※うちは5人なので5枚、あるいは4枚の肉を2回に分けて焼くが

少人数であれば一度に焼いて大丈夫。


④表面の色が変わって控え目な焦げ目がついたら

フライパンから出してまな板に並べ、10分前後放置

※放置している間に熱が肉に回って、柔らかい仕上がりになる。

※生々しいのが嫌な人は、肉をアルミホイルに包んで放置するといい。

またはレンジを肉用の弱にして10秒ほど温めても、多少硬くなるが赤い色は薄くなる。


⑤斜めに薄くスライスしたら出来上がり



焼いてすぐは、この姿。

全部が同じ仕上がりになるとは限らないので、各自に好みの焼き上がりの物を選んでもらう。

斜めスライスは、少量の肉を多く見せる小技だ。

これで5人分、約500グラム、2,000円。

普通のステーキ1枚分の値段である。


※写真では忘れたが、先に焼いたニンニクを肉の上に置く。

※ソースは市販のステーキソースやトンカツソース、焼肉のタレ、ポン酢など何でもいいけど

これは手作りの、名付けて『昭和ソース』

肉を焼いた後のフライパンにウスターソースをドバドバ。

そこに砂糖を大さじ1杯程度入れ、一煮立ちさせたもの。

料理店をやっていた九州の伯母の直伝だが、昭和っぽいレトロな味が男や子供には人気だ。


『付け合わせ…人参の明太子炒め』

写真の人参炒めは手軽で美味しく、野菜食べてる感もあり

お弁当など活躍の場が多いので、ご紹介したい。

①人参を細切りにし、好みの量の明太子は薄皮から出してほぐしておく

②油をひいたフライパンで人参を軽く炒める

③明太子を入れてサッと混ぜ、火を止めたら出来上がり

あなどれない深みのある美味しさは、人参ラペや人参シリシリなんて目じゃないぜ。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

近時事・旧統一教会のことやら、あれこれ…5

2022年09月01日 19時06分02秒 | みりこんばばの時事
たまに洋子さんがかけてくる電話は、1年余り続いた。

しかし回数の方は、だんだん遠のいていった。

心境の変化ではなく、多忙という物理的な理由であるらしかった。

合同結婚式への参加が決まったからである。

ご存知だと思うが、合同結婚式とは

教祖から許可された、おびただしい数の信者が結婚衣装に身を包み

芋を洗うがごとく一ヶ所の会場に集まって

教祖が選んだ見知らぬ相手と一斉に結婚する教団独特の儀式だ。


合同結婚式があると、なぜ忙しくなるのかは聞きそびれたが

どこの国の誰と結婚させられるか、当日までわからないのだ。

身軽な共同生活とはいえ、一応は身辺整理もあろうし

勧誘や献金集めにもラストスパートをかけたいのは信者なら当然だろう。


教団にこのような結婚の習慣があるというのは、洋子さんから聞いていた。

自分と同年代、アラサーの彼女が、生涯を尼さんとして生きるのか

いずれ結婚して教団を離れるつもりなのか、興味があったのでたずねたからだ。

どちらかしか選べないと思い込んでいた私は

合同結婚式という、結婚と宗教の両立ができる折衷案を聞いて

舌を巻いたものである。

なるほど、信者同士が結婚すれば、両者納得づくだ。

家族か宗教かの二者択一をしなくていいし、夫婦で布教活動ができる。

生まれた子供も信者なるのだから、信者は増えっぱなし。

まことによく考えられたシステムである。


それからほとんど間を置かずに、複数の有名人が入信していることをマスコミが喧伝し始めた。

広告塔という単語が一般的になり、歌手の桜田淳子さんたち有名人が参加するということで

合同結婚式という呼び名も日本中に浸透。

被害者もたくさん現れ、統一教会はカルト教団と言われるようになった。


そんな1992年、洋子さんは嬉しそうに報告したものだ。

「私も合同結婚式に参加することになりました」

彼女はまだ見ぬ結婚相手と結婚生活に、夢を膨らませている様子。

こういう所は普通の女の子と同じで、可愛らしかった。


桜田淳子さんたちと同じ日、韓国の同じ会場で、洋子さんも結婚した。

テレビに映し出される白いドレスを着た女性たちの中に、洋子さんを探したが

すごい人数なので発見できるはずもなかった。



合同結婚式から何ヶ月か経って、アメリカからエアメールが届いた。

差出人は洋子さん。

彼女はあの合同結婚式で、ニューヨーク在住のアフリカ人医師と結婚し

マンハッタンで新婚生活を送っているという。


手紙には、写真も同封されていた。

自宅のベランダで写したそうで、ビル街を背景に寄り添う幸せそうな写真だ。

背の高い彼も優しそうな感じなので、良かったと思った。


合同結婚式で韓国の山間部にある農家へ嫁がされ

働き手として牛馬のごとく扱われる日本女性もたくさんいると聞く。

合同結婚式にかこつけて、嫁不足解消のために

そういう人気の無い所へ行かされることが多いらしい。

だとしたら、物価の高いマンハッタンで暮らす経済力を持った男性と

結婚できた洋子さんは幸運だった。

こういうマッチングは、集めた献金や勧誘した信者の人数で決まるのかもしれない。

家族を捨ててまで布教に邁進した洋子さんは、そこそこの成績を上げたのかもしれなかった。


洋子さんとは、それっきりだ。

手紙の返事も出さなかった。


あれから30年。

隣市の駅前にあった“センター”は、いつの間にか無くなり

そんなことも忘れはてていた去年だか今年だか、近所のおばさんの悩みを聞いた。

3人ぐらいで家に来た知らない人に勧められるまま

賛同するサインをしてしまって不安…というものだ。


2日後ぐらいだったか、同じ集団がうちにも来た。

見せた紙に書いてあることに賛同して、住所氏名を書いてくれと言うので断った。

紙には、世界平和統一家族連合とあった。


このことを記事にすると、「それは統一教会のことよ」

とコメント欄で教えてくださるかたがいらした。

名前を変えて活動しているそうだ。


そして7月に起きた、安倍元総理の暗殺事件。

犯人の母親が、あの教団の信者だということで

30年前の合同結婚式以来、旧統一教会の悪名は再びとどろいた。

世界平和統一家族連合では長過ぎるからか、旧統一教会と呼ばれ

かまびすしい報道が続いている。


それで知ったのだが、夫婦で古代の王様みたいな仮装をし

合同結婚式を主催していた教祖の文鮮明氏はすでに他界したという。

あのコスプレを見た時は、かなり笑えたものだ。

「王様に憧れてるんだね〜」と。


犯人の母親が統一教会にのめり込んだのは、旦那さんの死因が影響したと思う。

あの教団は献金を出させるために因縁話を使う手法なので

人の死因にものすごくこだわるからだ。

因縁にこじつけやすい自死であり、ましてや裕福な家庭だったら

高額献金を狙い、総力を挙げてあの手この手を繰り出すので

ひとたまりも無いだろう。

私のような庶民にすら盗聴までやるんだから、騙しのテクニックはプロだ。


日本人から金を巻き上げるためなら、どんなことでもするのが彼らである。

それにすっかり騙されて、盗っ人の片棒を担ぐのは日本人。

日本人をうまく利用して金儲けをすることを、彼らは“用日”と呼ぶ。

嫌い嫌いの“反日”よりも、“用日”の方が上級なのだ。

まんまと引っかかってはならない。

私が過去のアホを披露したのは、これが言いたかったからである。


ついでに話すが、30年前、東北で掘られていると言われ

本物かどうかは知らないけど、写真まで見せられた日韓トンネル。

今じゃ九州の佐賀県にあると言うじゃないか。

東北のは、どうしたんじゃ。

いい加減なこと言いおって。

いい加減な私が言うのもナンだけど。



それにつけても安倍元総理の暗殺は、かえすがえすも残念で仕方がない。

あの犯人は前座に過ぎず、本当は別のスナイパーがいたなど

陰謀説も取り沙汰されているが、真相は今のところ藪の中。

このような陰謀説が出てくるのは

政府、警視庁、奈良県警の説明や対応のまずさが原因だと思う。

真相を隠すために、旧統一教会や国葬の問題に急いで切り替えたような印象を

与えてしまっている。


国民の心情を理解しようと努める姿勢が見当たらず

理解してもらおうとも考えないままにコトを進め、寄り切ってしまうやり方は

あの、ええとこの娘さんとプータローが結婚した時と同じではないか。

あれが今の日本のやり方ならば、未来は暗いと考えて当然だ。

その暗澹たる思いが、陰謀説に繋がっていると私は思う。

ちゃんと調査して、国民を納得させてもらいたいと願うばかりである。


これほどの騒ぎになって改めて思うが

安倍元総理は多くの人々から愛され、親しまれた人物だった。

そして彼が愛されれば愛されるほど、親しまれれば親しまれるほど

別の多くの人々にとって、彼は都合の悪い存在になっていった。

今の国葬に関する賛否両論は、この両極の思いが具現化されているように思う。


「美しい日本」

「日本を取り戻す」

安倍元総理の掲げたスローガンは、抽象的だ。

パッと見は夢夢しく、何が言いたいのかわからない。

しかし、美しく再生されては困る、取り戻されては困る一部の人々は

この抽象的な言葉から、脅威を感じ取ったであろう。

私たち日本国民は、彼を失って初めて

この言葉の中に込められた彼の真意を知ったのかもしれない。



《完》
コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする