前回の記事「今騒がれていること」に
たくさんのご訪問をいただき、誠にありがとうございました。
森友学園問題への関心の高さに改めて驚きました。
この記事、私は確かに一生懸命書きました。
無い頭を振りしぼりつつ書いたものを
多くの方にごらんいただけて、非常にありがたかったです。
が、実際のところはうちの常連さん、モモさんが
大御所ブロガー「まるぞうさん」の所で紹介してくださった様子で
お越しくださった方々の大半はそちらからという、まるぞうさん特需。
大樹のお情けをいただき
まるぞうさんと、その読者の皆様に心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
そしてモモさん、ありがとうございました。
ご本人に確認すらせずにそう思い
その上、お名前まで出して申し訳ありません。
お陰様でお読みくださる方が一時的に増えましたが
すぐに私の変わり映えしない日常を描く
オバンの日記に戻るため、元どおりの状況になる予定です。
その前に、この機に乗じて
以前からいつか書こうと考えていたことを
一つだけ書き残したいと思います。
タイトルは「思い出」とでもしておきましょう。
最初にお断りしておきますが、私のブログは
『みりこん童話のやかた』のカテゴリー以外
全て事実に基づいて記述しております。
これからお話させていただくことも
私の家に起きた、まぎれもない事実であることを申し添えます。
『思い出』
戦争中、私の祖父母と母は広島市に住んでいた。
戦争中の広島在住者となれば、原爆は避けられない。
祖父母は離れた自宅にいたので無事だったが
当時13才だった母は学徒動員の作業で爆心地の近くにいたため
瀕死の火傷を負った。
母が生命の危機から脱すると
一家は壊滅状態の広島を出て農村部に移った。
陸軍で物資輸送の仕事に就いていた祖父は
当然ながら戦争が終わると無職。
近くの町の企業で働いていたが、52才で脱サラを思い立つ。
ある業種を選んで競争相手のいない町を探し、小さな田舎町に決めた。
その町の駅前に土地を買い、移り住んで起業したのは昭和32年のことである。
2年後の昭和34年、一人娘の母に婿養子を迎えて私が生まれた。
ありふれた昭和絵巻は、ここで終わる。
祖父が買った駅前の土地の半分は事務所を兼ねた家屋で
もう半分は空き地のまま駐車場にしていた。
そのうち何か建てる予定だったが
仕事は忙しくなるわ、年子で赤ん坊は生まれるわで
数年間そのままになっていた。
そこに目をつけたのが、いずこからかやって来た在日朝鮮人のAさん。
「空いている土地を売ってくれ」と言った。
駅前でパチンコ屋を始めたいという。
何度も断ったが、Aさんはあきらめなかった。
Aさんに同行するお仲間の人数はだんだん増え
「売らなければ朝鮮総連を連れて来てデモをする」
と祖父を執拗に脅迫した。
頑固者の祖父は、脅しに屈する性質ではない。
けれども昔の人の多くがそうであるように
在日朝鮮人と呼ばれる人たちの性質をも知っていた。
ひとたび魅入られたら
引っ越すか、渡すしか道は無いということである。
祖父は苦渋の決断により、Aさんに土地を半分売った。
幼児だった私は、A夫婦と4人の子供たちがすぐにやって来て
小屋を建てて住んでいたのを覚えている。
煮炊きは外で行い、小屋の入り口にはムシロがぶら下げてあった。
希望に燃えて移り住んだ新天地が、早々にこの有り様。
祖父母と両親の心中が、穏やかであろうはずはなかった。
そのうち新築工事が始まり、住居を兼ねたパチンコ屋ができた。
土地のことでもめたA一家と我が家だが
隣同士で住んでみると、心配したほどではなかった。
Aさんの奥さんがさっぱりしたいい人で
両家のクッションのような役割をしていた。
ただし、我が家ではニンニクと焼肉は禁止。
結婚するまで食べたことがなかった。
ある日突然、土地に目をつけられ、せがまれ、脅され
泣く泣く譲った無念と
さんざん脅しておきながら、望みが叶えばニコニコと乗り込んで来る
理解しがたい民族性に向けた、せめてもの抵抗であった。
《続く》
たくさんのご訪問をいただき、誠にありがとうございました。
森友学園問題への関心の高さに改めて驚きました。
この記事、私は確かに一生懸命書きました。
無い頭を振りしぼりつつ書いたものを
多くの方にごらんいただけて、非常にありがたかったです。
が、実際のところはうちの常連さん、モモさんが
大御所ブロガー「まるぞうさん」の所で紹介してくださった様子で
お越しくださった方々の大半はそちらからという、まるぞうさん特需。
大樹のお情けをいただき
まるぞうさんと、その読者の皆様に心より感謝申し上げます。
ありがとうございました。
そしてモモさん、ありがとうございました。
ご本人に確認すらせずにそう思い
その上、お名前まで出して申し訳ありません。
お陰様でお読みくださる方が一時的に増えましたが
すぐに私の変わり映えしない日常を描く
オバンの日記に戻るため、元どおりの状況になる予定です。
その前に、この機に乗じて
以前からいつか書こうと考えていたことを
一つだけ書き残したいと思います。
タイトルは「思い出」とでもしておきましょう。
最初にお断りしておきますが、私のブログは
『みりこん童話のやかた』のカテゴリー以外
全て事実に基づいて記述しております。
これからお話させていただくことも
私の家に起きた、まぎれもない事実であることを申し添えます。
『思い出』
戦争中、私の祖父母と母は広島市に住んでいた。
戦争中の広島在住者となれば、原爆は避けられない。
祖父母は離れた自宅にいたので無事だったが
当時13才だった母は学徒動員の作業で爆心地の近くにいたため
瀕死の火傷を負った。
母が生命の危機から脱すると
一家は壊滅状態の広島を出て農村部に移った。
陸軍で物資輸送の仕事に就いていた祖父は
当然ながら戦争が終わると無職。
近くの町の企業で働いていたが、52才で脱サラを思い立つ。
ある業種を選んで競争相手のいない町を探し、小さな田舎町に決めた。
その町の駅前に土地を買い、移り住んで起業したのは昭和32年のことである。
2年後の昭和34年、一人娘の母に婿養子を迎えて私が生まれた。
ありふれた昭和絵巻は、ここで終わる。
祖父が買った駅前の土地の半分は事務所を兼ねた家屋で
もう半分は空き地のまま駐車場にしていた。
そのうち何か建てる予定だったが
仕事は忙しくなるわ、年子で赤ん坊は生まれるわで
数年間そのままになっていた。
そこに目をつけたのが、いずこからかやって来た在日朝鮮人のAさん。
「空いている土地を売ってくれ」と言った。
駅前でパチンコ屋を始めたいという。
何度も断ったが、Aさんはあきらめなかった。
Aさんに同行するお仲間の人数はだんだん増え
「売らなければ朝鮮総連を連れて来てデモをする」
と祖父を執拗に脅迫した。
頑固者の祖父は、脅しに屈する性質ではない。
けれども昔の人の多くがそうであるように
在日朝鮮人と呼ばれる人たちの性質をも知っていた。
ひとたび魅入られたら
引っ越すか、渡すしか道は無いということである。
祖父は苦渋の決断により、Aさんに土地を半分売った。
幼児だった私は、A夫婦と4人の子供たちがすぐにやって来て
小屋を建てて住んでいたのを覚えている。
煮炊きは外で行い、小屋の入り口にはムシロがぶら下げてあった。
希望に燃えて移り住んだ新天地が、早々にこの有り様。
祖父母と両親の心中が、穏やかであろうはずはなかった。
そのうち新築工事が始まり、住居を兼ねたパチンコ屋ができた。
土地のことでもめたA一家と我が家だが
隣同士で住んでみると、心配したほどではなかった。
Aさんの奥さんがさっぱりしたいい人で
両家のクッションのような役割をしていた。
ただし、我が家ではニンニクと焼肉は禁止。
結婚するまで食べたことがなかった。
ある日突然、土地に目をつけられ、せがまれ、脅され
泣く泣く譲った無念と
さんざん脅しておきながら、望みが叶えばニコニコと乗り込んで来る
理解しがたい民族性に向けた、せめてもの抵抗であった。
《続く》