殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

手袋

2018年10月30日 16時49分51秒 | 選挙うぐいす日記
夫からのプレゼント。

白い手袋。


いや〜、プレゼントと言うのは、ちょっとはばかられるわね。

「そろそろ買っとかないと‥」

そうつぶやいただけだから。

そしたら夫、町の作業服屋さんで買って来てくれたのよ。

で、私はお金を払わなかった。

彼も要求しなかった。

だから一応、プレゼントね。


夫はその時、キズもののパーカーを見つけて買ったらしいのよ。

プリントの部分にちょっと問題があるということで、千円也ですって。

買い物上手ね。


「俺の服より、お前の手袋代の方が高かった!

ショック〜!」

だって。

この手袋、1組398円(税別)なの。

ホホホ。



4年に1度、人様の前に現れるオリンピックのような私。

ウグイスになる日が近づいてるわけよ。

ウグイスの相棒は、前回も一緒だったナミちゃん。

先日ご挨拶代わりと言って、お菓子を送ってくれたわ。

なんていい子かしら。

4年ぶりの再会が楽しみよ。


4年ぶりなのは、候補も同じ。

いつものように、告示直前になって挨拶に来ると思っていたら

今年は、はやばやと8月下旬にうちへ来たわ。

新人がけっこう出馬するらしいので、彼も危機感を持ったみたい。


手袋の話に戻るけど、選挙に欠かせない白の手袋

普段はドライバー用として売られている男性用なの。

だからサイズは大きめよ。


手袋は選挙事務所から支給されるから、たくさん持ってるわ。

だけど口紅やファンデーションで汚れるし

私、手袋はいつも二枚重ねにするから、人様よりも枚数が必要。

自前も用意しなきゃ、足りないのよ。


手袋の二枚重ね‥

これは私の秘策の一つと言っていいかも。

中にSサイズ、その上にMサイズを重ねるの。

2枚とも同じサイズだと、外側が張るからきゅうくつなのよ。

サイズを変えると自然に見えるし、楽なんだわ。


え?そもそも何で二枚重ねかって?

寒いからよ。

片手はマイクを持ってしゃべりながら

もう片方の手は、ずっと外に出して振ってるんだもの。

冷えるわよ。

暑くなりゃ、一枚脱いで体温調節ができるしね。

ちなみに雨が降ってる時は、手袋の下に薄いゴム手袋してんのよ。

手が冷えると、疲れるんだわ〜。


マイクを握る方の手袋も、一重より二重の方が疲れないの。

薄い手袋1枚だと滑りやすいんだわ。

しゃべってるうちに、金属のマイクと布の手袋と生身の手が

かすかにズレるのよね。

そのたびに知らず知らず、何百回も握り直してると消耗するの。

そこで二重の手袋をクッションにして、緩和。


おばさんになるとね、疲労回復なんて

悠長なこと言ってる場合じゃないの。

疲労を癒す方法を考えるより、まず疲労を未然に防ぐのよ。

疲れは言い訳にならないもの。

最終日まで、全力を出しきれるようにコントロールしなきゃ。


それにね、二枚重ねた手袋はより白く、大きく見えるのよ。

その白く大きい手で、何をするか。

ユラユラとお手振りだけなら、猿でもやるわよ。

同じ振るなら、指先まで神経を行き渡らせなきゃ。


親指を直角に離し、残り4本の指をきっちり揃えるの。

手首のスナップをきかせて、キリッと振るのよ。

学生の応援団か、昭和の歌謡曲‥

金井克子の『他人の関係』(知っとるけ?)の振り付けに

ちょっと似てるかも。

パッパッパヤッパ〜♩


するとますます大きく見えて、目立つのよ。

あ〜ら、目立ちたがり屋どころの騒ぎじゃないわ。

選挙カーは、見てもらわなきゃ始まらないんだから。


声やセリフも大事だけど、選挙カーから出す片手も立派な小道具。

ちゃんと、ものを言うのよ。

おざなりじゃ、もったいないわ。

いただくギャラ以上の働きを目指して

1分1秒たりとも気を抜きたくないのよ。


このように私は、手袋に強いこだわりを持ってるの。

ドラマで女の人が手袋や軍手をして

犯罪や労働をするシーンがあるじゃない。

女優って、小柄で手の小さい人が多いから

手袋はたいていブカブカで指先が余ってんのよ。

「せっかくの計画犯罪なのに

そんな手袋で、死体埋める穴なんか掘れるかよ」

って、イライラしちゃう。


ああ、手袋について熱く語ってしまったわ。

とりあえず今は、体力作りに励んでるの。

年々、衰えるもんね。

たいしたことじゃないのよ。

散歩や軽い運動。


もう少ししたら、選挙期間中の家事の計画を立てるわ。

他の多くのウグイスさんと違って、私には家事の味方がいない。

散らかっても、出前でも

核家族なら一週間ぐらい我慢してくれるだろうけど

姑がいたらそうはいかないのよ。


ウグイスに一番必要なのは、実力じゃない。

身軽な身の上か、サポートしてくれる家族。

つくづくそう思うわ。

4時起きで、やり遂げるつもり。

頑張りま〜す!
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私は私なのか?・5

2018年10月28日 09時02分49秒 | 前向き論
遅まきながら、そして自分なりの解釈ながら

「人は人、私は私」の意味をつかんだ私であった。

それまで歩んできた道と、これから歩んで行く道が

初めて一本につながったような気がした。


どっちにしてもイバラの道は確定だが

周りに振り回されず、今できることをひたすらやる‥

この方針に揺らぎは無いはずだった。

しかしそこは人間、そこは私。

会社の廃業作業を進める過程で

一度だけ、何もかも嫌になったことがあった。


当時の私は廃業の手続きと新会社の設立に励みながら

もちろん通常の業務も行いつつ、義母の看病に加え

偏食のため病院食を食べない義父の弁当作りに忙殺されていた。

そこへ病院から連絡が。

「あんたとこの親父さんの介護講習をするから

夫婦で来なさいよ」

という主旨である。


義父が毎週末、外泊許可を取って家に帰るからなのか‥

入院が長くなると、形式的に講習を受ける決まりなのか‥

理由はわからないままだったが

我々夫婦はかなり無理をして日程を空けた。

そして病院のリハビリ室で、運ばれてきた義父を使い

2日間の介護講習を受けた。


2日目の講習が終わると、若い男性講師がカタログを持って来て言った。

「じゃあ、この中から介護ベッドを選んでください」

「なぜ?!」

呆然とする我々に、男は言った。

「退院後のご自宅用です」


どうやら義父は退院したがっているらしく

義母も退院させたがっているらしい。

入院したら退院したいのは当たり前だが、義父は退院できる病状ではなく

義母も体力的、能力的に重病人の介護ができる状態ではない。

そこで我々夫婦に講習を受けさせ、介護をさせるつもりだったのだ。


この事態は、入院患者を受け持つ看護部門と

退院後の生活に焦点を置く介護部門との連携が

うまくいってないために起こった。

両親は、その連携のひずみを利用して

我々には内緒で退院を決め、自宅介護のお膳立てをしていたのだった。


義父の病状を知る病棟の看護師長が止めたので

この話は流れたが、私は大声で言いたかった。

「2日間を返せ!」

億の借金をこしらえただけでは飽き足らず、その後始末をさせ

経済的な生活の面倒を見させながら、自分たちは入院ざんまい

看病に、弁当作りに、この上自宅介護までたくらむジジとババに

嫌気がさした。


人をだまして平気なのか‥

落ちぶれても、人は変わらないのか‥

何もかも失った両親を引き受けたのは、間違いだったのか‥

私の偽善がもたらした、これが答えなのか‥。


一緒に暮らす義母は、この計画をおくびにも出さなかった。

「病院から呼ばれたんなら、仕方ないねえ」

そう言いながら、講習に出かける私を普通に見送った。

このまま帰宅して、三文女優の顔を見るのもしゃくにさわるので

夫とは病院で別れ、私はその足で市役所に向かう。

何だったか忘れたが、両親に関わる急ぎの用事があったのだ。


税務課のカウンターで手続きをしていると

若い母親と小さい男の子がやって来た。

母親は、税務課の人と熱心に話し込んでいる。

私の隣に座った5才くらいの男の子は退屈したのか

可愛らしい顔でこちらを見上げ、唐突に、そして穏やかに言った。

「僕の体重は、平均より400グラム少ないんです」

新手のナンパじゃあるまいし、あまりにも意外な話しかけであった。


「おや、そうですか。

スリムでかっこいいじゃないですか」

私は男の子が好きなので、すぐに乗ってそう返す。

母親は日頃から、平均体重を気にかけているのだろう。


「ここがね‥」

真夏だった。

男の子は少し背伸びをして、白い半袖シャツの腕をカウンターに置いた。

彼の右腕はひじから先がだんだん細くなり、やがて消えていた。

見えない手の分だけ、体重が少ないのだと伝えたいらしかった。


「どれどれ?」

私は彼の手をのぞき込んだ。

「いい手ですね」

「本当ですか?」

男の子は嬉しそうに私を見る。


「本当です。

細くて、つるつるで、おばちゃんは好きです」

「良かった〜!」

男の子は笑った。


「さわってもいいですか?」

「いいです〜」

「あ、やっぱりつるつるで、いい手です。

おばちゃんの手もさわってみますか?」

男の子は体をひねり、左手で私の腕をさわった。

「ちょっとザラザラしています」

「年寄りですからねぇ。

もっと年寄りになると、もっとザラザラになりますよ」

「え〜?本当ですか?」

「本当です」


つるつるだのザラザラだの言っているうちに

私の用が終わったので、立ち上がる。

「では坊ちゃん、さようなら、お元気で」

「おばちゃん、さようなら」

両親への怒りは、もう無くなっていた。

洗い流されたという表現がふさわしいだろう。


ふとした出会いに、ことさら意味を持たせるのは好きじゃない。

なにしろ私は浮気者の妻。

単なる交差を仰々しく出会いと呼んで

底上げしたがるゲスどもをこの目でさんざん見てきたからだ。


それでも6年前に会った、この男児の記憶は鮮明に残っている。

今歩いている、この道でいいらしい‥

清らかな童(わらべ)を介して、それを伝えられたような気がした。


以後、この時のことはたびたび思い出している。

人間だもの、迷うこともあるし、嫌になることだってある。

商売をしていれば、そして年寄りを抱えていれば、なおさらある。

そんな時、多くのものを洗い流してくれる大切な記憶だ。


自論であり暴論かもしれないが

近年、大人でさえも包み込むような

神がかった子供が増加しているように思う。

あれ以来、そんな子供に遭遇する機会が多いのだ。

人類のため、いずこから遣わされるのか

あるいは私が老化して、子供がことさら珍しく高貴に思えるのか

真偽のほどは不明である。

けれども「私は私」に到達したほうびととらえた方が楽しいので

前者の「人類のため」にしておきたい。

《完》
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私は私なのか?・4

2018年10月24日 10時36分31秒 | 前向き論
義父の会社の負債問題は日増しに深刻化していたが

じきに今の本社との合併話が進み始める。

以後、銀行との接触は本社が担当したため

解放された我々は、義父の会社を閉じる作業に取り掛かった。


この過程で、一つの現実に突き当たった。

義姉に関することだ。


30年余りに渡って、父親の会社の金庫番を続けた義姉は

会社の危機を察知した途端に転職していた。

私より4才年上の彼女は、当時50代半ばだったので

仕事を選んではいられない。

急場しのぎの転職先は、老人ホームの給食調理員だった。

親の会社で好き放題の年月を過ごした彼女にとって

この就職は妥協以外のなにものでもないが

危ない会社の経理責任者でいるよりマシだったらしい。


危なくなったら責任回避のため、脱兎のごとく逃げる確信は

昔から持っていたので驚きはしないが

「商業大学で経営を学んだ経理のプロ」

「几帳面で責任感が強い、優秀な娘」

両親はそう公言して彼女を自慢にしてきたため

私も長年、そう思い込んでいた。

毎日の里帰りは腹が立つけど、ひどく頭がいいそうだから

私が代われるものでもなし、我慢するしかないんだと

自分に言い聞かせていたのだ。


しかし、廃業のために行う種々の名義変更や

各方面に提出する書類の作成で

義姉が途中で放り投げた仕事の残骸にたびたび遭遇。

シロウトの私にもわかるズサンに驚愕した。

それらの残骸を処理しなければ次に進めないため、作業は遅れ

順番が後になるはずだった新会社の設立が、先に終わってしまった。


「プロ」「几帳面」「責任感が強い」「優秀」

義姉についての賛美を鵜呑みにしていた私は

いくら急なこととはいえ、いくら親の欲目とはいえ

義姉がそこまで評価される人物ならば

何らかのケリをつけて去っているはずと踏んでいた。

廃業を甘く見ていたのだ。


作業は難航した。

義父の会社と契約していた税理士が手伝ってくれたが

その彼は、薄笑いを浮かべて言うではないか。

「お宅の場合、僕のやる仕事は税理じゃなくて推理でしたから」


義姉は、両親や本人が言うほど優秀ではなかったらしい‥

この事実は、なかなかの衝撃だった。

口ほどにもなかったことを知ったからではない。

「じゃあ、私の半生は何だったの?」

という衝撃である。

学歴、資格、能力、実家‥私に無いものを常に義姉と比較され

「何も無い嫁だから、働かせるしかない」

「何も無い嫁だから、浮気されるのだ」

そう言われてきた半生だ。


若かった私もまた

「何も無いんだから仕方がない」

そう思った。

何も無いのは、いけないことらしい‥

何も無いのは罪らしい‥

武器を持たずに結婚したのだから、馬鹿にされてもしょうがないのだ‥

日夜、比較されては敗者と決めつけられる悔しさ、情けなさを封じるため

自分に言い聞かせた。


家を出て以来、彼らから遠ざかり、自分もオバさんになったため

厚かましくなって忘れてしまったが

当時は何も無い我が身を恥じ、悔い、嘆きながら

こんな自分でも生きられる道を懸命に模索していたものだ。

一見、ケナゲに見えるこの方針だが

実は彼らの作り上げた幻想に踊らされていたに過ぎなかった。

思い込みとは恐ろしい。


逆だったのだ。

よその娘さんとはどこか異なる義姉の特質は

私だけでなく、両親も感じていたはずである。

会話が続かない、人の目を見ない‥

周りが自然に遠慮し、顔色をうかがい、怖々と接して遠巻きにする‥

得体の知れない何かである。

両親は、義姉の持つこの雰囲気を

「肝が太い」「男に生まれたら天下を取ったはず」

と、やはり賞賛に寄り切っていたが

ナンボ何でも無理があるというものだ。


彼らは娘と私を比較し、娘に軍配を上げることで

安心したかったのではなかろうか。

娘より劣る証として、私に労働を課しているうち

歯止めが効かなくなっていったのではなかろうか。

これも一種、親の愛であろう。


「私は、危うい娘をマトモに見せるためのアイテムだった」

それに気づかないまま、敗者として嘆いていた。

自分に「私は私」という確立した意志があれば

こんな馬鹿馬鹿しいことで泣く年月を送らずに済んだはずである。


「私は私」

人それぞれに与えられた環境があるように、自分にも与えられた環境がある。

時としてその環境は不運に思え、みじめに感じることもある。

しかしそれは自分の乏しい経験と知識で眺めた、ほんの一面に過ぎない。

本当は見落としているものがあったり

本当は別の問題から目をそむけていたり

いずれにしても、いつか必ず過ぎ去るものである。

それらの区別も無しに、ただ嘆き、卑下するのは

自信‥つまり自身を見失う愚行である。


「私は私」。

これは妥協するために言い聞かせる言葉ではなく

物事の正体を見破り、真実を見抜くキーワードである‥

私はそう結論づけたのだった。


《続く》
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私は私なのか?・3

2018年10月18日 14時24分23秒 | 前向き論
悪いヤツにはバチは当たらず、この世を謳歌している‥

もしも先で困ったことになったとしても

思う存分、好き放題をして過ごした日々のオマケみたいなもの‥

自由奔放に生きた満足感を反芻しているうちに

お迎えが来るに違いない‥

その一方で自分のような運の弱い人間は、とことん痛い目に遭う‥

この世は勧善懲悪ではなかったのか‥

神様だか仏様だかが見守って、何とかしてくれると思っていたけど

違うのか‥

この世というのは、マジわからん‥。


私は「この世の実態」という大きな疑問を抱えることになったが

賢くもない頭で少々考えたって、わかるはずがない。

そこで当面、この疑問は棚上げすることにした。

いつか、わかる時が来るかもしれない‥

でもそれは今じゃない‥

それまでの繋ぎがこれ。

「この世がどうであろうと、私は私」。


人は人、自分は自分どころじゃない。

なにしろ相手はこの世。

なんだか気が大きくなったような気がするから、おめでたいものだ。


さて私が家を出て以降、義父の会社は急激に衰えていた。

以前から少しずつ下向きになっていたが

この頃には何をやってもうまくいかなくなった。

勧善懲悪の発動ではなく、単なるジェネレーションギャップ。

コワモテで押し切る昭和のスタイルが

自分の子供より若い相手には通用しなくなったのだ。


一つ狂えば、他の面も狂い始めるもので

義父の体調の方も以前に増して崩れ始めた。

父親に代わって、夫は金策に走り回るようになり

その埋め合わせのつもりか、相変わらず浮気にふけった。

もちろん感じは悪いが、以前ほどの絶望は訪れない。

両親との同居解消によって得た自由が、私に余裕を与えていた。


義父は自分が頭を下げたくないもんだから

病気を理由に夫を人身御供にしているフシがあった。

病気といっても糖尿だ。

絶対安静ではないので動けるし、体調のいい時はゴルフにも行ける。

しかし行きたくない所へ行く時は、病人になりきる。


夫は父親の習性を知り尽くしていた。

いいように利用されているのもわかっていた。

それでも父親をホッとさせたいからやるのだ‥と言った。

大好きなのに振り向いてもらえない父親から

微笑んでもらいたい一心が伝わってきた。

どんな目に遭わされても親を慕う子供‥

その姿は、あわれにいとおしいものだった。


こうして瞬く間に17年が過ぎた。

その間、義父の会社は青息吐息の自転車操業で持ちこたえていたが

とうとう危なくなった。

義父もまた、インスリン注射を打ちながら持ちこたえていたが

とうとう自力では動けなくなり、最期の入院生活に入った。


翌年、義母が胃癌で入院した。

それを機に、我々一家は再び夫の実家で暮らすようになった。

暮らすようになったというより、帰りそびれたというのが正しい。

義父の会社の危うさは、聞きしに勝った。

かかる電話は支払いの催促、届く郵便は請求書ばかり。


30年以上に渡って経理を担当していた義姉はとっくに転職し

会社の事務を執る者はいなくなっていた。

夫は見よう見まねで帳面に取り組んでいたが、未経験ではしょせん無理。

手伝ううちに、帰りそびれたのだった。


銀行の取り立てはいよいよ厳しくなり、回収できないとなると

債権は次々と信用保証協会や、民間の債権回収会社に回された。

これらは銀行より、もっと厳しい。

私はここで初めて、経営者責任の重さを知った。

会社がうまく行っている間は「社長さん」と呼ばれるが

借りたお金を返せなくなったら経営者責任を追求され、責め立てられるのだ。


入院中のため、経営者責任を全うできない父親の身代わりとして

夫はそれらに対応しなければならなかった。

一人で会わせたら個人保証の判を押す懸念があり

夫も心細がるので、たいてい夫婦で行動した。

夫婦連れをうらやんだ若い日もあったが、ハハ‥皮肉なものだ。


本人ではないので、向こうの追求は多少ゆるめだったように思うが

それでも夜逃げや自殺をする経営者の気持ちがわかるような気がした。

社長って大変‥

いい時はいいけど、ひとたび落ち目になったら地獄の扉が開く‥

そこでハッと気がついたことがあった。


私はずっと、両親や義姉にいじめられたと思っていた。

特に会社のことになると、彼らは異様なほど神経質になり

私を警戒かつ疎外するのが常識であった。

役員の一人として、私も書類に名を連ねてはいたものの

それは申請のためであり、完全な幽霊メンバー。

両親と義姉と夫の4人だけが遊び暮らし、欲しい物を買い

贅沢の恩恵を受けているように見えたし、実際そうであった。


同居が始まった日、義父が最初に何をしたかというと

金庫が置いてある部屋のドアノブに、スイス土産のカウベルを掛けた。

牛の首に掛ける大きめの鈴である。

「他人と暮らすんだからな!」

義父はそう言った。

私が金庫部屋に出入りすると、鈴が鳴り響いてわかるという仕掛けだった。


こんなのはほんの一例で、私は逐一疎外されてきたし

彼らも私を疎外することで、血の結束に酔っていた。

けれどもそれが、私を守ったのではないか。

もしも可愛がってもらっていたら、親孝行の真似事がしたくなり

個人保証の一つや二つ、進んでやっていたかもしれない。

辛くあたられ、疎外されることで

責任とは無関係の圏外に置かれたのは確かだ。

彼らが億単位の負債に苦しんでいても、どこ吹く風。


その気楽は、ひょっとして幸運というものだったのか。

「何がどうなるやら、わからない‥」

おぼろげながら、この世の実態の一端がわかったような気がした。


ちなみに、カウベルのチロリアンテープは丈夫だったらしい。

あれから32年経った今も、変わらず金庫部屋のドアノブにぶら下がっている。

ただし現在、金庫に金目のものは入っていない。

《続く》
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私は私なのか?・2

2018年10月14日 10時25分30秒 | 前向き論
家出に踏み切った原因は

夫が自分の愛人を会社に入れたことにある。

35才の時だった。


しかし、それ自体に腹を立てたわけではない。

社長である義父を始め、給料だけ受け取る幽霊取締役の義母も

会社の経理を担当する義姉も‥

つまり私以外の者は皆、このことを知っていた。

確信犯である。

秘密にしたまま何食わぬ顔をして、私を相変わらず奴隷のように働かせた。

それにブチ切れたのだ。

家事労働が尋常の範囲内であれば、ここまで腹を立てることはなかった。


たかが家事じゃないか‥そう思うかもしれない。

しかしうちは両親、我々一家4人、義姉母子で合計8人の大所帯。

家政婦のいる家で育った要領の悪い私が、これを切り盛りするのは骨が折れた。

料理や洗濯の量が多いだけならまだしも

庭仕事に大工仕事、使い走りや運転手も受け持つ。

寮や民宿なら昼間は誰もいないだろうが

家には常に複数の人間が居て、細やかな接待を要求する。

そこへ親戚や物売りまで混ざり、お茶よお菓子よ食事よと息つく暇が無かった。


そもそも私が納得できないのは、義姉母子が毎日実家に滞在することだ。

早朝やって来て、彼女の子供が学校から帰る時間に迎えに行き

再び実家へ連れ戻って夜まで逗留、毎週金曜から日曜までは母子で泊まる。

ここに私は、自分の働く意味をどうしても見出せなかった。

この2人だけでも減ってくれれば、どんなに違うだろうと何度思ったかしれない。


これがおとなしいなら我慢もできようが、トラブルメーカーときた。

自分の子供とうちの子供の違いを両親にアピールしつつ

子守りは私にさせる。

掃除の仕方や献立にも口を出すので、うるさいったらありゃしない。

干してある子供靴の汚れがちゃんと取れてないだの

ここが散らかっているだの、つまらぬ落ち度を探しては

無邪気ぶって父親に言いつけ、遠隔操作で雷を落とさせてフフンと笑う。


弟である夫にも、仕事の方面で毎日のように同じことをする。

気の弱い夫は、悔しがってよく泣いていた。

これで家族仲良く、夫婦和合なんて無理だ。


あんまりタチが悪いので、義姉の里帰りを快く思っていないことを

両親に話したことがある。

はい、炎上。

腐っているだの、恐ろしい根性だのと激しくののしられ

私は逆賊となった。


密かに後ろめたく思っていることを他人から指摘されると

人は逆上するものなのだ。

若かった私には、それがまだわからなかった。

この一件は、彼らに懲らしめの理由を与えたに過ぎず

奴隷暮らしはさらに重篤化した。


不平不満を言わない、思わない‥誰でも知っていることだと思うが

これで不平不満の無い人がいたら、私は申し上げたい。

「あなたは神か仏です。

お迎えが早いから気をつけた方がいいですよ」


ともあれ私は、愛人の入社という絶好の機会を得た。

前々から漠然と、出て行きたいと思っていたが

これなら誰が聞いても納得する、家出にふさわしい理由じゃないのか。

道徳心だの人の道だのに制されていたピストルが

引き金を手に入れたようなものである。


いそいそと家出しようと思ったら、先に夫が駆け落ちしたり

義母の大腸癌が発覚し、入院手術があったりで

決行は1年後になったが、とにかく家を出ることができた。

これが無ければ、地獄はまだ続いていたはずだ。

義父は息子の家出や妻の大病で弱気になり

多少おとなしくなっていたが、そんなことではもう揺らがなかった。


のこのこ入社してきたあの未亡人に、今は礼を言いたい。

彼女の打算や厚かましさのお陰で、地獄から抜け出すことができた。

誰が恩人になるか、わからないものだ。


親子3人で暮らすつもりで一緒に連れて出た子供たちは

追いかけて来た夫に連れ戻されたが、私は出奔先の九州に残った。

「今、謝って帰れば許す」

私たち母子を迎えに来た夫に、両親がその伝言を託したからだ。

どこまでも高飛車な態度が気に入らなかった。

それをのうのうと伝える夫も気に入らなかった。


が、なんだかんだで翌年には帰って来て

今度は両親と別に核家族で暮らすようになった。

物価が安く人情の厚い九州で、どうにか生活できそうだったが

子供を呼んでも来そうにないからだ。


当時の夫は子供たちより強く、私の帰還を熱望した。

週末には九州へ通い、涙ながらに説得するようになったが

冷めきった私はほだされない。

逃げれば追うのが人の常とはいうものの、夫はひとでなしだ。

人だと思ったらケガをするのは、すでに熟知していた。


私は大いにいぶかしんだが、帰ってからわかった。

夫の携帯電話から漏れ聞こえる声によると

彼は付き合いの続いていた例の未亡人御一行様‥

つまり本人とその母親、妹の3人から

結婚か慰謝料の二者択一を迫られていた。

執拗な脅迫から抜け出すには、妻の帰還が最善策というわけ。


こういう男にバチが当たらないこの世を

私はもう信用しなくなっていた。

私が思っているこの世と、本当のこの世は違うらしい‥

家を出たことで、それを知ったように思う。

「この世がどうであろうと、私は私」

ここで初めて、そう思うようになった。

あの家出は、私が私自身を取り戻すための旅だったようだ。

《続く》
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私は私なのか?・1

2018年10月12日 09時18分27秒 | 前向き論
全記事のコメント欄で、くぢらさん、いかどんぶりさんと

『私は私』について話し合った。

他人と自分を比較せず、うらやまず、焦らず

『人は人、自分は自分』と割り切る考えのことだ。


私にとってこれは、長年のテーマだった。

自身の結婚生活が「比較、羨望、焦り」の3点セットに

さいなまれ続けていたからだ。

私のような凡人が浮気三昧の夫を持つと、どうしてもそうなってしまう。

結婚6年目に夫の両親と同居を始めて以降

夫の浮気はますますひどくなり

比較、羨望、焦り‥私の3点セットも強くなっていった。


家族旅行と聞けば密かにうらやみ

それに引き換えうちは‥と視線を落とす。

夫が行くのは、愛人の同伴旅行だけだ。


よそのご主人が家事や育児に協力する様子を見ては

やはり密かにうらやみ、それに引き換えうちは‥。

外泊でなければ季節のイベント、駆け落ちで

そもそも家にいないのだから家事や育メンどころではない。


町を歩く見ず知らずの夫婦連れすら、うらやみの対象となった。

一緒に練り歩きたいわけではないが

夫婦関係を公にしてはばからない堂々としたそぶりがまぶしくて

目が痛いじゃないか。


というのも、夫の愛人は近場の住民が多い。

その愛人には「離婚間近」と伝えるのが常なので

一緒に居る所を本人、あるいはゆかりの者に見られると

大変都合が悪いらしかった。


愛人というのは、ものすごく疑り深くて嫉妬深いと決まっている。

愛人になったから、疑り深くて嫉妬深い人間になるのではない。

元々疑り深くて嫉妬深いので、愛人をやるしかないのだ。

疑り深くて嫉妬深い女は、マトモな男から相手にされない。

だから他人のものに手を出すしかないのだ。

浮気者の妻を続けて三十有余年、これは間違いない。


この疑り深くて嫉妬深い女を鎮める作業は

口の重たい夫にとって至難の技。

よって厄介を未然に防ぐため

夫婦で人目につくことを全力で避けていた。

妻と愛人、どっちが日陰かわからない。


こうなると、憎いはずの愛人すらうらやましい。

なにしろアレらが対応するのは夫のみ。

その親に仕える必要は無い。

朝から晩まで奴隷のように働き、罵倒される憂き目に遭わなくていいのだ。

これがうらやましくないわけがない。


長い間、この本末転倒が我々夫婦の形であった。

その間、私はたびたび自分に言い聞かせた。

「人は人、私は私」

他人をうらやんでも仕方がない‥

自分に与えられた人生を歩むしかないのだと。


しかしそれは、何の薬にもならなかった。

これが自分に与えられた人生だとすれば、あんまりではないか。

厳しい日々の中、ひたすら生きるために

自分が納得できる言葉をあれこれ探していた半生だったが

少なくとも「私は私」の方針はマッチしなかった。

だからこの言葉には、背を向けた。

背を向けながらも、いつかこう言える日がくるのだろうかと

気にはなっていた。


気がつけば私以外の人、みんなが輝いて見えるようになっていた。

よそ様の美貌や経済力どころじゃない。

そもそも家に帰って玄関のドアを開ける時

ドキドキすることが無さそう‥

そこからして、輝いて見える。

自分が留守の間に練られた、懲らしめのメニューは何だろう‥

そう案ずることも、おそらく無いと思う。

そこも、ひどくうらやましい。

親にとって、息子が愛さない嫁の使い道は労働しかないのだ。


働かなければならないので、子供の教育は二の次。

塾や習い事は、たいてい夕方と決まっている。

しかし両親は、この夕方に家を空けることが気に入らない。

子供にかまけて労働の手を休めることが

彼らにとっては許せない反抗だった。


4時に夕食の支度を開始しなければ義母が騒ぎ出し

6時に食べ始めなければ義父が暴れる。

どのような状態かといえば

義母は自分の親戚や友人、たまに私の実家‥

あちこちに嫁の怠慢を訴えて電話をかける。

最後は仲良しの料理屋。

「嫁が晩の支度をしてくれないので、主人と私の二人分お願いします」

それを私に取りに行かせるのが恒例のペナルティー。

義父の方は罵詈雑言を吐きながら

食器棚の引き出しの中身をぶちまけるのがお決まりのコース。


のこのこ料理屋へ行き、そこで嫌味を言われるのも

大音響でぶちまけられたナイフやフォークを拾うのも情けないが

第一、無駄な時間がかかる。

これを回避するには、時間厳守しかない。

何年も夕日を見たことが無かった。


これでも「私は私」と言える人がいたら、たいしたものだと思う。

それはもう、菩薩の境地だ。

菩薩になって、早くあの世へ行くに違いない。


菩薩路線もいいかもしれないが

私は母親を早くに亡くしているので

遺された子供がどれほど惨めなものか知っている。

夫の両親と同居を始めて10年目、私は子供たちを連れて家を出た。

凡人が生き延びるためには、この方法しか見当たらなかった。

《続く》
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イタリアン突破

2018年10月07日 09時41分41秒 | みりこんぐらし
課長さん、マロンさん、フーフーしてくださってありがとうございました。

いかどんぶりさん、期待して応援してくださり、ありがとうございました。

このブログに立ち寄ってくださるかたがたも

応援してくださったことと思います。

ありがとうございました。

お陰をもちまして台風がコースを変え

無事にイタリアンの女子会を突破することができました。


突破なんて大袈裟かもしれないけど、このイタリアン行きは本当に

幹事の私にとって呪縛でした。

同級生女子の5人で結成している通称『5人会』は

とにかくイタリアンを敢行しなければ

それからのことは考えられないような雰囲気だったのです。


前回の記事『三度目の正直』でも触れましたが

最初にした予約は店からキャンセルされました。

次は豪雨でこちらがキャンセル。

私のような商売人は、一度ならず二度までこうなったら

「縁が無い」と判断して見限ります。

「先はどうあれ、今は近づかない方がいい」

そういうことだからです。


とあるやんごとなきお嬢さんの婚約話みたいに

次から次へとスキャンダルが出てきて延期‥

なんてのは、そもそも縁が無いからです。

無い縁を無理に繋ごうとすると

歓迎したくないことがあれこれ起きるものです。

無理をして繋ぐことができたとしても

さらに色々なことが起きて、結局うまくいきません。

縁があれば、トントン拍子にコトが運びます。

周りの人々だけでなく、社会情勢や天気までが味方をしてくれます。


私はこのスタンスでしたが、あとの4人はイタリアンにこだわっていました。

私がイケメンシェフと口走ったからです。

皆、見たがって、イタリアン以外の選択肢が無くなりました。

田舎には、イケメンシェフなんて生物はいないからです。


けれども縁の無さは、存分に発揮されました。

メンバーの中で一番多忙なユリちゃんではありますが

その日程が合わないところ一つ取っても、縁の無さは如実です。

とどめは、けいちゃんがミゾに落ちて捻挫。

さらなる日延べを経て、4月から待つこと半年

5人会はやっと開催の運びとなったのです。


この夜の主な議題は、来年2月の還暦旅行。

同級生で行く一泊旅行ですが、これにユリちゃんが難色を示していました。

なぜならユリちゃんは、バスに酔うからです。

小学校から高校まで、遠足や修学旅行ではいつも吐いていました。


彼女は新幹線が走っていて現地集合できる行き先が希望でしたが

肝心の最終決定の日に参加できず、城崎温泉に決まってしまいました。

「楽しんで来て」

ユリちゃんは言いますが、5人会としては

彼女を置いて行くなど考えられないことです。


私は夫に頼みました。

「ユリちゃんと私を車で送迎して」

「ええで〜」

夫はいったん快く承諾しましたが、後になって言いました。

「待てよ?雪が降っとるんじゃないんか」

「多分ね。真冬じゃもん」

「雪道は無理。

ワシら、温暖地の生まれじゃないか。

お前だけならゴメンで済むけど、ユリちゃんまで責任は持てん」

それもそうだと思い、夫による送迎案はボツ。


次に考えたのが、鉄道案。

姫路駅まで新幹線で行き、そこから“特急はまかぜ”という電車に乗れば

直行で行けるようです。


このことをユリちゃんに話していたら

あとの3人も一緒にそうしたいと言い出しました。

特にけいちゃんは真剣です。

「子供の頃のトラウマ」

本人はそう表現するのですが、苦手な女子が何人か来るので

それが心に引っかかり、同じバスで席が選べないとなると

不安でならないと言うのです。


しかし5人が観光バスから抜けると、目立ちます。

これじゃあ、仲良しだけで同じ部屋に泊まりたいとほざいて一同に軽蔑された

万年乙女の4人組と同じではありませんか。

「あっちが4人組なら、こっちは5人組じゃ!」

けいちゃんは勢いづいています。

けいちゃんの言う苦手な女子とは、この4人組のことなのでした。


私はワインでほろ酔だったのも手伝い

会長に相談してみると言ってしまいました。

要望が通るか否かはわかりませんが、すごく怒られるのは確実です。


唯一の希望は、ユリちゃんが昔と変わらず

男子のマドンナ的存在であること。

それは単なる人気者という生易しさではなく、信仰に近いものです。

そのユリちゃんが望むのあれば、許される可能性がなきにしもあらず。


今回の還暦旅行も、バスの移動がネックになっているユリちゃんだけは

出欠の返事が保留のままです。

我々のようなその他多勢が

「ちょっと考えさせてね」なんて、もったいぶろうものなら

「来んでええ!」と言われるでしょう。

ユリちゃんだけは別格なのです。


交通手段を熱心に話し合うあまり、料理の方はほとんど印象に残っていません。

ホタテのカルパッチョや生ハム、レバーペーストにピザなど

初心者向けのコースでしたが、ステーキがおいしかったように思います。

イタリアン、イタリアンと気取れども、私はしょせん田舎のおばさん。

ステーキだけが普通の味だったからです。


そうそう、話題のイケメンシェフ。

相変わらず優しい言葉と物腰で感じが良かったですが

前に見た時と違い、外見は普通のお兄さんになっていました。

食べ物のお店をやるって、やっぱり大変なのかしら。


さて次の女子会は、わずか2週間後と決まりました。

皆、半年のブランクを取り戻す所存らしいです。

今度は別の店なので、何だかホッとしています。

取り急ぎ、フーフーと応援のお礼でした。

ありがとうございました。
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三度目の正直

2018年10月03日 09時30分55秒 | みりこんぐらし
今週6日は、同級生の女子5人で結成している『5人会』の会合。

何ヵ月ぶりだろうか。

本当にひっさびさ。


以前はほぼ毎月、集まっていた。

けれども今年に入って、お寺の嫁ユリちゃんが忙しくなった。

行事を手伝ってくれる檀家さんが、加齢で激減したため。


ユリちゃんの住まいは遠いので

5人会の時は実家に泊りがけで来る。

泊まらなければ飲めないというのもある。

しかし多忙のため、この一泊二日が難しくなってきたのだ。


5人会のオキテはただ一つ。

「全員が揃わなければ開催しない」。

よってユリちゃんのスケジュールに合わせ

さらにけいちゃんの不規則な勤務の合間を縫い

欲を言えば、あとの3人に都合のいい土曜日を選んでいると

間遠になるのは必然であった。


4月、ユリちゃんは春のお彼岸が終わって

ほんの数日、体が空いた。

そこで5人会は集まることになっていた。

皆の強い要望により、夫を介してイタリアンを予約。


ところが一週間前に、店の方から断られた。

以前記事にしたが、同じ日に15人の宴会が入り

とても回せないという理由である。

我ら5人のおばさんは、見捨てられたのだ。


開店して日の浅い初心者マークはわかるけど、この甘さには腹が立った。

二度と行くものかと決意し、別の店を予約しようとした。

けれどもあとの4人が

「どうしてもイタリアンがいい」と主張したため

4月の5人会は見送られた。

シェフがイケメンだと教えたのが、いけなかったらしい。


4月を逃すと、再びユリちゃんの体が空かなくなった。

そして6月、ユリちゃんから連絡があった。

7月7日なら行けると言う。

「ぜひイタリアン」

ユリちゃんも、他の者も強く希望する。


私はここで初めて、4月に断られた本当の理由を

ラインにて説明した。

「だから、もう行くつもりはない」


ところがだ。

「そうなんだ〜!絵文字、絵文字、絵文字」

「ドンマイ!絵文字、絵文字、絵文字」

「いつもありがとう!絵文字、絵文字、絵文字」

「じゃ、予約お願いね!絵文字、絵文字、絵文字」

‥聞き流されとるし。


やっぱりシェフがイケメンと言ったのは間違いだった。

私のささやかなプライドなんて、このおばさんたちには無関係なのだ。

怒りを抑え、再び夫に予約させる。

「懲りんのぅ!」

夫はあきれつつ、予約をしに店へ行ってくれた。

彼の中で5人会は「バカ集団」に成り下がった。

無念じゃ。


そして7月。

女子会の前日は、西日本豪雨。

道路が寸断され、ユリちゃんはもちろん

隣の市に住むマミちゃんも来られなくなった。

さらにモンちゃんの家はプチ浸水

けいちゃんのお父さんは避難所へ泊まることになり

女子会どころではない。

あえなくキャンセルの運びとなった。


「ほらごらん!イタリアンには縁が無いんよ!」

しばらく経って落ち着いた頃、私は得意げにライン。

ところがだ。

「次はいつにする?絵文字、絵文字、絵文字」

「色々あっただけに楽しみ!絵文字、絵文字、絵文字」

「三度目の正直じゃね!絵文字、絵文字、絵文字」

「連絡待ってまーす!絵文字、絵文字、絵文字」

ガックリ。


それからしばらく、女子会には触れなかった。

しかしあとの4人は盛り上がったままで

イタリアン行きはもはや「三度目の正直」という別名になっている。


ユリちゃん、次は10月6日が空いたと言う。

「みりこんちゃん、予約お願いね!絵文字、絵文字、絵文字」

「ワクワクするー!絵文字、絵文字、絵文字」

「嬉しい!絵文字、絵文字、絵文字」

「三度目の正直は、絶対大丈夫!絵文字、絵文字、絵文字」

ドヨ〜ン。


「バカ集団には付き合いきれん!自分でやり!」

夫が介入を拒んだので、自分で予約した。

もうすぐその日が来る。

が、台風も来ている。

どうなるのか、もはや心配というより笑える。
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