殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

行いと運命・9

2019年11月29日 09時37分16秒 | 前向き論
C社が工場を牛耳るようになって25年。


工場は全国にある関連企業の中で


連続ワースト・ワンの営業成績を誇るようになった。


こういうことは一般に公表されないが


義父は地主という立場に加え、かなりの株を保有していたため


文書で、あるいは企業の人の口から


情報が入りやすい面があった。



輝かしい成績は、当然である。


次々と交代する工場長は、東京本社から来る窓際さん。


着任するとC氏に小遣いを渡され


時に恫喝、時に仏壇参りで締め上げられながら


定年までの数年をC社の犬として過ごすのが


慣例になっているのだ。



無事に定年退職を迎えることが最大の目標なので


業績アップどころの騒ぎではない。


工場で働く人たちも、ほぼ同じ状態。


給料が東京レベルだから、我慢もできるというものだ。



C社の栄華はこのまま続くと、誰もが思っていた。


C社の勢いは、それほどすごかった。


もちろん、我々も続くと思っていた。


世の中って、そういうもんよね‥と。



ところがある日‥


E氏と見た霊園の夢が終わり


義父に最期の入院が迫っていた頃のことである。


企業の東京本社から連絡があった。


「工場を閉鎖することになりました」



万年ワースト・ワンの業績もさることながら


企業側にとって最も大きな問題は


急に厳しくなった暴力団排除条例だった。


野良犬のごとき振る舞いで会社の品位をおとしめ


いけないおクスリの噂も絶えない


C社のような暴力団関係者と取引きをすることが


上場企業にとって命取りになる時代になったのだ。



排除のために月日と努力を重ねるより


閉鎖して撤退する方が簡単‥


本社はそう結論を出した。


ついては誘致の際に交わした契約にのっとり


義父が所有する工場の土地を全部買い取りたいというのが


企業側の要望である。



土地についての契約は、大まかに言うと3つあった。


まず、義父が工場を誘致した時に買った土地の半分は


稼働が開始されてから3年後


企業側が倍額で買い戻すというもの。


よって、義父が工場の土地を買うためにした借金は


その時チャラになっている。



この契約が無ければ、C社に仕事を奪われた時点で


義父の会社は土地の借金によって潰れていただろう。


また、C社に仕事を奪われた義父が悠長でいられたのは


土地の借金が消えた安堵感が


危機感を上回っていたからだった。



それから2番目の契約だが


半分こにする土地は、企業側が工場の建つ奥の方


義父は一般道に繋がる進入路を含む前の方というもの。


バブルの終末期だったのもあろうが


全国展開を進める企業は


現地の地主を大事にする風潮があった。


今では考えられない大サービスの契約である。


これによって義父は


土地のキモである進入路を所有し続けることができた。



C社にその道路を使い続けられる義父の歯がゆさは


察するに余りある。


しかし、この道路を持っていたおかげで


C社は義父の会社の社員にだけは手出しをしなかった。


社員は守られたのだ。



そして3つ目が、これ。


「工場を閉鎖する場合、義父の所有する半分の土地は


購入時と同額で企業側が買い取る」


この契約が実行されることは、まず無いと思っていた。


しかしついに、その時がやって来たのだ。


まさか工場がC社を置き去りにして逃亡するなんて


考えてもみなかった。


置き去りって、鬼畜の親がやるものだと思っていたが


会社もやるらしい。



土地売買の手続きは、病人の義父に代わって夫が代行した。


「くれぐれも内密に」


企業側は何度も念を押したという。


C社に知られたら、どんな行動に出るかわからないからだ。


C社に伝わる恐れがあるため


工場にもギリギリまで知らされなかった。



こうして売買は秘密裏に行われ


義父の口座には大金が振り込まれた。


しかし、義父には霊園につぎ込んだ借金がある。


その借金と利息のために


事業資金が回らなくなって借り入れた借金もある。


これらによって、全額を銀行に押さえられたので


義父には1円も入らず、残念そうだった。



一方、我々夫婦は、義父のやらかした借金が多少減って


ホッとした。


義父の会社は、もう持たないとわかっていた。


倒産に備え、できるだけ身軽になっておきたいという


最大の望みも叶えられて満足だった。


また、図らずもこの望みが叶ったことで


この先に、倒産ではない何かが待っているような気がしたのも


確かである。




それから半年後、C社は初めて閉鎖を知らされる。


そりゃ驚いて、ひと騒ぎあったようだ。


しかし企業側も工場も、すでに人事その他の準備を終えていた。


工場はあれよあれよという間に解体され、さら地になった。



突然ドル箱を失ったC社だが、当面は威勢が良かった。


工場が逃げたので仕事が無くなった‥


なんて言ってはいられない。


毎月、組に納める上納金は


仕事が減っても負けてはもらえないのだ。



C社は急いで次のターゲットを探さなければならなかったが


このご時世だ。


工場のようなおいしい獲物は、なかなか見つからない。


さらに問題が‥。


一般道に繋がる進入路だ。


義父の持ち物だった時は自由に使っていたものの


次の持ち主は、C社にとっては東京の知らない会社。


封鎖されたり、脅しのきかない相手に転売されたら


仕事はおろか家にも帰れなくなる。



ここで企業側は、C社に買い取りを持ちかけた。


「進入路を買いませんか?工場の跡地も付けます」


C社は買い取るしかなかった。


大型車両が通ってもビクともしない道路を作るのは


ものすごくお金がかかる上に


土地の構造上、新たな進入路を作るのは不可能だからだ。



企業側は、義父から買い取った金額とほぼ同額で


C社に進入路とさら地を売った。


つまり道路をエサにして、お荷物になるはずだった工場の跡地を


損益無しで処分したのだった。


このあたり、見事と言うしかない。


C社は今、土地を買った借入金の返済が大変らしい。


《続く》
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行いと運命・8

2019年11月25日 14時03分08秒 | 前向き論
義父母とは、生涯二度と関わらない‥


そう心に決めて家を出た私は


夫と子供たちとの自由な暮らしを満喫していたが


数年後には両親と行き来するようになった。


夫が耳の手術をすることになり


誓約書や保証人の署名捺印をする段階で


義母が接触を求めたことがきっかけだった。



義母は相変わらずだが、義父の方はすっかりおとなしくなり


私にかなり遠慮しているように感じた。


嫁の家出がよっぽどこたえたのか


あるいは加齢と病気と会社の経営不振で心身が弱ってきて


大きな声が出せなくなっただけなのかは不明だ。




この頃も、マンモス霊園の夢は続いていた。


そう、これはもはや仕事ではない。


夢なのだ。


今までにつぎ込んだ金を諦めきれない義父と


金を引き出すのがうまいE氏とで見る夢なのだ。



出資金の借り入れと、その利息によって


義父の会社は衰える一方だったが


義父はE氏を信じ続けた。


その根拠は、E氏が義父の金で贅沢をする様子が


全く無いというものだった。



住まいは親から引き継いだ豪邸だが


高級品を身に付けるでもなく、古い車に乗り続けるE氏。


義父がだまされたのは、そこだった。


彼の観察眼は、鋭いほうだ。


しかし人の心には興味が無いため


外観だけで全てを把握した気になり


人の胸の内を知ろうとしない。


そもそも嫁いびりがライフワークだった男に


人の内面や実情がわかるわけはないのだ。



また、E氏は頃合いを見計らって


霊園の予定地に看板を立てたりもした。


こういうソツの無さが、彼にはあった。


現地でそれを見せられた義父は


いよいよだと喜んでいたものである。



かなり後になって、我々夫婦も見に行った。


7〜8メートルはある大きな看板で


絵画のように美しい霊園の完成図を背景に


霊園の名前、それから義父とE氏で作った会社の名前と


電話番号が描いてあった。



「この看板も、オヤジから引き出した金で作ったに違いない」


「人をだますって、大変なんじゃね」


夫婦でそう話したが、義父を止めることはしなかった。


止められないのだ。


誰かを信じたら一直線、誰にも止めることはできない。



そう言ったら聞こえはいいが、これは悪癖である。


人を見る目が無いという悪癖だ。


怪しげな相手ほど強く惹かれ、身も心も捧げて尽くす。


それを止められると、ますます入れ込んで手がつけられなくなる。


浮気の時も全く同じ展開だ。


この悪癖は遺伝するらしく、我が夫も同じパターンを繰り返している。




そうこうしているうちに


霊園と幼稚園を一緒にやるはずだった僧侶が亡くなった。


準備期間が長過ぎたので、年を取ってしまったのだ。



霊園の計画は頓挫するかに見えたが、E氏はものともしない。


申請を一からやり直すということで


またもや出資金の増額をねだるのだった。


が、その頃の義父は、すでに後期高齢者。


しかも病人だ。


金を貸す銀行は無かった。



金が出ないことを知ると、E氏はパタリと寄り付かなくなった。


義父のほうも病気が重くなり、霊園の造成どころか


自分が霊園に入りそうな状況なので、儲け話は自然に立ち消えた。


25年に渡って見続けた夢の終結は、静かなものだった。



失意の義父は最期の入院をすることになった。


晩年の5年弱を病院のベッドで過ごすが


親友のはずのE氏が見舞うことは無かった。



E氏に流れた金は、軽く1億を超えていた。


この金の使い道は、彼一家の生活費だと思われる。


なぜなら8年くらい前だと思うが


E氏の自宅が競売にかかっていることを知ったからだ。


彼も大変だったのだ。


1億も、家族5人が25年で使えばつつましい生活費。


おしゃれや新車どころではなかっただろう。



この頃にはすでに、E氏と義父で作った霊園用の会社は


義父に内緒で閉じていたと思われる。


会社が無くなれば、出資金は戻らない。


義父に残されたのは、借金だけである。




E氏は義父の見舞いには来なかったが、葬式には来た。


普通なら顔を出しにくい所へ、平然と行ける‥


それが天性の詐欺師というものだ。


彼に巻き上げられた金のうち


義父が回収できたのは、香典の1万円のみであった。


E氏は今も元気だ。




さて、義父が町外れに土地を買って誘致した工場を


ご記憶だろうか。


誘致後は、地主としてトップの取引先になり


優遇されるはずだった。


しかし工場長の新築祝いに小汚い壷を贈ったため


現金を贈った同業者のC氏に仕事をかっさらわれた件である。



C氏の経営するC社は、長らく順調だった。


車両は次々に増え、いつも忙しそうだ。


給料がいいのと、新車に乗れるという理由で


義父の会社を辞めてC社へ転職する者も何人かいた。



C氏は、後継者である若い息子と非常に仲が良かった。


気に入らないことを見つけて事務所に怒鳴り込むのも


気に入らない社員をエアガンで狙うのも


いつも父子一緒。


ここに時折、企業舎弟として所属する組の人が加わった。


工場はC氏父子に牛耳られたまま、25年の歳月が流れた。


《続く》
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行いと運命・7

2019年11月22日 07時41分31秒 | 前向き論
マンモス霊園は、すぐにでも着工しそうな勢いだった。


霊園に必要なお寺と僧侶は義父が探し


その僧侶の希望で霊園の敷地内に


仏教系の幼稚園を開設することも決まった。



霊園や幼稚園を造るとなると、煩雑な認可申請が必要になる。


これらは元議員のE氏が、昔取った杵柄で引き受け


義父は金の工面を引き受けた。



金の工面といっても


大口の仕事を失ったばかりの義父に余裕があるはずもなく


銀行から借金を重ねては


出資の増額という形で金をつぎ込んだ。


また銀行も、E氏の作成した事業計画書が良かったのか


いくらでも金を貸した。



こうして2年が経った。


着工はまだだ。


来月には、いや再来週には‥という所まで来ると


認可の遅れや、東京だか大阪だかの大口出資者の急死で


あてが外れたことなどを理由に日延べとなる。


義父はそのたびに金を借り、出資を増額した。



我々夫婦は、すでにE氏を怪しんでいた。


金を借りてまでつぎ込むのは義父ばかりで


E氏は一銭も出してないからだ。


いや、一銭も出してないというのは言い過ぎかもしれない。


義父が出資の増額をするたびに


それはそれは立派な証書が増えていった。


この証書の印刷代はE氏持ちである。



仕事はいっこうに開始しない‥


出資のために借りた金の利息はかさむ‥


義父の焦りは募っていった。


加えて持病の糖尿病は悪化の一途をたどり


入退院を繰り返すようにもなった。



焦りと血糖値の作用で、義父は私に対し


ますます意地悪になっていった。


どうやって傷つけてやろうかと狙っているのが


同じ屋根の下でひしひしとわかった。



そんなある日、私は両親と義姉が座る部屋に呼ばれる。


ここへ招き入れられる時はロクなことがない‥


壷事件で学習した私は身構えるのだった。



部屋へ入った私に、義母はデパートの商品券を突き出した。


裸の商品券は、3万円分。


くれるのかと思ったら、違った。


何かの集まりで賞品が必要になり


会長の義父は商品券を出す担当になったという。



町内にあるデパートの出張所へ行き


もらい物の商品券を新しく包み変えてもらって来い‥


それが彼らの要望。


中元歳暮やゴルフの景品でよくもらう商品券は


今まで義母が自由に使っていたが


今回、賞品に使い回すことを思いついたようだ。



この発案は彼らにとって画期的らしいが


世間には通用しない。


商品券を含む金券にも法律がある。


商品券を販売したデパートが


客の持ち込んだ商品券を包み変えるのは


立派な不正行為だ。


絶対に無理。



それを説明して断ったが、彼らは納得しなかった。


「ただ、包み変えてもらうだけじゃないの。


何がいけないって言うの?」


「こいつは行きとうないだけじゃ!横着モンが!」



こいつら、どんだけアホなんじゃ‥


仮にも社長が、こんなことも知らないなんて‥


私は呆れると同時に


霊園に入れあげて会社の経営状態が悪化し


経費が切迫していることを確信した。


会社経営をしていたら、仕事に関係があろうと無かろうと


このような贈答品は接待交際費として計上できる。


しかし利益が出ていなければ経費で落とせないので


自腹を切るしかない。


それが惜しくて、こんなバカなことを思いついたのだ。



「親の頼みが聞けないの?」


「こげな簡単なことができんのか!」


義父母はなおもわめき立てるが


「じゃあ、もう頼まない!」とは言わない。


どうしても行かせたいらしい。



「簡単なら、お義父さんかお義母さんが行ってください。


お義母さんは出張所、大好きじゃないですか。


お義姉さん、連れて行ってあげたら?」


この騒ぎをニヤニヤしながら眺めている義姉の方を向いて


私は言った。



かわいい娘を引き合いに出されて緊張した義母は


ここでついに本音を漏らす。


「嫌よ!私らに恥をかかせる気?!」



恥ずかしいことだから、他人の私に行かせようとしたのだ。


いくら辛抱したところで、このありさま。


そのうち手が後ろに回るようなことを要求されるかもしれない。


こいつらは危ない‥。



彼らはなおも行けと言い続け


諦めそうにないので、ここは私が折れた。


出張所へ行き、自腹で新しく3万円の商品券を買ったのだ。


それを両親に渡し、最初に渡された商品券は


自分の物にすることにした。


この行為は親切や従順なんかではない。


彼らと家族であろうとした、それまでの自分への


餞別みたいなものである。




買った商品券を渡すと、単純に喜ぶバカ3名。


「本当にできたのね!」


「それみい!行ったらやってくれるんじゃ!


ワシは最初から知っとった!」


次からは自分たちで行くがいい‥


私は密かにほくそ笑んだが、次があったかどうかは


リサーチ不足で確認していない。



この件以降の私は、反抗的になった。


賢くない者に従う恐ろしさを思い知ったし


その賢くない者の経営する会社が


このまま続くとも思えなかった。


彼らの言うままに働いたって、私たちの時代は来ない。


だったら自身の心と身体を守ることに専念して


生き延びるしかないではないか。



我慢して頑張っていたら、いつか幸せになれる‥


何年もかけて膨らみ続けた淡い期待。


私の大部分はその期待で構成されていた。


それが消えた時、彼らを軽蔑の視線で眺めつつ


生返事をするだけの横柄な、本当の私が残った。




さんざんバカにしていた相手から


見下げられるようになると、よくわかるものらしく


彼らは嫁の変化を敏感にキャッチした。


反抗的な嫁を懲らしめるべく、意地悪はさらにひどくなった。



その意地悪の総仕上げとなったのが


夫の愛人を義父の会社に入れたことである。


何のことはない、夫が忘れた弁当を届けたら


以前から付き合っていた愛人が出てきて平然と受け取った。


34才の時だった。



一番悪いのは夫だとわかっている。


誘う方も誘う方だが、のこのこ来る方も来る方だとも思う。


しかし社長の義父が入社を許可し


事務をしていた義姉が各種の手続きをしなければ


彼女の入社は実現しない。


娘とツーツーの義母も、これを黙認したのは明白。


つまり愛人の入社は、家族ぐるみの犯行だった。


反抗的になった私は、家族ぐるみで報復されたのだ。



他人ごとならコントだが、当事者としては頭にくる。


家を出ようと決めた。


その直後、夫は愛人と駆け落ちするわ


義母の大腸癌が発覚するわで


家出は1年余り先延ばしになったが


私が家を出た後も、マンモス霊園の夢は継続した。


《続く》
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行いと運命・6

2019年11月18日 21時11分50秒 | 前向き論
企業と義父、双方の会社が存続する限り


半永久的に続くはずだった大口取引は


C社に奪われて泡と消えた。




最初は自分の娘を守るために執行された


義父のいじめだったが


次は浮気のゴタゴタで当たるようになり


今度は仕事を奪われたイライラを


私にぶつけるようになった。


遊びに夢中で工場長とC氏の計画に気づかず


みすみす利益を失った無念が


そのまま私への口撃に成り代わったのだ。


結局、どうあっても私は彼から罵られる運命らしい。



そのC社は、順調に稼動していた。


なにしろ工場の庭に住んでいるようなものなので


よく見える。


企業舎弟の立場をひけらかして工場を見張り


仕事に口を出して、自分の会社のように運営していた。



だが、強行策だけではない。


工場の主立った人たちへの細やかな接待を始め


盆暮れの小遣いや、お年玉までふるまって


飴と鞭を上手に使い分けた。



反抗すれば、組から怖い人が飛んで来る‥


言うことを聞けば小遣いがもらえる‥


これが工場の人々に定着すると、C氏は次の行動に出る。


「工場の排気で、家族が喘息になった」


と言い出して補償を要求。



工場長は当惑した。


排気を気遣って、人家の無い場所を選んだのに


そこへ自ら引っ越しておきながら


具合が悪くなったと言われても困るというものだ。



そこでC氏は折衷案を提示した。


工場から電力を引いて、C氏の自宅と会社の電気代を


工場持ちにすることや


C社の重機を工場へ貸し出し


毎月レンタル料が入る契約を結ぶことなどで


慰謝料に替えるというものである。



逆らったら怖い人たちが来て困るし


小遣いをもらっていることを本社にバラされたら


もっと困る。


工場長は苦渋の選択で、この要求を呑んだ。


C氏と手を携え、仲良くやって行くはずが


工場長は最初からC氏に操られていたのだった。



C氏は電気料金がタダになり、重機のレンタルも好調。


なにしろ相場の3倍のレンタル料金をふっかけている。


寝ていても毎月入る、安定収入だ。


笑いが止まらないとは、このことだろう。



この時以来、工場長を始めとする工場の上役たちは


C氏の要請で月に何度か、彼の家に呼ばれて


仏壇にお参りするのが恒例となった。


実際にお参りしていた人から聞いたが


工場の排気で喘息にさせてしまったことを


C氏のご先祖様に謝罪するのだそう。



この意味がわかるだろうか。


飲食やゴルフの接待を受け、小遣いをもらい


時に組の人にすごまれて


工場の人たちは言われるままにするしかない。


先祖に謝ったとなると、健康被害を認めたも同じだ。


C氏は被害者としても、強い立場を得たことになる。


お参りの習慣は歴代の上役に引き継がれ、長きに渡って続いた。




さて、今度は義父の方だが


仕事を奪われてほどなく、再び大仕事の話が持ち上がる。


さほど遠くないD市の山中に


マンモス霊園を造成するというものだ。


山を切り崩して造成するとなると、向こう10年は仕事に困らない。


義父は、自身の強運に有頂天だった。




この話を持ち込んだのは、因縁の人物。


一騎打ちの選挙が元で


友人だったB氏から大口の仕事を切られた話をしたが


その時、義父が応援して選挙に負けた元議員E氏である。



現職でありながら新人に敗北した彼は


落選後、返り咲きを狙わず


なんだかよくわからない会社を経営しながら


色々な投資や儲け話に関わって食い繋いでいた。


そしてこのたび、奥さんの実家が所有する山林を


霊園にすることを発案し、出資者を集めていたのである。



その元議員E氏は、義父の親友。


義父はそのためにこの議員を応援して


B社の仕事を失ったのだった。



当時、B氏は仕事を切っただけでなく


義父の会社のメインバンクにも手を回した。


「うちの預金を全部、よその銀行へ移す」


支店長にそう言い渡し


義父の会社との取引を止めるよう迫ったのだ。


義父はこのことを支店長から直接聞かされた。


親切心ではない。


資産家のB氏が預金を引き上げたら、支店長の首が危ないのだ。


つまり支店長は、「もうお宅とは付き合えない」


と言いたいのだった。



うちのような手形商売は、手形という紙切れを


銀行で現金に換えることで成り立っている。


メインバンクが「付き合えない」と言うのは


「今後、手形の換金をしない」と同義語。


すると当然、手形の換金に支障が出る。


換金が遅れたり、換金できなくなると


お金が回らなくなって倒産する。


B氏は仕事を切っただけでなく


義父の再起を封じて、完全に葬るつもりだったのだ。


うなるほどの金持ちにしかできない技だが


これぞ「大人のやり方」というものである。



その時の義父は、さすがに凹んでいた。


しかし数日後には別の銀行が手を差し伸べ


メインバンクをそちらに変えて、ことなきを得た経緯がある。


義父は仕事を切られたことよりも


この件を何より深く、そして長く根に持ち続けていた。



これら苦い経験の原因になった、元議員のE氏が


ボロ儲けを引っさげて再び近づいてきたのだ。


友情のために飲んだ苦杯が、今度は美酒に変わるかもしれない‥


義父がそれに賭ける気持ちは、わかるような気がした。




義父はE氏と、霊園の造成工事を一手に引き受ける契約を交わした。


同時に大口の出資者になり、着工の日を心待ちにしていた。


《続く》
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行いと運命・5

2019年11月15日 11時37分33秒 | 前向き論
壷後‥いや、その後に訪れた数々の出来事は


厳しさにおいても、また意外性においても


まことに容赦無かった。


取引先の工場の隣に出現した家‥


これこそが、壷の報復だったのである。



畑だった場所に家が建ち始めた頃は、誰も気にしていなかった。


道路からよく見えるその家は、大きい建物になりそうだ。


けれども町から外れた山影の、陽当たりが悪い場所だし


工場の排気や騒音は避けられない。


「物好きがいるものだ」


家族や社員を始め、誰もがそう思っていた。



ただ、いぶかしい点が少々。


家は工場と地続きで、塀や囲い、段差など


境い目を表すものが無い。


それは設計の自由かもしれないが、自由でないことが一つ。


その家は、義父の所有する進入路を通らなければ


出入りができない。


他に道路が無いからだ。




現に工場へ出入りする車両と共に


家を建てている建築業者も普通に出入りしている。


つまりその家は、義父の私道を使う前提で設計され


建築されていた。


しかし義父は、何も聞かされてないのだった。



あれよあれよという間に家は完成に近づき


やがて看板が上がった。


そこは、同じ町に住む同業者C氏の


事務所と車庫を兼ねた自宅だった。


C氏は町の中にあった家を売り


工場に隣接する畑を買って、会社ごと移ったのだった。



C氏と義父は昔からの知り合い。


義父より15才ほど年下のC氏が


年上の義父を立てる格好の付き合いで


我々の結婚披露宴にも招待した間柄だ。



同業とはいえ、この2社はライバル関係ではなかった。


C氏の会社は商品を扱っておらず、運送のみに絞った専門業者。


そのため卸業の色が濃い義父の会社とは


きちんと住み分けができていた。


しかし工場ができてからは、メイン業者の義父をサポートする形で


時折C社の車両が工場の仕事に参加するようになっていた。



そのC社が、わざわざ工場の隣へ来た目的はただ一つ。


義父の仕事を狙っているのだ。


そうでなければ、好き好んで空気の悪い不便な所へ


移転するわけがない。



当時40代後半だったC氏は


残りの人生を賭けて勝負に出たのだ。


言い換えれば、工場のもたらす利益が


それほど大きいということである。



けれども、この大胆不敵が


C氏一人の意向で行われるはずは無い。


移転後の仕事の確約が無ければ、住み慣れた家を手放し


新しく家を建てて移り住むような荒技は不可能だ。


工場の最高責任者である工場長が手引きしなければ


この計画は成立しない。



新築祝いに小汚い壷を贈ったことで


工場長はすっかり気を悪くしたのだ。


わざとらしいデパートの包装紙も、怒りを増幅させたに違いない。


工場長の心が義父の排除に向かうのは、自然の成り行きであろう。


私でもそうする。



一方、交際上手で気前のいいC氏は


新築祝いに、そこそこの額の現金を贈ったと思われる。


以前から野心を持ち、ここらでひと旗挙げたいC氏と


工場長の気持ちは一つになった。


原因は、あの壷以外に無かった。



C社が引っ越しを済ませて稼働を始めた途端


義父の会社は暇になった。


仕事の大半が、C社に移ったからである。


そしてC社が忙しい時、工場の配車係から


単発で仕事の要請が来るようになった。


義父の会社とC社は、完全に逆転したのだ。



C社は商品を扱う会社ではないため


当初、商品の納入はかろうじて義父の会社が行っていたが


それもじきにC社がよそから仕入れて


工場へ納入するようになった。


義父の会社は、C社が仕入れられない商品だけを


細々と納入するだけになり、数億の年商を失ったのである。




大金をつぎ込んで土地を買い、企業を誘致したはずが


そこで儲けているのは、よその人‥


あまりにも意外な展開に


家族、特に義父は愕然とするばかりだったが


私は自分の予感が的中して気を良くしていた。


予感が的中したら、おマンマの食い上げに繋がるものの


そんなことは気にならないほど興奮した。


だって、天罰が下る瞬間に立ち会ったのだ。


こんなモン、なかなか見られない。



それに私は、C氏の行動をあっぱれと評価していた。


恥も外聞も気にせず、引越しをしてまで仕事を奪うなんて


なかなかできることではないからだ。


それにこの出来事が無ければ


私は義父の会社を決定的に見限ることはできなかっただろう。


義父の判断力や商才に疑問を持つことも無く


「いずれ来るかもしれない私たちの時代」を半信半疑で夢見ながら


日夜、おびただしい家事労働に励んで心身を壊していたと思う。


その点、目を覚まさせてくれたC氏には、むしろ感謝している。




以後は何かと騒がしかった。


仕事を奪われた社員を始め


義父が落ち目になると困る人がたくさんいたからだ。


私道を我が物顔で使うC社や、企業側の契約違反を掲げて


訴訟を勧める人もいた。


進入路の封鎖を提案する人もいた。


何なら自分が行って、抗議の座り込みをすると言い出す人もいた。



しかし義父は何もしなかった。


面白くないので、以前にも増して浮気とゴルフにのめり込み


喧嘩をする暇が無かったのもあるが


C氏父子が某組の企業舎弟になったのもある。


企業舎弟の道を選んだ理由は明らかではないが


抗議の阻止には有効だろう。


つまり、マジで相手にしたらロクなことにならない。


義父の戦意喪失を促すには十分だった。


《続く》
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行いと運命・4

2019年11月13日 21時23分49秒 | 前向き論
父と子が競って浮気に興じる姿は、噂の的になっていた。


「悪い嫁をもらったせいだ」


義父は世間、そして何より彼自身にそう弁解しつつ


私への攻撃をいっそう強めるのだった。



その頃、企業側に人事異動があった。


用地買収の時から協力し合ってきた工場長が転勤して


東京から新しい工場長がやってきたのである。


新工場長は穏やかな人物で、義父に従順だったため


取引に影響は無いと思われた。



2年余りが、何事もなく過ぎて行った。


義父の会社は変わらず絶好調。


浮気の方も絶好調。


義父が会社に顔を出すことは、ほとんど無くなり


旅行にゴルフに女遊びにと充実した毎日を過ごしていた。


彼はこの頃が、一番幸せだったかもしれない。



新しい工場長は、この町が気に入ったらしい。


住宅街の一角を購入して家を建て、家族を呼び寄せた。


大口取引先の工場長が新築したのだから


義父は当然、お祝いをしなければならない。


義父は義母に命じ、戸棚にしまっていた古い壷を引っ張り出させた。



ここで、私が呼ばれる。


A市への進出を提案したことで義父の怒りを買って以来


私は泥棒呼ばわりされていたので


仕事に関係する事柄は一切シャットアウトだった。


それがなぜ呼ばれたかというと、壷を包装するため。


家族の中でギフトの包装ができるのは、私だけだった。



義母がデパートの外商に頼んで手に入れた包装紙で壷を包み


デパートで買った贈答品を装え‥これが両親の要望。


茶色の不恰好な壷は埃だらけ、蜘蛛の巣だらけ。


木箱には、おびただしい虫食いの穴があいていた。


値打ちなどあろうはずもなく


生活雑器に毛が生えた程度のシロモノ。


彼らは戸棚に押し込んでいた、もらい物の不用品を


新築祝いとして工場長に贈るつもりらしい。



自分たちの遊びやおしゃれには湯水のごとく金を使うが


人にあげる物にはひどく金を惜しむのが彼らの習性なので


今さら驚きはしないが、上得意の祝い事に贈る品として


さすがにこれは大胆過ぎる。


しかもデパートで買ったふうを装う、あさましさ。



この恥ずかしい仕事に、私は難色を示した。


「新築祝いにこんな物を渡したら


受け取った方はショックだし、渡した方は恥をかく思うけど‥」



が、例のごとく怒られまくる。


「これは良い物よ?!


新築したら床の間に飾る物が必要なのよ!」


「こいつは値打ちがわからんのじゃ!」



私は問うた。


「じゃあ、デパートの包装紙を使うのは何で?


値打ちのある物だったら、紙は何でもいいんじゃない?


ケチってこんな物を贈るより


現金の方がよっぽど喜ばれると思いますけど」


この発言で、さらに怒られる。


言ってはいけない言葉だからだ。


なぜ言ってはいけないかというと、本当のことだから。



ここが私のバカなところ。


やんわりとコトを運ぶ技術も信頼関係も無かった私は


本当のことをズケズケと言うばかりだった。


年かさの彼らにとって


見下げているシモジモから核心を突かれるのは


こっちが考えるよりずっとこたえるし、無性に腹が立つものだ。


それを知らない私は本当のことを言って恨まれ


嫌われたあげく、いじめで復讐されていた面も多々あった。



さて、しばらく怒られたあげく


「包むのが嫌なら、はっきり言いやがれ!おおぅ?ワレ!」


義父がチンピラみたいに怒鳴るので


「嫌です」


と言ったら、ますます怒られた。


が、怒るばっかりで包装の役を免じられる気配は無い。


どうあっても包装させたいらしい。



私は彼らに言った。


「じゃあ包みます‥どうなっても知りませんよ」


今、大事な岐路に来ているのは感覚でわかったが


もう、どうでもよくなった。


いくら説得したって、彼らには理解できないのだ。



「最初から素直にやりゃあええんじゃ!


もったいぶりやがって!何様じゃ!」


義父の小言を聞きながら埃を払い、蜘蛛の巣を除き


箱を拭いて包装したが


包装紙はあってもデパートの名前が入ったテープは無いため


今ひとつ高級感に欠けた仕上がりとなった。



包み終わると義父は言った。


「じゃあ、お前ら、届けて来い」


「え〜?!」



本当は義父も、この不用品を持って行くのが恥ずかしいのだ。


義姉も聞こえないふりをしている。


義母だけが新居を見学できると喜んでいるので


家まで車で送り、外で待って連れて帰った。



壷を包んだ時から予測していたとはいえ


この一件は後の運命を決定した。


壷騒ぎから3ヶ月後、工場に隣接した畑に


新しい家が建ち始める。


これこそが、落日の第一歩であった。


《続く》
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行いと運命・3

2019年11月10日 10時30分13秒 | 前向き論
これから発展することがわかっている町に


ただ看板を上げさえすれば、仕事は濡れ手に粟‥


嫁憎しの感情が先に立って


この好機をみすみす見送った義父だった。



3年後、A市の国立施設の建設が終わると


会社はベースの仕事だけをこなす日常に戻った。


ベースの仕事とは、町外れにある上場企業の地方工場へ


商品を搬入するものだ。


我々が両親と同居する少し前


義父が数千坪の工業用地を買って、その企業を誘致した。



その企業から振られる仕事は利益が高く、安定していた。


相手は全国ネットの大手なので


取引を続けていれば、食いっぱぐれは無いと思われた。


義父は地主であり、株主でもあったため


仕事をもらっているとはいえ立場は対等に近く


接待や贈り物で媚びることにも熱心ではなかった。


義父がA市に進出することを拒んだのは


憎たらしい嫁の発案というのもあったが


この仕事を確保していたので


他へ手を出す必要性を感じていなかったのもある。



その仕事は、義父の会社の全売り上げのうち


7割以上を占めていた。


取引先のうち、一軒だけの売り上げが飛び抜けているのは


商売上、スリリングな状況。


相手に何かあったら、たちまち食い詰めるからだ。


うちのように金額の大きい手形商売であれば


なおさら注意が必要である。



私は当時、20代後半。


若い私が他人の会社について生意気にも心配し


A市への進出を言い出したのには理由があった。


その数年前、義父の会社は


同じように売り上げの大半を占めていた相手から


突然取引を打ち切られる経験をしていたからだ。



相手の会社の社長B氏は、義父と昔からの友人で


お互いの創業以来、二人は数十年に渡り


公私共に支え合ってきた。


我々夫婦の仲人をしたのもB氏である。



しかし、ある年の選挙が二者の仲を分かつ。


義父とB氏は一騎打ちの選挙で


それぞれ別の候補者を応援することになったのだ。



B氏は再三、義父に寝返りを要請した。


義父は選挙の方面で少しは名が知れていたが


B氏が選挙に関わるのは、この時が初めて。


B氏は、参謀として名乗りを上げておきながら寝返ると


選挙界でも建設業界でも生きていけなくなるという


暗黙かつ厳格な掟を知らないのだった。



初めての選挙で張り切ったB氏は


頑固な義父を寝返えらせたという勲章を欲していた。


「そっちの出方次第では、取引を打ち切る」


と脅迫までしたが、義父は動かなかった。



結果、町を二分した一騎打ちはB氏が応援した方が勝った。


その翌日、義父はB氏から取引の打ち切りを宣告され


B氏の会社の仕事は


B氏と一緒に選挙の応援をした別の同業者のものになった。



売り上げの大半を一瞬で失った義父は、もちろん途方に暮れた。


自分の代わりにB氏から仕事を得た同業者の


得意満面もしゃくにさわる。


その姿を目の当たりにした私は


一軒だけのお得意様に売り上げを頼るという


一点集中方式が怖いことを身をもって知った。



選挙が元で切られた‥世間ではそういうことになっていて


義父もそう思っていたが、私は違うと思った。


一軒だけに頼っていると、やがてその一軒からナメられる。


うちが無かったらこいつは日干しだと‥


こいつの命運は俺が握っていると‥


相手に思わせてしまう。


いくら仲良しこよしでも、人間の心はそうなる。



そもそもナメられているから、選挙で寝返りなんか要求されるのだ。


一軒から切られても、他で食える状態を目指すことは


社員と家族を守るために不可欠な経営努力だと考えた次第である。



しかし義父には、この体験が活かされなかったようだ。


途方に暮れたのは、ほんの束の間。


さほどの間を置かずに今回の企業誘致の話が持ち上がったからだ。


計画はトントン拍子に進み、選挙で失ったB氏の分の売り上げは


すぐに取り戻すことができた。


義父は元々、自身の強運を過信していたが


これでさらに強気になる。


その様子は傲慢という表現が最もふさわしい。



会社が順調だと、昔からの悪癖に拍車がかかるようで


この頃の義父は浮気に忙しかった。


逆に言えば浮気癖のある人は、順調だと油断の程度がひどい。


邪恋にふけっていると


脳が世の風向きや人の心の機微に無関心になるからだ。


誰が何を言ってもダメ。


大変なことになって気がついても、もう遅い。


大変なことになっても、気づかない場合も多い。




同じ屋根の下で、もちろん我が夫も絶賛浮気中。


家庭は揉めに揉め、義父は何もかも私のせいだと言って責めた。



家は火宅を地で行くありさまでも、会社の方は全盛期を迎える。


義父は取り巻きをはべらせ、自信満々で威張り散らした。


威張りついでに、やっぱり私にきつく当たる‥


若かりし私はそう思って恨んでいたが


実のところ、義父は持病の糖尿病が深く静かに進行していた。


今にして思えば、あまりにも身体がしんどくて


誰かに当たらなければ耐えられなかったのだと思う。



会社の好調は、長く続くはずだった。


企業側と義父の間には堅い契約があったため


長く続くはずというよりも、長続きしない理由が見当たらなかったのだ。


安心しきって我が世の春を満喫する父と子は


密やかに立ち込めてきた暗雲に気づきもしなかった。


《続く》
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行いと運命・2

2019年11月04日 11時20分44秒 | 前向き論
夫の両親と生活した10年の間、義父は私を執拗に恫喝し続けた。


その場面にたまたま居合わせた来客が、何人かいる。


大音響と辛辣きわまりない罵りに


男も女も用事を投げ出して飛んで帰るか、腰を抜かして床を這った。



当時はそんな義父が憎たらしいばっかりだったが


本来の彼はこんな人ではない。


言葉がきついので、彼を恨む人は多かったが


友達も多かった。


性格は明るいスポーツマンタイプで


私が思っているよりも高潔な人物のはずだった。


しかし人間、我が子のためなら変わっちゃうのだ。



彼には、嫁いでからも毎日帰って来る娘がいた。


我々が同居するようになると、娘の立場が微妙になる。


それまでの義姉の立ち位置は、父親の会社の事務をしながら


病弱な母親に代わって家事を取り仕切り


八面六臂の活躍で家を支えるスーパー娘。


これが両親の口から公然と、世間や嫁ぎ先に伝えられていた。



しかし息子一家が実家へ戻ったとなると


人手だけは確保されるので、スーパー娘の出番は無くなる。


義姉の嫁ぎ先の両親は、これを喜んだ。


「うちのこすずさんは、これでもう


お里帰りをしなくて済みますね?」


増築の祝いに来た彼らは、真剣な面持ちで義父母にたずねた。



義父母はこの発言にハッと驚いて顔を見合わせ


「はぁ‥」と生返事をして黙り込んだ。


義父母はこの瞬間、我々との同居と


娘の里帰りの関連性を初めて認識したのだった。



娘は庭の離れに住む義理親が嫌で


実家通いをしているというのに、これでは元も子もない。


娘を守るためには、嫁が役立たずでなければならない‥


どうにもならないので


やっぱり娘が必要ということにしなければならない‥


彼らはそう考えた。


私が牛馬のごとく叱咤されるようになった、直接の原因である。



我々は、同居することで


義姉の里帰りが少しは減ると踏んでいたのだが


それどころか、以前より滞在時間が長くなった。


「嫁がおかしいので、両親が心配」


これが長逗留の理由である。


無念じゃ。



義父の意地悪は、日々エスカレートしていった。


最初は娘の嫁ぎ先の理解を得ようと懸命だったのが


そのうち、どうでもこうでも私を悪人に仕立てたいという


悪意が感じられるようになった。



思えば同居して数日後に次男が生まれ


病院から帰った晩、義父に怒鳴られて母乳が止まった。


以来10年、義父は次々に新たな方法を思いついては


私をコケにし続けたが


最後は私の夫の愛人をこっそり会社に入れて


夫と一緒に働かせるという究極の意地悪をやってのけた。


そのことで、私はようやく家を出る決心がついたてん末がある。




けれども私が話したいのは、そんな嫁舅の苦労話ではない。


背景をお伝えするために前置きが長くなってしまったが


ここからが本題。


家族の誰かをターゲットにしていじめ抜くライフワークが


商売に与えた影響である。




夫の両親と同居し始めてほどなく


さほど離れていない市外に


国立の大きな施設が建設されることになった。


施設が完成すれば、田畑ばかりだったその界隈が


発展することは明白だった。



義父の会社はこの建設工事に参加することができ


しばらくは会社も活気づいていた。


が、数年後に施設が完成すれば、以後の仕事は未定のまま。



義父母も義姉も、私を警戒して関与させなかったので


会社のことについて何も知らなかった。


しかし、この時はひらめきのようなものがあった。


それは日を追うごとに、抑えきれない確信になっていった。


そのひらめきとは、これから発展するその町


A市に支店を出すというものである。



当時、さまざまな建設工事の入札は


市内で営業する業者が最優先された。


A市に支店を出したら


今後、次々に開始される多くの工事に参加できるはずだ。



現にこちらの市内で営業していた知り合いの土木業者が


すでにA市に支店を出していた。


早過ぎたからか、周囲からは「冒険」と言われ


「何が嬉しゅうて、あげな不便な田舎へ」


といぶかしがられていたものだ。


しかし、儲かるとわかってからでは出遅れてしまう。



私が考えるに、土木業者が支店を出しているのだから


建設資材を扱う義父の会社はそれに乗っかればいいだけで


ゼロから始めるような困難は無い。


しかも義父は投資目的で、その市に宅地を所有していた。


新しく土地を買ったり借りたりしなくていいのだから


万が一、失敗しても損は無い。


良いことづくめではないか‥そう思ったのだ。



夫にこの提案を話したところ


彼も同じことを考えていたと言う。


浮気で冷え切った夫婦ではあっても


こういうことを話す余地は残っていたのだ。



私は義父に進言して話し合うよう、夫に勧めた。


が、生来の口下手で、父親が何より怖い男である。


言いたいことがうまく伝わらず、話し合いは失敗した。



義父は私が夫をそそのかしたと察知し


嫁の分際で他人の仕事に口を出したと激怒した。


A市に支店を出した土木業者が、我々夫婦と懇意なのも


気に入らなかった。


さらに私が同居を解消し、A市に家を建てて移りたいために


自分の土地を狙っていると決めつけた。



この一件で、私は泥棒の汚名まで着ることとなり


義父はますます私を憎んだ。


私のほうはこの一件で、義父に商才が無いことを知った。


会社を発展させる気はさらさら無く


地元で社長と呼ばれていれば満足で


将来のことは全く考えていないこともわかった。



時はバブルの終末期。


今、勝負に出ないとなると、いずれ会社は無くなると確信した。


そのお陰かどうか、様々な心の準備に加え


落ちぶれても恥に苦しまない人間を目指して


子育てをすることができた。


チヤホヤして勘違いさせたら、落ちぶれた時につらいものだ。



さて問題の土地は、そのまま何年も放置されたあげく


会社の財政が厳しくなると売り払ってしまった。


先立ってA市に支店を出した土木業者は


そのうちビルが建って長者になった。


同業者も、他の建設系業者も、続々と支店を出して


そこそこの成功をおさめている。


そして30年が経った今も、仕事が切れることは無い。



義父の会社が同じようにうまく行くとは限らないが


少なくとも倒産しかけて多くの人に心配や迷惑をかけることは


避けられたのではないか‥


時々、そう思うことがある。


日頃、人をいじめて暮らしていると


脳みそがそのことだけに集中してしまい


眼が曇って、チャンスがチャンスに見えなくなるのかもしれない。

《続く》
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