殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

お誕生会

2015年11月26日 15時09分22秒 | みりこん昭和話
半世紀前の話である。

私が小学生の頃、同級生同士で行うお誕生会が盛んだった。


呼ぶ方は食事やおみやげ

呼ばれる方はプレゼントを用意する必要があるため

イベントの出費は親に頼ることになる。

親はスポンサーとして、ある条件のもとに招待客を厳選する。

その条件とは「今後も我が子と仲良くしてもらいたい子供」である。


成績優秀で、なおかつ家の素性がはっきりしている子供は

あちこちのお誕生会から引っ張りダコであった。

時には「親が呼べと言ったから呼んだに過ぎず、本人同士は仲良くない」

という悲劇もあったが、お誕生会に招き合う間柄こそが

親の認めた天下晴れてのお友達というわけだ。


小学校1年生の6月…

初めてお誕生会に招かれた日のことは、今でも覚えている。

今でも覚えているもなにも、私は生まれた時からの記憶があるので

おおかたのことは覚えているのだが、その日のことはとりわけ鮮明だ。


それはトンちゃんという女の子のお誕生会だった。

転勤族の娘で、入学と同時にこの地へ来たトンちゃんのため

親が心をくだいたと思われる。


当日、私はよそ行きの服を着せられた。

プレゼントとしてリボンをかけた文房具を母チーコから渡され

「お行儀よくね」と送り出される。


トンちゃんの家に着くと、お母さんとトンちゃんが外で待っていてくれた。

通された部屋の天井には、折り紙で作ったクサリが華々しく垂れ下がり

トンちゃん親子の意気込みが感じられた。

招かれた8人の子供一人一人に座布団が用意されていて

なんだか大人になったような気がした。


テーブルの真ん中にはデコレーションケーキ…

食事のメニューは甘口のカレーライス、デザートはハウスのプリン…

お飲み物はストロー付きのカルピス…

さんさんと陽の降り注ぐ明るい和室で歌う、ハッピーバースデーの歌…

ケーキに立てた7本のろうそくをプーッと吹き消すトンちゃん…

拍手をする私達…

他人の慶事を心からことほぐ、これが最初の一歩であった。

我々田舎の子供が「社交」を知った記念日だ。


以後、同級生の間でお誕生会が広まった。

じきに招かれた子供の誕生日がきて、お返しにトンちゃんを招くからだ。

年末になると私の誕生日が訪れたので、我が家でもお誕生会を催した。

2年生になるとトンちゃんは転校していなくなったが、お誕生会の習慣は続いた。


うちの場合、家に招くメンバーの選別は比較的ユルいが

招かれて行く際には、吟味が厳しかった。

第一条件は「お兄さんのいない家」。

年上の男性と顔見知りになるのを避けるためである。

明治男の祖父によれば、これが一番危ないのだそうで

小さい頃から知っているという油断が、身を持ち崩すきっかけになりやすく

引いては不幸の始まりになるという理由からだった。


これは女系家庭で異性に免疫の無い、我が家だけの法律であり

お兄ちゃんのいる家がけしからんというわけではない。

小さい時にお兄ちゃんのいる家を避けたところで

やがて悪いお兄ちゃんに引っかかり、長期に渡って辛酸を舐める羽目になるのだから

細心の注意も無駄だったといえよう。


ともあれお誕生会に招かれた際は、家族構成について尋問を受け

合格すれば許可が出る。

お兄ちゃんのいない家しか行けないため

私が参加できるお誕生会は、他の子より少なかった。


が、お誕生会に招かれるって、いいことばかりではないと

知り始めたのも事実である。

2年生、3年生になると、ウザい生き物が出現するからだ。

ちょっと前まで赤ん坊だった「弟」という生き物である。


そやつらはパーティーに乱入し、お調子に乗って奇声を発したり

主役の姉や招待客に乱暴をはたらくようになる。

弟のいない私は、これが嫌で仕方がない。

弟が生息する家に招かれた時は、あまり嬉しくなかった。


3年生の時に催した私のお誕生会では

招待客の一人フジちゃんが「お腹が痛い」と泣き出した。

食当たりを心配したチーコが自転車で送り、フジちゃんの親に謝ったが

盲腸だった。


4年生のお誕生会は、流れると思われた。

春にチーコが胃癌の手術をしたからだ。

5時間以上の大手術になると聞いていたが、実際には2時間で終わった。

開けたら手遅れで、すぐに閉じたであろうことは

異様に短い手術時間や家族の表情から、子供なりにわかっていた。

しかしチーコは患部を切除したと思い込んでおり

かんばしくない予後に苦しみつつも、不屈の闘志でお誕生会を仕切った。


5年生の時には、ほぼ寝たきりとなり

6年生の春にチーコは死んだので、私のお誕生会歴は4年生で終わった。

しかし5年、6年と持ち上がった担任が厳しい人で

お誕生会の習慣を「この町の悪癖」と断じ、全面禁止にしたため

我々のクラスは全員、4年生でお誕生会から足を洗ったことになる。



誕生日と聞くと、今でも思い出すのは白いバタークリームのケーキ。

当時の田舎に、生クリームのケーキは存在しなかった。

どこのお誕生会に呼ばれても

町でただ一軒のケーキ屋で作られる同じケーキが

テーブルの中央に鎮座していた。


真っ白な土台に、バタークリームでできた、ピンクの薔薇…

葉っぱに見立てた、緑色も鮮やかなアラザン(フキの砂糖煮)…

アクセントとして配置される真っ赤なチェリー…

このチェリーは缶詰ではない。

噛んだらジュルリと中味が出て、気分が悪くなるほどに甘い砂糖漬けであった。


ところどころに散らした、ジンタン状の銀の玉もお決まり。

美しい銀の玉はぜひとも味わってみたいところではあるが

乳歯が抜け、永久歯待ちの子供には 、魅惑の銀玉を噛み砕く作業が困難だったため

未知なる味のまま現在に至っている。
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オヤバカ日誌

2015年11月23日 10時18分39秒 | みりこんぐらし
取引先に、ハマサキさんという営業マンがいる。

本来なら定年退職している年齢だが、66才の今も現役続行中。

彼のニックネームは「ハマちゃん」。

その名字と営業職、太めで人なつこい風貌

奥さんの名前がミチコさんという共通点によって

映画「釣りバカ日誌」の主人公になぞらえ

いつの頃からか、そう呼ばれるようになった。


が、その半生は映画のハマちゃんとは異なる。

彼は最初、我々の住む町にある道路建設関係で営業をしていた。

今は亡き義父アツシが土地を買って誘致した、我が社の大口取引先である。

そのため30年ほど前から、アツシや夫と親しかった。


20年前、ハマちゃんの奥さんが不治の病を発症。

ハマちゃんは仕事をしながら家事と看病を続けた。

しかし数年後、東北転勤の辞令が。


難病の妻を主治医から引き離し

温暖な瀬戸内から寒い東北へ連れて行けるはずもなく

単身赴任も無理となれば、早い話が肩たたき。

同情したアツシは東京本社に掛け合ったが

辞令は撤回されず、ハマちゃんは会社を辞めた。


しかし、捨てる神あれば拾う神あり。

ほどなく都市部の建設会社に、営業マンとして再就職した。

奥さんの病気を承知で雇ってくれたので働きやすかったが

10年後、その会社は倒産した。


再び仕事を失ったハマちゃん、またまた捨てる神あれば拾う神あり。

今の会社の営業に就職。

彼の勤めた会社は三軒とも我が社と付き合いがあったため

我々にとって彼の流転は、名刺が変わるだけ。

週に一度のペースで我が社を訪れ、おしゃべりをして帰って行く習慣は

この30年変わらなかった。



やがて一人娘の結婚を見届けた後、奥さんは亡くなった。

病気の妻を抱えて営業の仕事をするのは、どんなに大変だったろう…

頑張り屋だから、次々と大手に就職できるのだ…

少なくとも我々は、一つの美談としてとらえていた。

ひょっこりやって来て、延々と家族の話を聞かされるのは正直ウザかったが

努力と忍耐の人として、ハマちゃんを尊敬していたので我慢した。



そのハマちゃん、先日は娘婿を伴って現れる。

ムコ殿が配置薬の会社に転職したので、薬箱を会社に置いてくれと言うのだ。

家や会社に薬箱を預け、使った分だけお金を払う商法である。


このムコ殿、仕事が続かない。

こないだまでは弁当工場に勤めていた。

会社にはすでに別の配置薬を置いていたが

親しいハマちゃんの頼みなので、夫は薬箱の設置を快く承諾した。


一方の私は、いつものように社用車に乗って我が社を訪れ

ムコ殿と合流したハマちゃんに違和感を感じた。

仕事中に、よその営業を手伝う…おかしいだろ。


その瞬間、今まで聞き流していたハマちゃんのおしゃべりがよみがえる。

「家内が死んだ時、保険で葬式も出せたし法事もできた」

思い返せばこの2年ほど、保険の話ばかりだった。


40才の一人娘が、一昨年から生保の営業を始めたのは聞いていた。

入社の際のテストで95点を取ったと、何度も自慢していたからだ。


以来ハマちゃんは、この95点様の話をたびたびした。

その思いやりや優秀性を長々と説くのだ。

彼を努力と忍耐の人と思い込んでいた我々は

「どこの家でも娘は可愛いんだなあ」

くらいにしか思っていなかった。


アツシが死んだ後、95点様の話はさらに増えた。

葬式の物入りは身に染みたろう…

聞くところによると◯◯生命のナンタラ保険はいいらしい…。


勤め人のハマちゃんに、自営業の金勘定はわかるまい。

自営業者は香典の額が大きいので、葬式代の心配をあまりしないものだ。

自営だから香典が集まるわけではなく

今までそれだけの付き合いをしてきているからだ。

社葬にして香典を受け取らず、経費で落とす方法も選べる。


悩むのはゼニカネではない。

ひとえに「どんな葬儀形態にしたら失礼が無いか」がテーマだ。

サラリーマンの物差しで測り、金が回らないだろうと決めつけ

遠回しに勧誘されても、聞いてるこっちはイタいだけである。


娘婿の売る薬箱を置いた途端、保険の話がさらに頻繁になり

我々はハマちゃんの底を見たような気がした。

その視線でハマちゃんを眺めると、努力と忍耐の人が急に色あせる。


よく考えたら、最初の会社で東北転勤の辞令が降りたのからしておかしい。

当時は「大企業って冷たいんだなあ」くらいにしか思っていなかった。

が、我々の知らないれっきとした理由によって

リストラ対象になったとしたら、うなづける。

奥さん優先で働かせてくれた次の会社だって

そんな甘いことをしていたから倒産したのではないのか。


今の会社は自分がいなければ回らないそうだが、あくまで本人の自己申告。

これまで、いかにも仕事を回してやるような口ぶりばかりで

ハマちゃん本人から持ち込まれた仕事は一本も存在しない。

現実には、本人が言うほどの権限は与えられていないのだと察する。

奥さんの話をして同情を買い、再就職ゲット…

これがハマちゃんの転職パターンだったのだ。


年齢からして、ハマちゃんの社会人生活の終焉は秒読み。

それまでに自身の立ち回り先を利用して

娘夫婦を喜ばせてやりたい一心の彼は

相変わらず通って来て保険の話をする。

親バカで晩節を汚すのは、もったいないことである。
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デンジャラ・ストリート 救急篇 その後

2015年11月15日 12時16分21秒 | みりこんぐらし
このところ腰痛に苦しみ

寝たり起きたりしていた義母ヨシコ。

先週の始め、調子の良かった日に娘のルイーゼと出かけ

外食と買い物を楽しんだら具合が悪くなった。


帰るなり、激痛にうなるヨシコ。

その姿に同情したうちの長男が、マッサージをしてやると言い出す。

「筋肉やスジじゃなくて、骨や神経の世界だから刺激したらダメよ!」

そう止めたが、2人は無視。

私の目を盗んで、腰のマッサージは行われた。


結果的に、それがトドメとなる。

「どうすんのよっ!

おばあちゃん、寝たきりになったじゃないの!

つついたらダメなのよ!」

脂汗を流して苦しむヨシコを指差して、怒鳴る私。

「フフ」と去る長男。

まったく、なんて子だ。

親の顔が見たい。


「しばらくはコルセットをして寝ているしかない」

医者にはそう言われているが、じっと寝ているだけでも痛そうだ。

痛み止めをもらってはいるが、持病がたくさんあるため

他の薬との兼ね合いが難しいそうで、強い鎮痛剤は使えないのたった。


動けないヨシコだが、トイレだけは自力で行かなくてはならない。

大腸癌の後遺症のため、トイレ通いが頻繁な彼女にとって

布団からトイレまでの数メートルは苦難のいばら道。

立ち上がれないので、そろりそろりと四つん這いで通う。


毎回その姿を怪しみ、犬は狂ったように吠える。

夫や子供達は「サダコ」と呼ぶ。

私はある人を思い出す。

太り過ぎでヒザをいため、足が立たなくなって

四つん這いが移動手段だった夫の祖母だ。

ヨシコがこの世で一番嫌っていた姑である。

嫁は姑に似るそうだから、順番でいくと明日は我が身…

減量を心に誓う。


「このままじゃあ、頭がおかしくなりそう」

ヨシコは嘆く。

心の声…「大丈夫、元々おかしいから」


「いつまでこうして寝てなきゃならないのかしら」

ヨシコは嘆く。

心の声…「どうぞいつまでも」


話は飛ぶが、私は以前

アリとキリギリスについて確固たる思想を持っていた。

「この世は、努力の末に目標を達成するアリと

遊び暮らしたあげくに泣くキリギリスの2種類だけではない。

いろんな虫がいるのだから、目標がパーになっても努力が報われなくても

自分をみじめなキリギリスだと決めつけてはいけない」

そんな考えだ。


コンセプトはそのままだが、ここに来てもう一歩進んだように感じる。

私はキリギリスを見極めた。

「やろうと思えばできるのをわかっていながら、やらなかった者に訪れる現実」

それがキリギリスの正体だったのだ。


やらなかった理由は様々。

病気や不幸、やる気が出ない、あいつのせい…などだ。

理由を掲げて逃げ続けていると、人生の冬が訪れた時

多くはみじめさに泣く。


なぜか…お金や食べ物が無いからではない。

人の役に立つことが少なかったので、寒さに凍えて動けなくなったとしても

誰も困らない。

誰からも惜しまれない。

それがみじめで悲しいのだ。


不安、焦り、苦しみにさいなまれる「キリギリスの冬」は

人の役に立とうとする心が足りなかった者に訪れる。

いつの日か、力尽きて倒れるその日まで

力一杯働こうと肝に銘じる私である。



話は戻るが、病人の世話は確かに忙しい。

食事やおやつ、飲み物を寝床へ配達回収する作業に加え

洗面や着替えなど、今までヨシコが一人でやっていたことを

手伝う必要があるからだ。


反面、洋服をとっかえひっかえしないので洗濯物が極度に少ない。

植木鉢や家具の移動、存在を忘れていた衣類や小物の探索など

突然のひらめきによる不毛な作業を手伝わされることも無い。

手間は増えるが、仕事は大幅削減というところ。


そして私は、確実に健康を取り戻している。

これまで、決して調子が悪かったわけではない。

だがこうなってみると

「くたびれていたんだなあ」としみじみ思う。

とにかく胃の調子が違う。


胃は元々丈夫だった。

「胃もたれ?それはどんな状況のことを言うんでしょうか?」

長年、それが私の胃だった。

しかし何ヶ月か前から食べる量が減り、消化に時間がかかるようになり

初めて胃腸薬を飲んだ。

鉄の胃袋にも、とうとう加齢が忍び寄ったのだと思っていた。


しかしヨシコが動けなくなった途端、嘘のように元通り。

相手の動きが止まるというのは、こうも動きやすく

楽なものかと驚いている。


それはヨシコも同じで、私に晴天の霹靂(へきれき)が起こると

俄然元気を取り戻す。

私にとっての霹靂は去年の今頃…

ムカデに刺されて、2日ほど右手が使えなくなったことのみだが

あの時のヨシコには目を見張るものがあった。

家事は交代してくれなかったが「私がしっかりしないと!」

そんな使命感に燃えて、生き生きと輝いていた。


今回、ヨシコにとっては不幸なアクシデントが、私には復活のチャンス。

片方が下がると、もう片方が上がるシーソーゲームを繰り返しながら

嫁と姑は生きる。

このシーソーゲームが終わった頃、嫁は姑と同じ身の上をたどる可能性

なきにしもあらず。

哀しくも、そら恐ろしい関係ではある。
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デンジャラ・ストリート 救急篇

2015年11月07日 10時05分59秒 | みりこんぐらし
2月に義父アツシが他界して以来、義母ヨシコの悩みのタネは

仏前に供える花の調達であった。

アツシ亡き後、つくづく思うのだが

仏前に花を供えるという常識的かつ義務的行為は

遺された者を屋外へ導くための誘導路のような気がする。

花を買いに出れば、ついでに食べる物も買うし、人にも会う。

外の風に当たり、人と話し、色々な物を見たりするうちに

知らず知らず元気を取り戻していくのではないだろうか。


ヨシコは性格上、束ねて売られている小菊なんかじゃ嫌。

豪華でなければならない。

ここに悩みが生じた。


持ちのいい小菊と違い、豪華な花はすぐしおれる。

蘭やカサブランカなら少し長持ちするが

お一人様になった年金を蘭やカサブランカにばかり

費やすわけにはいかない。


そこで誰かが善意で買って来てくれるのを待つようになる。

しかしその誰かとは、善意と程遠い嫁しかいない。

嫁もまた、姑の偏食によってかさばる食費が惜しいため

食えない蘭やカサブランカでサービスしてやる気は起きない。


花は飾りたや、買うのは惜しや

さんざんジレンマと戦ったあげく、ヨシコは名案を思いついた。

「そうだ!庭に花を植えたらいいじゃないの!」


庭というのは花を植えるものではないのか?

通常、人はそう思うだろう。

しかし我が家の場合は違う。

大型の樹木と岩石で構成された、いかつい昭和的デザイン。

その空きスペースに、ヨシコが集めた山野草やツタが無秩序にはびこる

見苦しい庭なのだ。

ほったらかしで生き残る植物は、地味でかわいくないと相場が決まっている。

仏さんの花には使えない。


一日中寝そべって韓流ドラマを見る暮らしから一転

農耕民族に変身したヨシコは

クワをふるってワイルドガーデンを開墾し始めた。

「身体を慣らしてからの方がいいよ」

「今日はもう終わりにしたら?」

何度も声をかけるが、聞きやしない。


「私はイノシシ年よ!

“イノシシ向き”は途中でやめられないのよっ!」

いつものように反抗しおる。

「だったら山へお帰り」と言いたいところだが

後が面倒なので我慢。


“イノシシ向き”とは、ヨシコが生まれた離島の方言である。

その意味は、イノシシ年生まれの女の猪突猛進的傾向…

つまり途中で止まれない性質を指す。


ちなみに私もイノシシ年生まれ。

何でも途中やめばっかりで、イノシシ向きの風上にも置けない。

しかし、嫌なことにはきっぱりと目をそむけ

気が向いたことだけにイノシシ年生まれを振りかざして

あと先考えずにワガママを通すヨシコの場合

猪突猛進というより、突如盲進だ。


クワをふるって2日目に、ヨシコの腰はあえなくイカれた。

座り込んでうなるヨシコ。


その時、隣のおばさんから救急要請が…。

「虫刺されだと思うんだけど、ほっぺたが急に膨らんで…」

見ると右の頬が、ぷっくりと膨らんでいる。

こぶとり婆さんみたい。


病院へ連れて行こうとすると、腰痛で動けないはずのヨシコ

自分も付き添うと言って、いそいそ着替えをしている。

人の不幸は元気のミナモトらしい。


おばさんの病名は、やはり虫刺されだった。

ブトだろうという話だ。

点滴をしたら、翌日にはおさまった。


「お世話になったから」

ということで、おばさんはヨシコを自宅に招き

マッサージ椅子に座らせてやるという。

その椅子は、家電メーカーに勤める息子さんから買った

ご自慢の一品だ。

未亡人になって一人暮らしの母親の面倒は見ないが

自社製品を買わせる時だけ訪れる

いっそ清々しい息子さんである。


誘われるまま、2日通ったヨシコ。

しかし3日目の朝、完全に足が立たなくなった。

今度はこっちを病院に連れて行く。


診断は、老人によくある症状。

脊椎の骨と骨の間にあるクッションみたいなものが

老化によってすり減り、そこへ急に動いたので痛みが出たということだ。

患部をマッサージの椅子でこねくり回したもんで、悪化したのだ。


以来、ヨシコは寝たり起きたりの生活。

食事は部屋で摂ることが増えた。

「すまないねえ」

お盆に乗せて運ぶと、恐縮して見せるヨシコ。

「何言ってんの、気にしないでゆっくり養生してね」


そばに他人がいれば、ほのぼのとした孝養の風景に映るだろう。

が、真実はカンロ飴みたいに甘いものではない。

つり目の兄ちゃんと整形の姉ちゃんの発情を描く

某国のドラマを見せられることもなく

大声で同じ話を延々と聞かされることもなく

仕事の話に割り込まれることもなく

静かに談笑しながらご飯が食べられる、我ら一家の喜びは大きい。

食事を運ぶぐらい、何であろう。


「私が動けなくなったら、どうする?」

時折、不安そうに問うヨシコ。

「どっか入れる」

「嫌よ!絶対ここを動かないからねっ!」

「だったらじっとして、しっかり治しなさい」


これも人目には孝養に映るかもしれない。

が、真実は鶴屋のモナカみたいに甘いものではない。

気まぐれに家事をちょっとやっただけで大いばりされるより

嫁のペースを乱さないよう、じっとしてもらう方がよっぽど助かる。


この一件で、一つ気がついたことがあった。

お爺さんは抱えやすいが、お婆さんは難しい。


お爺さんというのは義父アツシのことだが

病気で痩せていたのもあって、総合的に木を持ち上げる感じ。

力を入れた分だけはちゃんと持ち上がって、成果が見えた。


でもお婆さんはそうはいかない。

まだ枯れてない生ものだからだろうけど

抱えようとしたらブヨブヨの肉だけ上にずり上がり

肝心の身体は下に残っている。

やたら重たいクラゲって感じ。

体重は両親とも私より少し重くて、ほぼ同じなのに

男女でこうも違うものかと発見した次第である。
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