半世紀前の話である。
私が小学生の頃、同級生同士で行うお誕生会が盛んだった。
呼ぶ方は食事やおみやげ
呼ばれる方はプレゼントを用意する必要があるため
イベントの出費は親に頼ることになる。
親はスポンサーとして、ある条件のもとに招待客を厳選する。
その条件とは「今後も我が子と仲良くしてもらいたい子供」である。
成績優秀で、なおかつ家の素性がはっきりしている子供は
あちこちのお誕生会から引っ張りダコであった。
時には「親が呼べと言ったから呼んだに過ぎず、本人同士は仲良くない」
という悲劇もあったが、お誕生会に招き合う間柄こそが
親の認めた天下晴れてのお友達というわけだ。
小学校1年生の6月…
初めてお誕生会に招かれた日のことは、今でも覚えている。
今でも覚えているもなにも、私は生まれた時からの記憶があるので
おおかたのことは覚えているのだが、その日のことはとりわけ鮮明だ。
それはトンちゃんという女の子のお誕生会だった。
転勤族の娘で、入学と同時にこの地へ来たトンちゃんのため
親が心をくだいたと思われる。
当日、私はよそ行きの服を着せられた。
プレゼントとしてリボンをかけた文房具を母チーコから渡され
「お行儀よくね」と送り出される。
トンちゃんの家に着くと、お母さんとトンちゃんが外で待っていてくれた。
通された部屋の天井には、折り紙で作ったクサリが華々しく垂れ下がり
トンちゃん親子の意気込みが感じられた。
招かれた8人の子供一人一人に座布団が用意されていて
なんだか大人になったような気がした。
テーブルの真ん中にはデコレーションケーキ…
食事のメニューは甘口のカレーライス、デザートはハウスのプリン…
お飲み物はストロー付きのカルピス…
さんさんと陽の降り注ぐ明るい和室で歌う、ハッピーバースデーの歌…
ケーキに立てた7本のろうそくをプーッと吹き消すトンちゃん…
拍手をする私達…
他人の慶事を心からことほぐ、これが最初の一歩であった。
我々田舎の子供が「社交」を知った記念日だ。
以後、同級生の間でお誕生会が広まった。
じきに招かれた子供の誕生日がきて、お返しにトンちゃんを招くからだ。
年末になると私の誕生日が訪れたので、我が家でもお誕生会を催した。
2年生になるとトンちゃんは転校していなくなったが、お誕生会の習慣は続いた。
うちの場合、家に招くメンバーの選別は比較的ユルいが
招かれて行く際には、吟味が厳しかった。
第一条件は「お兄さんのいない家」。
年上の男性と顔見知りになるのを避けるためである。
明治男の祖父によれば、これが一番危ないのだそうで
小さい頃から知っているという油断が、身を持ち崩すきっかけになりやすく
引いては不幸の始まりになるという理由からだった。
これは女系家庭で異性に免疫の無い、我が家だけの法律であり
お兄ちゃんのいる家がけしからんというわけではない。
小さい時にお兄ちゃんのいる家を避けたところで
やがて悪いお兄ちゃんに引っかかり、長期に渡って辛酸を舐める羽目になるのだから
細心の注意も無駄だったといえよう。
ともあれお誕生会に招かれた際は、家族構成について尋問を受け
合格すれば許可が出る。
お兄ちゃんのいない家しか行けないため
私が参加できるお誕生会は、他の子より少なかった。
が、お誕生会に招かれるって、いいことばかりではないと
知り始めたのも事実である。
2年生、3年生になると、ウザい生き物が出現するからだ。
ちょっと前まで赤ん坊だった「弟」という生き物である。
そやつらはパーティーに乱入し、お調子に乗って奇声を発したり
主役の姉や招待客に乱暴をはたらくようになる。
弟のいない私は、これが嫌で仕方がない。
弟が生息する家に招かれた時は、あまり嬉しくなかった。
3年生の時に催した私のお誕生会では
招待客の一人フジちゃんが「お腹が痛い」と泣き出した。
食当たりを心配したチーコが自転車で送り、フジちゃんの親に謝ったが
盲腸だった。
4年生のお誕生会は、流れると思われた。
春にチーコが胃癌の手術をしたからだ。
5時間以上の大手術になると聞いていたが、実際には2時間で終わった。
開けたら手遅れで、すぐに閉じたであろうことは
異様に短い手術時間や家族の表情から、子供なりにわかっていた。
しかしチーコは患部を切除したと思い込んでおり
かんばしくない予後に苦しみつつも、不屈の闘志でお誕生会を仕切った。
5年生の時には、ほぼ寝たきりとなり
6年生の春にチーコは死んだので、私のお誕生会歴は4年生で終わった。
しかし5年、6年と持ち上がった担任が厳しい人で
お誕生会の習慣を「この町の悪癖」と断じ、全面禁止にしたため
我々のクラスは全員、4年生でお誕生会から足を洗ったことになる。
誕生日と聞くと、今でも思い出すのは白いバタークリームのケーキ。
当時の田舎に、生クリームのケーキは存在しなかった。
どこのお誕生会に呼ばれても
町でただ一軒のケーキ屋で作られる同じケーキが
テーブルの中央に鎮座していた。
真っ白な土台に、バタークリームでできた、ピンクの薔薇…
葉っぱに見立てた、緑色も鮮やかなアラザン(フキの砂糖煮)…
アクセントとして配置される真っ赤なチェリー…
このチェリーは缶詰ではない。
噛んだらジュルリと中味が出て、気分が悪くなるほどに甘い砂糖漬けであった。
ところどころに散らした、ジンタン状の銀の玉もお決まり。
美しい銀の玉はぜひとも味わってみたいところではあるが
乳歯が抜け、永久歯待ちの子供には 、魅惑の銀玉を噛み砕く作業が困難だったため
未知なる味のまま現在に至っている。
私が小学生の頃、同級生同士で行うお誕生会が盛んだった。
呼ぶ方は食事やおみやげ
呼ばれる方はプレゼントを用意する必要があるため
イベントの出費は親に頼ることになる。
親はスポンサーとして、ある条件のもとに招待客を厳選する。
その条件とは「今後も我が子と仲良くしてもらいたい子供」である。
成績優秀で、なおかつ家の素性がはっきりしている子供は
あちこちのお誕生会から引っ張りダコであった。
時には「親が呼べと言ったから呼んだに過ぎず、本人同士は仲良くない」
という悲劇もあったが、お誕生会に招き合う間柄こそが
親の認めた天下晴れてのお友達というわけだ。
小学校1年生の6月…
初めてお誕生会に招かれた日のことは、今でも覚えている。
今でも覚えているもなにも、私は生まれた時からの記憶があるので
おおかたのことは覚えているのだが、その日のことはとりわけ鮮明だ。
それはトンちゃんという女の子のお誕生会だった。
転勤族の娘で、入学と同時にこの地へ来たトンちゃんのため
親が心をくだいたと思われる。
当日、私はよそ行きの服を着せられた。
プレゼントとしてリボンをかけた文房具を母チーコから渡され
「お行儀よくね」と送り出される。
トンちゃんの家に着くと、お母さんとトンちゃんが外で待っていてくれた。
通された部屋の天井には、折り紙で作ったクサリが華々しく垂れ下がり
トンちゃん親子の意気込みが感じられた。
招かれた8人の子供一人一人に座布団が用意されていて
なんだか大人になったような気がした。
テーブルの真ん中にはデコレーションケーキ…
食事のメニューは甘口のカレーライス、デザートはハウスのプリン…
お飲み物はストロー付きのカルピス…
さんさんと陽の降り注ぐ明るい和室で歌う、ハッピーバースデーの歌…
ケーキに立てた7本のろうそくをプーッと吹き消すトンちゃん…
拍手をする私達…
他人の慶事を心からことほぐ、これが最初の一歩であった。
我々田舎の子供が「社交」を知った記念日だ。
以後、同級生の間でお誕生会が広まった。
じきに招かれた子供の誕生日がきて、お返しにトンちゃんを招くからだ。
年末になると私の誕生日が訪れたので、我が家でもお誕生会を催した。
2年生になるとトンちゃんは転校していなくなったが、お誕生会の習慣は続いた。
うちの場合、家に招くメンバーの選別は比較的ユルいが
招かれて行く際には、吟味が厳しかった。
第一条件は「お兄さんのいない家」。
年上の男性と顔見知りになるのを避けるためである。
明治男の祖父によれば、これが一番危ないのだそうで
小さい頃から知っているという油断が、身を持ち崩すきっかけになりやすく
引いては不幸の始まりになるという理由からだった。
これは女系家庭で異性に免疫の無い、我が家だけの法律であり
お兄ちゃんのいる家がけしからんというわけではない。
小さい時にお兄ちゃんのいる家を避けたところで
やがて悪いお兄ちゃんに引っかかり、長期に渡って辛酸を舐める羽目になるのだから
細心の注意も無駄だったといえよう。
ともあれお誕生会に招かれた際は、家族構成について尋問を受け
合格すれば許可が出る。
お兄ちゃんのいない家しか行けないため
私が参加できるお誕生会は、他の子より少なかった。
が、お誕生会に招かれるって、いいことばかりではないと
知り始めたのも事実である。
2年生、3年生になると、ウザい生き物が出現するからだ。
ちょっと前まで赤ん坊だった「弟」という生き物である。
そやつらはパーティーに乱入し、お調子に乗って奇声を発したり
主役の姉や招待客に乱暴をはたらくようになる。
弟のいない私は、これが嫌で仕方がない。
弟が生息する家に招かれた時は、あまり嬉しくなかった。
3年生の時に催した私のお誕生会では
招待客の一人フジちゃんが「お腹が痛い」と泣き出した。
食当たりを心配したチーコが自転車で送り、フジちゃんの親に謝ったが
盲腸だった。
4年生のお誕生会は、流れると思われた。
春にチーコが胃癌の手術をしたからだ。
5時間以上の大手術になると聞いていたが、実際には2時間で終わった。
開けたら手遅れで、すぐに閉じたであろうことは
異様に短い手術時間や家族の表情から、子供なりにわかっていた。
しかしチーコは患部を切除したと思い込んでおり
かんばしくない予後に苦しみつつも、不屈の闘志でお誕生会を仕切った。
5年生の時には、ほぼ寝たきりとなり
6年生の春にチーコは死んだので、私のお誕生会歴は4年生で終わった。
しかし5年、6年と持ち上がった担任が厳しい人で
お誕生会の習慣を「この町の悪癖」と断じ、全面禁止にしたため
我々のクラスは全員、4年生でお誕生会から足を洗ったことになる。
誕生日と聞くと、今でも思い出すのは白いバタークリームのケーキ。
当時の田舎に、生クリームのケーキは存在しなかった。
どこのお誕生会に呼ばれても
町でただ一軒のケーキ屋で作られる同じケーキが
テーブルの中央に鎮座していた。
真っ白な土台に、バタークリームでできた、ピンクの薔薇…
葉っぱに見立てた、緑色も鮮やかなアラザン(フキの砂糖煮)…
アクセントとして配置される真っ赤なチェリー…
このチェリーは缶詰ではない。
噛んだらジュルリと中味が出て、気分が悪くなるほどに甘い砂糖漬けであった。
ところどころに散らした、ジンタン状の銀の玉もお決まり。
美しい銀の玉はぜひとも味わってみたいところではあるが
乳歯が抜け、永久歯待ちの子供には 、魅惑の銀玉を噛み砕く作業が困難だったため
未知なる味のまま現在に至っている。