夫の盟友、田辺君をご記憶だろうか。
長年、うちの取引先で営業をしていたが
数年前、後継者争いに敗北した専務と共に退職し
今度はうちの仕入先の一つへと転職した40代の男である。
任侠系の会社で鍛えられた彼は、以前から伝説の営業マンとして有名だった。
その名を聞きつけた本社が彼を欲しがって
引き抜きを試みたものの、バッサリ断られた経緯がある。
ちなみに私は、彼の整ったルックスと
スラリとしたプロポーションの密かなファン。
加えて揺らぎのない誠実と、肌の美しさがお気に入りである。
公私ともに充実している男は、顔に上品な艶がある。
身に付ける物のセンスや質もさることながら
この艶が垢抜けや洗練を添えるのだ。
色黒でアバタ顔の永井部長と同年代で同職とは、とても思えない。
この田辺君が、ある噂を聞きつけて会社を訪れた。
「永井部長があっちこっちで、ここを閉鎖すると言ってるみたいだけど」
田辺君は心配そうだ。
その心配は、我々の命運を危惧するものではない。
彼は本社から引き抜きの話があった時
初対面だった永井部長の人となりを一瞬で見抜いていたため
うちを閉鎖する権限や実力など、永井部長に無いのを知っていた。
けれども悪い噂は千里を走る。
営業マンの不用意な言動‥
つまり決定事項でなく願望を口にすることが
いかに会社の信用を傷つけ、商売の展開を邪魔するか
そしてうちだけでなく、本社にどれ程の恥をかかせているか
曲がりなりにも営業のトップでありながら
それがわからない永井氏の頭を本気で心配しているのだった。
実は永井部長の気持ち、我々にはよくわかる。
本社の上層部は皆、70才を越えて引退が秒読みになってきた。
上層部がいなくなると、次は永井部長が上に上がる。
永井部長より上は社長しかいなくなるんだから
これまでの嘘とおべんちゃらが通用しないばかりか
多くの支社支店と共に、我が社の面倒も見なければならない。
彼が、性格の合わない夫や
畑違いの職種である我が社の運営を持て余すのは目に見えている。
できれば今の上層部が会社にいるうちに
消滅させておきたくなるのは当然であろう。
実際に永井部長は、我が社の閉鎖をあちこちで触れ回っていた。
我々がそれを知ったのは、複数の同業者に
うちの重機やダンプを現金で即売して欲しいと言われたからだ。
豪雨の災害復旧で、業界は猫の手も借りたいほど忙しい。
しかし車両が足りない。
新車を発注して納車を待っていたら、早くて1年かかる。
そこへ閉鎖の噂があれば、誰でも一応は電話をしてみるものだ。
大型ダンプは乗用車と違い、買ってそのまま乗れる乗り物ではない。
錆び付きや傷を避けるためにステンレスを張ったり
積み荷に酸や塩分が含まれる場合は材質の違う鉄板で補強したり
それぞれの使用目的に耐えうる装備を1台ごとに整えるのが常識である。
これらの作業を架装(かそう)と呼び
販売するディーラーとは別に、専門業者がちゃんといる。
この架装作業に、月日と金がかかるのだ。
架装を施す過程で、購入者や運転者の感性とおしゃれ心も加味される。
この時、購入する経営者は予算の許す限り、運転者の要望を叶える。
業界人が最も萌える瞬間である。
運転者が命を預ける相棒なんだから、適当では済まされない。
それが業界の心意気でもある。
車両界のオートクチュール、それがダンプトラック。
しかしそんなことをしていたら、復旧が終わってしまう。
どこも血まなこで、すぐに使える中古車を探していた。
同業者、つまりライバルから、いきなり買い取りの打診をされた
我々の気持ちがどんなものであったか。
敵は外でなく、中にいる‥
この思いを再認識したまでである。
「やっつけちゃおっか」
田辺君は、俳優の玉木宏に似た爽やかな笑顔で言った。
「永井部長を?」
「ううん、会社ごと。
何て名前だっけ?宗教の勧誘する経理部長といい、永井さんといい
バカを見逃して甘やかす会社に未来は無いよ?
早いか遅いかの違いだけで」
「待って!」
夫が止めたのは言うまでもない。
田辺君なら、やる。
ただの憎まれ口でなく、本当にやる。
その頭脳と豊富な情報量、そして各方面の人間関係を用いて
本社の泣きどころを押さえ
とことんまで追い詰めるであろうことに疑いの余地は無い。
けれども本社には、大変な時に助けてもらった恩義がある。
それに、バカを見逃して甘やかすという優しい社風によって
生き延びている台頭は、他でもない我々であった。
夫にストップをかけられた田辺君は少し残念そうだったが
帰り際にこう言った。
「でも永井さんが僕に直接何かしたら
その時は好きにやらせてもらっていいでしょ?」
夫は永井氏限定で、本社の方はそっとしておくようにと注釈をつけ
その提案を承諾した。
営業力でも人間性でも田辺君より格段に劣る永井部長が
表立って彼に何かするとは思えなかった。
よって田辺君のこの発言は
無いに等しいものとして一旦は忘れられた。
《続く》
長年、うちの取引先で営業をしていたが
数年前、後継者争いに敗北した専務と共に退職し
今度はうちの仕入先の一つへと転職した40代の男である。
任侠系の会社で鍛えられた彼は、以前から伝説の営業マンとして有名だった。
その名を聞きつけた本社が彼を欲しがって
引き抜きを試みたものの、バッサリ断られた経緯がある。
ちなみに私は、彼の整ったルックスと
スラリとしたプロポーションの密かなファン。
加えて揺らぎのない誠実と、肌の美しさがお気に入りである。
公私ともに充実している男は、顔に上品な艶がある。
身に付ける物のセンスや質もさることながら
この艶が垢抜けや洗練を添えるのだ。
色黒でアバタ顔の永井部長と同年代で同職とは、とても思えない。
この田辺君が、ある噂を聞きつけて会社を訪れた。
「永井部長があっちこっちで、ここを閉鎖すると言ってるみたいだけど」
田辺君は心配そうだ。
その心配は、我々の命運を危惧するものではない。
彼は本社から引き抜きの話があった時
初対面だった永井部長の人となりを一瞬で見抜いていたため
うちを閉鎖する権限や実力など、永井部長に無いのを知っていた。
けれども悪い噂は千里を走る。
営業マンの不用意な言動‥
つまり決定事項でなく願望を口にすることが
いかに会社の信用を傷つけ、商売の展開を邪魔するか
そしてうちだけでなく、本社にどれ程の恥をかかせているか
曲がりなりにも営業のトップでありながら
それがわからない永井氏の頭を本気で心配しているのだった。
実は永井部長の気持ち、我々にはよくわかる。
本社の上層部は皆、70才を越えて引退が秒読みになってきた。
上層部がいなくなると、次は永井部長が上に上がる。
永井部長より上は社長しかいなくなるんだから
これまでの嘘とおべんちゃらが通用しないばかりか
多くの支社支店と共に、我が社の面倒も見なければならない。
彼が、性格の合わない夫や
畑違いの職種である我が社の運営を持て余すのは目に見えている。
できれば今の上層部が会社にいるうちに
消滅させておきたくなるのは当然であろう。
実際に永井部長は、我が社の閉鎖をあちこちで触れ回っていた。
我々がそれを知ったのは、複数の同業者に
うちの重機やダンプを現金で即売して欲しいと言われたからだ。
豪雨の災害復旧で、業界は猫の手も借りたいほど忙しい。
しかし車両が足りない。
新車を発注して納車を待っていたら、早くて1年かかる。
そこへ閉鎖の噂があれば、誰でも一応は電話をしてみるものだ。
大型ダンプは乗用車と違い、買ってそのまま乗れる乗り物ではない。
錆び付きや傷を避けるためにステンレスを張ったり
積み荷に酸や塩分が含まれる場合は材質の違う鉄板で補強したり
それぞれの使用目的に耐えうる装備を1台ごとに整えるのが常識である。
これらの作業を架装(かそう)と呼び
販売するディーラーとは別に、専門業者がちゃんといる。
この架装作業に、月日と金がかかるのだ。
架装を施す過程で、購入者や運転者の感性とおしゃれ心も加味される。
この時、購入する経営者は予算の許す限り、運転者の要望を叶える。
業界人が最も萌える瞬間である。
運転者が命を預ける相棒なんだから、適当では済まされない。
それが業界の心意気でもある。
車両界のオートクチュール、それがダンプトラック。
しかしそんなことをしていたら、復旧が終わってしまう。
どこも血まなこで、すぐに使える中古車を探していた。
同業者、つまりライバルから、いきなり買い取りの打診をされた
我々の気持ちがどんなものであったか。
敵は外でなく、中にいる‥
この思いを再認識したまでである。
「やっつけちゃおっか」
田辺君は、俳優の玉木宏に似た爽やかな笑顔で言った。
「永井部長を?」
「ううん、会社ごと。
何て名前だっけ?宗教の勧誘する経理部長といい、永井さんといい
バカを見逃して甘やかす会社に未来は無いよ?
早いか遅いかの違いだけで」
「待って!」
夫が止めたのは言うまでもない。
田辺君なら、やる。
ただの憎まれ口でなく、本当にやる。
その頭脳と豊富な情報量、そして各方面の人間関係を用いて
本社の泣きどころを押さえ
とことんまで追い詰めるであろうことに疑いの余地は無い。
けれども本社には、大変な時に助けてもらった恩義がある。
それに、バカを見逃して甘やかすという優しい社風によって
生き延びている台頭は、他でもない我々であった。
夫にストップをかけられた田辺君は少し残念そうだったが
帰り際にこう言った。
「でも永井さんが僕に直接何かしたら
その時は好きにやらせてもらっていいでしょ?」
夫は永井氏限定で、本社の方はそっとしておくようにと注釈をつけ
その提案を承諾した。
営業力でも人間性でも田辺君より格段に劣る永井部長が
表立って彼に何かするとは思えなかった。
よって田辺君のこの発言は
無いに等しいものとして一旦は忘れられた。
《続く》