「裏庭の菊桃、満開」
義母ヨシコは、二個目の胃癌の内視鏡手術を終えて、先週退院した。
先月入院した時と違い、今度はちょっと危険だった。
ヨシコは、今回の入院をひどく嫌がっていた。
それでもけなげに
「4月だと、3階の窓から桜が見えるわね。
前の入院で仲良くなった誰それさんにも会えるし…」
などと言って、心を奮い立たせている様子であった。
ところが行ってびっくり。
主に手術を受ける人が入院する3階病棟は
季節外れのインフルエンザが流行して、閉鎖になっていた。
ヨシコは否応なく、桜も新しいお友達も見えない
4階の整形リハビリ病棟へ入れられる。
手術の前日、私はヨシコに言った。
「明日はお義姉さんが付き添ってくれるそうよ」
ヨシコは首を振った。
「私も来ようか?」
ヨシコは嬉しそうに大きくうなづいた。
これは、かなり珍しい現象である。
娘さえいればオールOKの今までとは、違っていた。
ヨシコは、我が身に起きる危険を察知していたのかもしれない。
手術の当日、夫の姉カンジワ・ルイーゼと私
それに心配して駆けつけた叔母の3人は、午後から病院に詰めた。
癌とはいえ、手術は内科外来の内視鏡検査室で行われる。
その医療行為は、手術でなく「治療」と呼ばれ
外来患者のいなくなった夕方近く
胃カメラ検査をする簡易ベッドの上で、手軽にやる。
我々は、検査室の前の長椅子に座って
おしゃべりしながら手術が終わるのを待った。
しかし10分後、異変が起きる。
「ヨシコさ~ん!動かないで~!」
「じっとして~!」
「危ない!」
手術室と違い、ドア一枚へだてただけの検査室なので、中の声が筒抜けだ。
「何事だろう…」と腰を浮かせる叔母と私を尻目に
ルイーゼ、空手で習ったという柔軟体操をしている。
この平常心…さすがだ。
1時間後、ヨシコは意識不明で検査室から運び出された。
医師の説明によると、病巣はきれいに取り去ったが
何の原因か、意識をもうろうとさせる麻酔の効きが悪く
暴れ始めたので鎮静剤を打ったら、容体が急変したそうだ。
そのまま4階の病室へ戻るが、なにしろリハビリ病棟。
術前術後のケアに手厚い3階と違い
ヨシコのベッドには酸素吸入や、天井から点滴をぶら下げる
備え付けの設備すら無かった。
看護師も、日頃が老人のリハビリ患者相手なので
優しいが、緊急対応には慣れていない。
入院した時、実際に
「私達、内視鏡手術の患者さんは初めてなんです。
ヨシコさんのほうが詳しいでしょうから、教えてくださいね」
と言われて、おいおい…とつぶやいたのを思い出した。
数名の看護師が、機器の設置などハード面の対応に追われている最中
ヨシコは苦しみながら、胃液や胆汁を激しく嘔吐し始めた。
意識が無いので、強い酸性の体液が気管に入ったら厄介だ。
私は差し出がましいかとも思ったが、こいつらに任せちゃおけんとも思い
五十肩もなんのその、医師が駆けつけるまで
ヨシコを抱き起こすようにして、膿盆で吐しゃ物を受け続けた。
その間ルイーゼは、やはり足を拡げてのびのびと柔軟体操。
状況がわからないのか、母親のピンチを認めたくないのかは不明だが
これがルイーゼ…やはり、さすがだ。
やがて落ち着いたヨシコは、意識の無いまましきりにうわごとを言う。
「みりこんちゃん、ごはんは食べたの?
向いのコンビニで何か買っておいで」
「隣りにお寿司の店があるから」
自分の命が危ないのに、私の夕食を心配し続けるのだ。
母親というのは、ありがたいものである。
そこで私は、急に心配になる。
ヨシコは、こういう美しいうわごとが言える。
でも私なら、何を言い出すかわからんぞ。
麻酔なんかされたら、そっちの意味で危険だわ…。
ああ、健康第一…。
翌日ヨシコに聞いたら、何も覚えてないと言った。
ヨシコは、日を追うごとに元気になっていった。
10日間の入院中、義父アツシは
自分の入院している病院から、2回外泊許可を取って家に帰った。
手がかかるので、頼むから病院でじっとしていてくれ…と言いたいが
術後の危険な状態を知って「心配だから、見舞いたい」
と言われれば、むげに拒否はできない。
しかし病院を出たアツシは、行き先をヨシコの病院でなく、家と指定。
家に帰ると、そのまま横になって、しれっとテレビを見ていた。
やられた…と思うが、後の祭。
だまされたままではシャクなので
翌日車椅子に乗せて、ヨシコの元へ連行する。
「みんなが忙しいと言うから、昨日は来られなかった」
なんて、ヨシコにしゃあしゃあと言い訳しているではないか。
アツシは、どこまでもアツシなのであった。
かくしてヨシコは退院し、再び自宅療養中。
私は相変わらず、おさんどんと庭掃除をしながら
家のガラクタの処分にいそしんでいる。
余談だが、ヨシコは手術も含め、10日で5回胃カメラを飲んだ。
夫はそのうち3回、たまたま胃カメラ検査をする時に
私と一緒にヨシコを見舞っていた。
検査をする内科外来には、夫の昔の不倫相手E子がいる。
夫は毎回、いつの間にかどこかへ消え
検査が終わって病室へ戻ったら、フラリと現われた。
E子と顔を合わせたくなくて、意識的に中座するのか
本能で危険を感知し、無意識に消えてしまうのか
3回とも偶然なのかは、不明である。
解明する気も無い。
ギャラリーをゾロゾロと引き連れ、励まされながら検査室に向かいたいヨシコは
その都度、一人減っているのが不満そうであった。
義母ヨシコは、二個目の胃癌の内視鏡手術を終えて、先週退院した。
先月入院した時と違い、今度はちょっと危険だった。
ヨシコは、今回の入院をひどく嫌がっていた。
それでもけなげに
「4月だと、3階の窓から桜が見えるわね。
前の入院で仲良くなった誰それさんにも会えるし…」
などと言って、心を奮い立たせている様子であった。
ところが行ってびっくり。
主に手術を受ける人が入院する3階病棟は
季節外れのインフルエンザが流行して、閉鎖になっていた。
ヨシコは否応なく、桜も新しいお友達も見えない
4階の整形リハビリ病棟へ入れられる。
手術の前日、私はヨシコに言った。
「明日はお義姉さんが付き添ってくれるそうよ」
ヨシコは首を振った。
「私も来ようか?」
ヨシコは嬉しそうに大きくうなづいた。
これは、かなり珍しい現象である。
娘さえいればオールOKの今までとは、違っていた。
ヨシコは、我が身に起きる危険を察知していたのかもしれない。
手術の当日、夫の姉カンジワ・ルイーゼと私
それに心配して駆けつけた叔母の3人は、午後から病院に詰めた。
癌とはいえ、手術は内科外来の内視鏡検査室で行われる。
その医療行為は、手術でなく「治療」と呼ばれ
外来患者のいなくなった夕方近く
胃カメラ検査をする簡易ベッドの上で、手軽にやる。
我々は、検査室の前の長椅子に座って
おしゃべりしながら手術が終わるのを待った。
しかし10分後、異変が起きる。
「ヨシコさ~ん!動かないで~!」
「じっとして~!」
「危ない!」
手術室と違い、ドア一枚へだてただけの検査室なので、中の声が筒抜けだ。
「何事だろう…」と腰を浮かせる叔母と私を尻目に
ルイーゼ、空手で習ったという柔軟体操をしている。
この平常心…さすがだ。
1時間後、ヨシコは意識不明で検査室から運び出された。
医師の説明によると、病巣はきれいに取り去ったが
何の原因か、意識をもうろうとさせる麻酔の効きが悪く
暴れ始めたので鎮静剤を打ったら、容体が急変したそうだ。
そのまま4階の病室へ戻るが、なにしろリハビリ病棟。
術前術後のケアに手厚い3階と違い
ヨシコのベッドには酸素吸入や、天井から点滴をぶら下げる
備え付けの設備すら無かった。
看護師も、日頃が老人のリハビリ患者相手なので
優しいが、緊急対応には慣れていない。
入院した時、実際に
「私達、内視鏡手術の患者さんは初めてなんです。
ヨシコさんのほうが詳しいでしょうから、教えてくださいね」
と言われて、おいおい…とつぶやいたのを思い出した。
数名の看護師が、機器の設置などハード面の対応に追われている最中
ヨシコは苦しみながら、胃液や胆汁を激しく嘔吐し始めた。
意識が無いので、強い酸性の体液が気管に入ったら厄介だ。
私は差し出がましいかとも思ったが、こいつらに任せちゃおけんとも思い
五十肩もなんのその、医師が駆けつけるまで
ヨシコを抱き起こすようにして、膿盆で吐しゃ物を受け続けた。
その間ルイーゼは、やはり足を拡げてのびのびと柔軟体操。
状況がわからないのか、母親のピンチを認めたくないのかは不明だが
これがルイーゼ…やはり、さすがだ。
やがて落ち着いたヨシコは、意識の無いまましきりにうわごとを言う。
「みりこんちゃん、ごはんは食べたの?
向いのコンビニで何か買っておいで」
「隣りにお寿司の店があるから」
自分の命が危ないのに、私の夕食を心配し続けるのだ。
母親というのは、ありがたいものである。
そこで私は、急に心配になる。
ヨシコは、こういう美しいうわごとが言える。
でも私なら、何を言い出すかわからんぞ。
麻酔なんかされたら、そっちの意味で危険だわ…。
ああ、健康第一…。
翌日ヨシコに聞いたら、何も覚えてないと言った。
ヨシコは、日を追うごとに元気になっていった。
10日間の入院中、義父アツシは
自分の入院している病院から、2回外泊許可を取って家に帰った。
手がかかるので、頼むから病院でじっとしていてくれ…と言いたいが
術後の危険な状態を知って「心配だから、見舞いたい」
と言われれば、むげに拒否はできない。
しかし病院を出たアツシは、行き先をヨシコの病院でなく、家と指定。
家に帰ると、そのまま横になって、しれっとテレビを見ていた。
やられた…と思うが、後の祭。
だまされたままではシャクなので
翌日車椅子に乗せて、ヨシコの元へ連行する。
「みんなが忙しいと言うから、昨日は来られなかった」
なんて、ヨシコにしゃあしゃあと言い訳しているではないか。
アツシは、どこまでもアツシなのであった。
かくしてヨシコは退院し、再び自宅療養中。
私は相変わらず、おさんどんと庭掃除をしながら
家のガラクタの処分にいそしんでいる。
余談だが、ヨシコは手術も含め、10日で5回胃カメラを飲んだ。
夫はそのうち3回、たまたま胃カメラ検査をする時に
私と一緒にヨシコを見舞っていた。
検査をする内科外来には、夫の昔の不倫相手E子がいる。
夫は毎回、いつの間にかどこかへ消え
検査が終わって病室へ戻ったら、フラリと現われた。
E子と顔を合わせたくなくて、意識的に中座するのか
本能で危険を感知し、無意識に消えてしまうのか
3回とも偶然なのかは、不明である。
解明する気も無い。
ギャラリーをゾロゾロと引き連れ、励まされながら検査室に向かいたいヨシコは
その都度、一人減っているのが不満そうであった。