殿は今夜もご乱心

不倫が趣味の夫と暮らす
みりこんでスリリングな毎日をどうぞ!

現場はいま…ピカチューの乱・10

2024年04月29日 08時50分28秒 | シリーズ・現場はいま…

アキバ社長とT社長、そしてピカチュー…

三者の利益が一致しそうな新しい作戦を予測し

待ち構えていた先日、F社長から次男に電話があった。

「板野に会わん言うたけど、やっぱり会うことにしたけん」

彼は続ける。

「昨日、岩倉から詳しい話を聞いた。

あいつ、親父さん(夫のこと)の机を片付けとったそうじゃないか」

 

岩倉というのはF工業の運転手で、F社長の腹心。

彼はその前日、うちへ仕事に入ったが、わりと暇な日だったので

夫と話をしたらしい。

その会話の中で、夫が机のことをしゃべったという。

机のこととは

ピカチューとの口論で辞めると言い出した夫が

月曜日に出社したら、自分の机が片付けられていた件だ。

 

その時の夫は、あんまり気にしてない様子に見えた。

しかし、無口な夫がわざわざ岩倉君に話したところをみると

本当はショックだったみたい。

そして岩倉君も、会社に帰って社長に話したぐらいだから

机の件を重大事項ととらえたのだろう。

 

「ワシはこういうことが、いっちゃん好かんのよ。

親父さんで持っとる会社いうのが、何でわからんのかのぅ。

昨日の晩は腹が立って寝られんかった。

板野と会うて、礼儀教えとうなったわ」

ピカチューとの面会を断り続けていたF社長だが

机事件の話を聞いた途端、彼に会いたくなったのだ。

 

今回のことで私が一番腹を立てたのが、この机事件だった。

辞める者の机を片付けて何が悪い…

人が聞いたらこれで済む。

もちろん罪にはならないし、几帳面だと思われるかもしれない。

が、実際にやられた者にしかわからない、この悔しさ、無念。

巧妙な軽作業から滲み出る女々しさや卑怯は

怒りを通り越して寒気がする。

相手の心にうごめく激しい嫉妬が、強い不快感をもたらすのだ。

 

F社長も同じ感覚を持ち合わせているとなると

彼にも似たような体験があるのかもしれない。

気持ちをわかってくれる人がいて、胸がすいた。

 

F社長はなおも続ける。

「あいつがワシに会いたがる、いうたら配車のことに決まっとる。

うちを切ってK興業を入れたいんじゃろ。

その前にK興業と天秤かけるフリして、接待して欲しいんじゃ。

話は一応聞いてやるけど、死に金は使いとうないけん

接待はせんよ」

F社長も我々と同じことを考えたらしい。

 

「酒乱ですから、飲まさんでええです。

生意気なこと言うたら、好きにしてください」

次男は言った。

「どうなっても、許せの」

「全てお任せします」

 

ということで、F社長はピカチューと連休明けに会うこととなった。

彼は以前、山陰の仕事で永井営業部長に迷惑をかけられ

立て替えたお金も踏み倒されたが、逃げ回る永井部長を哀れに思い

その時は矛を収めた。

しかし今回、またもやF社長を巻き込んだのだから

眠れる獅子を起こしたも同様。

それらの怒りもピカチューに向けられるのは、決定事項だ。

彼にお任せしておこう。

 

 

さて、F社長に会えるのがよっぽど嬉しかったのか

ピカチューはその翌日、一度は諦めたアキバ産業との共同仕入れの件を

退院直後の河野常務に提案した。

ただし、共同仕入れなんてのをダイレクトに伝えたら

激怒されるのは必至なので、今回は内容を少し修正してきた。

 

その内容とは…

うちとアキバ産業が共通して扱っている数種類の商品の中で

1種類だけをアキバ産業の分も一緒に仕入れてもらえないか…

船から揚げた商品は、そちらの敷地へ一緒に置いてもらい

商品の運搬は各社がそれぞれ行う…

商品を置かせてもらう形になるアキバ産業は

月々の場所代をうちへ支払う…。

 

つまり「場所代を払うから、一緒に仕入れてよ。

運ぶのは自分でやるからさ」と言いながら

アキバ産業やK興業が、うちへ自由に出入りできる基盤を作る…

共同仕入れと配車をさりげなくミックスしつつ、いささかソフトに変えた案だ。

ピカチューにそんな知恵は無いので、あとの二人が考えたと思う。

 

が、努力もむなしく、ピカチューは常務に怒られた。

「場所代がナンボのもんじゃ!ちったぁ算数の勉強せえ!

何で隣の分まで仕入れてやらんにゃいけんのね!

ダンプだらけになるじゃないか!

おまえが交通整理するんか!」

この話を教えてくれたのは、常務の甥。

彼は息子たちの釣り仲間。

伯父さんのコネで、本社勤務をしている。

 

ともあれアキバ一味のアイデアには、残念ながら穴がある。

彼らだけに都合が良く、こちらにはメリットが無いからである。

わずかな場所代と引き換えに、隣の仕入れまで引き受けたら

こっちはいい笑いものだ。

しかも、うちとアキバ産業が同じような仕入れ値なら

このような案は出てこない。

うちの方がずいぶん安く仕入れていると知っているから

差額で場所代を払うと言い出せるのだ。

 

うちがアキバ産業より安く仕入れられるのは、当たり前である。

アキバ産業は自社の分だけを仕入れているが

こちらは本社の傘下である多くのグループ会社の中から

同じ商品が必要な支社の分をまとめて大量に仕入れる。

しかも支払いが早くて確実となれば

業者は末永く付き合いたいので値を下げるというわけだ。

 

その安い仕入れ値には、常務の交渉術が少なからず影響している。

中でもアキバ産業が一緒に仕入れて欲しいと言った商品は

比較的、燃料費のかかる取引先に納入するので

利幅を取るために値を叩きまくった。

 

そうして仕入れた大事な商品を

いとも簡単に一緒に仕入れて欲しいと言えるのはなぜか。

こちらの仕入れ値を知っているからではないか。

常務は必ず、それに気づくだろう。

彼はアイジンガー・ゼットの裏を知らないので

ピカチューを疑うはずだ。

そっちは常務にお任せしておこう。

 

《続く》

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現場はいま…ピカチューの乱・9

2024年04月25日 14時44分09秒 | シリーズ・現場はいま…

夫が思い通りに退職しなかったので

アキバ社長と善後策を話し合うため

連日のアキバ詣でを続けるピカチュー。

はたして彼らは、新たな一手を思いついたようである。

 

その気配は、F工業の社長からもたらされた。

F工業のことは、ここでも何度か話題にしたが

うちよりずっと多くのダンプを所有する大手で

お互いにダンプのチャーターをし合っている仕事仲間だ。

50代の社長はやり手で、他にも手広く事業を展開しており

こちらに何かあると助けてくれる

漢気が服を着ているような人物である。

 

数日前のこと、そのF社長から次男に電話があった。

「板野ってヤツが、N建設の社長を通して

ワシに会いたい言ようるんじゃけど、何が目的かの?」

 

ピカチューが着任してまる1年、今まで無視を貫きながら

ここにきて急に会いたがる謎もさることながら

彼に会いたければ次男に頼めば済むことなのに

無関係のN建設を間に挟んで連絡をしてくるのはおかしい…

F社長がピカチューのアポイントをいぶかしむのは、無理もなかった。

 

ちなみにN建設は市外の建設会社で、うちとの付き合いは全く無い。

そしてF工業とN建設は一緒に仕事をすることも多く

社長同士はとても親しい間柄。

そしてピカチューは以前、生コン会社に居た時

N建設の社長と顔見知りだったという関係性である。

 

つまりピカチューは

急にF工業の社長とお近づきになる必要にかられた。

しかし次男を介して会うのは都合が悪いらしく

F社長と親しいN建設の社長に連絡を取ってもらうことにした…

ということだ。

 

「回りくどいことされるの嫌じゃけん、断ってええかの?」

ピカチューの人となりを見抜いた様子のF社長に

次男はここしばらくで起きた出来事をかいつまんで話した。

「わかった、断るわ。

ワシ、これでも忙しい身じゃけんのぅ。

バカの相手をしてやる時間は無いんじゃ」

F社長は笑った。

 

 

ピカチューとアキバ産業が何を考えているか…

ここでピンとこなければ、建設業界で生きては行けない。

我々の脳裏に、まず共通して浮かんだのは

アキバ産業とピカチューが企てていた共同仕入れの作戦が消え

新しい作戦に変更したということである。

共同仕入れのことを河野常務に言って

ピカチューが怒られるのを楽しみにしていたというのに

残念じゃわ。

夫の退職騒動で常務に怒られたので、言えなくなったのかも。

 

では、新たな作戦とは何か…

この業界の人間なら、誰でもわかる。

仕入れの次に狙うのは、配車以外に無い。

安く仕入れることも大事だが

利益を左右する配車も同じく大事。

仕入れと配車、この二つを押さえておけば

たいていのことはどうにかなるのが、この業界なのだ。

 

配車といえば、心当たりは大いにあった。

隣市に、K興業という同業者がいる。

興業という名前でうっすらとおわかりのように

長年、反社組織の企業舎弟というプロフィールを活用し

仕事を獲得してきた会社だ。

そのため、うちとの付き合いは全く無い。

 

K興業は、10年ほど前に計画倒産して以降

社名だけを変更して同じ仕事を続けていたが

いつの頃からか、隣のアキバ産業へ

ダンプのチャーター仕事で入るようになった。

K興業のK社長とアキバ社長はここ数年

仲良しこよしのベッタリである。

 

一方、ピカチューもK興業の専務と同級生だそうな。

裏社会の人と親しいことを自慢するコモノが時々いるものだが

ピカチューも、それがご自慢で仕方がない。

 

K興業は小規模の会社なので

アキバ産業の衰退に連動して、近頃は景気が悪い。

よってK社長もアキバ社長も

お互いに厳しい現状打破と、事業拡大を熱望している。

そこで考えつくことは、誰でも同じだと思う。

「隣に入り込めないか?」

 

K興業がうちとチャーター契約を結べば、K社長は仕事が増えて嬉しい。

アキバ産業はK興業がうちへ入り、持ち前のヤカラ臭を漂わせて

邪魔者を辞めさせてくれたら嬉しい。

そうなったらピカチューは、ご自慢の同級生に顔が立つだけでなく

邪魔者が消えて自分の天下になるので嬉しい。

 

K興業の活躍により、うちの運転手が減ったら

アキバ産業とK興業からすぐ補充できる。

一旦退職させて、募集に応募させればいい。

うちはアキバ産業やK興業より給料がいいので

両社の運転手は喜んで就職し直すだろう。

 

こうして内部から侵食を進め

「隣を淘汰して、アキバ産業が成り代わる」

この目的を難なく達成…そう考えているのが手に取るようにわかる。

うち以外のみんなが嬉しくなっちゃう作戦といったら

これしか無いので間違いない。

 

しかし、そのためにはハードルが一つ。

F工業だ。

ピカチューがいきなり

「あんたら、手を引いてちょうだい」

なんて言ったら血の雨が降るのが、この業界。

無知なピカチューでも、それくらいはわかるはずだ。

 

だからまず、F社長に挨拶と言って近づく。

そして親しくなったら、K興業のダンプも1台か2台

入らせてくれと言う。

F工業がすんなり了解すれば、最初はわずかな台数でも

だんだんK興業のダンプを増やしていって、最終的にF工業を切る。

F社長が拒否したら口論し、とっても怒ったということで

やっぱり切る。

ピカチューでもできそうなことといったら、その程度だ。

 

が、K興業がうちへ入る目は無いように思う。

ピカチューの前任、松木氏が入社して間もない頃だった。

K社長から「入らせて欲しい」と頼まれ

張り切って河野常務に言ったところ、メチャクチャ怒られた前例がある。

 

それまで瓦屋のアルバイトだったのが、急に営業所長になり

肩書きの付いた名刺を誰かれなく嬉しげに配り歩いたので

つけ込まれたのだ。

難しい所とわざわざ取引するな…というのが常務の意見だった。

《続く》

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現場はいま…ピカチューの乱・8

2024年04月22日 13時06分49秒 | シリーズ・現場はいま…

河野常務の介入により、夫の退職騒動はひとまずおさまった。

そしてピカチューは、相変わらずアキバ産業へ出入りしている。

退職騒動以降、その頻度はいちだんと増え

今やほぼ毎日、入り浸っていると言った方が正しい。

目の上のタンコブが辞め損ねたので

アキバ社長と前後策を話し合っているのだろう。

 

我々は、それでいいと思っている。

常務には、あえて何も言ってない。

アキバ産業のことは、常務を始めとする本社と

本社直営の営業所長ピカチューの二者が検討する案件であり

我々子会社の仕事とは無関係なので放置しておく。

何事も、出過ぎは良くない。

 

よって常務は、ピカチューが何を企んでいるかを知らない。

知ったら怒り狂って、アキバ産業への出入りを止めるだろう。

なぜって共同仕入れと言えば聞こえは良いが、要は

「あんたとこの信用と金で、うちの商品も一緒に仕入れてよ。

うちが使った分は、後で払うからさ。

二軒分をまとめて仕入れたら、あんたとこも値をたたけて

安くなるでしょ?」

そのようなムシのいい話なのだ。

 

ピカチューがまだ無事で、アキバ産業へ通っているということは

共同仕入れの件を常務にまだ伝えてないということになる。

無知な彼もさすがに躊躇しているのか

それとも酒の接待をもっと受けたくて焦らしているのかは不明だが

ピカチューの口から直接言わせ

どうなるかを眺める方が面白いではないか。

 

我々の悠長ぶりは以前、似た流れを経験しているからである。

ピカチューの前任者だった昼あんどんセクハラ男、あの藤村も

アキバ産業に取り込まれようとしていた。

銀行管理になったのが、ちょうどその頃という符号から

アキバ社長の焦りがわかるというものだ。

 

アホの藤村はすぐに引っかかり、アキバの事務所に通い始めた。

が、2ヶ月もしないうちに、自分が入社させた女運転手から

労基に訴えられて左遷されたので、その時は未遂に終わった。

 

藤村が去った後、別の支社へ飛ばされていた松木氏が再び返り咲いたが

アキバ産業は彼に手を出さなかった。

出せなかったのだ。

返り咲いてほどなく、松木氏は肺癌が見つかり

休みがちになったからである。

 

これらの失敗があるので、今回アキバ社長は満を持して

スパイを送り込むという手の込んだ作戦に出たと思われる。

そのドラマチックかつ古典的な手段ときたら、ゾクゾクしちゃうわ。

しかもスパイは新規採用でなく、彼の愛人…

つまり在庫だぞ。

経費節約にもほどがある。

 

その在庫に引っかかったのが夫、そしてピカチュー。

ついでに言うと本社の窓際、ダイちゃんも引っかかった。

入れ食いじゃねぇか。

 

これがせめて美人ならまだしも

つり目でエラの張った、色黒のガリガリ。

蜘蛛(クモ)みたいな四十女だ。

こんな見るも無惨な不細工をなぜ?と思うが

アキバ社長の好みは細けりゃいいらしく、これでイケると踏んだらしい。

そしてその目論見は、見事に当たった。

 

ところでアイジンガー・ゼットだが

この4月16日をもって正社員となった。

給料の締め日が15日なので、16日からなのだ。

彼女を正社員にする運動は昨年、ダイちゃんによって開始され

今年に入ってピカチューも運動に参加。

二人の強力な推しで、アイジンガー・ゼットは

アルバイトから正社員へ昇進の運びとなった。

 

腹が立たないのかって?

今後、あの女もボーナスをもらうのは憎たらしいけど

私のお金で払うわけじゃないし、他は全然。

日頃、言っているだろう。

私は事務員としての彼女を気に入っている。

他県の出身、嫌われ者で地元に友だちがいない…

これは雇う側にとって、垂涎のプロフィールだ。

 

うちは家族と仕事がごっちゃになった会社なので

そこいらのおばさんを入れて、家のことや社員のことを

地元でベラベラしゃべられるほど迷惑なことは無い。

筒抜けなのは、隣のアキバ産業だけ…

範囲が限定されている安心感は大きい。

 

けれども我々は、心がけの良くない人々が

一時の幸運をつかんでは転落していったさまを見てきた。

嘘と芝居で本社の信頼を得、こちらでの営業所長に加えて

大阪支店の支店長という肩書きをもらって有頂天だった藤村は

労基に訴えられるという予想外の事態で左遷されたし

同じく嘘と芝居でデキる男を装ってきた松木氏は

藤村の左遷後、営業所長より一つ上の

次長という肩書きをもらって返り咲いたが

すぐ病気になって、結局は退職した。

 

そしてピカチューは、登りはしないものの

何やら勘違いをして威張り散らしたあげく

所長代理への格下げが決まった。

アイジンガー・ゼットの正社員登用という幸運も

あんまり手放しで喜べるものではないような気がするのだ。

 

一方、息子たちは正社員の件が、かなり気に入らない様子。

16日の朝礼で、ピカチューがアイジンガー・ゼットを皆の前に立たせ

社員昇格を発表しようとしたので、長男と次男は事務所を出たという。

 

このことを本人たちから聞いた私は、言った。

「バカじゃね!祝ってあげんさいや」

「親父を陥れたヤツじゃん!」

「スパイを正社員にして、狂っとる!」

二人は不満そうだ。

 

何を子供じみたこと言うとるん…

私はたたみかける。

「一緒に働く仲間じゃけん、こういう時は拍手して

お祝いを言うてあげるもんよ」

「ええ〜?無理!」

「満面の笑顔でパチパチしてあげて

“おめでとう!これからも情報漏洩に励んでくださいね!”

これが大人っちゅうもんじゃん。

それを話の途中で出るとは…あんたら、ホンマに私の子か?」

 

同じ日、ピカチューも所長から、所長代理へと降格になった。

それについて、ピカチューからの発表は無かったそうだ。

《続く》

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現場はいま…ピカチューの乱・7

2024年04月17日 15時09分15秒 | シリーズ・現場はいま…

夫が出社したら、自分の机の上や引き出しが片付けられていた…

これを聞いて、非常に腹を立てた私。

ピカチューめ、まだ退職願いも提出していないうちから

何ていやらしいことをするのだ。

夫や息子たちの暴力を回避するだの何だのと言った私だが

自分がやられたら、絶対にカッとなってピカチューを殴っている。

 

ともあれ夫は、打ち合わせ通りのセリフを言った。

「続けることになったけん、鍵と携帯、返して。

どっちかがおらんようになるまで、いがみ合おうで」

それを聞いたピカチューは青くなり、沈黙したまま動かなくなった。

 

「はよ返せや」

夫が催促すると、ピカチューはシブシブ事務所の外へ。

どこへ行くのかと思って見ていたら

ノロノロと歩いて駐車場に停めた自分の社用車へ向かう。

そして車の中から携帯を取り出すと

またノロノロと事務所に戻って夫に渡した。

そのダラけた仕草に、夫は殴ってやろうかと思ったそうだ。

 

こうして携帯は返ってきた。

しかし鍵の方は、今無いとおっしゃる。

夫が土曜日に置いて帰った鍵はその日のうちに

アイジンガー・ゼットに渡されていたのだ。

彼女が出勤する9時にならないと、鍵は返せない…

ピカチューは言うのだった。

 

事務所の鍵はセキュリティーの観点から、スペアキーが高価。

よって鍵を持っているのは

ピカチュー、夫、長男、次男の4人だったが

ピカチューのやつ、これからはアイジンガー・ゼットを

自由に事務所へ出入りさせるつもりだったらしい。

 

渡すピカチューもピカチューだが

受け取るアイジンガー・ゼットも相当なタマだ。

とはいえ去年、彼女を入社させた時点から

セキュリティーどころの騒ぎではない。

鍵の権威は地に落ちたというところよ。

 

そんなわけで、私はこの話を聞いて大笑いした。

しかし夫は、マジでピカチューを◯してやろうかと思ったそうだ。

◯すんならアイジンガー・ゼットもだろうと思うが

夫の怒りはピカチューに一点集中。

自分のカノジョと錯覚した女には、甘いものだ。

 

腹を立てた夫がピカチューの襟首に手を伸ばそうとした瞬間

さっき取り返したばかりの携帯が鳴った。

河野常務からだ。

この着信で、夫は警察沙汰にならずに済み

ピカチューの方は寿命が伸びたというわけ。

 

「おお、ヒロシ!携帯は戻ったんじゃの!」

「はい、お陰様で」

「そこに板野はおるか?」

「います」

「ちょっと代われ」

夫はピカチューに、自分の携帯を渡した。

 

電話を代わったピカチュー、最初のうちはのんきに挨拶などしていたが

すぐに事務所の外へ走り出たという。

「怒られるところをワシに見られとうなかったんじゃろう」

夫は言った。

恥も外聞も無いことをしておきながら、そういうのは恥ずかしいらしい。

 

長い電話が終わり、事務所に戻ってきたピカチューは

さっきよりもっと青い顔になり、黙って携帯を差し出した。

「常務が代われって」

夫が電話に出ると、常務は言った。

「板野は所長代理に降格じゃ。

社用車も取り上げる。

これでまだ生意気なことしやがったら、飛ばすけんの」

夫の喜ぶまいことか。

 

常務は同じ電話で、ピカチューに言った内容も話した。

「ヒロシを辞めさせる、いうことは

ヒロシが持っとる◯◯社や⬜︎⬜︎建設(財閥系一部上場企業)

の売上げを捨てることで。

変な形で追い出したら、取引は終わるど。

あんたは、減った分の売上げをカバーできるんか」

数字にシビアな常務らしい正論である。

売上げのことを言われると

営業未経験のピカチューはグウの音も出なかっただろう。

 

夫は、親がいじめっ子を叱ってくれたように思っているが

実際は違うと思う。

常務にしてみれば、自分は入院して動けない時期で

会社は年度末から年度始めにかけての微妙な時期だ。

ピカチューは仮にも所長でありながら

いつもより慎重になるどころか、自分の留守を狙ったように

職権を超えてクビ切りをやろうとした。

時期と立場をわきまえず、出過ぎた真似をしたピカチューに

常務は怒っているのだ。

 

ちなみに常務は、アイジンガー・ゼットの素性を知らない。

そしてこちらも、病人に余計なことを吹き込む気は無い。

アイジンガー・ゼットがアキバ社長の愛人でも

こちらの会社の情報がダダ漏れでも

ピカチューが誘惑されても、それらは犯罪ではないからだ。

アキバ産業との積年の確執は、我々の個人的な問題であって

本社には関係無いのである。

 

そしてまた、情報がダダ漏れでも

業務に支障が起きないのが、この仕事最大の長所。

特許も秘法も存在しない、ただ運転手という人材だけが宝の

いたってオープンな商売である。

その宝たちを引き抜かれたら?

そんな心配はいらない。

うちより給料の安いアキバ産業へ動くわけがない。

仮に動いたとしても、うちには順番待ちが数人いる。

 

だから彼らがあれこれ画策したければ、存分にやってみればいい。

何ができるか、私はぜひ見たい。

そのたびにゴタゴタは起きるだろうが

一番悪いのはアイジンガー・ゼットを入社させた夫なので

身から出たサビと思って耐えればいいのだ。

 

さて、夫が常務と話している間に、アイジンガー・ゼットが出勤。

ピカチューに言われて鍵を返した。

それをピカチューが夫に返して、一件落着だ。

それにしても彼女、この日はいつもより30分も早い出勤だったらしい。

辞めたと思ってルンルンで来たら夫がいたので

びっくりしたことだろう。

 

その後のピカチューだが、シュンとしていたのはその日だけで

翌日の火曜日からは平常運転。

社内では相変わらず見当違いの指示を出して迷惑がられながら

アキバ産業の事務所へ出入りしている。

 

《続く》

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現場はいま…ピカチューの乱・6

2024年04月13日 10時08分45秒 | シリーズ・現場はいま…

運命の月曜日、4月1日の朝になった。

前夜、河野常務に辞めるなと言われて上機嫌の夫。

「少なくともあと3年、70才まではワシが辞めさせん。

それでも辞める言うんなら、ワシが納得する理由を持って来い」

そう言われた夫は、常務がピカチューより自分を選んでくれたと

心底喜んでいるのだ。

 

常務は確かに情に厚く、夫を可愛がっているが

「八掛け半額二割引き」が口癖。

何か買う時は、まず八割に値切り

相手が応じると、その値段を半額にしろと交渉し

最後に二割引きを要求するという、悪どい値切り方を指すものである。

 

実際にはそこまで値切るなんて不可能だが

転んでもタダでは起きない彼の習性を鑑みると

“あと3年”という期間は、去年、夫が試験を受けて更新した

産業廃棄物取扱免許に関係していると思う。

5年ごとの更新なので、70才を過ぎたらまた更新だ。

その時、夫がまだ使い物になっていればいい。

しかし、そうでない場合は名義変更を余儀なくされる。

常務はその手間と経費のことも考慮して

現状維持を望んでいるのかもしれない。

 

ともあれ4日1日といえば、慌ただしい年度末が終わり

新年度が始まる特別な日。

建設業界にとって、年度末から年度始めのこの時期は

前年度の売上げと利益がはっきり出て

新年度の目標や戦略が発表される大切な期間だ。

もちろん本社も同じ…というより

神経質に見えるくらい敏感になってこの時期を過ごす。

 

実のところ、今回の件で私が最も注目していたのはこれなのだ。

ピカチューは新年度を

新しい環境で迎えるつもりだったのではなかろうか。

邪魔な夫を排除し、アキバ産業と共に新たなスタートを切りたくて

急いでいたのではないか。

夫が自分から辞めると言い出したのは、計算外の喜びだったかもしれない。

 

しかし一方で、私はピカチューを買いかぶっているのかもしれない…

とも思う。

彼の頭からは時期的な要素が抜けていて

たまたま衝動的にやったとしたら。

このような魔の期間に妙なことをやらかし

永井営業部長が飛んで来る事態を引き起こせば

本社の神経を逆なでする。

ピカチューが切に願う安泰から、全力で逆走しているようなものである。

だとすれば、彼はこちらが思う以上のおバカさんだ。

 

さて、夫はスキップでもしそうな明るさで、7時過ぎに家を出た。

いつもなら、まだ誰も出勤してない6時過ぎに出勤するのが習慣だが

ピカチューに鍵を渡したので事務所の中に入れないため

遅い出勤である。

 

息子たちも鍵を持っているが、あえて借りなかった。

「どうせならピカチューと対面するまで

退職勧告された身の上を大袈裟に演じておけ」

私の助言によるものである。

今後、事態が悪化した場合に備えるためだ。

 

もしもこの問題がもっと大きく発展した場合

「鍵が無いので、いつもより1時間遅く出社しました」

そう主張すれば、ピカチューが権限を無視して退職勧告をし

さらに鍵や携帯まで取り上げた横暴を印象付けられるではないか。

たいしたことではないが、このような小さな事実の積み重ねが

身を守ることだってある。

 

そして息子たちは、夫の子供である前にいち社員。

子供から借りた鍵を使って事務所に入るのは、賢い行動ではない。

敵が辞めたと思い込み、ルンルンで出勤した彼は

夫を見て衝撃を受けるであろう。

逆上して不法侵入だの何だのと騒いだら

夫はもとより、息子たちも冷静を保てるかどうか。

 

私が懸念するのは、暴力沙汰よ。

何はともあれ暴力は、分が悪くなるので回避したいではないか。

ピカチューが本当に狙っているのは、これかもしれないのだ。

程度に関係なく、少しでも手を出したらヤツの思うツボである。

 

やがて出勤から1時間後、夫から私の携帯に着信が。

夫が電話をかけてきたということは

ピカチューから無事に携帯を取り返したことを意味する。

復帰はうまくいったらしい。

 

事務所に座っていたピカチューは

夫の顔を見て、やはり驚いていたという。

「母さんの言うた通りをヤツに言うたら、赤い顔が青になったわ」

夫は弾んだ声だ。

 

「ピカチューの顔見たら、最初に何て言おうか」

出がけに夫は私に問うた。

「続けることになったけん、鍵と携帯、返して。

どっちかがおらんようになるまで、いがみ合おうで」

だからこのセリフを教え、復唱させた。

“いがみ合おうで”…

それがこのセリフのキモ。

あれこれ言わせようとしたって、夫には無理だ。

言葉尻を捉えられても応戦できないため

言いやすくてインパクトの強い言葉を選んだ。

この7文字で、お前を絶対に許さないという決意は伝わるはずだ。

 

他に助言したことといったら

こっちが戦闘的になったら向こうも意固地になる…

肩の力を抜いて普通に接するように…

このセリフ以外のことは何も言うな…

ぐらいか。

もちろん、河野常務からの電話のこともだ。

とにかく情報を与えないことが、肝心。

なぜ?なぜ?とつまらぬ空想をして、苦しめばいいのだ。

 

以下は、夫が私に話した一部始終である。

…事務所に入ると、ピカチューが座っていた。

夫を見て驚いたが、夫はもっと驚いた。

自分の机の上に置いてあった物が、片付けられていたからだ。

引き出しの中の物も全て出され、床の段ボールに投げ込まれていて

机は最初から誰も使ってないみたいに綺麗だったという。

私なら、ここでピカチューをぶん殴っていること請け合い。

が、夫の神経は違うようで、驚きはしたものの

私ほどの激しい怒りは感じなかったそうだ。

 

《続く》

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現場はいま…ピカチューの乱・5

2024年04月12日 08時54分49秒 | シリーズ・現場はいま…

夫を身限ったアイジンガー・ゼットと

その背後にいるアキバ社長の動きは早かった。

アイジンガー・ゼットがピカチューをアキバ社長に会わせ

酒を飲ませて親交を深める。

そして昼間は会社で、アイジンガー・ゼットの大サービス。

ピカチューに、遅い青春が訪れた。


さらに想像を働かせるなら

ピカチューはアイジンガー・ゼットと恋人気分かもしれない。

恋は、弱い男を強くする。

強くするというより、怖いものを無くすと表現した方が的確だろう。

冴えないおじさんにとって、不倫は人生の夢。

アイジンガー・ゼットの存在は、手ぶらで向かうはずだった冥土への

土産になるかもしれない希望の光である。


だからピカチューは、夫に「辞めろ」と吠えることができたのだ。

常識で考えて、64才の男が二つ年上の先輩に向かって

「辞めろ」とは、なかなか言えるものではない。

恋の力はすごいのだ。

恋の好きな夫と暮らしてきた私には、よくわかる。


「次は家庭裁判所で会おうで!」

太古の昔、駆け落ちした夫は、女の前で私に吠えた。

鬼のように眉毛を釣り上げ、肩をいからせて自身を鼓舞しながら

本当の敵…快楽に逃避する己の心には目を背けたまま

比較的言いやすい相手を選んで牙を向ける。

女に義理立てしようと必死に虚勢を張った、あの時の夫と

今のピカチューは同じ症状だ。


アイジンガー・ゼットはピカチューに、夫のことを何か訴えたかもしれない。

「弄ばれて捨てられた」、「セクハラを受けている」だったら面白いんだが

あるいは「高待遇と聞いて入社したのに、全然違って騙された」

みたいなことだ。


男には、かわいそうに思う女を守りたい本能がある。

彼はアイジンガー・ゼットを守るために

夫を排除しようと決意したのだ。

でなければピカチューがあのような暴言を吐いて

夫に喧嘩を売ることは難しい。

口で言うのは簡単だが、いざやるとなると

パワハラのリスクや、夫のいなくなった会社を一人で切り盛りする無茶

夫に付いて辞めるであろう、うちの息子たちを始めとする運転手

それらを考えると、なかなかできるものではない。


特に運転手は深刻。

夫と一緒に辞めるのが、うちの息子2人だけだったとしても

ダンプが2台が止まる。

次を募集して応募を待ち、面接、採用

広島市内にある関係機関での運転講習と適正検査

それから助手席に乗せてオリエンテーション

各取引先への運転者及び車両登録…

これらを経て再び稼働するまで、早くても十日はかかる。


その間、2台分の売上げはゼロ。

月間売上げはガクンと下がり

車両を遊ばせるのが嫌いな本社からは大目玉。

その原因を作ったピカチューは早晩、進退を問われる羽目になる。

夫を追い出すことだけに血道を上げ

自分の首を絞めていることすらわからない…

ピカチューがいかに無知か、わかるというものだ。


そんなことはつゆ知らず、ピカチューは

お隣さんとの業務提携に障害となっている夫を辞めさせ

会社を自分の天下にすることに夢中だ。

夫を排除したら、さっそくお隣さんと組んでMOREタダ酒。

同時にアイジンガー・ゼットも手中に収める。

はたから見ると、“騙されたバカ”にしか見えないのが残念なところよ。


彼を動かした原動力は、老いらくの恋。

私はこの結論に達した。

全て想像と言えばそれまでだが、これで間違いないと断言できる。


私はこのシリーズの3で、こう申し上げた。

『このようなとんでもない出来事の裏には

必ず別の真実が隠れていることを知った。

そして別の真実とは、思わず「へ?」と聞き返してしまうような

意外かつ軽薄な内容であることも知った。

その「へ?」を探してやろうではないか』

…結果、「へ?」は、ここに発見できた次第である。



さて、夫がピカチューと喧嘩をした土曜日に戻ろう。

全容を把握した私は、ピカチューに復讐する目標をあきらめた。

だってアイジンガー・ゼットに鼻毛を抜かれ

会社に入れたのは他でもない夫である。

そもそもの原因を作ったのは夫なんだから

そこを追求されたら返す言葉が無い。

ピカチューの暴挙ばかりを責めるわけにいかないではないか。


夫にそれを言うと、「そこなんよ…」と、あっさり同意する。

他人事か。

何だか面倒くさくなったので

ジタバタしないで河野常務のお沙汰を待つことにした。


翌日の日曜日、夫は朝から手持ち無沙汰だ。

日曜だろうと祝祭日だろうと、彼は早朝、必ず会社へ行き

誰もいない事務所で一人の時間を過ごすのが休日のルーティーン。

けれどもこの日は、それができない。

ピカチューに事務所の鍵を渡してしまったからだ。

彼に夫の鍵や携帯電話を奪う権限は無いというのに

それをあえてやるピカチュー…やっぱり恋の力はすごい。


会社へ行けず、携帯も鳴らず

所在なく庭石に腰掛けて、犬とたわむれるしかない夫。

バドミントンで痛めている足も辛そうよ。

不細工な女にのぼせて会社に入れたことを少しは悔やめ。


日曜日の夜になった。

「明日の朝、一回会社へ行ってシゲちゃん(夫の重機アシスタント)に

まだやらせてない積込みを教えとくわ」

夫は力無く言った。


取引先によっては、特殊な積み方がある。

シゲちゃんの実力では危ないので、教えてないことが幾つかあった。

「シゲちゃんが一回で覚えるとは思えんけど」

「辞めるんじゃけん、仕方がない」


そんなことを話していた20時半、家の電話が鳴る。

たまたま夫が出たら、河野常務からだった。

「ヒロシ、携帯が全然繋がらんじゃないか!どしたんね!」

常務の声は大きいので、途切れ途切れにおよその内容が聞こえる。


「僕の携帯は板野さんが持ってます」

「なんでじゃ!」

「辞めるように言われたんで、事務所の鍵と一緒に渡しました」

「なに〜?!」


河野常務と夫は、しばらく話していた。

後で夫が話すには、河野常務は「絶対に辞めるな」と言ったそうだ。

息子たちにも辞めてはいけないと伝えるように…

退院したら真っ先にそっちへ行く…

自分の入院中に、こんなことをしでかした板野は許さない…。


電話の後、夫はケロリと明るくなった。

「常務が辞めるな言うけん、辞められんのぅ」

嬉しそうにつぶやいている。

さっきまでシュンとしていたのに、ゲンキンなもんだ。

「今回のことで、ようわかった。

自分から先に、辞める言うもんじゃないのぅ」

いつになく反省めいたことを口にする夫。

それはいいから、短気を起こして

病床の常務をわずらわせたことを反省しろよ。

《続く》

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現場はいま…ピカチューの乱・4

2024年04月10日 14時50分20秒 | シリーズ・現場はいま…
さて、ここまでのいきさつを一旦整理してみよう。

少々複雑な内容になってしまったので、これはご覧くださる皆さまへの配慮…

と申し上げていい子ぶりたいところだが

お話ししている私自身が混乱しそうなので、おさらいのつもりである。

前記事と重複するが、お付き合い願いたい。


3月29日の夕方、酔ったピカチューが次男に電話をかけて暴言を吐いた。

内容は、「自分の言うことを聞かない」というもの。

その様子を目の前で見た夫は腹を立て

翌朝ピカチューに、酔って電話をしたことを抗議した。

夫の予定ではこれで終わるはずだったが、ピカチューは激しい抵抗を見せ

二人は言い争いになった。


「ワシの言うことが聞けんのなら辞めぇ!」

ピカチューが放った予想外の強気発言に、夫は逆上。

「辞めたるわい!」

そう言って事務所の鍵と携帯を置き、その日は休みを取っていたので

そのまま家に帰った。


二人のやり取りを事務所の外で聞いていた次男は

取り急ぎ、直属上司の河野常務に連絡。

入院中で動けない常務は、本社から永井営業部長を差し向け

ピカチューと次男から事情聴取をさせた。

しかしピカチューは「酔っていたので忘れた」を繰り返し

酒を飲んで電話をした行為しか認めなかったため

事情聴取はウヤムヤのまま終わった。


辞めると断言し、怒り心頭で家に帰って来た夫だが

その後、激しく後悔しているのが見て取れた。

この何十年、会社が好き、仕事が好きで生きて来た夫が

腹立ちまぎれに辞めて、大丈夫だろうか…

しかも相手は、たかだかピカチュー…

あんなコモノのために、夫の40年余りに渡る歴史を途絶えさせていいのか…

明るく振る舞ってはいるものの、内心は意気消沈している夫を見て

私は思うのだった。


このまま辞めるのであれば、仕方がない。

薄い味噌汁をすすり、漬物をおかずに不死身の義母を養って生きて行こう。

嫌だけど。

しかし、運命がこれを許すだろうか。

これまで何があっても、夫は必ず誰かのサポートによって生き残ってきたのだ。

夫は必ず会社に残る…私には確信があった。


残るとすれば、問題が。

だって、私がピカチューなら絶対言うもんね。

「てめぇ、吐いたツバ飲むんか」

男がこれを言われたら、ものすごく辛いと思う。

これをピカチューに言わせないためには

今後どう立ち回るかを考えておかなければならない。


しかし、それを考えるには

ピカチューが豹変した原因を究明しておく必要があった。

酔って突然、次男に電話をかけたのはなぜか。

煙たいはずの夫に「辞めろ」とまで言えた、その原動力は何なのか。

ピカチューの身に一体何が起きたのかを知らなければ、彼の次の行動が読めない。


次男からこの件を聞いた常務は、永井営業部長の報告を待って

近日中に必ず夫に連絡を取るはずだ。

その時、夫が冷静を欠いて、きちんとした受け答えをしなければ

非はピカチューにありながら、喧嘩両成敗になってしまう可能性がある。

もちろん常務は夫の味方ではあるが

ピカチューが前任の松木氏や藤村のように嘘八百を並べる恐れはゼロではない。

手術を控えた常務に1ミリの疑惑も残さないよう努め

安心してもらうためには、取り急ぎ夫と真実を共有し

善後策を話し合っておくに越したことは無いのだ。


ピカチューの粗野な言動が不可解なのは、夫が何かを隠しているから…

私にはそう思えた。

夫が隠すといったら、女のことしか無い。

アイジンガー・ゼットが、裏で何かやらかしているのは確実だ。

「ピカチューが突然変わったのと、アキバ産業は関係があるか」

私はこの一つだけを問い、女のことではない質問に安心した夫は

ピカチューがアキバ産業との共同仕入れを言い出し

自分が拒絶したことをしゃべった。

次男への電話も、夫に辞めろと言ったのも、これが原因だった。


ピカチューは自分の計画を却下した夫と

アキバ産業に近づかない方がいいと言う次男を恨んでいたのだ。

愚かな人間はうまくいかないことがあると

誰かを憎むことしかできないものである。


このことから私は、アイジンガー・ゼットが夫を見限り

ピカチューに乗り換えたと判断。

その瞬間には、心当たりがあった。

時は2月初旬、3年に1回の巡回監査があった日のこと。

おカミの天下り機関から人が来て、労働基準に違反してないか

タコメーターの管理はしっかりされているか

書類は正しく記入されているか

アルコールチェックはちゃんとやっているか、などを細かく調べるのだ。


この時、対応のために、本社から元経理部長のダイちゃんが来た。

彼は合併以来ずっとこの検査に立ち会って慣れているのもあるが

前の事務員、推定体重100キロ超のトトロから

今のアイジンガー・ゼットに代わって以来

何やかんやと理由をつけてしょっちゅう来るようになり

監査当日も朝から張り切ってやって来たそうだ。

アイジンガー・ゼットはお世辞にも美人とは言い難いが

愛人をやるぐらいだから、男あしらいがうまいのかもしれない。


やがて監査官が到着した時、ダイちゃんは夫に言った。

「ヒロシさんは、出て行ってくれる?」

そう言われれば、事務所の外へ出るしかない。

中には二人の監査官と、こちら側の立会人として

ダイちゃん、ピカチュー、そしてアイジンガー・ゼットが残った。


昼休みに帰って来るなり、このことを私に言ったぐらいだから

夫はかなりショックだったらしい。

監査は楽しい時間ではないが、今まではずっと立ち会ってきた。

それが今回はピカチューとアイジンガー・ゼットが残され

自分だけ追い出されたんだから、戦力外通告と同じだ。

こちらでは新米のピカチューと

錯覚とはいえ一時は自分のカノジョと思っていたアイジンガー・ゼットの前で

夫のプライドはズタズタになったのである。


ダイちゃんは、我々が彼の信仰する宗教への入信を断って以来

夫や息子たちに手厳しい。

彼はお気に入りのアイジンガー・ゼットの前で

夫に冷たく命令して見せたかったのだと思う。

初めての監査で緊張するピカチューにも、ええカッコがしたかったと思う。

社内での宗教勧誘が原因で左遷され

窓際になったダイちゃんが威張れる場といったら

事情を知らないアレらの前だけなのだ。


「面倒くさい監査から逃げられて、良かったじゃんか」

ダイちゃんの仕打ちに傷ついている夫を慰めたのはともかく

ピカチューが夫より上だと勘違いしたのも

アイジンガー・ゼットが夫を見限ってピカチューに乗り換えたのも

この時からと見て間違いない。

ピカチューとアイジンガー・ゼットがラブラブになったのも

ピカチューがアキバ産業へ出入りし始めたのも、同じ2ヶ月前なんだから

誰でもわかるというものだ。

アキバ社長とアイジンガー・ゼットは、この時を境にターゲットを変更したのである。


《続く》
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現場はいま…ピカチューの乱・3

2024年04月09日 11時12分03秒 | シリーズ・現場はいま…

家の前の桜も満開。


ピカチューの不可解な豹変は

夫が肝心なことを隠して説明しているから…

その肝心なこととは、私には口が裂けても言えない唯一の事柄…

すなわち女絡み…

女といえば事務員のノゾミ、通称アイジンガー・ゼット…

あいつが絡んでいるに違いない…

ここまでは確信した。


ピカチューの暴走を止めるには、夫が隠している事実を把握する必要がある。

今さら、夫の秘密を知りたいわけではない。

実はどうでもいい。

しかし事実を引き出して正しい判断をしなければ

夫は後悔したまま会社を去ることになる。

ピカチューの思い通りにはさせない。


会社の件に限らず、過去にこういうことは何度もあった。

肝心なことを言わずに

起きたこと、やられたことばかりを訴える夫に翻弄され

鼻息も荒く彼を守ろうとした若き日の私。

そのために恥もかいたし、敵も作った。

ずっと後になって、何も知らなかったのは自分だけだとわかり

情けない思いをしたものである。


それら数々の経験から、このようなとんでもない出来事の裏には

必ず別の真実が隠れていることを知った。

そして別の真実とは、思わず「へ?」と聞き返してしまうような

意外かつ軽薄な内容であることも知った。

その「へ?」を探してやろうではないか。


さて、どうやってしゃべらせるか。

夫婦の話し合いと言ったら聞こえはいいが、実際には尋問が始まった。

とはいえ、尋問はこれだけ。

「ピカチューが突然変わったのと、アキバ産業は関係があるか」

というもの。


すでにお話ししているが、アキバ産業とは

我が社の隣にある同業のライバル会社で、双方の先代から仲が悪かった。

義父の会社が倒産しそうになった時は債権者に混じり

無関係のアキバ産業の現社長もなぜか会社へ乗り込んで来たそうで

その場に夫と居合わせた長男は、社長のあの嬉しそうな顔を思い出すと

今でも腹が立つと言う。


ちなみにうちの事務員ノゾミ、通称アイジンガー・ゼットは

そのアキバ社長の愛人。

昨年の春、うちの情報欲しさに夫を騙して入社した経緯がある。

ヤツの名前を出すと夫が警戒して時間がかかるため

ここは広く、アキバ産業と言っておくのだ。


私の質問に、夫は少し考えてから言った。

「そういえば先週、アキバと共同で商品を仕入れたい…

いうて寝言を言いやがった」

「ほほぅ…」

「本社に提案する言うけん

ワシは絶対ダメじゃ、アキバと組むのは許さん言うた。

あれから不貞腐れとったかも」


はい、これで全容がわかりましたけん。

ピカチューが何度も言った「言うことを聞かない」とは

アキバ産業との共同仕入れを提案し、夫が突っぱねた件だったらしい。



2ヶ月ほど前から、ピカチューがアキバ産業に接近している話を

息子たちから聞くことがあった。

挨拶だの単価の話だのと理由をつけては、社長と頻繁に会っているという。

それについては、次男が何度も忠告した。

「アキバには、あんまり近づかん方がええよ」


10数年前、義父の会社が危なくなった時には

債権者と一緒に来て見物していたアキバ社長だが

数年前から、彼の会社は経営不振で銀行管理に陥っている。

銀行管理とは、その会社に事業資金を貸している銀行が

経営に介入することだ。


銀行がその面倒くさいことをやる目的は

会社の利益の中から、貸した金を一番に回収するためである。

借入金の額が多くなり、返済が滞り始めたので

回収不能になる危険性が高いからだ。


ひとたび銀行管理になると、宝くじに当たったり

画期的な商法を編み出すなど、よっぽどのラッキーが訪れなければ

その状態から抜け出すのは難しい。

抜け出せなければ、何もかも銀行に絞り取られ

まる裸になって倒産するのがお決まりのコース。

アキバ産業の台所事情は、かなり苦しいはずだ。


次男はそのことを踏まえ、無知なピカチューが

銀行管理になっている会社に出入りするのは営業上、危ないと思って止めていた。

落ち目の会社に近づいたらロクなことにならないのは

自分の家が落ち目だったので知っているからだ。


そしてそれ以上に本社は、銀行管理の会社…

つまり、いわく付きの相手と交流するのを嫌悪する。

次男はピカチューが怒られると思い、親切心で止めたのだが

ピカチューの方は

「自分の動きを封じようとしている」

そう受け止めて、次男に反感を持ち始めたと想像するのは容易だ。

それが3月29日の夕方にかかった、酔っ払い電話の真相。

気の小さいピカチューが、呑んだ勢いでやりそうなことである。



ではここに、アイジンガー・ゼットがどう絡んでいるのか。

ピカチューがアキバ産業へ頻繁に出入りしている話と同時に

息子たちから聞かされていたのは

2月あたりから、ピカチューとアイジンガー・ゼットが

仲良しラブラブになったという話だ。

「二人でどっか行くことがあるし、事務所でもベッタリでキモ!」


話を聞く限り、二人のラブラブが始まった時期と

ピカチューがアキバに近づいた時期は、ほぼ一致している。

これでわかるのは、アイジンガー・ゼットが夫を見限り

ターゲットをピカチューに変えたということである。


アキバ社長は50代半ば、その息子は20代後半。

息子は数年前、後継者として父親の会社に入った。

このまま銀行管理に甘んじていると、息子が継承するのは会社でなく

数億の大借金になってしまう。

人の親なら誰でも焦るはずだ。


そこで昨年、起死回生を目指し

アイジンガー・ゼットをうちの事務員として投入。

取引先や単価を把握して仕事の横取りを企て、売上げ増を目論んだが

うまくいかないまま、いたずらに月日は過ぎるばかり。


アキバ社長とアイジンガー・ゼットは、作戦を変更することにした。

夫ではラチがあかないので、何も知らないピカチューに乗り換えたのだ。

ピカチューは自分で営業をかけたつもりだろうが

実際にはアイジンガー・ゼットの御膳立てで

アキバ社長から酒の接待を受けたと思われる。


大酒飲みには酒が効く。

ピカチューほどの飲んだくれであれば

酒さえ飲ませたら何でも言うことを聞くようになる。

そして会社では毎日、アイジンガー・ゼットの優しい接待が…。

営業の経験が無く、今まで島で地味に生きて来たピカチューは気づいた。

「アキバと仲良くしたら、天国じゃん!」

こうして彼は、アキバ一味に取り込まれていったと考えて間違いない。


頃合いを見て、アキバ社長は本題に入る。

「お宅とうちが共同で商品を大量購入すれば

仕入れ値を安くたたけて、お互いに良いじゃないですか。

隣同士なんだから、仲良くしましょうよ」

手柄を立てて本社に認められたいピカチューはこの話に飛びつき

必ず実現すると約束した。


しかしアキバ社長の本当の目的は共同仕入れでなく、本社からの出資。

業務提携だの何だのと言って取り入り、契約を結んでしまえばこっちのもの。

本社の出資で銀行管理を脱出したあかつきには

隣のヒロシ社をどうにかして潰し、アキバが生き残るという甘〜い算段よ。

ピカチューも舐められたものだ。

しかしこれが、アキバ産業なのだ。

だから近づいてはいけないのである。

《続く》
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現場はいま…ピカチューの乱・2

2024年04月06日 08時24分06秒 | シリーズ・現場はいま…


我が家の前も桜が咲き始めました。



早朝の会社で、口論となったピカチューと夫。

「酔うて電話すな、言うとるんじゃ!」

「酔うのはワシの勝手じゃ!」

「パワハラじゃ!」

「お前らの自業自得じゃ!」


怒鳴り合う二人に、やがて決定的瞬間が訪れた。

「ワシの言うことが聞けんのなら、辞めえ!」

ピカチューは、わめいた。

逆上した夫は、間髪入れず怒鳴った。

「おう!辞めたるわい!」

語彙の少ない夫は、持久戦に慣れていない。

ここまで食い下がる人間は、今までに誰一人いなかったからである。

その点、夫はまんまとピカチューの術中にはまったと言えよう。


辞めると聞いたピカチューは、勝ち誇ったように言い渡した。

「月曜日に辞表、持って来い!

ワシの言うことが聞けんモンは皆、辞めえ!

息子らにもよう言うとけ!」


社内の者に向かって辞めろと言うのは、完全なパワハラである。

この言葉を言質に、後からジワジワといじめる方がよっぽど楽しいと思うが

逆上した夫にそんな余裕は無い。

夫は暴力を避けるため、事務所の鍵と

会社から支給されている携帯をピカチューの前に置いて事務所を出た。

長男はダンプがちょうど車検に入っていたので休みだったが

事務所の外には、出勤してきた次男と社員たちが立ちすくんでいた。


そのまま家に帰って来た夫は、一部始終を私に説明し

「そういうことじゃけん、辞めることになった」

と言った。

かなり興奮している様子だ。


こういう時、私の反応は決まっている。

「あんなヤツと働かんでええ。

仕事より、父さんの尊厳の方が大事よ。

今までよく頑張ったね、お疲れ様でした」


この12年だか13年だかに、同じことが何回あっただろう。

ほとんどが、アレら営業所長とのイザコザである。

夫を排除しようとした松木氏は、やがて癌になり

藤村はパワハラとセクハラで左遷された。

夫に楯ついたから、そうなったと言いたいのではない。

色々なことがあっても夫が辞めたことは無いし

分のわきまえを忘れた人間がたどるのは、たいてい厳しい道である。

ピカチューには、どんな運命が待ち構えているのか。

明日からの暮らしより、私にはそっちの方が興味深い。

とりあえず我々夫婦は、その日の有休をゆっくり楽しむことにした。


同じ頃、「大変なことになった」と思った次男は

河野常務に電話をして事情を説明。

…と言ったら良さげに聞こえるが、要するに告げ口である。


腰の手術を数日後に控えて入院中の常務は、話を聞いて驚いたという。

「板野は、そげなヤツか!

酒癖が悪いのは聞いとったんじゃが、そりゃあいけんのぅ。

わかった、誰か行かせるわ。

親父に早まったことするな、言うとけ」

いやもう、早まったことしてるし。


1時間後、常務の差し向けた永井営業部長がやって来た。

次男はその人選に軽く失望したが

また一方で、常務の次に地位が高いのは彼なので

常務がこの問題を重く受け止めていることがわかった。


永井部長、ピカチュー、次男の3人は事務所で話をした。

が、解決には至らなかった。

仲裁役の永井部長が無能というのもあるが、肝心な話になるとピカチューは

「酔っていたので忘れました」

そう言ってとぼけるため、話し合いにならないのである。


ピカチューは危なくなると「酔っていた」で逃げる…

この時、それを知った次男は

彼の電話を録音していることを言わなかった。

永井部長から消去を求められたら、隠し球が無くなるからだ。

この件がもつれた場合、つまり訴訟に発展する最悪の事態に備えて

保存しておく必要がある。

永井部長ごときに聞かせて、満足していてはいけない。

事実をわかってもらえたと、勘違いしてはいけないのだ。


上の人間は本能的に、会社を守るために動く。

それが自分の地位と収入を守ることになるからで

シモジモの不利益に興味は無い。

よって、聞いた後は必ず消すように命令する。

会社支給の携帯なので、拒否はしにくい。

消さない権利もあるにはあるが、そうすればさらに揉め

問題を起こした下手人が、ピカチューから自分へとすり替わってしまう。

本社と合併して以来、次男も学習したのである。


ピカチューから事実を聞き出せず、諦めた永井部長は

「酔って社内の者に電話をかけるのは良くない」

そう言って帰って行った。



夜になった。

夫の興奮は冷め、落ち着いてきたようだ。

彼は感情を顔に出さないタイプだが、かなり凹んでいるのは感じ取れる。

「辞める」と言ったことを後悔しているのだ。

そうさ、辞めるべきはピカチューであって夫ではない。


翌日の31日は日曜日なので

あと1日ぐらいはそっとしておきたかったが

我々夫婦は早急に話し合っておくべきことがあった。

手術が翌週の木曜日に迫っている河野常務は、数日中に必ず動く。

それまでに、できるだけ多くのことを夫から聞き出し

事態が動いた時に備えて、受け答えの指導をしておく必要があるからだ。

ピカチューが、都合が悪くなると

「酔っていた」で逃げる人間と判明したからには

このままでは済まない気がしてならない。


酔っていた…それは一種、見事な逃げ方だ。

トカゲは危険を感じるとシッポを切り離し

一目散に逃げて自分の身を守る。

世間ではそれを“トカゲのシッポ切り”と呼んで

都合の悪い人間をいとも簡単に切り離す冷淡を表現するが

今回はその逆バージョン。


どういうことかというと

「酒に酔って電話をかけた」

周囲の非難をこの一点に集中させ、他の重要案件を

「酔っていたから忘れた」で終わらせれば

公になる事実は、酔って電話をかけたことのみ。

先に「ごめん」で済む小さい傷を負っておき

他の大きな危険は「酔っていたので忘れた」で回避する…

なかなか高度な手法である。


一見、朴訥なピカチューにそんな能力があったとは…

私は感心する一方、彼の言動に疑問を感じていた。

まず、突然、酒に酔って次男に強気の電話をしてきたのがそうだ。

これを逆に考えると、酒の勢いを借りなければ

言いたいことが言えなかったということになる。


そして酒を飲んでまで言いたかった事柄というのが

「言うことを聞かない」。

これを逆に考えると

彼にはぜひとも従って欲しい事柄があるらしい。


その従って欲しい事柄とは一体、何ぞや?

酔っ払いの電話や勝手な退職勧告の裏に

もっと大きな問題があるような気がしてならない。

ピカチューの言動は、それほど不可解なものなのだ。


夫からちゃんと事情を聞いてデータを集め

次の一手を決めておかないといけないが

私は夫が何かを隠しているような気がした。

肝心なことを隠して説明するから、不可解ばかりが目立つ。


では、夫が私に隠している事柄とは…

女絡みに決まっとるやんけ。

おそらくそれが、この一件のキモだ。

《続く》
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現場はいま…ピカチューの乱・1

2024年04月03日 20時37分39秒 | シリーズ・現場はいま…

好きな花は、山桜。

桜よりも山桜。

誰に賞賛されることもなく、ひっそりと

一生懸命咲いている…

私はそんな花が好き。



さて、いよいよ四月、新年度が始まった。

気持ちも新たに、昨年10月からご無沙汰だったシリーズ

『現場はいま…』を語らせていただこう。



64才の板野さん、通称ピカチューは本社直営の営業所長として

我々の会社に赴任して1年を迎えた。

合併を繰り返して大きくなった本社は、合併先に営業所を設置し

営業所長の肩書きを付けた中高年を一人置くことにしている。

表向きは、それぞれの地元における販路拡大と子会社のサポートだが

本社や支社のいらないオジさんを配属するのだから

販路拡大やサポートなんかできるわけがない。

実際は、子会社の者が勝手なことをしないように監視する役割である。


ピカチューは、我々が本社の傘下に入る10年ほど前に本社と合併した

島しょ部の生コン会社に長く勤めていたが

定年エイジになったので、こちらへ回された。

赴任当初は、前任の松木氏や藤村と違って

田舎のおじさん風の外見に、我々は安堵したものだ。


ただ、ハゲ頭や鼻、頬が異様に赤く

いつも風呂上がりのタコみたいなので、焼酎好きと見ていた。

焼酎は糖質が少ないので日本酒やビールよりマシかもしれないが

日焼けを繰り返すと額や鼻、胸が赤くなり、元に戻らないのが難点。

仕事のかたわら稲作に勤しむ彼の酒量は、相当多いと思って間違いない。


それはともかくこの人、最初は普通だった。

何をしていいやらわからず、借りてきた猫のようにおとなしかったのだ。

けれども今年に入ってから

だんだん松木氏や藤村を彷彿とさせる言動が目立ち始めた。

わけわからんことに口を挟むようになり

見当違いの指示を出したがるようになったのだ。


誰が来てもそうなるのは、前任者の二人でわかっている。

年を取って、いきなり与えられた営業所長の肩書きに張り切るものの

何もわからなくて暇を持て余すしかない日々…

腐っていくのは時間の問題よ。


だって、何もわからないのは誰でも辛い。

そのわからないことを何度もたずねるのも、辛い。

たずねてもやっぱりわからないとなると、さらに辛い。

ましてや老人にとっては、なおさらだ。

辛いことは、だんだんやらなくなる。

そして暇が訪れるというわけだ。


持て余す暇の中でムクムクと湧き上がるのは、まず夫への憎しみ。

なぜって、夫は無口かつ口ベタだもん。

いつまで経ってもわからないのは、わかるように説明してくれない夫が悪い…

彼らなりに苦しんだあげく、おしなべてそういうことになる。


憎しみの次は、野心。

「憎たらしいこいつを追い出して自分が成り代われば

会社を自由にできるのではないか」

わからないという現実に疲弊したオジさんは、夫の排除を模索し始める。

そうすれば自分がトップになって全てを決めればいいので

わからないことは無くなるという算段だ。

ここで本来の仕事である監視の強化が始まり

あとは告げ口、密告、嘘に芝居が繰り広げられるという安定のコース。

暇だとロクなことを考えないのは、どこでも同じだ。


我々は、ピカチューもいずれそうなると思うようになった。

しかし、パンチパーマでヤサグレ風を装う松木氏は1ヶ月

ソフトモヒカンで半グレ風を装う藤村は3ヶ月でその片鱗を見せ始めたが

農耕民族のピカチューは、この病いへの罹患がもっと遅いと考えていた。

もっともピカチューは髪の毛の問題により、パンチパーマもソフトモヒカンも不可能。

ヘアスタイルからのデータが得られなかったため

我々が勝手に普通と思い込んでいたのかもしれなかった。


「できればピカチューが野心をむき出しにする時期より

彼か夫の退職の方が先になればいいけど…」

私はそう願っていたが、彼がとうとう勝負に打って出たのは先月末。

正確には3月29日の午後6時9分であった。


仕事が終わって我が家に寄り、家族と一緒に夕食の席に着いていた次男は

ピカチューからの電話に出た。

するといきなり、彼の怒鳴り声が聞こえるではないか。

「お前!何でワシの言うこと聞かんのじゃ!

勝手なことばっかりすな!」


次男は食事中の周囲をはばかり、途中で席を立って別室へ行った。

以後10分間に渡り、身の毛もよだつ怨みつらみの怒号が続き

「ワシは酒飲んどるけんの!」

ピカチューは合間で何度もそう言ったという。

午後4時半には普通に退社して

それから小一時間かけて山奥村の自宅に帰り

6時には早くも酔っ払ったようだ。


そして最後は

「今度のバーベキューに、ワシを送迎せぇ!

ええか!わかったな!」

そう言って電話は切られた。

ちなみにバーベキューとは

事務員のアイジンガー・ゼットの発案で開催することになった会社の花見。

あの女、まだバーベキューを諦めていなかったらしい。



さて、いきなり怒鳴られた次男は怒り心頭。

夫には言いにくく、きつい長男では返り討ちに遭うとわかっているので

人当たりが良く最年少の次男をターゲットにしたのは明白だ。

次男もそれは承知していて、時々ピカチューの話し相手をしているが

こんなことは初めてなので、いささか当惑していた。


ともあれ酒に酔って勤務時間外に仕事の文句を言うのは

立派なパワハラ。

労基へ訴えたら、一発で有責になるスペシャル案件である。

次男がこの電話をきっちり録音していたのはともかく

昼間は普通に事務所に居て、普通に帰宅したピカチューが

なぜ豹変したのか。

そして彼の主張する“言うことを聞かない”

“勝手なことばっかりする”が、何を指しているのか。

これは大きな疑問だ。


「酒乱なんだろう」

とりあえず、そう解釈するしかなかった。

「明日、会社行って文句言うてやる」

夫は皆に言った。


そして翌日。

この日は土曜日で、夫は有休を取っていたが

朝一番に会社へ行き、出勤してきたピカチューに抗議した。

「板野さん、酔うて息子に電話するのはやめてくれ。

言いたいことがあるんなら、ワシに直接言えや」


これで終了と思っていた夫。

しかしピカチューは、ひるまなかった。

「酔うて電話して、何が悪いんなら!

お前らが、ワシの言うことを聞かんけんじゃろうが!」

赤ら顔をますます赤くして、そう怒鳴ったという。


夫は、この反撃に驚いた。

亡き父親からはさんざん罵倒されたが

他人からこのような暴言を吐かれるのは生まれて初めてだ。

松木氏や藤村の方が上品に思えるような

ピカチューの態度に逆上した夫も怒鳴り返す。

「なに〜?!誰にモノ言うとんじゃワレ!」


ピカチューも負けてはいない。

「お前らが悪いんじゃ!ワシの言うことを聞かんけんじゃ!」

売り言葉に買い言葉、二人は激しい口喧嘩になった。

《続く》
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