2月19日の未明、義父アツシが死んだ。
前の晩まで普通に話ができたが
翌朝の6時過ぎに、病院より急変の知らせがあった。
急変と言いながら、それほど慌てた様子でないことから
彼がもうこの世にいないのはわかった。
誰も知らないうちに、眠ったまま逝ったらしい。
これで助かったのは、前回の記事で登場した松木工場長。
労働基準法違反の罪により、営業停止の期間中は労基主催の講習に参加したが
講習が終わった翌日、アツシが死んだ。
本社から通夜葬儀を手伝うように命令され
経理部長のダイちゃんと共に、会社関係の受付係に就任。
この偶然によって、査察のことはうやむやになる幸運に恵まれたのだった。
ここで彼の身に、再びの偶然が起きる。
通夜葬儀の受付は会社と一般に分かれ
一般の受付は近所の人達がやってくれた。
一般受付係の一人として松木氏の隣に立ったのは
うちの4軒隣に住む奥さんのAさん。
我々の暮らすシルバーだらけのデンジャラ・ストリートでは
我ら夫婦の次に若手である。
奇遇にも、彼女と松木氏は幼馴染みであった。
何十年ぶりかの再会で、大いに盛り上がる2人。
通夜でも葬儀でも旧交を温め合い、Aさんは近所の人達から
「男とばっかり話していた」
と陰口をたたかれる身の上となる。
ともあれアツシは精一杯生きて、我々家族も精一杯世話をした。
今だから言うが、少なくとも夫と私は命がけだった。
後悔みじんも無く、感謝と清々しさが残る。
死後の段取りについては、以前から夫と
そして時に義母ヨシコを交えて話し合ってきた。
この年末年始にかけて、病院はインフルエンザが大流行し
10日ほど全館面会謝絶になって以来、アツシがめっきり弱ったため
以後、計画はより現実的なものになる。
我が家のイベント係を自負する私は
1月半ばからシミュレーションに余念が無かった。
今回は友引が絡んだため、通夜は死亡した日の翌日となった。
1日余計にあると疲れて大変というが
準備期間が長いのは、イベント係としてはありがたい。
事前の計画通り、アツシ死亡の連絡を受けたら
夫とヨシコを病院に向かわせて、私は家に残った。
実の親や夫であれば、駆けつけないわけにいかないだろうが
その場合は誰かあてになる人間が先に帰った方がいい。
よって病院へ向かう車は、最初から分乗する。
この初動によって、通夜葬儀の命運が決まるといってもいい。
家に残った者、または早く帰った者は
遺体を安置する部屋のセッティングを行う。
合間で遺体の搬入経路となる玄関や廊下の整備をしながら
弔問客に備えて茶器や茶菓子、座布団などを準備する。
遺体の枕元に供える白いご飯を炊くついでに
家族や駆けつけた親戚に食べさせる食事も準備する。
比較的食べやすい汁物やおにぎりなど簡単なものだ。
一番悲しい人達は、コンビニ弁当や出前をパクパク食べられないからだ。
特にヨシコは糖尿病。
空腹や、不規則な食事で投薬のタイミングを逃し
低血糖を起こしたら、ただでさえ忙しいのにますます忙しくなる。
代打のいないこの人達の体力維持に務めるのは、大切な作業である。
遺体がエンゼルケアを終えて家へ戻るまでに
これらを済ませておかなければ、その後の段取りに支障が出やすい。
後手後手の慌しさは自分も人も苛立たせ、疲れさせるからだ。
しなくてもいい喧嘩になったり、文句が出て嫌な思いをする原因は
たいてい初動のまずさにある。
今回、食事については大変な幸運に恵まれた。
アツシ死亡の夕方にヨシコの友達
一人っ子なのに「末子さん」から
通夜の朝は私の友達、お馴染みのヤエさんから
それぞれ重箱に入った大量のおにぎりとおかずが届いたのだ。
アツシが死んだのより、こっちで泣けた。
こういうことがサラリとできる人になろうと心に誓った。
家と食べ物をクリアしたら、数との戦いが待っている。
会葬御礼の数、夜食の数、精進料理の数、精進落としの数
初七日の法要で渡す茶の子の数…。
足りないのは一生言われるから絶対にダメ。
少し余るラインを目指す。
葬儀社もアドバイスしてはくれるが
とにかくこっちが数を出さなければ何も進まない。
私はギャンブルはしないけど、博打を打ち続けている気分だ。
しかし一番のギャンブルは、夫を喪主にしたことであった。
長男なので当然だろうが、喪主といえば挨拶がある。
ボキャブラリーが少なく、緊張するとドモる夫をどうするかだ。
彼の得意な挨拶といったら「妻と別れるから結婚しよう」
ぐらいしか無いじゃないか。
ヨシコは私に「原稿を作ってやって!」と真剣に頼んだ。
葬儀社に作ってもらう手は通用しない。
夫は漢字が苦手だ。
他人の常識で書かれた文章には漢字が多いので、使い物にならない。
が、原稿制にも問題がある。
私の作った平仮名大文字の原稿を読ませると、小学生の本読みになる。
たどたどしいを超越して、怪しくも痛々しい。
家族のみならず、夫の能力を知る親戚一同も
この挨拶だけは早くから心配した。
司会者との打ち合わせで、いよいよ喪主の挨拶に触れる時が来た。
ここで夫、意外にも「原稿はいりません、自分の言葉で言います」
と宣言した。
息を飲む一同。
だが彼が決心したからには、やらせるしかない。
私は今、ギャンブラーなのだ。
結果、このギャンブルには勝った。
奇跡が起きたのだ。
夫が方言丸出しで、とつとつと語る父親の思い出は
通夜でも葬儀でも多くの涙を誘った。
イベント係としては、満足のいく結果であった。
〈続く〉
前の晩まで普通に話ができたが
翌朝の6時過ぎに、病院より急変の知らせがあった。
急変と言いながら、それほど慌てた様子でないことから
彼がもうこの世にいないのはわかった。
誰も知らないうちに、眠ったまま逝ったらしい。
これで助かったのは、前回の記事で登場した松木工場長。
労働基準法違反の罪により、営業停止の期間中は労基主催の講習に参加したが
講習が終わった翌日、アツシが死んだ。
本社から通夜葬儀を手伝うように命令され
経理部長のダイちゃんと共に、会社関係の受付係に就任。
この偶然によって、査察のことはうやむやになる幸運に恵まれたのだった。
ここで彼の身に、再びの偶然が起きる。
通夜葬儀の受付は会社と一般に分かれ
一般の受付は近所の人達がやってくれた。
一般受付係の一人として松木氏の隣に立ったのは
うちの4軒隣に住む奥さんのAさん。
我々の暮らすシルバーだらけのデンジャラ・ストリートでは
我ら夫婦の次に若手である。
奇遇にも、彼女と松木氏は幼馴染みであった。
何十年ぶりかの再会で、大いに盛り上がる2人。
通夜でも葬儀でも旧交を温め合い、Aさんは近所の人達から
「男とばっかり話していた」
と陰口をたたかれる身の上となる。
ともあれアツシは精一杯生きて、我々家族も精一杯世話をした。
今だから言うが、少なくとも夫と私は命がけだった。
後悔みじんも無く、感謝と清々しさが残る。
死後の段取りについては、以前から夫と
そして時に義母ヨシコを交えて話し合ってきた。
この年末年始にかけて、病院はインフルエンザが大流行し
10日ほど全館面会謝絶になって以来、アツシがめっきり弱ったため
以後、計画はより現実的なものになる。
我が家のイベント係を自負する私は
1月半ばからシミュレーションに余念が無かった。
今回は友引が絡んだため、通夜は死亡した日の翌日となった。
1日余計にあると疲れて大変というが
準備期間が長いのは、イベント係としてはありがたい。
事前の計画通り、アツシ死亡の連絡を受けたら
夫とヨシコを病院に向かわせて、私は家に残った。
実の親や夫であれば、駆けつけないわけにいかないだろうが
その場合は誰かあてになる人間が先に帰った方がいい。
よって病院へ向かう車は、最初から分乗する。
この初動によって、通夜葬儀の命運が決まるといってもいい。
家に残った者、または早く帰った者は
遺体を安置する部屋のセッティングを行う。
合間で遺体の搬入経路となる玄関や廊下の整備をしながら
弔問客に備えて茶器や茶菓子、座布団などを準備する。
遺体の枕元に供える白いご飯を炊くついでに
家族や駆けつけた親戚に食べさせる食事も準備する。
比較的食べやすい汁物やおにぎりなど簡単なものだ。
一番悲しい人達は、コンビニ弁当や出前をパクパク食べられないからだ。
特にヨシコは糖尿病。
空腹や、不規則な食事で投薬のタイミングを逃し
低血糖を起こしたら、ただでさえ忙しいのにますます忙しくなる。
代打のいないこの人達の体力維持に務めるのは、大切な作業である。
遺体がエンゼルケアを終えて家へ戻るまでに
これらを済ませておかなければ、その後の段取りに支障が出やすい。
後手後手の慌しさは自分も人も苛立たせ、疲れさせるからだ。
しなくてもいい喧嘩になったり、文句が出て嫌な思いをする原因は
たいてい初動のまずさにある。
今回、食事については大変な幸運に恵まれた。
アツシ死亡の夕方にヨシコの友達
一人っ子なのに「末子さん」から
通夜の朝は私の友達、お馴染みのヤエさんから
それぞれ重箱に入った大量のおにぎりとおかずが届いたのだ。
アツシが死んだのより、こっちで泣けた。
こういうことがサラリとできる人になろうと心に誓った。
家と食べ物をクリアしたら、数との戦いが待っている。
会葬御礼の数、夜食の数、精進料理の数、精進落としの数
初七日の法要で渡す茶の子の数…。
足りないのは一生言われるから絶対にダメ。
少し余るラインを目指す。
葬儀社もアドバイスしてはくれるが
とにかくこっちが数を出さなければ何も進まない。
私はギャンブルはしないけど、博打を打ち続けている気分だ。
しかし一番のギャンブルは、夫を喪主にしたことであった。
長男なので当然だろうが、喪主といえば挨拶がある。
ボキャブラリーが少なく、緊張するとドモる夫をどうするかだ。
彼の得意な挨拶といったら「妻と別れるから結婚しよう」
ぐらいしか無いじゃないか。
ヨシコは私に「原稿を作ってやって!」と真剣に頼んだ。
葬儀社に作ってもらう手は通用しない。
夫は漢字が苦手だ。
他人の常識で書かれた文章には漢字が多いので、使い物にならない。
が、原稿制にも問題がある。
私の作った平仮名大文字の原稿を読ませると、小学生の本読みになる。
たどたどしいを超越して、怪しくも痛々しい。
家族のみならず、夫の能力を知る親戚一同も
この挨拶だけは早くから心配した。
司会者との打ち合わせで、いよいよ喪主の挨拶に触れる時が来た。
ここで夫、意外にも「原稿はいりません、自分の言葉で言います」
と宣言した。
息を飲む一同。
だが彼が決心したからには、やらせるしかない。
私は今、ギャンブラーなのだ。
結果、このギャンブルには勝った。
奇跡が起きたのだ。
夫が方言丸出しで、とつとつと語る父親の思い出は
通夜でも葬儀でも多くの涙を誘った。
イベント係としては、満足のいく結果であった。
〈続く〉