6年生になってすぐ、私の母チーコが2年の闘病を経て死亡した。
それから間もなく、父の再婚相手として先生が浮上したことがあった。
この縁談は、父も先生もまだ知らないうちに、まず私に打診された。
泣いて抵抗したのは言うまでもない。
冷静に考えれば、先生にも好みがあろうし
父が私の嫌がる相手と再婚するわけはないんだけど
大人って、子供が動揺すると面白がってますます言う。
わたしゃマジで自殺しようかと思った。
また氷とマグマの日々を折りたたむように過ごし
やっとの思いで卒業を迎えた。
あの日の嬉しさは、今でも覚えている。
「君たちの未来に幸あれ!」
先生は、はなむけの言葉を叫んだ。
この2年に比べりゃ、どんなことでも幸だよ…。
…それから20年の歳月が流れた。
初めての大がかりな同窓会が催され、30才を過ぎた我々は先生と再会した。
卒業から間もなく、先生は縁あって結婚した。
我々は、その結婚相手に同情したものだが
やはりそこではうまくいかなかったそうで、今は別の人と結婚していると聞いていた。
「あなたたちをまっすぐな方向へ導こうと
私は躍起になっていたような気がするの。
まっすぐ行こう、行こうと思えば思うほど
別の方向にそれてしまったような…
あなたたちは私が担任で幸せだったのかしらって、今でも思うのよ」
ごめんなさいね…先生は柔和な顔で言った。
「いいえ!」
我々は口々に言った。
「私たちは、先生に出会って幸せでした!ありがとう!先生!」
この気持ちに偽りはない。
この世の不条理を身を持って体験させてもらった。
もしあれが無かったら、別件でもっと苦しい思いをしたと思う。
少なくとも私は、今までに起きたことのいったい何割を耐えられたかわからない。
隣のクラスの担任は、学園ドラマの主人公のように明るい熱血男性教師だった。
いつも聞こてくる歓声や笑い声を
どんなにうらやましい思いで聞いていたことか。
しかし、彼とて我々の現状に目をそむけていた。
校長も教頭も、同僚の教師たちも、我々の苦しみには気づかないふりをした。
言葉を濁してごまかし、さらに遠巻きにした。
それを見て悟った。
「困っている人がいたら助けましょう…」
先生たちは言うけど、口と腹は違うのだと。
生活のためには、仕方が無いのだと。
降りかかった火の粉は自分で払え…
人を頼るな、あてにするな…
我々は小6にして、世の無常の切れ端を味わう幸運に恵まれたのだった。
4年生の時、隣のクラスにかなり個性的な初老の女の先生がいた。
お気に入りの子には優しいが、そうでない子には容赦なかった。
その先生に好かれたい子は、競って家からブラシを持参し
昼休みには群がるようにして
大仏状のオバサンパーマをブラッシングしていたと記憶している。
男言葉でいきなり怒鳴りつけるタイプで、私もターゲットの一人だった。
学年単位での授業中、よそ見をしたことを発端に
しばらく目の仇の栄誉を得る。
全校の朝礼の時に、手が揺れたとか首が動いたという身に覚えの無い罪により
名指しでマイクで怒鳴られたりしていたので、かなり怖かった。
結婚してから知ったが、彼女は私の夫の会社の近所にある
やはり似たような会社の奧さんだった。
彼女はこの同窓会の少し前、隣人と口論の果てに殺害された。
あの口調でまくしたて、怒りをかったと想像するのは容易である。
どんな先生であれ、恩師が不慮の死を遂げるのは悲しいものだ。
先生が目の前に元気でいてくれることが嬉しかった。
今も同級生で集まれば、当時の話題になる。
先生は、泣き叫んだりまとわりついたりする「熱い子供」
つまり我々とは逆の子供像を求めていたのではないか…。
そういえば先生は、我々の前に現われる前後にも
確かにどこかの担任をしていたはず…。
しかし厳しいという声はあっても、悪い話は聞こえたことが無かった…。
我々の持つ冷めた雰囲気が、先生の眠れる感情を刺激したのかもしれない…。
少しは先生に媚びたり、あやしてサービスしてやる必要があったのではないか…。
「気の利かない子供だったよね」
「もっとオトナな子供であるべきだったね」
そんなことを言っては、アハハ、ウフフ…と笑い合うのだ。
我々同級生が仲がいいのは、共にこの艱難辛苦を越えたからだと思う。
同級生は同級生でも、同じクラスだった者とことさら仲がいい。
当時の先生の年齢をとうに越えた現在、いいことも思い出す。
先生は、クラスの誰にも平等に厳しかった。
すり寄る者さえ蹴散らした。
それは今、いさぎよく小気味よい印象として浮かんでくる。
イバラの道より、気まぐれな情けや分けへだてのほうが
人の心をすさませると知った。
先生はアナウンサーの他に作家になりたかったそうで
我々は作文の書き方をたたき込まれた。
文法はもちろんのこと、嘘、誇張、自慢、美化で自分を飾れば
必ずどこかでほころびが出て、行き詰まると厳しく教えられた。
きれい事を書いても他人には必ずわかり、結局は自分の首を絞めることになる…
文末を「これからも~していきたい」の優等生で終わらせるな…
私は…を多量に使うと、自己主張が強い人間だとバレるので控えろ…
タイトルに凝るのはいいが、内容が伴わなければ読み手の失望は三倍…
「努力します」や「頑張ります」でごまかして、真相から逃げるな…
これらは作文だけでなく、人前で話す時や、生き方にも応用できたので
知っていると確かに便利だった。
仰げば尊し我が師の恩…何十年も経って、やっとこさ身に沁みる。
なかなか強烈な恩である。
完
それから間もなく、父の再婚相手として先生が浮上したことがあった。
この縁談は、父も先生もまだ知らないうちに、まず私に打診された。
泣いて抵抗したのは言うまでもない。
冷静に考えれば、先生にも好みがあろうし
父が私の嫌がる相手と再婚するわけはないんだけど
大人って、子供が動揺すると面白がってますます言う。
わたしゃマジで自殺しようかと思った。
また氷とマグマの日々を折りたたむように過ごし
やっとの思いで卒業を迎えた。
あの日の嬉しさは、今でも覚えている。
「君たちの未来に幸あれ!」
先生は、はなむけの言葉を叫んだ。
この2年に比べりゃ、どんなことでも幸だよ…。
…それから20年の歳月が流れた。
初めての大がかりな同窓会が催され、30才を過ぎた我々は先生と再会した。
卒業から間もなく、先生は縁あって結婚した。
我々は、その結婚相手に同情したものだが
やはりそこではうまくいかなかったそうで、今は別の人と結婚していると聞いていた。
「あなたたちをまっすぐな方向へ導こうと
私は躍起になっていたような気がするの。
まっすぐ行こう、行こうと思えば思うほど
別の方向にそれてしまったような…
あなたたちは私が担任で幸せだったのかしらって、今でも思うのよ」
ごめんなさいね…先生は柔和な顔で言った。
「いいえ!」
我々は口々に言った。
「私たちは、先生に出会って幸せでした!ありがとう!先生!」
この気持ちに偽りはない。
この世の不条理を身を持って体験させてもらった。
もしあれが無かったら、別件でもっと苦しい思いをしたと思う。
少なくとも私は、今までに起きたことのいったい何割を耐えられたかわからない。
隣のクラスの担任は、学園ドラマの主人公のように明るい熱血男性教師だった。
いつも聞こてくる歓声や笑い声を
どんなにうらやましい思いで聞いていたことか。
しかし、彼とて我々の現状に目をそむけていた。
校長も教頭も、同僚の教師たちも、我々の苦しみには気づかないふりをした。
言葉を濁してごまかし、さらに遠巻きにした。
それを見て悟った。
「困っている人がいたら助けましょう…」
先生たちは言うけど、口と腹は違うのだと。
生活のためには、仕方が無いのだと。
降りかかった火の粉は自分で払え…
人を頼るな、あてにするな…
我々は小6にして、世の無常の切れ端を味わう幸運に恵まれたのだった。
4年生の時、隣のクラスにかなり個性的な初老の女の先生がいた。
お気に入りの子には優しいが、そうでない子には容赦なかった。
その先生に好かれたい子は、競って家からブラシを持参し
昼休みには群がるようにして
大仏状のオバサンパーマをブラッシングしていたと記憶している。
男言葉でいきなり怒鳴りつけるタイプで、私もターゲットの一人だった。
学年単位での授業中、よそ見をしたことを発端に
しばらく目の仇の栄誉を得る。
全校の朝礼の時に、手が揺れたとか首が動いたという身に覚えの無い罪により
名指しでマイクで怒鳴られたりしていたので、かなり怖かった。
結婚してから知ったが、彼女は私の夫の会社の近所にある
やはり似たような会社の奧さんだった。
彼女はこの同窓会の少し前、隣人と口論の果てに殺害された。
あの口調でまくしたて、怒りをかったと想像するのは容易である。
どんな先生であれ、恩師が不慮の死を遂げるのは悲しいものだ。
先生が目の前に元気でいてくれることが嬉しかった。
今も同級生で集まれば、当時の話題になる。
先生は、泣き叫んだりまとわりついたりする「熱い子供」
つまり我々とは逆の子供像を求めていたのではないか…。
そういえば先生は、我々の前に現われる前後にも
確かにどこかの担任をしていたはず…。
しかし厳しいという声はあっても、悪い話は聞こえたことが無かった…。
我々の持つ冷めた雰囲気が、先生の眠れる感情を刺激したのかもしれない…。
少しは先生に媚びたり、あやしてサービスしてやる必要があったのではないか…。
「気の利かない子供だったよね」
「もっとオトナな子供であるべきだったね」
そんなことを言っては、アハハ、ウフフ…と笑い合うのだ。
我々同級生が仲がいいのは、共にこの艱難辛苦を越えたからだと思う。
同級生は同級生でも、同じクラスだった者とことさら仲がいい。
当時の先生の年齢をとうに越えた現在、いいことも思い出す。
先生は、クラスの誰にも平等に厳しかった。
すり寄る者さえ蹴散らした。
それは今、いさぎよく小気味よい印象として浮かんでくる。
イバラの道より、気まぐれな情けや分けへだてのほうが
人の心をすさませると知った。
先生はアナウンサーの他に作家になりたかったそうで
我々は作文の書き方をたたき込まれた。
文法はもちろんのこと、嘘、誇張、自慢、美化で自分を飾れば
必ずどこかでほころびが出て、行き詰まると厳しく教えられた。
きれい事を書いても他人には必ずわかり、結局は自分の首を絞めることになる…
文末を「これからも~していきたい」の優等生で終わらせるな…
私は…を多量に使うと、自己主張が強い人間だとバレるので控えろ…
タイトルに凝るのはいいが、内容が伴わなければ読み手の失望は三倍…
「努力します」や「頑張ります」でごまかして、真相から逃げるな…
これらは作文だけでなく、人前で話す時や、生き方にも応用できたので
知っていると確かに便利だった。
仰げば尊し我が師の恩…何十年も経って、やっとこさ身に沁みる。
なかなか強烈な恩である。
完