渡辺謙、ブロードウェイミュージカルにデビュー。
しかも演目は「王様と私」。
その昔、ユル・ブリンナーとデボラ・カーが映画で演じた
名作中の名作だ。
舞台は東洋のシャム国。
王様の子供達の家庭教師として、西洋の女性が赴任する。
独裁的で気難しい王様と、先進国の家庭教師は
考え方や慣習の違いから衝突を繰り返すが
やがて2人はいいムードになり、ハッピーエンド。
お金のかかった豪華絢爛が大好きな私であるから
当然、この物語は大好物。
王家の子供達を、国内だけでなく国際社会で通用する人に育成する…
異国から家庭教師を迎えた目的は、これのはずだった。
その教育が子供達だけでなく、王様まで変えていくところが
最大の見せ場であろう。
西洋風でありながら、どこかアジアンテイストの美しい家具調度や
目にもまぶしい衣装…
「シャル・ウィ・ダンス」の名曲に乗って
怖い王様がだんだん紳士に変わって行く経過は、極めて見応えがある。
この王様を日本の謙さんがやってくれる。
嬉しい限りだ。
大作であるから、演技力はもちろんのこと
アジア系の引き締まった顔立ちや
人々がひれ伏してしまうような風格が必要。
頭蓋骨の形状も問われる。
丸坊主がお決まりなので、絶壁やひょろ長いの、歪んだのではダメ。
女性の方は誰が演じてもわりと大丈夫だが
王様の方は条件が揃わないと演じられない、難しい役なのだ。
製作者サイドの発表に、私の胸は震えた。
「我々は歌手やダンサーを探していたのではない。
王様を探していた」
シビレちゃうわ。
ああ、誰か言ってくれないかしら!
「我々は女の子や女性を探していたのではない。
オバさんを探していた」
そのオバさん、近ごろ出番多し。
仕事である事務業の他に、嫁業、母業、妻業を適当に営業してきたが
義父アツシの死後、これに仏業が加わる。
何十年もの間、新興宗教の信者だった義母ヨシコが
アツシの死をきっかけに一般的な仏教へと改宗したからだ。
ヨシコの改宗は、我々夫婦が以前から望んでいたことであった。
ヨシコとその娘が一緒に何を拝もうと、興味は無い。
ただ、その宗教での葬式スタイルに問題があった。
ヨシコの宗教では、葬式に花を使用しない。
シキビ、またはシキミと呼ばれる葉っぱだけだ。
我々が懸念するのは、この葉っぱであった。
この宗教の葬式に、二度参列したことがある。
どちらも小さな店を経営していたので
事情を知らない仕入先や取引先からも生花が贈られる。
故人に生花を贈った参列者が、あちこちで漏らす失望のささやきを聞いた。
「花を贈ったはずなのに、葉っぱになってる!」
「どういうこと?」
商売人が少数派の信仰をしている場合、普段は隠すことが多い。
信教の自由は憲法で認められているとはいえ
お客さんの誤解や偏見を招く恐れがあるからだ。
よって葬式が、カミングアウトの場になる。
会場が緑一色になろうと、カンオケのアツシが葉っぱにうもれようと
全然かまわない。
ヨシコが日頃主張するように、シキビは生花より高貴な植物かもしれないし
価格に変えたら同じようなものかもしれない。
が、この風習を知らない人にとって、葉っぱは花より安い印象がぬぐえない。
タヌキにだまされて木の葉のお金を握らされるに等しい
詐欺に遭ったような衝撃であるらしかった。
我々の属する建設業界は、葬式が派手だ。
生花がたくさん贈られるのは決定事項である。
この葉っぱ主義では、タヌキの木の葉的心境に陥る人数が多い。
一瞬の印象は、生涯影響する。
後でどんなに説明したってダメだ。
そもそも古風なこの業界で、説明のいる変わった葬式なんか
やっちゃいけないのだ。
我々はヨシコの改宗計画にあたり
最初で最後、そして最大のチャンスは
アツシ死亡の瞬間のみと踏んでいた。
いよいよその時を迎えて身構える我々。
が、親戚や近所の人々を前に、信仰のカミングアウトができなかったヨシコは
アツシの両親や兄弟を送った一般的な仏教で葬式を出すことに同意し
あっさり改宗。
改宗した浄土真宗は、たまたま私の実家と同じ宗派である。
祖母を小1、母親を小6で亡くした私には慣れ親しんだものだ。
しかしヨシコと娘にとっては何もかも初めての異教であり
女手はあてにならない。
細々とした道具やしきたり、お茶やお布施を出すタイミング、法要の流れ…
先輩ヅラをして、あれこれ世話を焼く。
こないだは遺影の裏から、ハンカチに包んだアツシの骨が出てきた。
火葬の時、骨壺に入りきらなかったのを惜しみ
母娘で持ち帰ったようだが、もう飽きたのだった。
カラカラと骨壺へ戻し、ギュッとフタをしたらバリバリと砕ける。
♩あ~ちらの骨と こ~ちらの骨を 合~わせ~てみよう~
カラカラッと素敵な音がする バリバリッと楽しい音がする 音がする♩
童謡「たのしいね」のフシでどうぞ。
女の子や女性ってだけじゃ、この役は無理ね…
やっぱオバサンでなきゃ…
私は一人そうつぶやく。
王様と私ならぬ、仏様と私。
しかも演目は「王様と私」。
その昔、ユル・ブリンナーとデボラ・カーが映画で演じた
名作中の名作だ。
舞台は東洋のシャム国。
王様の子供達の家庭教師として、西洋の女性が赴任する。
独裁的で気難しい王様と、先進国の家庭教師は
考え方や慣習の違いから衝突を繰り返すが
やがて2人はいいムードになり、ハッピーエンド。
お金のかかった豪華絢爛が大好きな私であるから
当然、この物語は大好物。
王家の子供達を、国内だけでなく国際社会で通用する人に育成する…
異国から家庭教師を迎えた目的は、これのはずだった。
その教育が子供達だけでなく、王様まで変えていくところが
最大の見せ場であろう。
西洋風でありながら、どこかアジアンテイストの美しい家具調度や
目にもまぶしい衣装…
「シャル・ウィ・ダンス」の名曲に乗って
怖い王様がだんだん紳士に変わって行く経過は、極めて見応えがある。
この王様を日本の謙さんがやってくれる。
嬉しい限りだ。
大作であるから、演技力はもちろんのこと
アジア系の引き締まった顔立ちや
人々がひれ伏してしまうような風格が必要。
頭蓋骨の形状も問われる。
丸坊主がお決まりなので、絶壁やひょろ長いの、歪んだのではダメ。
女性の方は誰が演じてもわりと大丈夫だが
王様の方は条件が揃わないと演じられない、難しい役なのだ。
製作者サイドの発表に、私の胸は震えた。
「我々は歌手やダンサーを探していたのではない。
王様を探していた」
シビレちゃうわ。
ああ、誰か言ってくれないかしら!
「我々は女の子や女性を探していたのではない。
オバさんを探していた」
そのオバさん、近ごろ出番多し。
仕事である事務業の他に、嫁業、母業、妻業を適当に営業してきたが
義父アツシの死後、これに仏業が加わる。
何十年もの間、新興宗教の信者だった義母ヨシコが
アツシの死をきっかけに一般的な仏教へと改宗したからだ。
ヨシコの改宗は、我々夫婦が以前から望んでいたことであった。
ヨシコとその娘が一緒に何を拝もうと、興味は無い。
ただ、その宗教での葬式スタイルに問題があった。
ヨシコの宗教では、葬式に花を使用しない。
シキビ、またはシキミと呼ばれる葉っぱだけだ。
我々が懸念するのは、この葉っぱであった。
この宗教の葬式に、二度参列したことがある。
どちらも小さな店を経営していたので
事情を知らない仕入先や取引先からも生花が贈られる。
故人に生花を贈った参列者が、あちこちで漏らす失望のささやきを聞いた。
「花を贈ったはずなのに、葉っぱになってる!」
「どういうこと?」
商売人が少数派の信仰をしている場合、普段は隠すことが多い。
信教の自由は憲法で認められているとはいえ
お客さんの誤解や偏見を招く恐れがあるからだ。
よって葬式が、カミングアウトの場になる。
会場が緑一色になろうと、カンオケのアツシが葉っぱにうもれようと
全然かまわない。
ヨシコが日頃主張するように、シキビは生花より高貴な植物かもしれないし
価格に変えたら同じようなものかもしれない。
が、この風習を知らない人にとって、葉っぱは花より安い印象がぬぐえない。
タヌキにだまされて木の葉のお金を握らされるに等しい
詐欺に遭ったような衝撃であるらしかった。
我々の属する建設業界は、葬式が派手だ。
生花がたくさん贈られるのは決定事項である。
この葉っぱ主義では、タヌキの木の葉的心境に陥る人数が多い。
一瞬の印象は、生涯影響する。
後でどんなに説明したってダメだ。
そもそも古風なこの業界で、説明のいる変わった葬式なんか
やっちゃいけないのだ。
我々はヨシコの改宗計画にあたり
最初で最後、そして最大のチャンスは
アツシ死亡の瞬間のみと踏んでいた。
いよいよその時を迎えて身構える我々。
が、親戚や近所の人々を前に、信仰のカミングアウトができなかったヨシコは
アツシの両親や兄弟を送った一般的な仏教で葬式を出すことに同意し
あっさり改宗。
改宗した浄土真宗は、たまたま私の実家と同じ宗派である。
祖母を小1、母親を小6で亡くした私には慣れ親しんだものだ。
しかしヨシコと娘にとっては何もかも初めての異教であり
女手はあてにならない。
細々とした道具やしきたり、お茶やお布施を出すタイミング、法要の流れ…
先輩ヅラをして、あれこれ世話を焼く。
こないだは遺影の裏から、ハンカチに包んだアツシの骨が出てきた。
火葬の時、骨壺に入りきらなかったのを惜しみ
母娘で持ち帰ったようだが、もう飽きたのだった。
カラカラと骨壺へ戻し、ギュッとフタをしたらバリバリと砕ける。
♩あ~ちらの骨と こ~ちらの骨を 合~わせ~てみよう~
カラカラッと素敵な音がする バリバリッと楽しい音がする 音がする♩
童謡「たのしいね」のフシでどうぞ。
女の子や女性ってだけじゃ、この役は無理ね…
やっぱオバサンでなきゃ…
私は一人そうつぶやく。
王様と私ならぬ、仏様と私。