羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

動画撮影はじまり

2006年12月16日 20時55分39秒 | Weblog
本日、朝日カルチャーセンター土曜日クラス、本年最後のレッスンだった。
23日が祭日ということで、いつになくはやい終了だ。

出かけていくときから、気合が入っていた。
はじめから飛ばして、相当、動いた。年内納めだということだけではなく、動画撮影をする予定をたてていた。

ジュニア新書の本に書いた順に、動きを書き出して、いくつかを撮っておきたかった。

大学からも男子学生が駆けつけてくれたうえに、広島から井上氏が上京するタイミングがあった。
自宅に着く前に、帰りの電車の中で携帯の画像を見続けた。
順序は決まっているが、どのように見せていこうか、楽しみである。

教室の皆さんが、協力してくださって、いい雰囲気に終始した。
しっかり「ジングルベル」のフォークダンスも踊ることができました。

一年間、いい時間を過ごさせていただきました。
有意義な2006年が、一ずつファイナルを迎える。
明日は、日曜クラスの納めだ。
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新しいテレビに魅せられて……何を見てるの 聞いているの?

2006年12月15日 09時57分36秒 | Weblog
新しい地デジ対応のテレビになってから、見方・聞き方が変わってしまった。
自然の映像は、文句なく美しい。コマーシャルもリキが入っているとお見受けする。映像も音声もなかなかいい。
ところが問題は、ドラマだ。ワイドショーなどは、セットのお粗末さが見えるが、ドラマは制作費が丸見えになる。とくにお年寄りが見るであろう時代劇など、セットだけでなく、音楽や音声がかなり手抜きされている。びっくりしたのは、音楽以外の環境をバックで支える状況音の手抜きは、見るに見かねるというか、聞くに聞きかねるシーンがかなりあった。ずさんなのだ。

もう少し視聴者の幅を広げているものは、レベルが違っている。許せる範囲内にある。しかし、ここにも問題がある。スタジオ撮影の場面とロケの場面が混ざり合わさっているものは、ロケになったときの音声ミキシングがいい場合とよくない場合がはっきりと出てしまう。

それに化粧は、ベタ塗りの顔に辟易することがある。美しくみずみずしい肌は赤ちゃんくらいだ。それに対抗するかのように、塗りたくっているファンデーションは、照り返しが強くて、何とかならないものかと思うことがある。
若さが売り物の女優さんや女性ニュースキャスターの目の下のたるみは隠せないのだから、「よく映る」ということは、残酷である。
「夜目・遠目・傘の内」は、色白といっしょで七難隠すわけだ.

驚いたのは、「教育基本法」の審議会の中継場面だった。国会内の壁布だろうか、これはものすごくいい素材であることが立っている人の後ろ側のバックとしてはっきりと写るのだ。これは建築物として本物だ、ということが内装の材料から伝わるのも可笑しかった。

明日は、きっとフィギャスケートが放送されるだろう。このときに動きと音楽がどのように写るのか聞こえるのか楽しみだが。

私は、いったい何をしているのだろうか。
今までの映りが悪いテレビの方が、純粋に内容を見て聞いていたのに。
まぁ、もうしばらくすれば、慣れてしまうに決まっている。

あーぁ、くたびれるのよね~。


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憂国

2006年12月14日 19時28分57秒 | Weblog
今朝、宅急便で再校ゲラを送った。
 いよいよ私の手を離れてしまった。21日までは、ちょっとの手直しはできそうだが、手元に原稿がないので、難しい。実質、今日で仕上がりというわけだ。

 佐治さんから表紙のデザインも知らせていただいた。
 いろいろがまとまってきて、最後の追い込みだ。昨日は、編集者からメールが入って、期日を守ってほしいという希望が、遠まわしに書かれていた。

 ところで三島由紀夫は、原稿が遅れることはなかったらしい。遅刻もしない。
 こんなエピソードを読んだことがある。
 三島は或る美しい女性に銀座でフランス料理をご馳走する約束をした。その日、女性はなかなかあらわれない。30分まった三島は
「○○さんがいらっしゃったら、一人でお食事をしてくださいとお伝えください」
 で、三島は一人分の料金を支払って先に帰ってしまった。
 遅れてきた女性は一人寂しく食事をしたらしい。

 遅れるほうが悪いといえば言えるのだが。

 三島が市谷のバルコニーに立った日は、自宅の机の上には、最後の作品『豊饒の海』最終編の原稿がきちんと揃えられて、置かれていたという。

 レベルは違いすぎるが、原稿締め切りの日には、必ずこの話を思い出す。

 締め切りに間に合わない作家がほとんだというのに、律儀な作家・三島由紀夫は、驚くべき結末を自らに課した。

 憂国とは、今の時代を予想したのだろうか。
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気分転換

2006年12月13日 16時27分18秒 | Weblog
午後から、ゲラ再校をやっている。ほぼメドがついたので、ちょっと気分転換にブログにやってきた。

動画撮影のリストアップは先日終わっている。なんとたくさんあることか。写真は佐治さんが900枚を超えて撮影してくださった。
動画に載せる動きは、40を超える。

本を作るということは、意味が深いといつも思う。
中学生のころから、正確に言うと13歳から、本が好きになった。それ以前は、少年少女文学全集みたいなものは読んでいた。しかし、本格的に本好きになったのが、その年だった。

******

外の空気を吸いに出たのだが、今年は秋が暖かかったせいか、自宅の欅やもみじの盆栽の葉が、きれいな紅葉をしていない。空気も悪いらしく、汚れて枯れている状態がみられる。

いやはや、とんでもない気候ととんでもない大気汚染なのだ。
すくなくとも自分のからだに対する「感覚汚染」は、おりに触れてぬぐっておきたい。

新しい本は、ジュニアだけでなく、大人たちにも読んでもらいたい。
こうした異常気象と大気汚染をもたらす原因に、大人の責任も大きいのだから。

などと思いながら、部屋に戻った。
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本の追い込み作業中

2006年12月12日 19時02分09秒 | Weblog
 先週末から「あとがき」書きと校正をやっている。
 今週の金曜日が締め切りで、いよいよ手を離れることになる。

 明日は、一気に、自宅で追い込み作業をしたいと思っている。
 さぁ、これが終わると16日から動画撮影に入るつもりだ。
 新しく作っている「野口体操・身体感覚をひらく」という、動画専門チャンネルになる予定だ。

 一つの実験として、携帯電話で撮った映像をブログに載せながら、本とドッキングさせて、どのような展開ができるのか楽しみである。
 というわけで、ここしばらく神経を使う仕事に精を出すことになる。
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とうとうやって来た!

2006年12月11日 19時23分15秒 | Weblog
 いつもの時間に、新宿駅ホームに降り立った。
 日はとっぷりと暮れている。
 とにかく長いホームを歩いて、乗り換える。湘南新宿ラインは、ほとんど代々木なのだから。
 
 そそくさと家路を急ぐには、わけがあった。
 一刻もはやく家に帰り着きたかった。
 小学生のころ、同じような体験をしたことがある。
 高校生のころにも、似たようなときめきを胸に、家路を急いだ記憶がよみがえる。
 小学生のときは、「必ずお稽古をする」という父との約束で買ってもらえたピアノが届く日だった。
 高校生のときは、すでに音大の付属に通っていて、グランドピアノが届く日だった。

 で、今日は新しいテレビが届いている日。
 2・3ヶ月前に、リモコンがきかなくなり、写りも悪くなり始めていた。
 そもそも何年も前から、フィギャスケートのときに音楽が途切れたり、ピアノのレッスンの時には楽譜が映ると音がなくなったり、中継のときに音楽が鳴ると音声が切れていたテレビだから、地デジの11年までは待てないことは明白だった。
 それでも、「もう少し待とう」と我慢をしていたが、昨日、電気屋で機種を決めてきた。
 それが届いているはずだった。

 玄関ドアを開けるや否や、部屋に飛び込んだ。
「やぁ、よく映るわね」

 大画面でないので、液晶にした。
 何が美しいって「黒」が美しい。
「今まで暗い場面は見えなかったのに、これなら大丈夫ね」

 来年のお正月は、なんだかテレビに釘付けになりそうな嫌な予感がしている。
 つい先ほど、バトミントンの先生と話をしたことを思い出して思わず苦笑してしまった。
「子供のころは街頭テレビがあって、人だかりがしてたんですよ」
「ちょっと待ってください。いつのころのはなし?」
「。。。。。。。」
「で、家には結構はやめにテレビがあって、ご近所の人が見に来てたの。特にプロレス中継の日は、大変だったわ」
「へー、その時代を知ってるわけですね。話には聞いてますが」

 テレビも電話も一人一台の時代になってしまった。
 昔を語っても「へー」「ふぅ~ん」という時代だ。
 私も年をとったわけだ。

 ということで、しばらくものめずらしくテレビを見ることになりそうだ。
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昨日のこと

2006年12月10日 09時51分06秒 | Weblog
 昨日のブログに、メールをいただいたり、励まされたりした。
「今日のトーンは、どうなさったのか。ちょっと低めでしたね」
「耳の具合は、そんなに悪かったのですね」
 他にも
「キーボードで、音の静かなものもありますよ」

 ご心配かけました。
 確かに1年間くらいは、非常に我慢を強いられていた思う。
 しかし、それほど辛かったかというと書いたほどでもなかったのかとも思えるし、いやいや「そうだった」ともいえる。
 
 思い返してみて、入院中の2週間は、最初の数日こそ大変だったが、残りの時間は快適に過ごした。はじめての体験ばかりだし、病院というところは、いろいろな人との出会いがあって面白い。
 
 さて、そんな会話をしたのは、朝日カルチャーセンター・土曜日クラスの始まる前だった。
 昨日で「呼吸」をテーマとしてレッスンを一区切りして、このクラスでもヨガの龍村修さんの「ナウリ呼吸法」のDVDを見ていただいた。
 これに驚かない人は皆無だ。
「お風呂で練習されると比較的……」とおっしゃる龍村さんの表情が、なんとも明るい。というより「できるものならやってごらんなさい」。
 他の追随を許さないような、自信に満ち満ちた話し方が印象的なのだ。
 
 それにしても「呼吸」の問題は難しい。
 晩年の野口三千三先生は、ほとんど呼吸の話をなさらなくなった。
「からだをあけ(開・空・明)ていおけ!」
 その一言に集約された。
『からだの「から」は空っぽの「カラ」。エネルギーの通り道。路上駐車はしないように』
 この言葉は、龍村仁監督が作られた3分CMのなかでの先生の言葉だ。

 来年、3月31日に、龍村修さんをお招きして朝日カルチャーセンターで特別公開講座を企画した。龍村さんは沖正弘師の高弟である。昭和30年代に、野口先生は、沖さんを通して、ヨガに触れている。
 どのような話が伺えるのか、今から楽しみである。

 レッスンが終わって、住友ビルを出た瞬間、雨と風に本格的な冬を感じた。
 新宿駅までいつものように数名の方々を話しながら、帰途についた。この時間がなんとなくいいのよね。
 
 新宿駅につくと、時はまさに忘年会シーズン。いつもとはまったく違う開放された表情の顔・顔・顔。人々であふれかえっていた。
 いよいよ師走も中盤にさしかかったと実感が沸き起こる。
 
 こうした雑踏のなかで、耳の不快感などまったく感じないこのごろである。
 おかげさま!
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突発性難聴……暴走する音

2006年12月09日 08時28分29秒 | Weblog
 昨日、「健康誌デスク、ときどきギタリスト」という名前のブログに、コメントを入れた。
 この日のテーマは「ニュース断食」というものだった。その話は面白かったので、読んでみてください。
 
 ところで、その「ニュース断食」に、何気なく書いてしまったコメントの内容について、不思議に思ったことがある。
 うまく表現ができそうにもないが、今日は、あえて試みてみようと思う。

 テーマは「突発性難聴」の不思議さなのだ。
 私の場合、低音から中音、さらには高音まで、やられてしまった。検査の結果は、ほとんど一般にいわれる聴覚障害者のレベルまで落ち込んでいた。
 治療の結果、半年後には、高音を残して他の領域は完治した。高音についても数値的には、ちょっと不自由な人という程度まで回復はしている。
 現在はどうなのかというと、フルート・ソプラノ・ピアノの高音・ヴァイオリン等々の音域は、非常に悪い状況のときよりは楽になったが、耳に刺さってくる状況は残っている。ただし、この現象は、わずらった方の右耳だけに起こっている。
 
 で、かなり治療効果が現れてからも嫌だったのは、パソコンのキーボードを打つときのカチャカチャいう音。これはながいこと耐えられなかった。
 おそらく1000ヘルツから2000ヘルツの音域の音が鳴っているのだろう。
 でも、なぜ、この音域がやられてしまったのに、この高さが含まれる音が鳴ると、耳障りなのだろう。
「耳の中で、音がランダムにうねる」わけだ。
 直接その音の高さではなく、低音や中音に倍音として、この音域が含まれる楽器もそうだったが、楽音以外の音の中にこの音域が含まれていると、不快感たるもの我慢ができない状況が、治療効果がはっきりと出てからも続いていた。

 町の騒音は1年くらい辛かった。
 所狭しと物が置かれている部屋でも、耳がふさがれるような不快感に襲われた。 天井が低いところもダメ。
 朝日カルチャーの教室にある大きな二台の扇風機が回るのも耳に空気振動が伝わって、逃げ出したくなる感じすらしていた。
 
 実は、この症状は、相当長い期間、続いていたような気がしている。
 それが今ではほとんどなくなっている。
 しかし、ピアノの練習をするときには、右耳に耳栓を入れている。そうしないと音がうなってしまうからだ。それも完治していない高音部の音域がうなる。
 パソコンの場合は、ほとんど気に障らなくなったのだが。
 それでも意識して音を拾うと、耳の奥でうなるのがわかる。きっと無意識に消すコツを習得したのだろう。パソコンの場合は、聴覚は「言葉」に向かい、視覚的を優先させて外側に意識が向く状態で作文しているからだと思う。その点がピアノを弾くときとは、まったく違う感覚の働き方なのだ。

 このことを書いていてわかったことだが、私のパソコンの打鍵が強すぎるのだった。ピアノの打鍵をそのままパソコンでもやってしまうらしい。感情によって打鍵の強さが変化する。文章を書きながら、次第に思いが熱してくると、さらにキーをたたく力が強くなるらしい。
 したがって、昔、盛んに演奏されたヤマハのエレクトーンという名の楽器の打鍵法がいいようだ。この打鍵はピアノとは違う。むしろパソコンはエレクトーン打鍵でいい。この奏法をすれば、ずいぶんとパソコンのキーを打つ音が静かになる。他の人が打っているあのやり方なのだ。
 
 言ってみれば私の場合には、スタッカートで演奏しているようなもの。パソコンのキーボーが打楽器になってしまった。そこで、高音部の音域が、耳に強く刺さってきていたのだった。

 楽器は発音体があるだけでは楽器とは言わない。反響板があってはじめて楽器と呼ばれる。実は、このキーボードは、昭和初期の四角い卓袱台に置いてある。キーボードにはわずかだが傾斜がついているので、ちゃぶ台との間には空間ができる。楽器の構造に近いわけだ。
 この卓袱台は、反響板の役割を十分に担っている。72センチ四方、トントンたたくといい音がする。80年以上の年齢である。木もよく枯れていて、響きがいいというわけ。

 そろそろ今日のブログも、終わりにしたい。
 不思議なのは、壊れている音域が、耳に入ってくると、なぜ、こんなにも唸ってしまうのか。よくわからない。当初は、この音域の耳鳴りに辟易していた。今でも右耳からは高音のサーッという音が、常に聞こえていている。ホワイト・ノイズとは違うがそんな感じ。しかし、意識を集中して耳を澄まさないと、普段は忘れている。
 
 「制御を失って暴走している高音の波」は、一生、私の耳の中で鳴り続ける。
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悪党芭蕉

2006年12月08日 12時46分04秒 | Weblog
 今朝のこと。
 昨日、大学に行く途中、デパートの中に入っている書店で、手に入れた本をパラパラとめくっていた。
 まだ丁寧には読んでいない。本当は読みたいのだけれど、読み始めたら止められない予感がしているから。
 まず、先にやらなければならないことがいくつかあって、ぐっと読みたい気持ちをこらえている。…でも、止められなくなっていると、あるページで、目が点になった。

「この人、ちょい悪どころではなさそうだ」
 誰のこと?
 世に名高い俳聖・松尾芭蕉である。
 人はスキャンダルを好むところがある。
 で、この著者は、こう言う。
「芭蕉はスキャンダルをかかえて江戸住まいをしており、困ったことに、自らすすんでスキャンダルへ突入していく破滅傾向があり、それが杜国をともなった禁断の旅となった」と書く。
 杜国という御仁は、空米売りの罪で、伊良湖岬に流罪になった米商。水もしたたる美青年で芭蕉の弟子であった。
 流罪者を連れ出したことがわかれば芭蕉もまた罪人となる覚悟をして決行したのが、『笈の小文』の旅だとある。
「禁断の紀行」は、没後に編集・刊行された。没後でなければ刊行できなかったわけがあった。
 
 さらに先を読むと面白い。
 世を忍ぶ杜国は、万菊丸と名乗って、芭蕉に従う。京に廻って当時の人気役者吉岡求馬の歌舞伎を見る。ところが見た翌日に求馬が急死してしまう。

 そこで芭蕉は
    
  花あやめ一夜に枯れし求馬哉 (求馬はもとめと読)
 
 すかさず万菊丸は
    
  だきつきて共に死ぬべし蝉のから
 
 この句は、蝉のように抱きついて死にたいと読むらしい。
 急死した求馬に託して芭蕉への恋心を詠んだとある。

 つまり、『笈の小文』は、危険なる紀行であったと著者は書く。

 どうも、どうも、今日のブログには危うい文字が躍っておりまするなぁ~。
 文芸は人の数だけ、読みはあるということ。

『悪党芭蕉』の著者の名は、嵐山光三郎 新潮社刊。
 第34回 泉鏡花文学賞受賞と帯にあるのも頷ける。
 
 実は、ジュニア新書『身体感覚をひらく』の書き出しは、そんなこととは露知らず『笈の小文』の句からはじまったのよね。
 まぁ、いいか。

 さて、先ほど宅配されたそのゲラ校正を、はじめなければ……と思いつつ、目はキーボードわきの本にそそがれて。
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来年のカレンダー

2006年12月07日 08時18分42秒 | Weblog
 毎年、同じ方から、カレンダーをいただく。
 平凡社「白川静・漢字暦」は、佐治嘉隆さんからいただく話を11月はじめのブログに書いたと思う。
 
 昨日、帰宅するともう一つのカレンダーが、居間のちゃぶ台の上に乗っていた。 これは、書き込みが十分できる実用のカレンダーだ。
 全体の大きさは、横:52センチ、縦:76センチ。
 一日分のマスは、横:7センチ、縦:10センチ。
 これは、重宝していて、居間にかけてある。
 出かける場所の頭文字を枠のなかに書き込む。

 野口三千三先生も、これに似たカレンダーを使っておられた。
「年をとると、悲しいことに、曜日と日にちを間違えることが多くなるのよ」
 そう呟きながら、野口先生は大きな字で、書き込みをしていらっしゃった。

 さて、今年も最後の一枚のカレンダーを見つめながら、来年は、還暦まであと2年だと思うと、急に年をとったような気がしてくる。
 整理をしておきたいと思いつつ、のびのびになっているものやことを、脳の黒板に書き出して、出るのはため息ばかり。
 不思議なことに、若いときにはできなかったことが、たくさんあることに気づき愕然とする。
 と同時に、その年にならないと、その年の気持ちはわからない。本当にそうだと思う。

 野口先生は83歳まで、体操のレッスンを続けられた。還暦が近づいたなんて思うと、以前にも増して、野口先生が身体の底から漲る力を最後まで失われなかったことに驚嘆している。
 その当時の自分には、これほど痛切に「凄さ」を感じることはできなかった、と今になって思える。

 そうそう、思い出すことばがある。
 京都清水寺の故大西良慶管長は、100歳を超えて亡くなられたが、「60・70は洟垂れ小僧」と豪語され、70歳過ぎて、はじめてのお子を授かっていらっしゃった。
 ご子息は、私と同い年。
 若き日に、清水寺にお世話になった時にお目にかかって知ったことだった。

 悲喜こもごも。
 思い出も蘇って、カレンダーから年末に喚起されるものは多い。
 
 こうして若き日を思い出すと、赤くなったり・青くなったり。
 後悔もまた、懐かしく。
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異空間に遊ぶ快感…ブログ紹介

2006年12月06日 10時21分34秒 | Weblog
以前、ピナ・バウシュの「春の祭典」について書いたブログに、懐かしい方からコメントが入った。
野口三千三先生の教室で、ご一緒していた東京藝大の美術出身の芸術家(この言い方はご本人の了解を得ていません)からいただいた。

数日前に、偶然に私のブログに出会ったらしい。
異国にいてインターネット上で、懐かしい名前を見つけるという感覚は、日本で検索したどり着くのとは、違った異次元体験かもしれないと、思ったりもする。他の検索から偶然に出会ってしまったということなのだから。

彼もブログなるものをはじめられたとコメントにあった。
アドレスを教えていただいたので、早速に今朝拝見した。

実に、怖いほどに、ブログの世界は、人となりがはっきりと出てくるものだと感心した。著作物よりも「その人そのもの」が、表出する。
このブログは、洗練されさすがに美しい。

こうした世界を見せられると「新・日曜美術館」は、真っ青だろう。
現在生きている作家と、同時進行で、共時的に、世界を感じることができるのだから。

異空間に遊んだこの快感は、私にとってはじめての体感に違いない。

http://kattak.exblog.jp/ ブログ名:Dessin 記録すること。すべてが無に帰する前に。
ブックマークから入ってください。
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冬至まで

2006年12月05日 07時38分15秒 | Weblog
 茅ヶ崎からの帰宅は、湘南新宿ラインに乗ることが多くなった。
 ラッシュ前の電車は、ガラガラに空いていて、横浜から込み合ってくる。
 15両編成の電車は、通常、前の2両がボックス席である。後ろは見たことがないのでわからない。長距離を移動するときには、ボックス席の方が疲れない気がするので、前から2両目に乗ることにしている。

 昨日は、新宿方面に向かって左・窓側の席に座った。
 本を読むこともせず、うとうと半分居眠りをしつつ、半分覚醒しつつ、年末のことなどを考えていた。
 横浜も過ぎ、東海道線と線路が離れていくのは鶴見の先。鶴見川も越えて、新宿ラインに入る。しばらく走ると風景が開けるところがある。
 
 ふと、目を車中に置く。
 通路の向こう、筋向いに座っている初老の男性に気がついた。
 私の方にからだを向けて、しっかりと見ている。
 知り合いだったのかと、記憶をたどってみる。思い出せない。
 じろじろ見るのも悪いので、目を進行方向の右のドアの外に投げた。
 すると一棟のビルの窓の一部が、真っ赤に燃えている。
「エッ、なんで、あそこだけ」
 訝しく思った瞬間、「あぁ~、そうか」

 左の背中側に首を回すと、家が接近していない、広々とした風景のはるか遠方に、頭少し残した太陽が真っ赤に燃え盛っている。
 筋向いの男性は、からだを通路に向けて、真正面にこの沈む太陽を見ていたのだ。

 夕暮れとは、人をセンチメンタルにさせてしまう。
 日一日と日没がはやくなるこの季節は、心に「寂」という文字が忍び込むことがある。
 人の心を明確に透視できないが、共振するものを感じた。

 新宿に到着するころには、明るさはネオンへと切り替わる。
 加えてクリスマスのイルミネーションが、あちこちに輝く。

 冬至まで、あと17日。
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好きなコマーシャル

2006年12月04日 07時50分04秒 | Weblog
スゲー。。。。。。。やっぱ。。。。。。いいわ。
。。。。。。。。ニコン。
これだけの言葉。
ケバイ色があふれるなかで、モノクロのCM。
出演は、キムタクである。

情緒あふれるCMシリーズは、何といっても伊右衛門・サントリーである。
宮沢りえが毎回美しい。いつのころからか着物姿がしっくりと落ち着いてよく似合うようになったなぁ~。

そして私の中のダントツ一番。
新婚ほやほやではないけれど、結婚生活に落ち着きが出始めたころ。まだ子供はいない若い妻が、夕飯の支度をしながら夫に携帯をかける。すると会社でコンピュータに向かう夫は「外で食べるわ」「そう、まだつくってないから」と妻は答える。電話が切れる寸前に「ご飯が炊けました」という電子音が聞こえてしまう。妻の手は、ホワイトシチューをかき混ぜている。そして帰宅した夫は「ご飯が炊けました」と呟く。東京ガスである。
うぅ~ん、いいね~。
妻夫木の柔らかな表情がなんともいえない。

というわけで昨日に引き続き、テレビの話題でした。
下手なドラマよりも好き!

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食彩の王国

2006年12月03日 11時41分53秒 | Weblog
 毎週土曜日の朝10時55分から11時20分、「食彩の王国」という番組をテレビ朝日が放送している。
 タイミングが合うと、なんとなく見続けてしまう。
 見終わったとき、心が温かくなって、元気が出る。
 一日、一テーマ。
 ある食材がどのような経緯でうまれ、育てられ、食卓に上るのかが、丁寧な取材と肌理細やかなストーリーで語られていく。見ているうちにその食材への限りない愛情が育っていく。ナレーションは、確か薬師丸さんだったと思う。甘すぎずかといってぶっきら棒でもなく、美声ではないがいい声なのだ。
 なにより、見終わったときに幸せなのだ。

 これに限らず、なんとなく料理番組を見るのは好きだ。不思議なことに、好きだからといって、それをつくってみるかというそうでもない。特にお菓子つくりなどは、見ていて楽しいが、それをつくって食べないと気がすまないというわけではない。見ているだけで満たされていく。

 テレビ放送では、食をテーマにした番組は多い。が、この「食彩の王国」は飛びぬけて、好きな番組だ。
 つくる姿勢がいいのかなぁ。

 野口体操のDVDは、このような味のある香りのある見る人に「幸せ感」を呼び覚ますような、見終わったときにはればれするような、つくり方でやってみたいと見ながら思ってしまう。

 深いけれど理屈っぽくない。さらりとしているけれど、ぬくもりがある。必要な情報はしっかり盛り込まれている。食材へのこだわりが、気障(キザ)でない。
 挙げたら切がないのだけれど、野口体操をこんな風に表してみたいとおもっている。

 最後のクレジットに「テレビマンユニオン」という文字を見つけて、なるほど・さすがと思った。
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携帯料金節約と健康のビミョウな関係

2006年12月02日 08時03分49秒 | Weblog
 キラッと学生全員の目が輝いた。
 こんな輝きはいまだかつて見たことがない。
 それは、先週から引き続き、二回目の「呼吸について」の授業でのときだった。
 腹式呼吸・胸式呼吸のメカニズムの違いとその実感を主に今週は授業を進めた。
 実はこの「呼吸」の話は、はじめて聞くとかなり難しい。実感がつかみにくいからだ。しかし、呼吸なしには人は生きられない。なのに、あらためて取り上げると難しいというわけだ。

 その日は、授業の最後に、成績に関係ないリポートを書いてもらった。
 このリポートにはコメントをつけて学生にフィードバックしている。
 昨晩、そのリポートを読んだのだが、多くの学生にとってマッサージと呼吸に関しての興味が深いことが伝わってくる。

 さて、学生の目の輝きは、呼吸について「目から鱗」の体験をしたからではない。
 何気なく口をついた私の一言だった。
「しなくてもいい携帯メールや電話をかけたくなったら、ちょっと一息、今、試してもらった腹式呼吸と胸式呼吸の練習をやって御覧なさい。回数は少なくいいんです。その後にも必要を感じたら携帯でメールをしても電話をしてもいいんじゃない。多分、相当携帯料金の節約になりますよ」
 キラキラッと輝く目は、この瞬間、教室を明るく照らした。
「学生も、携帯料金が高くて本当は悩んでいるのよね」心の中で呟いた。
 誰かがすこし控えればいいことなのにね~、と、思うけれど難しそうだ。

 ところで、いよいよ来週には、来年1月に出版予定のジュニア新書再校ゲラが送られると、昨日、岩波の編集の方からメールがあった。 
 なんでも今年の流行語大賞に「品格」もノミネートされたそうだが、「品格は読書から生まれる」といった言葉を思い出す。いったい誰のことば!?
 誰だろうとそんなことはどっちでもいい。三度に一度は携帯とゲーム機をしまって、呼吸を体感し、おもむろに本を読もう。
 料金が節約できた分、品格はともかく、健康への道が開けるかも知れない、と本気で思うわけ。
 
 さてさて、日ごろ、ストレスがたまって、いつの間にか呼吸が浅くなっていませんか?
 ストレスが多いというほどではないけれど、自問しているのは私自身かも。
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