羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

正月三日

2008年01月03日 09時31分29秒 | Weblog
 今朝の雑感。
 
 三元日は、お雑煮を食べる習慣を何十年も続けている。
 子供のころの記憶では、鶏肉に大根+人参+里芋+小松菜等々が入っていた。
 
 さて、唐突だけれど、その時代から今年のお雑煮に話を飛ばしたい。
 この2、3年は、毎年同じ食材でつくっている。
 しゃぶしゃぶ用の豚肉+葱+小松菜+柚。
 このお雑煮を3日間続けた。
 毎朝、だいたい同じ時間に作っている。

 で、今朝、思ったことだけれど、同じものを同じ時間に同じようにつくることの意味だった。
 葱の切り方、お餅の焼き具合、塩加減や最後に香味付けにわずかにたらす醤油の量等々、まったく同じというわけにはいかない。
 どのくらい違うかと問うてみると僅差でしかない。
 なのに体調や気分も関わって、微妙に違うことがよく感じられるのだ。
 
 そういえば、若き日に、厚焼き玉子を練習したとき「もういい加減にして」っと言われるほどつくり続けたことがあった。
 焼き始める前の段取り、焼き始めてからの箸や油をいれた小皿の置き場所といった細かいとことが自然に決まるまでには、周りの顰蹙を買うほど試さないとならなかった。その頃になると、最初から最後までほとんど神経を使わなくても焼き上げることができるようになっていた。ただ、要所要所で、ぐっと腹に力を入れる瞬間がつかめるようになる。それには数年が必要だった。なぜって、毎日つくるわけではないのだから。これがプロは違う。

 で、玄人というのは微妙な違いが分かる人を言うのだが、わずかな違いを感じ取るには、日々、同じことを繰り返すことによってしか、育たない。
 続けるということによって「違いが分かる感覚が育つ」ってことなのだ。

 そのことにつれて思い起こされるのは、明け方、まだ暗いうちに、月の光が美しい時間帯に、じっと坐する。禅は只管に坐れと言う、その言葉だ。
 なるほど仰せの通り。
 只管に坐る僧に朝餉を供する僧は、朝粥を炊く四季折々に、米が水と火によって醸しだされる味わいの微妙な違いを感じ取っていたに違いない。
 同じ日は、二度と繰り返されない。
 行く雲と流れる水とは、よく言ったものだ。

 因みに、今日の写真は「長生き独楽」。江戸独楽作家の福島保さんの作。
 最近は目が悪くなってきて、小さいものは以前にも増して勘で作るようになられたとか。
 ‘勘’こそ継続によってはぐくまれるものでしょうね。
 この独楽は、いつ止まるのかと思うほどに長く回り続ける。
コメント (2)
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