羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

読書

2006年02月09日 09時20分00秒 | Weblog
 今月10日締め切りという飛び込みの原稿依頼があって、読んでいた本が、なかなか進まなかった。
 昨日、著者校正を終わって、そのあと一気に読み終えた。
 書名は『死は易きことなりー陸軍大将山下奉文の決断』。
最終章の一つ前「焦燥の日々」のなかに「ヤシの木陰に舞う大和撫子」という話があった。
 この章の主人公は、野口先生とのご縁のあるモダンダンスの宮操子さん。
 野口先生は、昭和21年、江口隆哉・宮操子舞踊研究所でモダンダンスの指導を受けられた。このお二人との出会いが、戦後の学校体育に「創作ダンス」を導入する大きなきっかけとなった。まさにその人の話である。

 最近になって、一気に戦前・戦中・戦後の歴史を読みながら、まったく知らなかった自分に驚いているのだけれど、この章の話は、もっとビックリなのである。

 戦前、江口隆哉・宮操子両人は、ドイツにダンス留学をしていた。そのヨーロッパへ渡航するには、もちろん船旅であった。
本によると、宮さんが乗船した船舶は、日本郵船の「諏訪丸」。この船には、ジュネーブ軍縮会議に出席する陸軍将校が乗り合わせていたそうだ。船上での華やかなパーティーでは社交ダンスは必修科目で、彼ら陸軍軍人たちに乞われて、宮さんがダンス指導を行った。
 それが縁で、戦争が勃発してから、宮さんは陸軍省派遣極秘従軍舞踊団を引き連れて、大陸に行くことになった。もちろん太平洋戦争が始まると、陥落直後のシンガポールに上陸したらしい。

 当時、陸軍報道部や宣伝部が入っていた「昭南劇場」で、彼女は舞踊を披露した。
 そのほか中国大陸やビルマでは即製の舞台で踊ったと記されている。
 著者は、「私は何万人という兵隊さんを泣かせてしまったのよ」と語る宮さんを取材されたようだ。

 そうした宮さんと野口先生が、敗戦後の日本で出会われた。
 きっと、非常に複雑な思いで、江口・宮両氏と野口先生が、戦後の復興にかかわっておられたに違いない。
 最近読んでいる本の内容をもっと早くに知りえていたら、野口先生に伺った話の聴き方も、ずいぶん違ったものになっていたはず。実に、悔やまれる。
 
 ところで「昭南劇場」の「昭南」とは、太平洋戦争中、日本が占領中のシンガポールにつけた名称ということをはじめて知った。
 そこで、思い出す名前があった。
 ネパールを中心に、学校をつくるなどの活動する「アジア自然塾」をやっておられた稲村昭南さんだ。
 稲村さんは、野口先生ご存命意中に、たびたび教室にいらしていた。朝日新聞の記者の方のご紹介だった。彼は、すでにこの世にいらっしゃらない。あまりに早すぎる死だった。
 今、思う。
 彼の並々ならぬアジアへの思いは、もしかするとこの「昭南」というお名前にあったのかもしれない。命名された由来を伺ったことはなかったが。

 さまざまに遠い縁が、繋がってくる。
 読書とは、不思議な行為だ。
 
 しかし、読書の時間は、自分では体験できない過去・現在、そして未来をも生きることなるのだなぁ~、とため息をついている私が、ここに、いる。
コメント (4)
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