先日のニュースを見てドキッとしたことがあった。
それは、ある大学の非常勤講師が、成績を郵送したはずなのに、大学側は受け取っていなかったということで、問題になったが、講師側に記録が残っていたので、事なきを得たらしい。という内容だった。
もし、記録がなかったら、泣いても泣ききれない事態が起こる。
日本の郵便事情の信頼の上に成り立っているし、大学側の事務方への信頼の上になりたっている。
ところで、最近起こった問題に「個人情報保護法」がある。
例えば、「履修カード」について。
以前なら、履修カードに、本人の緊急連絡先の電話番号・出身高校名・血液型・身体系の経験(スポーツ・ダンス・武道・その他)記入・病歴・とくに希望すること・さまざまな情報が書き込まれていた。
ところがこの「個人情報保護法」なるものが施行されて、緊急連絡先・血液型以外は、何も記入されなくなった。
その上、この履修カードは、情報はほとんどかかれていないにもかかわらず、研究室から持ち出し禁止で、鍵のかかる戸棚にしまってくるという厳重さだ。
カルチャーセンターでも、教室内やセンター内でで受講生同士がメール番号や電話番号やアドレスを教えあってはいけないらしい。もちろん教える側も何も聞けない。そこから出たところで、交換するのはかまわないという。
病院でも名前を呼ばずに、番号で呼び出すという。
それって、とってもオカシイ。
たしかに信頼を裏切ることばかりが報道されているから、すべてが信じられなくなっていることは誰でもが認める。個人情報が悪用されることも日常茶飯事のこととして起きているのだから。
しかし、これほどまでに何も信じられない時代がくることを、誰が予想しただろう。
最近はしなくなったが、『原初生命体としての人間』の初版が出た1970年代のころまでは、著者の住所まで奥付に記されていた。
当時までは、本を書く人も読む人も、悪い人はいないということだったか。
今では研究論文の捏造事件が多発している。ノーベル賞クラスの学者の不祥事が全世界のニュースとして広まったことは、記憶に新しい。
すくなくとも1970年代までは、人間関係は信頼という絆が結ばれていたことが、本の奥付をみてもわかる。
今では人間関係は、「まず、疑え」からはじまるわけだ。
そうしたなか、「個人情報保護法」の不便さや問題点が、あちこちで言われている。が、やっぱり「しかたないのかな」と思いつつ、こんな法律が必要となる社会や時代風潮を呪いたい気分だ。
なんといってもこのような法律があっても、何も守られていないという思いが、日に日に増すからだ。
先日も、ある銀行で、ちょっとまとまって預金をおろそうとする人に向けられる行員さんの二つの眼に、「疑」という文字がしっかり刻まれる様子を見かけたことがある。嫌な感じといったらなかった。
信じられるものは何か?
今のところ、郵便物がほとんど間違いなく届いていることだけは救いか、と思いつつ、先月末に、後期の成績表を郵送したばかりだった。そして大学からコンピューターに打ち込んだ「採点入力確認表」が届けられた。
これがきてようやく、ホッとしているところだ。
それは、ある大学の非常勤講師が、成績を郵送したはずなのに、大学側は受け取っていなかったということで、問題になったが、講師側に記録が残っていたので、事なきを得たらしい。という内容だった。
もし、記録がなかったら、泣いても泣ききれない事態が起こる。
日本の郵便事情の信頼の上に成り立っているし、大学側の事務方への信頼の上になりたっている。
ところで、最近起こった問題に「個人情報保護法」がある。
例えば、「履修カード」について。
以前なら、履修カードに、本人の緊急連絡先の電話番号・出身高校名・血液型・身体系の経験(スポーツ・ダンス・武道・その他)記入・病歴・とくに希望すること・さまざまな情報が書き込まれていた。
ところがこの「個人情報保護法」なるものが施行されて、緊急連絡先・血液型以外は、何も記入されなくなった。
その上、この履修カードは、情報はほとんどかかれていないにもかかわらず、研究室から持ち出し禁止で、鍵のかかる戸棚にしまってくるという厳重さだ。
カルチャーセンターでも、教室内やセンター内でで受講生同士がメール番号や電話番号やアドレスを教えあってはいけないらしい。もちろん教える側も何も聞けない。そこから出たところで、交換するのはかまわないという。
病院でも名前を呼ばずに、番号で呼び出すという。
それって、とってもオカシイ。
たしかに信頼を裏切ることばかりが報道されているから、すべてが信じられなくなっていることは誰でもが認める。個人情報が悪用されることも日常茶飯事のこととして起きているのだから。
しかし、これほどまでに何も信じられない時代がくることを、誰が予想しただろう。
最近はしなくなったが、『原初生命体としての人間』の初版が出た1970年代のころまでは、著者の住所まで奥付に記されていた。
当時までは、本を書く人も読む人も、悪い人はいないということだったか。
今では研究論文の捏造事件が多発している。ノーベル賞クラスの学者の不祥事が全世界のニュースとして広まったことは、記憶に新しい。
すくなくとも1970年代までは、人間関係は信頼という絆が結ばれていたことが、本の奥付をみてもわかる。
今では人間関係は、「まず、疑え」からはじまるわけだ。
そうしたなか、「個人情報保護法」の不便さや問題点が、あちこちで言われている。が、やっぱり「しかたないのかな」と思いつつ、こんな法律が必要となる社会や時代風潮を呪いたい気分だ。
なんといってもこのような法律があっても、何も守られていないという思いが、日に日に増すからだ。
先日も、ある銀行で、ちょっとまとまって預金をおろそうとする人に向けられる行員さんの二つの眼に、「疑」という文字がしっかり刻まれる様子を見かけたことがある。嫌な感じといったらなかった。
信じられるものは何か?
今のところ、郵便物がほとんど間違いなく届いていることだけは救いか、と思いつつ、先月末に、後期の成績表を郵送したばかりだった。そして大学からコンピューターに打ち込んだ「採点入力確認表」が届けられた。
これがきてようやく、ホッとしているところだ。