もっちゃんの探歩三昧

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鳥取城の御城印

2020年09月12日 | 御城印

コロナの呪縛から逃れたい気持ちは刻一刻強くなり、もうどうにも抑えきれない。

 

御城印を求めて因幡の国まで足を延ばす。
我が広島県と鳥取県は、ほんの僅かに地続きの部分はあるが結構遠隔地である。

鳥取城の天守は、標高263mの「久松山」山頂にあり、市街地から全容を臨むことが出来る。

 

麓に位置する二の丸、三の丸には石垣を中心に多くの遺構が残る。
10年以上前から大規模な修復工事をしていた石垣だが、まだあちらこちらに崩れた箇所が散見される。

 

自然の岩盤と付近から切り出された石を、巧みに組み合わせて城壁を築いている。
複雑な構成が垣間見えて、築城者の苦労が偲ばれる。

六段重ねの石垣を誇る岩村城をちょっと思い出した。

 

数次の修復跡が残る。
中央部分に扇の傾斜が見られるし、様々な時代の境目がはっきりとわかる。

 

天球丸と称している場所だが、石垣の孕みを抑えるための物だろう。

池田光政時代に築かれたと言われているが、備前の閑谷学校の石塀と相通ずる姿をしている。
日本中此処だけに見られるようだ。

 

これが鳥取城の御城印である。

右は池田氏の家紋「揚羽の蝶紋」、オイラは数ある家紋の中で一番美しいと思う。
左は「角輪紋」と言うらしく、初めて見たし知った。
池田氏の副紋だとか、因幡と伯耆の二地域を表す紋と伝わるようだ。

 

そして鳥取攻めの羽柴秀吉が陣を引いた「太閤ケ平(たいこうがなる)」
標高263mの鳥取城に対抗して、1.5キロ東の太閤ケ平(本陣山)は標高250mと拮抗している。

右上は鳥取城に籠る毛利氏攻略を命じた織田信長の「木瓜紋」
右下は言わずと知れた、太閤秀吉の「五七の桐紋」
左上は城を守る側、毛利氏の「一文字三ツ星紋」
左下は時の城主吉川経家の「丸に三つ引紋」だろう。

 

凄惨な兵糧攻めにあって全員が餓死したと伝わる鳥取城の天守は、息を切らせて登ること40分、今目の前にある。

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