天皇・上皇・法皇と呼称が変わっても、譲位しても、出家した後も、権勢を振るい続けた白河天皇、さぞかし御陵は壮大なものと思ったのですが・・・
鳥羽天皇陵から、鳥羽天皇陵へ向かう道脇に、「冠石」なるものが置かれていました。
調べてみたところ、院政を敷いた鳥羽法皇(天皇)が鳥羽離宮を造営する際、冠を外して陣頭指揮を執ったようで、この時脱いだ冠を置いた石だそうです。
白河天皇陵は、鳥羽・近衛天皇陵とは高速道路を挟んで、少し離れた場所にありました。
写真からは想像出来ないかもしれませんが、この右手には高速道路の高架橋が走っており、多くの車が行き交っていました。
真夏の日差しを背後から浴びて、制札版の表記は読めません。
参道? 否、墓前の広場も形ばかりの狭いもので、白河天皇陵=荘厳=大規模の予測は完全に外れました。
それでも「桃山陵墓監区」の陵墓としては珍しい、神明鳥居が建てられています。
画角をいっぱいに狭めて、周囲の俗物を排除して写真に収めました。
神明鳥居、石の玉垣、背後の森がある光景は、何故か懐かしさを感じました。
百舌鳥・古市古墳群では、あれほど神明鳥居は見飽きたと言っていたのに・・・
強大な権勢を振るい続けた白河天皇陵ですが、想像も出来ないほど狭い場所にひっそりと存在していました。
お墓の形は円丘とされていますが、外からは伺い知ることはできません。
三重塔に埋葬するよう「遺詔」を残しますが、鎌倉時代に三重塔は焼失し、その後再建されることはありませんでした。
第72代白河天皇の御陵印です。
猛暑で朱印が柔らかくなっており、予想以上にくっきりと押印されました。
20歳で即位し、77歳で亡くなるまで権勢をほしいままにした法皇ですが、「鴨川の流れ、双六の目、延暦寺の衆徒」が三大不如意だとし、荒法師たちの制圧には源平の武士に当たらせました。
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