御陵印異聞として明治天皇の御后である方の陵墓もお参りしました。
宿泊先である京都市八条にあるホテルの8階から、京都駅方面を撮影しました。
景観保護?の観点から、建築物の高さ制限が厳しい京都市条令ときていますが、ホテル8階から市中心部を見渡してもこの風景、あまり景観保護に役立っているとは言えないのではないでしょうか?
宮内庁管理の桃山御陵参道脇に、豊臣秀吉よって築かれた桃山城の石垣石が残されていました。
桃山城址は宮内庁管理地となっていますので、遺構の調査は進まず真相は謎のままです。
福山城の伏見櫓は遺構の一つと伝えられています。
広い砂利道の参道は緩やかに曲線を描いています。
静寂に包まれた参道には、地域にお住いの多くの方が散策されていました。
途中玉垣が見えたので拝所かと思いましたが、そうではありませんでした。
車両が出入りできるようで、陵墓維持整備のための出入り口でしょうか。
多くの天皇陵に参拝してきましたが、このような出入り口は初めてお眼にかかります。
切妻造平屋建向背付の桃山御陵監区事務所です。
平入の玄関口が少し、左側に片寄っているのは、何か意味が有るのでしょうか?
明治天皇陵を参拝後、緩く曲がりながら下る参道を通って、昭憲皇太后陵へ向かいます。
桃山を背後にした皇后の参拝所前広場は、歴代天皇陵に比肩する壮大なものでした。
昭憲皇太后、何故昭憲皇后ではないのでしょうか? 疑問が湧いてきます。
この意味を説明した、ある資料をを読んだことがあります。
明治天皇は殯の期間(亡くなられてから葬儀が行われるまで)が40日以上と大変長く、この間に大正天皇が即位されました。
その結果、明治天皇の御后である美子皇后は、大正天皇の皇太后にもあたることになりました。
美子皇后が亡くなれれて諱名が贈られたとき、宮内庁は「昭憲皇太后」と通知したそうです。
通常であれば昭憲皇后とするところを、昭憲皇太后と誤った?とその資料には書かれていました。
これが私の理解ですが、真相か否か未だに明確な答えは得られていません。
明治天皇陵を縮尺した形の昭憲皇太后陵、鳥居の右手に大きな女松(赤松)があるのが特徴でしょうか?
明治天皇は人前では皇后を「皇后さん」と呼ばれていたようですが、日常は天皇がひそかにお付けになられた仇名の「天狗さん」と呼ばれていたとか・・・
美子皇后は美しい方でしたが、日本人としては少しお鼻が高かったようで、その容姿を可愛く表現したのでしょう。
偉大であり、いたずらっ子であり、茶目っ気のあったらしい明治天皇の微笑ましい一面が偲ばれます。
帰り際、改めて案内板を確認しましたが、右端にある昭憲皇太后陵は左上にある桓武天皇陵より大きく描かれています。
実際に立派でした。
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