もっちゃんの探歩三昧

歴史探訪や仏像鑑賞、友人との交友をタイムリーに投稿します

伊藤伝右衛門旧宅

2024年09月30日 | 歴史探歩

10年以上前、あることでお世話になった方にお礼を言いたくて、九州旅行の途次に福岡県飯塚市に立ち寄った。

 

筑豊地方の実業家、伊藤伝右衛門旧宅である。
まるで大名屋敷の如き立派な門構えの屋敷である。

 

屋敷は、上半分は白漆喰の塗り込め壁、下半分は板張りの堂々たる塀に囲まれている。

 

門を潜った前庭は白砂青松、中央に巨大な蘇鉄が植えられている。

 

純和風の外観からは想像出来ぬ応接間。
重厚な洋風設えで、中央には暖炉も切られている。

 

板廊下に洋風の棚が設えてあるが、衝立は和風の図柄が施されている。
和洋折衷、明治維新後の文明開化とはこういうものか?

 

芝生を敷き詰めた広大な池泉回遊庭園。
九州筑豊の大炭鉱王に相応しい、豪快な植生が際立つ。

 

軒端には巨石を加工した優美な手水も配してある。

 

駕籠置きかと思えるような巨大な敷石。

 

廊下の天井は特徴的な板張りで、歩いて楽しい。
板張りを工夫することで、天井の中央が下がって見える。

 

同じ天井を逆側から仰ぎ見れこの通り。
あらら…不思議、こちらは中央が高く見えるのだ。
目の錯覚を利用した、大工のいたずら心が垣間見える。

 

床の間と違い棚が一体に造られているのは珍しい。
奥側の明り取りも風流且、実用的で違和感がない。

 

子供の時に父親は病の床に伏し、母親は早死にして大変苦労した伝右衛門。
丁稚奉公から始まって素掘りの石炭堀を経て、巨大な富を築いた炭鉱王の大邸宅。
外見は和風の建物を複雑に組み合わせた、優美な趣となっている。

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広島美術館 春草

2024年09月25日 | Weblog

菱田春草は長野県飯田市出身の画家。

 

「柳に燕」
横山大観と共に岡倉天心の影響を受け、新しい画法に取り組んだ画家。

 

「月下鷲」
輪郭を描かない朦朧体で新しい方向を目指す。

 

「秋汀」
汀は水辺のこと

 

「美人(舞)」
舞わない美人画も描いたのだね。

 

「春の海邊」
朦朧体を脱皮して輪郭を描く手法に変わっていく。

 

「松間の月」
眼の病が悪化していき、自宅付近の景色を多く描くようになる。

 

「月下松島」

 

「栗に雀」

 

「芙蓉」

36歳の若さでこの世を去った。

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ひろしま美術館 大観

2024年09月24日 | Weblog

横山大観の絵は誰が見ても美しいと感ずる作品ばかり・・・

 

「海暾(かいとん)」暾は朝日の意だとか・・・
海原に昇る朝日と海岸の松原が丁寧に描き込まれている。

 

「春陽」は文字通り、満開の桜と愛でる人物。

横山大観は明治維新後、岡倉天心の指導を受け、停滞する日本画壇に朦朧体という、輪郭線を書かない手法で一石を投じた。

 

「虫の声」左下の山に、小さく1匹の虫が描かれている。

やはり岡倉天心の薫陶を得て、目に見えない虫の声を表現しようとした作品。

 

「東海之仙山」 大観は多くの「富士 不二 不死 」を書いている。

これまで三原市の酔心祈念館、安来市の足立美術館で大観が描いた「富士」を見てきたが、地元の美術館で見るのは初めてである。
「灯台下暗し」かな?

 

「明け行く日本」

 

「黎明(れいめい)」
ガラスに照明が反射して見難くなっています。
すみません。

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ひろしま美術館 西洋画

2024年09月20日 | Weblog

絵画なるものには全くの門外漢なのだが、どうしたはずみか美術館なるものの門をくぐってしまった。
入館してみたところ、名前だけは聞いたことのある高名な画家の作品が目白押しだ。

 

まずはルノアールの作品で「クロワシー付近のセーヌ河」をどうぞ!
彼の代表作の一つに「雨傘」と言う作品があるらしいが、雨傘⇒シェルブールの雨傘⇒カトリーヌ・ドヌーブしか連想できなかった。

 

続いてはモネの「セーヌ河の朝」だ。
モネと言えばすぐに「睡蓮」が思い浮かぶが、セーヌ河はフランスのシンボルなんだね。
パリオリンピックではセーヌ河の汚染が話題になったが・・・

 

ムンクと言えば「叫び」、これしか知らない。
ひろしま美術館の所蔵品は全く趣の違うこの作品、「マイスナー嬢の肖像」が展示されていた。
ムンクもまとも?な絵を描くんだ。

 

ミレーと言えば小学校の教科書でお馴染みの「落穂拾い」がすぐに浮かぶ。
同じような画題で「刈入れ」、なんだか心が落ち着くなぁ。

 

こちらはマネの「灰色の羽根帽子の婦人」。
マネの代表作「笛を吹く少年」は、昨年大塚国際美術館で陶板製の作品を鑑賞した。

 

ピカソである。
「カンカン」である。

奇怪な作品しか頭に浮ばないが、このような作品も残しているのだな?

 

この作品を一目見た時、映画アラビアのロレンス⇒ピーター・オトゥールを連想した。
全くオイラは俗人中の俗人である。
ドラクロア作の「墓地のアラブ人」、彼の代表作は「民衆を導く自由の女神」だが、銃撃された後のトランプが、自由の女神を己に比定したと聞いたが滑稽である。

 

ドガの「赤い服の踊り子」である。
彼の代表作は「踊り子」

 

セザンヌの「ジャ・ド・ブファンの木立」と言う作品らしい。
セザンヌ=印象派と記憶していたが、晩年は印象派から遠ざかっていったらしい?

 

ゴッホ、超有名だし名前は誰でも聞いたことがある画家だが、代表作は「ひまわり」と記憶するだけで、あまり鑑賞されていないのではないか?
広島郊外にあるウッドワン美術館にゴッホの「農婦」が所蔵されている。
本作品は「ドービニーの庭」である。

芸術とは対角に位置する凡人であるオイラの日常生活、気まぐれに美術館を訪れたが、酷暑のウィークデーの昼下がり、来館者の多さにびっくりした。

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広島点描 令和6夏

2024年09月17日 | Weblog

遠来の友が訪ねてきたので、炎暑の広島を「ひねもすのたり・・・」

 

地方の中核都市として、遅からず早からず変貌していく広島の街並み。

 

街の中心地から、山脈が」間近に見られるのも広島の特徴。

 

陸の玄関口は急ピッチで改築変貌中。

 

広島でも富士山が見えるよ!
上方中央奥に富士山が見えない?
さしずめこの通りは、全国にあまた存在する「富士見通り」だね!

 

不思議な角度から見下ろす路面電車の「原爆ドーム前」駅。
上方、木立の左側がそれ・・・

 

世界遺産原爆ドームを俯瞰する。
見慣れない景色が展開される。

 

UHOと見間違えそうなヤツも、某所に存在する。

 

謎を解こうと近付くが、行く手を遮られて果たせず・・・

普段あまり近付かない景色が現れる街の中、「ひねもすのたり のたりかな」もたまには楽しい。

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城南宮の庭

2024年09月09日 | Weblog

30年位前の話になりますが、京の庭巡りで訪ねた記憶がある城南宮、天皇陵巡りの途次案内標識を見かけたので思い出を探りに立ち寄りました。

 

そうです。
庭園に清らかな流れが配されているのを記憶していたので、涼感も得られるかと期待しながら周遊します。

 

春の山に清涼感一杯の桔梗が咲いていました。
色褪せすることなく、今が旬とばかりに咲き誇っています。

 

立ち入ることが禁止されている場所の、程々の手入れ感に親しみを覚えます。

 

かと思えば、一転して落ち葉一つ見かけない遊歩道が現れます。
この場所に人影のないのが、無限に価値を高めています。

 

庭園内のそこかしこに遣水が配されています。
ここに十二単衣の佳人が現れても違和感はありません。

 

中央に浮かぶのは低く落ち着いた石組から亀の島でしょう。

 

亀の島の対岸は立てた石組みの鶴の島であり、究極の極楽である蓬莱峡をも現わしているのでしょう。

 

ゆったりとした流れに沿って、曲水の宴が催ようされる苔の庭です。

 

庭の中央には「青もみじ」も鑑賞するることが出来ました。
秋の紅葉もさぞかしの光景が見られることでしょう。

 

秋の七草でもある「女郎花(オミナエシ)」。
オミナは美しい女性のこと、ヘシは圧倒するの意味から、超絶の美人を指して女郎花と名付けられました。

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城南宮

2024年09月08日 | Weblog

第72代白河天皇、第74代鳥羽天皇などが譲位後、法皇となられて院政を引いたのが鳥羽離宮と言われる場所です。

白河天皇陵から南西に2キロほどの位置に城南宮はありました。
天皇陵の鳥居は判で押した如く神明鳥居ですが、柱が内向きに転んだ明神鳥居は何故か新鮮に見えます。
石で作られた、西の鳥居を潜ってお参りしました。

 

参道に立つ灯篭の火袋には、紋と思われる標付の蓋がかぶせられていました。

 

城南宮は鳥羽離宮の裏鬼門に位置しており、離宮の鎮守社であったと記されています。
院御所と言われますが、鎮守の社は城南宮と名付けられており、政争に明け暮れていた時代を彷彿とさせる場所でした。

 

社の正面にある、城南鳥居は朱塗りの木製鳥居です。
転びのある柱、笠木・島木の形状から明神鳥居と思われますが、貫が柱の内に留まったままで抜けておらず、額を掲げるための額束もありません。

 

島木の中央にもこのマークが掲げられていました。
これは神社の神紋で、太陽、月、星を現わしているそうです。

 

御祭神は国常立神、八千矛神、息長帯日売神となっています。
この世に最初に現れた国常立神(くにのとこたち)、八千矛神(やちほこ)=大国主神、息長帯日売神(おきながたらしひめ)=神功皇后が祀られる神社はめずらしいと思います。

 

通常は千木や鰹木が飾られる位置に、神紋が描かれた鬼瓦状の焼き物が置かれているのも特徴的です。

 

拝殿、幣殿、本殿が縦一列に配されており、よく観察すると本殿に棟持柱もない独特な形をしています。

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桓武天皇陵 柏原陵

2024年09月05日 | 御陵印

桓武天皇陵も最寄駅は明治天皇陵と同じJR桃山駅ですが、陵墓間は少々距離が離れている上に方角も微妙な位置にあります。

 

明治天皇陵へ向かう時に、この看板を見るまではどうするか本当に悩んでいました。
しかしこの辺り一帯、桃山の森に囲まれた参道は炎熱下でも結構涼しいのです。

同じ森に囲まれた涼しい参道で行くことの出来る幸、、明治天皇陵参拝の後桓武天皇陵へ脚を延ばすことに、この場所に立った時決めました。

 

明治天皇陵参道と直交して桓武天皇陵への参道は伸びていました。
この部分は川原石を嵌め込んであります。
同じ桃山の森に桓武天皇陵への案内標識が立っていました。

 

なんという生命力でしょうか?
何という木かわかりませんが、外皮1枚で懸命に生き延びようとしています。
この光景に出くわした傘の年を超えた老人には、なんとも切ない気分を味わせてくれました。

 

「794(鳴くよ)うぐいす平安京」でお馴染み、京の都を拓いた桓武天皇陵の参道は、明治天皇のそれに比べて1/3程度の幅しかありません。
この場所が桓武天皇陵か定かではないことが影響しているのかもしれません。

 

明治天皇陵から歩いて20分、桓武天皇陵に着きました。

 

綺麗に掃き清められた墓前、箒目にも足跡は見当たりません。
ひょっとしてこの日(令和6年8月24日)オイラは初めての参拝者かな?
踏み後と思われる場所を辿って、足跡を残さないよう無事参拝を済ませました。

 

陵の形は円丘となっていますが、ここからは確認できません。
45歳で即位し70歳で崩御した第50代桓武天皇は、奈良仏教の影響を嫌って、山城⇒長岡⇒平安京と遷都を繰り返しました。
事蹟としては坂上田村麻呂によって蝦夷征伐を成し遂げ、奈良仏教に変えて最澄の天台宗を比叡山に、空海の真言宗を高野山に開かせました。

比叡山も高野山も都から離れた場所に置いたのは、仏教の圧力を恐れたためでしょうか

 

桓武天皇陵も豊臣秀吉の桃山城址の中にあります。

 

第50代桓武天皇の御陵印です。
珍しく丸印ですが、角印に比べて押印のし易さがあります。
実際に押印してみれば判ります。

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昭憲皇太后陵

2024年09月03日 | 御陵印

御陵印異聞として明治天皇の御后である方の陵墓もお参りしました。

 

宿泊先である京都市八条にあるホテルの8階から、京都駅方面を撮影しました。
景観保護?の観点から、建築物の高さ制限が厳しい京都市条令ときていますが、ホテル8階から市中心部を見渡してもこの風景、あまり景観保護に役立っているとは言えないのではないでしょうか?

 

宮内庁管理の桃山御陵参道脇に、豊臣秀吉よって築かれた桃山城の石垣石が残されていました。
桃山城址は宮内庁管理地となっていますので、遺構の調査は進まず真相は謎のままです。

福山城の伏見櫓は遺構の一つと伝えられています。

 

広い砂利道の参道は緩やかに曲線を描いています。
静寂に包まれた参道には、地域にお住いの多くの方が散策されていました。

 

途中玉垣が見えたので拝所かと思いましたが、そうではありませんでした。
車両が出入りできるようで、陵墓維持整備のための出入り口でしょうか。
多くの天皇陵に参拝してきましたが、このような出入り口は初めてお眼にかかります。

 

切妻造平屋建向背付の桃山御陵監区事務所です。
平入の玄関口が少し、左側に片寄っているのは、何か意味が有るのでしょうか?

 

明治天皇陵を参拝後、緩く曲がりながら下る参道を通って、昭憲皇太后陵へ向かいます。

 

桃山を背後にした皇后の参拝所前広場は、歴代天皇陵に比肩する壮大なものでした。

 

昭憲皇太后、何故昭憲皇后ではないのでしょうか? 疑問が湧いてきます。

この意味を説明した、ある資料をを読んだことがあります。
明治天皇は殯の期間(亡くなられてから葬儀が行われるまで)が40日以上と大変長く、この間に大正天皇が即位されました。
その結果、明治天皇の御后である美子皇后は、大正天皇の皇太后にもあたることになりました。
美子皇后が亡くなれれて諱名が贈られたとき、宮内庁は「昭憲皇太后」と通知したそうです。
通常であれば昭憲皇后とするところを、昭憲皇太后と誤った?とその資料には書かれていました。
これが私の理解ですが、真相か否か未だに明確な答えは得られていません。

 

明治天皇陵を縮尺した形の昭憲皇太后陵、鳥居の右手に大きな女松(赤松)があるのが特徴でしょうか?

明治天皇は人前では皇后を「皇后さん」と呼ばれていたようですが、日常は天皇がひそかにお付けになられた仇名の「天狗さん」と呼ばれていたとか・・・
美子皇后は美しい方でしたが、日本人としては少しお鼻が高かったようで、その容姿を可愛く表現したのでしょう。
偉大であり、いたずらっ子であり、茶目っ気のあったらしい明治天皇の微笑ましい一面が偲ばれます。

帰り際、改めて案内板を確認しましたが、右端にある昭憲皇太后陵は左上にある桓武天皇陵より大きく描かれています。
実際に立派でした。

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明治天皇陵 伏見桃山陵

2024年09月02日 | 御陵印

伏見桃山御陵のある場所は、豊臣秀吉の桃山城址に位置しているのです。

 

「関ヶ原の戦い」以前のお城と言えば、山の上に築かれるのが定石です。
炎熱の京の都で、山の頂にある明治天皇陵を訪ねるのは、相応の覚悟が必要です。

JR桃山駅で背中に冷却スプレーを吹きかけ、首には冷たいタオルを巻いて歩き始めました。

 

駅の方に教えていただいた道を黙々と歩いていきました。
この先に明治天皇陵に続く、230段の石段が待っているのだと思い込んでいました。

 

やがて車止めの案内があり、砂利を敷き詰めた参詣道に入ります。

 

誰の目にも止まる場所にはっきりと、明樹天皇陵・昭憲皇太后陵の標識がありました。

 

此処には判り易い案内板が設置されています。
オイラは左下側の道を進んで来たので、そのまま真っ直ぐ参道を進めば明治天皇御陵前に行くことが出来ます。
心配していた230段の石段は、二股を右手の車道沿い進んだ先にありました。
迷うことなく石段を避けた参詣道を選びました。

 

鬱蒼とした樹木に覆われた参詣道は、日差しが遮られて快適です。
荘厳な趣の砂利道ですが意外と歩き難く、真っすぐにつけられた(自然についた)細いラインを辿って前に進みます。

 

20分程で(感覚で)宮内庁桃山陵墓監区事務所に着きました。
土曜の休日でしたが、入り口のインターフォンで「御陵印を戴けますか?」と来意を告げると、「どうぞ!」と快く受け容れてくださいました。
冷房の効いている?(涼しく感じた)建屋内でしたが、わざわざ扇風機を回して涼風を送ってくださいました。
机上に置いた複雑な模様のある袋はオイラの御陵印入れです。

 

桃山陵墓監区内で管理されている、歴代天皇の御陵印です。
朱肉を付けながら慎重に、御陵印帳に押印していきます。

 

明治天皇陵は、橿原神宮にある神武天皇陵に次ぐ壮大な陵墓でした。

 

木製の神明鳥居が三本連なり、鳥居脇にはそれぞれに玉垣が巡らされています。
国歌君が代にも謡われた「さざれ石」で囲われた。下方上円墳がはっきりと確認出来ました。

 

京言葉を話し、四季を問わず「肋骨式軍服」を日常着用されていたと言われる明治天皇です。
遺骨は京都の桃山に埋葬せよと遺言されておられたようですが、望み通り桃山の地に眠っておられます。

 

14歳で即位され61歳で崩御された明治天皇、全国各地に行在所が残ることで分かる通り、質実剛健最も庶民を気遣った天皇と言えるのだはないでしょうか?
周囲の荘厳な雰囲気と、陵墓に正対する230段の石段がその懿徳を表しています。

 

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