みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

筧次郎 著 「死を超えるということ」

2015-12-04 17:18:02 | 生死
異様な家庭で抑圧され、幼いなりに苦悩の日々だった7歳頃、私は「死ねば、この苦しみを感じないで済む・・」という「死への憧憬」を抱いていた。しかし10代初めの頃から、自分がいずれ死ぬことへの恐怖に見舞われるようになった。満天の星空を仰いでいて、宇宙の中の一点に過ぎない自分という存在を感じたときが最初の契機だったと思う。以来、自分の死への恐怖は、私の精神の基底に日夜うづくまり、時に暴れだして抑えようがないテーマとなった。



 著者は 「死が怖ろしい」という思いをもちながら生きている人たちに、何がしかの力になることを願って この本を書いたという。

長く暮らしていた首都圏から八郷への移住を私が決意したのは15年ほど前。筧さんの存在は、その決意の推進力の一つだった。彼の著書「百姓入門」と、ご夫婦の八郷での実生活で示されている「百姓暮らし」には、私を深く頷かせるものがあった。

死の恐怖を超えるには、感性を変えなければならないのではないか。そのためには、私の感性を培ってきた「生活」を変える必要があるのではないか、と思った。

私にも同じ思いがあった。死の恐怖を超えることは出来ないとしても、せめて、生きているとはどういうことなのか、本当の生を生きたい、生きている実感を得たい、という思いが私にはあった。都会での生が虚構に感じられてならなかった。

自分の死への恐怖は、自分とは何かという問いと自分が生きているこの世界とは何かという問いに結びつく。

・・実在世界自身は個物の集まりではなく、未分化であり、多様な構造化を許している。私たちは、幼児期に身につけた民族語の構造に基づいて世界を構造化して見ているのである。

・・人間の新生児だけが未熟な脳を持って生まれてくる。・・子供の言語習得の過程は、・・大脳皮質の神経細胞が外からの刺激を指針としてネットワークを作り、自己を構造化する過程である。


人類は二足歩行によって重い頭脳を載せることが出来た。発達した大きな頭による難産を出来るだけ防ぐために、未発達の頭脳の段階で人間は誕生する。このことこそが、人間と他の動物との決定的な違い、即ち言語体系の伝承をもたらしたことに、著者は着目する。

外界の個物・・は、・・「私にとって何のためのものか」という基準で区画されるので、その「私」はいつも世界の中心にいる。・・分別作用の主体としての「私」は、・・個物を見る眼差しの奥に存在しているように思われている。しかしながら、眼差しの奥の「私」の座にあるのは言語についての体系的な知(生理学的に言えば大脳の神経回路)であって、・・「私」は、言語についての体系的な知そのものであり、・・分別作用の主体としての「私」は、世界を構成している個物の一つであり・・同時に「世界の全体」という性格も帯びている。

・・私たちが認識している世界は個性のあるものであって、それぞれ「私の世界」というべきものである。
消滅を怖れる「愛しい私」とは、私が幼児のときからその中心であって慣れ親しんできた「私の世界」のことであると思われる。

この認識の仕方は文明世界を作っただけでなく、私と他者を区別し、我欲を生みだし、我欲がぶつかり合う弱肉強食の世界を作った。・・そしてまた、我欲は「私の死を怖れる」という辛い感情も生み出した・・


怖れている主体の「私」とは、私の言語体系であり、死によって消滅する客体の「世界」もまた私の言語体系なのだ。

哲学的な省察は記憶されている世界についての知を対象とするのであり、それゆえに言語が介入する以前の実在世界自身には至れない・・科学がもたらす知も、・・同じ限界をもっている。

霊魂や死後の世界を説く教説は、信じさえすれば深く考えないですむ解決方法であり、修行もいらない解決方法である。それで、仏教も世間に流布していくうちに歪められて、そうした教説の一つになってしまうのだが、それは歪曲であって仏陀の教えではない。

仏教では分別知によって把捉されるのが「人間のこの世」であり、無分別智によって把捉されるのが「もう一つのこの世」であるといわれる。
・・仏陀は言語の支配から解放され、分別的な認識を停止し、「もう一つのこの世」を経験したのである。これが悟りと言われる体験である。・・分別的な認識がなければ、個体の命もない。したがって死もない。・・「もう一つのこの世」には空間も時間もない。それに気づいて、仏陀は不死を得た。「死が怖ろしい」という思いを超えることができたのである。


分別的な認識を超えて「もう一つのこの世」を悟れば、生死を超えることが出来るだろう。だが、仏陀ならいざ知らず、私たちに「悟る」ことが出来るだろうか?

・・人間は言語の働きを超えて、つまり無分別の認識で「もう一つの世界」を把捉することができる。・・言語は脳の神経回路網として獲得されるので、何の修行もせずに言語の働きを超えることは難しい。・・しかし、悟りと言われる仏陀の体験は、・・他の人間が共有できるものであり、何ら神秘的な事柄ではないのである。

・・人間の認識の仕方は、言語の習得とともに後天的に身に着けたものであり、それゆえに、それが脳の神経回路網として私たちを支配しているとしても、超えられないものではない・・・人間だけが「迷う」とも言えるが、人間だけが真実を覚って、その迷いを自覚するのである。


悟るための修行の実践は厳しく難しい。著者の「百姓暮らし」は修行でもある、という。

・・私の百姓暮らしは社会的な行動であるとともに、修行でもあると自覚された。・・私の百姓暮らしも工業社会では「外から我欲の制御を強いる」生活になる・・百姓が自然から教えられるこの「任せる心」が、自我意識を薄め、ストレスを洗い流してくれる・・

しかし、百姓暮らしも厳しいものだ。

・・百姓暮らしは老人が始めるには困難が多い。肉体を鍛えなければならないだけでなく、身につけている利養と名声(財産と地位)が妨げるからである。「死が怖ろしい」という思いを抱いているあなたが老人なら、あるいはすでに死病を得た人なら、私は親鸞が説いている道を勧める。・・百姓暮らしの道も念仏の道も、同じ場所に私たちを連れていくと私は信じている。

阿弥陀仏の工夫・・は、教えの仕組みによって巧みに「私」の視座を離れさせようとする。・・「私」のはからいを捨てて、「南無阿弥陀仏」と任せるなら、一挙に視野の逆転が生じよう。・・実際には一心に任せることもけっして容易ではない。

「私」のはからいの虚しさが、心底から解ればよいのである。

田辺元の「懺悔道」もまさにこれだと思う。
「この世」についての著者の以下の記述も貴重だ。


しかし仏陀は・・「人間のこの世」を否定したのではない。・・私たちの喜びも悲しみも、「人間のこの世」の中で持たれるのであり、それは人間にとってかけがえのない現実である。私たちは分別的な認識に現れるこの世界で、互いに愛し合い、自然の美しさに感動し、生きたいと切実に願うのだ。








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16 コメント

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読んでみます (守拙)
2015-12-07 22:28:37
筧次郎という方、「たより」で名前は聞いておりましたが、著書はこれまで読んだことがありませんでした。
今回の記事で大変興味を持ったので、「死を超えるということ」読んでみることにしました。本日、amazonで注文しましたので、読了後、コメントを投稿したいと考えています。
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筧次郎さん (korei)
2015-12-08 19:21:29
守拙様
 筧次郎さんに関心を持っていただき、私としても嬉しく思います。それではまた。
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死に対する感受性の深度 (守拙)
2015-12-15 11:29:54
 一つの記事に対するコメントととしては異例に長くなってしまいましたが、少しでも読みやすいように各段落に題を付し七つに分けて投稿します。

 筧次郎氏の本を読むのは初めてなので十分に理解できたわけではありません。この本で述べられている筧氏の考えは、一貫して明快であり晦渋なところはないのですが(特に、虚飾とけれんの一切ない、その端正で平明な文体は哲学書の理想のように思います)、何分深く重いテーマなので、触発されて湧き起こる私自身の考えを上手く言葉にまとめることができないのです。それはやはり、全ぺージにわたり理を尽くし、ときおり情をそそぎこんで書かれたこの本の内容を、私が深いところから理解してるわけではないことによるのでしょう。

 この本のテーマは、言うまでもなく〈死〉です。より直截に言うならば〈死の恐怖〉についてです。
 本の冒頭で筧氏は書きます。

 「病の有無に関係なく平素から死を怖いと思う人は、(中略)、百人に一人、いや千人に一人ではないかとい うのが、私の人生経験からの印象である。」(P.15)

 私は、死はもちろん怖ろしいが平素日常それを意識しているわけではないという意味で、おそらく1,000人のうちの999人に属する人間です。こうした私ですが、おそらく筧氏と同様に千人に一人の側に属する小零さんと以前、〈死〉について長い対話を交わしたことがありました。それは、本書でも第1章で親しみを込めて何回か言及されている哲学者中島義道の「『死』を哲学する」という本を読みながらのことでした(2013年1月23日~29日付記事、カテゴリー別「哲学」に所収)。
 実は、本書を読んでも、死に対する私の基本的な考えは、そのときに述べたことと変わりませんでした。お手数ですが、特に、そのときの「第5日 不在と無」の記事に対する私のコメント(中島義道著「『死』を哲学する」-〈第5日 不在と無〉、2013年1月29日付記事に対するコメント、カテゴリー別「哲学」に所収)を読み直していただけると嬉しいです。そこでも書きましたように、私は、死の恐怖は解決不可能な問題であり、また、そもそも解決すべき問題でもない、と考える人間です。
 今回、筧氏の本を読みあらためて思いました。小零さんや筧氏や中島義道は、私を含め大多数の人間に比べ、死に対する感受性の深度とでも言うべきものが違うと。その違いは対数尺度で測らなければならないほどの違いであるのかもしれません。
 そのように死に対する感受性が浅い、要するに「鈍い」人間である私が、「死を超えるということ」と題された本書を深いところから理解できないのはやむをえません。
 しかし、人間は誰も、死と一回性と、一回生の含意としての不可逆性に限界づけられた生を生きざるをえない存在です。それが人間の条件である以上、本書で真摯に問われている問いが、1,000人のうちの999人にも重要でないわけがありません。私は、死についての様々な哲学者の言葉の中でも、論語の「未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん」という言葉が好きな人間です(ただしもちろん、この孔子の有名な言葉にも様々な解釈がある)。誰にとっても、生きるということがそれ自体最も重要な問題であることに変わりはありません。以下に述べる本書についてのコメントが、基本的に「すれ違い」に終わるとしても、それが全く無意味であるわけではないことを期待します。

(このコメント続きます)
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世界、認識、言語 (守拙)
2015-12-15 11:32:59
(前回コメントからの続きです)

 この本の第3章から第6章にかけて書かれている、実在する世界と人間の認識、言語の関係等についての筧氏の考えに対しては、別の考え、別様な説明、別の立場からの批判もあると思います。もちろん、それにらに対する筧氏の反論もあるでしょう。いづれにせよ、ここで扱われている問題と諸論点は、前世紀から持ち越されている「知の最前線」-幾分軽薄な言い方になりますが-に関わるものであり、私には論じる準備も資格もありません。と、殊勝ぶらずに正直に言えば、長年勤め人生活のかたわら実生活の必要性とはおよそ無縁な哲学書・思想書の類を雑多に読み散らかしてきた市井の読書人としては、非常に興味深く知的興奮すら感じるテーマなのですが、基本的には、筧氏を含め専門家達の議論を今後も見守りたいと考えます。
 ただ、本筋にかかわる主要なメッセージとは別にその細部で所々述べられている筧氏の独創的な仮説にはしばしば唸らされました。本書の主題の深刻さにかかわらず楽しんだと言ってよい。一つだけ例を挙げておきます。

 「想像をたくましくすれば、二十万年前に絶滅されたとするホモ・エレクトスやホモ・ハイデルベルゲンシス 、三・五万年前に絶滅したとされるホモ・ネアンデルターレンシスはこの危機[胎児の脳の肥大化による難産 の危険-引用者]に対応できずに、人口減少を招いて絶滅したのではないだろうか。そして、この危機に対し て、『胎児の頭がまだ小さいうちに早産してしまう』という手段を獲得して克服した種があった。それが二十 万年前頃から生まれた私たちの祖先、ホモ・サピエンスではなかったか、と私は推測する。」(P129)

 こういう説を聞いたのは初めてですが、虚を突かれ、アイデアの斬新さに驚いた後、なるほど、そうかもしれないな、その可能性は十分ある、と思わせる説得力があります。是非、人類学者が実証してほしい。

(このコメント続きます)
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意味の体系の消去という方法 (守拙)
2015-12-15 11:38:00
(前回コメントからの続きです)

 これも一つだけ、本書に対する率直な違和感を述べておきます。筧氏は語ります。

 「私が本書で論じてきたことは、まず、この『個物の集まりである世界』が実在世界自身の相ではなく、人間 に固有の分別的な認識によって把捉される世界像だということである。そして、その分別的な認識は人間の先天的な制約としてあるのではなく、私たちの祖先が言語を持ったために得ることになったものだということで ある。それは人間の歴史が創ったものであり、それゆえに人間は言語の働きを超えて、つまり無分別の認識で 『もう一つの世界』を把捉することができる。」(P187)

 このメッセージは繰り返し登場し本書の主旋律を形成しています。これを書名である「死を超えるということ」に関して、(私流に)暴力的にパラフレイズすると次のようになります。以下で使う「〈意味〉の体系の消去」という言葉は、本書で使われているものではなく私が勝手に案出したものですが、それほど的を外しているわけではないと思います。

 《人間に固有な認識系である言語の体系を超え出ることにより、すなわち、〈意味〉の体系を消去することにより、〈私〉を消去し、〈私〉を消去することにより〈死〉を消去する……こうして分別知としての〈意味〉 の体系が消去された後に世界の真の実相が現れる……》

 私が感じる疑問は次の二つです。①はたして〈意味〉の体系の消去は可能なのか? ②仮に可能であるとしてそれは本当の問題解決になるのか? ここでは実践に関わる①は問わず、②についてのみ意見を述べます。
 私には、この道は高踏的に過ぎるように感じられます。人間の視野と地平を超え出れば人間の問題は消失します。ちょうど一神教の異端派が、世界の全体たる神の視点に立てば人間の問題は存在しなくなる、と考えるのと同じように。この考えによれば、「初めに言葉ありき」ではなく、そもそも神に言葉(=認識)は不要である、ということになります。
 別な言い方をしましょう。〈意味〉の体系を消去することにより〈意味〉の体系の構成要素たる〈私〉が消去されることは、やはり〈意味〉の体系の構成要素である〈花〉や〈石〉などこの世界の中の諸々の個物が消去されることと同様に論理的に自明(trivial)なことです。その方法は、仏教の悟りへのプロセスという文脈を無視して言えば、単に知的な思考実験上のゲームに過ぎないように思えてしまうのです。仮に〈意味〉の体系を消去することが可能であったとしても、それは、私の歯痛や腹痛を消去することはできません。確かに、哲学上の問題は、しばしば、問題の消去こそ最も本質的な問題の解決であることがあります。特に、一見難攻不落な疑似問題である場合には。しかし、その際にも、一挙に〈意味〉の体系の消去を持ち出すことにより問題を消去しようとするのは禁じ手であるように思えます。哲学的な問題としての〈私の死〉に対しても。
 まことに僭越になるとは言え、本書で説かれている非常に魅力的な考えである「もう一つのこの世」や「ひとつながりの命」に続いている別の道があるのではないか、という気がしてならないのです。

(このコメント続きます)
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哲学と科学の言葉の限界 (守拙)
2015-12-15 11:41:58
(前回コメントからの続きです)

 筧氏は、次のようにも語ります。

 「哲学的な思惟も科学も言葉であり、そのかぎり存在の実相に直接に到達することはできない。」(P47)

 全くの私見になりますが、哲学も諸科学も、その可能性の地平をどのように押し広げても、そもそも、死と一回性に限界づけられている生を生きざるをえない私たちにとって最も重要で切実な問い-実存的な問いと言ってもよい-に答えるようにはできていません。手あかにまみれた図式的な比喩を使うことになりますが、哲学や諸科学は、本質的に、〈語り得るもの〉に属する問題を扱うのに対し、私たちが生きてゆくうえで真に訊きたい問いは、〈語り得ぬもの〉に属する問題であるからです。平板な言い方をさらに付け加えるならば、諸科学は知の限界の内部でそれぞれの専門的な分別知を深めることを使命とし、哲学は知の限界を定めるとともに、とかくそれぞれの間の連関を見失いがちな諸科学に(できることならば)総合の見取り図を与えるように努めることが使命なのだと思います。どちらも、原理的に、知の限界の内部での営みという点では変わりはありません。
 少し別の視点から考えます。哲学はさておくとしても、人が科学に魅かれ、また人を科学にかきたてるのは、実在するこの世界に対する好奇心からでしょう。その好奇心は、しばしば無償のものであり、無償であるがゆえに人間の営みの動機としては純粋であるとも言える。優れた科学者はどこか子供っぽい人が多いのはそのせいでしょう。科学は小児の遊戯に似ている。
 しかし一方、実存的な問いは、断じて好奇心から発せられるものではありません。問い自体が必ずや苦しみを伴うものであり、にもかかわらずそれを問う本人には問わないではいられない切迫性があるのです。
 ここで使った〈語り得るもの/語り得ぬもの〉という区分けはウィトゲンシュタインに由来するものであり、言うまでもなく、本書の「分別的な認識と無分別の認識との二分法」(P157)とは別のものです。〈語り得ぬもの〉が言語の限界の向こう側に広がる領域を暗示する比喩であるのに対し、「無分別の認識」は、言語そのものを消去することによりその限界を取り払い世界全体を一挙に現出させる方法であるのしょうから。

 私は、言語についてはその限界を、特に語ることができる真理の追求を目的としている哲学や科学の言葉の限界(認識の限界)をわきまえていればよいのであり、それらを必ずしも振りほどかねばならない桎梏とは考えていません。この点でラディカルではないのでしょう。ラディカルな人間から見れば、生ぬるい、あるいは度し難いと見えるであろうこの不徹底は、幸か不幸か、最初に書いたように、私が、死に対する感受性の深度が浅いことにも関係しているのかもしれません。そんな私には、結局、仏教の〈悟り〉は高邁に過ぎるようです。
 知性による世界認識を尊重しつつその限界をわきまえ、限界をはるかに超えて広がる〈存在の海〉の一滴として生きること、そしてそのような生に自足すること、それが私の理想です。

(このコメント続きます)



 
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<それ>としての真理 (守拙)
2015-12-15 11:45:10
(前回コメントからの続きです)

 仏教の無分別と関係があるかどうかは別として、確かに、言葉を理解しても、また、言葉によって理解しても、何ら意味をなさない真理というものがあるのでしょう。
 〈それ〉を生きることによってしか、そして誤解を恐れずに言うならば、〈それ〉を死ぬことによってしか意味をなさない真理というものが。
 水泳を言葉で身につけることはできません。私たちは、実際に身体を水に入れ泳ぎ方を学び、さらに、本物の海や川で泳がなくてはならないのです。もちろん、向こう岸にたどりつけるかどうかはやってみなければわからない。さらに言えば、向こう岸にたどりつけるかどうかは実は重要なことではないのかもしれない。泳ぐこと自体の重要性に比べるならば。

 以前にも「たより」で書きましたが、ブッダ、イエス、ソクラテス、孔子というヤスパース言うところの文明の枢軸時代の四大宗教者・哲学者は(イエスが生きた時代は枢軸時代からやや下りますが)、いづれも、決して自ら書物を書くことありませんでした。彼等の言葉として残されているものは全て弟子が編んだものです。上述の〈それ〉は、〈それ〉について語ることができるものではなく、〈それ〉を生きることにより示されるほかはないものであるから、と私は勝手に思っています。

 とは言え、私は、例えば仏教にせよキリスト教にせよ(ここで「イスラム教にせよ」と言わないのは、この重要な宗教について、私が多くの日本人と同様に非常識なほど無知であるからです)、宗教上の特別な「修業」によってしか得ることのできない〈悟り〉や〈啓示〉に興味をもつものではありません。
 学問上の真理(分別知!)であるならば超俗的な環境のなかで追求するのも許されると思いますが(現代のほとんどの科学はそうでしょう)、この生にとって最も重要な真理(さきほど書いた〈それ〉)については、世俗の中を生きざるを得ない多くの「衆生」に開かれているのでなければ意味をなさないと考えるからです。

(このコメント続きます)
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百姓暮らし (守拙)
2015-12-15 11:48:24
(前回コメントからの続きです)

 この点、哲学研究者としての道の途上にありながら、人生の半ばにして、「百姓暮らし」という世俗内での修行の道を自覚的に選んだ筧次郎氏の生き方には敬服します。それは、思いたったからと言って、同じ環境にある普通の秀才たちがなし得ることではないでしょう。氏の言葉を借り「超越論的な推測」をすれば、現代において、「百姓暮らし」の道を歩むことは哲学研究者の道を歩むことよりもはるかに困難でしょうから。本書の最終章「修行としての百姓暮らし」を読み筧氏の三十年にわたる実践の一端を知れば、氏と考えは違う者であっても、また、自分はとてもこうは生きられないと思う者であっても、襟を正さないではいられないでしょう。
 私が、本書の中で最も驚き、心を動かされたのは次の記述でした。私はこれまで、こうした視点から仏陀について語った書物を知りませんでした。

 「これらを見るに、仏陀は我欲を制御し、世間の価値観から自由になるために、『もっとも易しい道として』 出家者の生活を勧めたことがわかる。」(P223)

 
 我欲を制御する「もっとも易しい道として」の出家、これは目から鱗でした。「もっとも易しい道」というところが…。筧氏はさらに続けます。

 「世間の内にあって分業の一つを担いながら我欲を制御するのは、不可能ではないにしても、とても難しい。 それはタバコを毎日数十本も吸っていた者が、数本に減らすのは、すっぱりと止めてしまうよりもいっそう難しいのと同じである。」(P223)

 全くその通りだと思います。そして、これは、気づくことが難しい真理、あるいは気づいても見て見ぬふりをしやすい真理です。引用文中の「分業」とは、近現代では、資本主義的市場システムの中の「分業」を指すのでしょうが、これを「組織」と読み替えます。
 私自身の長かった勤め人生活の実感から言えば、組織の中で我欲を制御するのは非常に難しい。組織の一員として働き、そこで与えられる役割分担とそこから派生するフォーマル、インフォーマルな複雑な人間関係に絡めとられてゆくなかで、献身や義務のつもりの活動が実は我欲そのものの発動であることに本人も気がつかないということは往々にしてあることです。

 最後になりますが、超越論的な主観としての〈私〉や言語の意味の体系の中心にあるとされる〈私〉など哲学的な〈私〉から離れ、その次元をぐっと下げて、まさに日々の現実的な生の主体となっている〈私〉-以下では〈自我〉と書きます-に関する問題について触れます。その問題とは、今書いた、そしてこの本の後半部分で鋭利に摘出・分析されている〈我欲〉についてです。

(このコメント続きます)


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我欲と回心 (守拙)
2015-12-15 11:51:10
(前回コメントからの続きです)

 しばしば言われるように、近現代は、人々の自我の解放を保証しそれを促進することにより、結果として万人の我欲が相克する社会を出現させました。真の自由とは、自我を解放することではなく、自我から解放されることであるという主張をポスト・モダンの文脈の中で聞くようになってからも久しい。このテーゼ自体は正しく美しくさえもあります。しかし、これほど言うは易しいが行うのは難しい主張もありません。自我とは、まさに抜きがたい我欲の主体であるからです。そして、我欲はどこまでもどこまでも人間の自然性に強固に根ざしています。
 自我の解放ではなく自我からの解放…。実存的な問いに対しては、それについて語ることはできてもそれを生きることができない答えというものは虚しいと言うほかはない。しかし、道はあると思います。細く険しいけれど、現実にその道を一歩一歩歩いてゆくことができる道が。
 我欲に駆り立てられる道からこの新しい道に曲がるには、我欲の追求が(たとえその我欲が充足されたとしても)他者は無論のこと、結局、自分にすら真の幸福をもたらさないことを、少なくとも、我欲への執着が実は自らの生を荒ませ貧しくさせていることを各人が覚醒するほかはないでしょう。そして、この回心と言ってよい覚醒は、それが回心である以上、以前小零さんと議論したことがあるように(2015年2月15日付記事「『カラマーゾフの兄弟』その5」に対するコメント)、生の途上で与えられるものであり、おそらく自力だけでは得られないものであると考えます。それは、死への途上としてのこの生の何処かで与えらえる真理への道なのでしょう。

 本当に長くなってしまいました。たとえすれ違いであっても、立ち止まらせ、考えさせ、当面自分が立っている位置を確認できる書物に出会うのは幸運というほかありません。良書を紹介していただき感謝します。
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死に対する感受性の深度 (korei)
2015-12-18 14:49:00
守拙様
 貴コメントの段落に従って、私なりの思いを以下に記します。
 
 平素から死を怖いと思う人は千人に一人だと仮に前提した場合、999人の大部分の人々にとって死はやはり怖ろしいものであり、だからこそパスカルの指摘の通り、死を見詰めないように他のことへ心を振り向けているのだと思います。もちろん私の日常生活もそうです。これに対して「死の恐怖は解決不可能な問題であり、また、そもそも解決すべき問題でもない」と領解されている守拙さんの場合は、死を見詰めた上での領解であり、死を見詰めることが出来る強靭な精神があればこそ、であろうと思います。
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