みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

心を暗くさせられたときは

2012-10-26 10:25:49 | 仏教

Dscn2808私たちの国の総理になるかも知れない新党の党首が、橋下徹・・ と嘆いていたら、今度は、石原慎太郎! この事態を客観視すれば喜劇であり、個人的心情からすれば悲劇であり、やがてこの国の惨劇になるのではないか、と憂いを深くさせられます。

世の中の動きに心を暗くさせられたときは、小出裕章氏のページ(非公式ホームページ)を開くようにしています。氏の言葉を聞き、氏の表情を見ていると、自然に心が穏やかになっていくのです。語られる言葉や表情が明るく楽しいというわけではないにも拘わらず。 真実を知ることができた充足感と、氏の心の優しさを感じるためでしょうか。

直近の原発関連ニュースの中に、高濃度放射能に耐えられる作業ロボットの開発がありました。日本では原発事故は無いという前提で事が進められていたので、このようなロボットの開発もこれまで行われていなかったそうです。福島原発廃炉等の作業に向けて、少し明るいニュースではないか、と私は思ったのですが、小出裕章氏は、「ロボットはほとんど役に立ちません。結局は人間がやらねばならないのです。」と断言しています。

ロボットが何故役に立たないのか、その理由まで聞かなくとも、小出裕章氏によって語られたことには、全面的に近い信頼感があります。この信頼感の由来の第1は、40年以上のあいだ四面楚歌の中にあっても、原発の危険を訴え続けてきた氏の経歴によりますが、その第2は、氏の声の調子や、視線の陰影や輝き、首の傾げかたや腕の動き等々、氏の姿全体から感じられる人格なのだと思います。まるで観音様のような。

親鸞聖人は、師の法然上人を敬い、たとえ法然上人に騙されているのだとしても構わない、とまでおっしゃっています。人間は、論理だけでなく、人との信頼関係を通してこそ、「信」を抱くことが出来るのでしょうか。

私は宗教上においては、いまだ全面的に信頼できる(同時代に生きる)方と出会う機会がありません。否、出会う資格が自分には無い、ということなのでしょう。でも親鸞聖人には、その著作や歎異抄を通して出会うことができたのですから、幸運と思うべきでしょうか。