未明の空から、今日も星たちが神秘の光を注いでくれていました。東の空が白み始めて、消え残った明星の、なんと優しく見えたことでしょう。
本書の第1章「原始共同体の時間意識」は、次の3節で構成されています。
1 「聖と俗」-意味としての過去
2 共同時間性・対・共通時間性
3 ザマニの解体-意味としての未来
レヴィ=ストロースの「野生の思考」などを引用しながら、原始諸部族の時間意識を探った章です。私には見慣れぬ用語が多くて、もっとも読みにくかった章ですが、現代社会の時間意識の根源を問うためには不可欠の言説だろうと思います。
原始人にとって意味があるのは、繰り返すもの、可逆的なもの、恒常的なものであり、一回的なもの、不可逆的なもの、移りゆくのものはその素材にすぎない。近代人にとっては逆に、くりかえすもの、可逆的なものの方が背景となる枠組みをなして、この地の上に、一回的なもの、不可逆的なものとしての人生と歴史が展開する。
近代人がなによりも大切なものと考えているこの「私」の一回かぎりの生と、日付をもった人間の歴史とは何であろうか。それらはそこ(=原始共同体)では、永遠的なもののたち現れる場としてこそ意味をもつのだ。
この私の心身に、永遠的なものがたち現れているのだ・・と試しに!思ってみますと、なんともいい心地が訪れるようです。宗教上の「信」に類似する構造の感覚かも知れませんね。
(近代人の)<抽象的に無限化する時間関心>が、事物や活動からひきはがされた自存性として客体化された「時間」の観念を前提するということ、そして、このように物象化された「時間」の存立が、共同態の<生きられる共時性>に対して、外延的にか内包的にかこれを乗り越えて異質化する社会の構造を基盤とするということだ。
上記の説は、言われてみれば当然のことのように了解できるのですが、しかし私は本書に出会うことによってはじめて意識化できたのです。
~<現在する過去>(=意味としての過去)の解体こそがアフリカに未来の発見をもたらしたことを、ムビティはその危機的な様相において生々しく描いている。
デラシネ(=故郷喪失)の代償としての未来。未来関心の基盤としての、共同体解体=過去の解体。現に存在しないもの、過去にも存在しなかったもののうちにしか、人生の意味と根拠を求め得ない人びと(サルトル!)。生きることの意味を、現在のうちにも過去のうちにも見出すことの出来ない人びと。そのような人びとこそが、意味に餓えた眼を未来に向ける。<意味としての過去>に代わる<意味としての未来>。
近代文明人には切ない言説ですが、著者の言葉の連打に何かしら胸が沸いてきてしまいます。サルトルもろくに読んだことのない私が、実存哲学の由来さえ分かったような錯覚さえ起こしてしまいます。論理だけではない、著者の感情の表出ゆえでしょうか。
~「野生の思考」の著者(レヴィ=ストロース)が示していることの意味は、不可逆性としての時間の意識の獲得が、反自然としてのひとつの文明の離陸の指標であるということだ。そして「離陸」ということが、すなわち大地からの乖離のイメージが、ア・プリオリに一つの肯定として語られていることが、我々の文明の基礎をなす固定観念である。
なるほど、なるほど、・・・あまりにも脆すぎる近代文明の位置が、明確に意識付けられたように思います。しかし、しかし、どこか断定的過ぎるような、著者の圧倒的な言葉に、却って不信感も蠢いてきます。