茶道の師が・・大先生も若先生も・・療養中のため、稽古に通うことが出来なくなりました。
そろそろ還暦を迎えようという齢で俄かに茶道の世界へ入ってから7年余になります。その世界は、利休の時代のそれとは様相を大きく異にしているとはいえ、全く縁が無かった私には実に刺激的でした。
一見質素なようで贅沢。宗教的なようで世俗的。地味なようで派手。厳格なようで奔放。伝統的なようで革新的。あらゆる矛盾が混沌としながら独自のエネルギーを生成している世界。鈍感な私が、こんな世界にそれなりに魅入られたのです。
茶道の世界が遠くなる・・淋しいです。ましてや両先生は、どんなにかお淋しいことだろう・・ これまでのほぼ全人生を茶道に尽くしてこられたのですから。
今はただ、両先生の軽快を祈るほかありません。
人の心を深く引きつけてやまないけれど、結局、その魅力の秘密を〈理論化〉できない営みとしての芸術。
茶道の先生のご快癒をお祈り申し上げます。
今回、投稿したのはもう一つ理由があります。
この雲の写真、素晴らしいですね。いつも、「たより」に掲載される八郷の風景写真の美しさにはため息が出るばかりですが、とりわけ山々や田園の上に広がる空と雲をとらえた写真に魅せられます。拡大して見入ることしきり。今回の写真、その雲の陰影と力感に、意外、あるいは心外(?)に思われるかもしれませんが、私の好きな17世紀オランダの画家ロイスダールの風景画を思い起こしました。
夏の終わりに「雲」ということで、大変大変あつかましいのですが、拙作短歌数首を。
昔々、青春時代-それにしても暗い青春だった(笑)-に作ったものです。
逝く夏の空の光に病みて今日鳶の渡れる岬山(さきやま)に来つ
岬山は海につづきてその沖に光をはらみ夏雲の湧く
岬山を草分け入れば南(みんなみ)の風も光も海より生(あ)るる
草深き山に遊べば滅ぶものなべてまばゆき晩夏の光
岬より沖を望めば昼深きしじまのなかに夏雲の立つ
夏雲は光に満ちて奇怪なる巌のごとく沖に浮かべり
海原と天が間に静止せる夏の名残の雲のかがよふ
三十数年前の日本の某半島での晩夏の心象風景。あれから随分遠くに来てしまったという個人的な感傷は、あまり人前で漏らすべきではないということはわかっているのですが-実はあまりわかっていない。どうかおゆるしください-、こうやって書き写すと三首目「岬山(さきやま)を草分けいれば」は、今でも少し気にいっています。
当記事に目を留めてくださり有難うございます。大先生も若先生も、美しく溌剌としたお姿で茶道に尽くされ、敬愛を集めていらっしゃいました。諸行無常の世とはいえ、突然の病魔の不条理に呆然とした気持が続いています。先日は若先生が病苦をおして、弟子の私たちへ経緯を説明されると共に、私たちの今後のことについての御配慮を示されました。僅かに涙ぐまれる場面もありましたが、終始微笑みを湛えながらのお話の内容は毅然たるものでした。
ロイスダールの風景画、ネット検索して見ました。たしかに御指摘の通り似ているような・・ オランダと八郷、気象条件だかに共通性があるのかしら? それはともかくとしてロイスダールが描いた風景(雲も樹木も、その他も)は、まるで言葉が充満しているような、いまにも声が飛び出してきそうな、でもやはり沈黙が続くであろうような、圧力が感じられます。
青春時代の貴歌を御披露下さり嬉しいです。「~風も光も海より生るる」、まさに青春の実感が感じられます。「~滅ぶものなべてまばゆき晩夏の光」や、「~夏の名残の雲のかがよふ」の抒情も素敵だと思います。また気が向かれましたら、追加の御披露をお願いしますね。