敬老の日に思う。
老人の恋は幼きものの恋に似ている・・・と。
幼きものの恋は純粋だ。幼きものには過去が無いから。
老人の恋は純粋だ。老人には未来が無いから。
幼きものの恋は言葉にならない。幼きものは言葉を知らないから。
老人の恋は言葉にならない。老人は言葉を知り過ぎているから。
幼きものの恋は実らない。幼きものには未来があり過ぎるから。
老人の恋は実らない。老人には過去があり過ぎるから。
老人の恋は幼きものの恋に似ている・・・と。
幼きものの恋は純粋だ。幼きものには過去が無いから。
老人の恋は純粋だ。老人には未来が無いから。
幼きものの恋は言葉にならない。幼きものは言葉を知らないから。
老人の恋は言葉にならない。老人は言葉を知り過ぎているから。
幼きものの恋は実らない。幼きものには未来があり過ぎるから。
老人の恋は実らない。老人には過去があり過ぎるから。
新作の口語の自由詩を読むことがなくなってからかなりの年月が経ちますが、今回の小零さんの詩は、誇張ではなく、ここ十年来初めて読んだ詩のなかで最も素晴らしいものです。
小零さんの詩のように明晰で深くはないにせよ、また、体験的に語るわけでは決してないにせよ、私も、老いたる者の恋は幼き者の恋に似ていると漠然と感じていました。そして、老いたる者の恋と幼き者の恋が似ている一つの理由は、ともに、透明な淡彩で描かれた水彩画のように、エロスの持つ初々しさがあり、かつ、エロスの持つドロドロした側面-これもエロスの本質の重要な一側面-から無縁、少なくとも遠ざかっているからだろうと思っていました。後者について言えば、幼き者は「まだ」無縁、老いたる者は「もう」無縁という違いがあるにせよ。しかし、ことは〈恋〉であるがゆえに単純ではありません。
私が好きな恋の詩のなかに与謝蕪村の次の俳句があります。
妹が垣根三味線草の花咲きぬ
これは蕪村六十五歳のときの句です。この句について萩原朔太郎は書きました。
「万葉集の恋歌にあるような、可憐で素朴な俳句である。ここで『妹』という古語を使ったのは、それが現在の恋人ではなく、過去の幼友達であったところの、追懐を心象しているためであろう。」(「郷愁の詩人 与謝蕪村」)
しかし、この解釈は非常に美しい誤解です。大岡信は「続折々の歌」の中で同じ句について次のように書いています。
「蕪村は当時小糸という祇園の美妓に心を寄せていた。老境に入っての苦しい恋だった。」
この注釈を背景にして読めば、明らかにこの句には、老詩人蕪村のエロスへの執着を読みとらないわけにはいかないでしょう。そして、朔太郎のように誤読しても、大岡のように正しく読んでも、それぞれの違った美しさがあるのが詩の面白いところですが、それは今回のテーマではありません(笑)。
再び書きますが、ことは〈恋〉であるがゆえに単純ではありません。少し視点をずらして考えてみます。
以前、社会学者真木悠介こと見田宗介の著書について小零さんと対話を重ねたことがありました(2012年10月11日記事~2012年12月18日記事)。その見田宗介は語っています。
「『秘密の書』というインドの哲学書によれば、愛の格律は究極のところ二つしかない。
一、初めの炎を保ちなさい。
二、残り火は捨てよ。
これは直接には性の技術の書であるともいわれているが、また愛の真実であり、生きることの真実でもあると僕は考えている。たとえば一つの哲学を愛する時に、それとも一つの仕事を愛する時にさえ、〈初めの炎〉 を保つこと。そして、〈残り火〉は捨てること。それだけが哲学や仕事を鮮烈に愛する仕方だ。
竹田青嗣がこの本のなかで、とてもきわどくもどかしく弁別しているように、憧憬と憧憬主義、感傷と感傷 主義、実存と実存主義といったものを分かつのも、〈初めの炎〉と〈残り火〉の同一性と差異だといっていい。
(中略)
眩暈は〈初めの炎〉に固有のものだ。
〈初めの炎〉のしるしだと言ってしまってもいい。」
(竹田青嗣「陽水の快楽-井上陽水論」 河出文庫解説)
もう随分昔に読んで感銘を受けた言葉ですが、今でも好きです。
しかし、老いたる者の恋に、もはや〈眩暈〉はありません。小零さんの詩にあるように、老いたる者は、未来が無く、過去がありすぎ、言葉を知りすぎているから。
もしも老いたる者が恋をするとすれば、それが〈最後の炎〉であるかもしれないことを、彼または彼女は心のどこかで自覚しているはずです。しかし、この炎は、見田が言うところの「残り火」ではありません。〈最後の炎〉でありながらやはり〈初めの炎〉と言ってよい〈何か〉なのです。
幼き者の恋と老いたる者の恋が似ているというのは本当のことです。その不思議が、そしてその不思議の理由が、小零さんの詩を読んで深く納得することができたような気がします。
最後に。
若いころの一時期、短歌を作ることにそれなりに夢中になっていた一時期がありました。しかし、全く上達しないのにほとほと嫌気がさしふて腐れて止めてしまいました。そんな私ですが、当時、二、三の人からなかなかよいと褒められた一首があります。既に幼き者というわけではなかったにせよ若年期の恋の歌。厚かましくも。恥ずかしげもなく。
告ぐるべき言葉にふるへ寄りたれば
汝(なれ)が瞳の幼子のごと
もう、残りの人生の中でこういう恋をすることは二度とないでしょう。そして、それを淋しいとは全く思っていないし、むしろ、老境に入りつつある自分の人生への人並みの「恵み」であると感じています。
にもかかわらず、今回の小零さんの詩を読んで、人生にはまだまだ考えねばならぬこと、いや、体験さえしなければならぬことが多くあるような気がしてきました。それは必ずしも恋である必要はないにせよ。
いつもながら多岐にわたる知見と洞察を御教示くださり、心から感謝申し上げます。
私の心の問いに魂?が途切れがちな声で応えてくれた、その声を忘れないように記しただけの愚作を、「詩」と呼んでいただいて恐縮です。そして<幼き者の恋と老いたる者の恋が似ているというのは本当のこと>だと認めていただいて嬉しく存じます。もしかしたら私の独りよがり、或いは錯覚かも・・という不安が少々ありましたので。
平凡な日常を過ごしている私ですが、ときには、<最後の炎>でありながらやはり<初めの炎>と言ってよい何かを感じたい、そう思います。
心が優しくなれるって
幾つになっても
幸せな事だと思います♪
そうですね。幸せなことですね。恋は、神さまだか仏さまだかからの贈りものだと思います。とりわけ悲しみが深い人には深い恋を贈るのだと思います。