みつばやま小零庵だより

宇宙の塵、その影のような私ですが、生きている今、言葉にしたいことがあります。

高木仁三郎の警告

2012-06-12 13:43:23 | 原発

若葉・青葉の季節となり、杜鵑が盛んに鳴いています。テッペンカケタカ とか、トッキョキョカキョク とも聞きなされるその声は、血を吐くように烈しいとも言われますが、何かを天地人に訴えているような哀切さが胸に響きます。

梅雨模様の日、友人が譲ってくれた本を読みました。著者の高木仁三郎(1938~2000)は、”反原発のカリスマ”とも言われた市民科学者で、大地震と津波が福島等の原発を襲ったら、メルトダウン・放射能大量放出に至るだろう、と警告していた方です。

Dscn23821986年12月初版のこの本は、”原発大国”日本に生きる人間としてチェルノブイリ原発事故(1986.4.26)をどう受け止め、そこからどんな教訓を引き出すべきなのかという問題意識から纏められたものです。

今度(チェルノブイリ)の事故は、安全審査、いや原発の安全性の一番根本の前提をひっくり返してしまった。原子力開発のすべての出発の前提ーメルトダウンや核暴走は起こらないーが崩れたのです。(中略)推進側もそれが分かるから、根拠もないのに、「日本では起こらない」と連呼して、とにかくメルトダウンや核暴走を日本の原発から切り離そうとするんです。

私も当時、日本の技術レベルは高いから事故は起こらないだろう、とタカを括っていました。なんと無知だったことでしょう。

2千何年に廃棄物を処分するとか、もっと乱暴に低レベル廃棄物は下北半島に持っていって埋めるみたいなことが言われております。つまり負担を全部後の世代に押し付けていくことで原発は成り立っている。こういうことを考え直さなくてはいけない。事故ということも恐ろしいけれども、やはり子供たち、孫たちの命のことをきちんと考えるような技術であり、生き方でなくてはいけないのではないか。

原発の本当に間近に住む人でない限り、どこに原発があり、その稼働状況はどうなっているかすら知らないし、知ろうとしない。新聞もほとんど書かない。そういう状況に対する最大の、そしておそらく最後の天からの警告、それがこの事故の意味だろうと思います。このメッセージを受け取りそこなえば、次は日本の番でしょう。

2011.3.11.まさに日本の番となってしまいました。それでも原子力ムラは懲りずに、再稼働に躍起になっています。怖ろしいことです。

原発をなくすためには(中略)運動の側のかなりの転換が必要だと思う。例えば集会をやる時の講師でも、反対派の先頭で旗を振っているような人だけではなくて、このような原発事故の状況を各層の人がどう受け止めているのかということが、もっとよく分かるような人を選ぶというように、今度の事故を心底から深刻に受け止めるならば、その深刻さに見合った広がりを志向していかないとダメではないか。運動する人が、日常的に世界を広げる努力をしていかないといけない。

高木仁三郎の風貌は爽やかな理性の人、という感じがしますが、その精神には、きめ細かさと大きさとが共存調和してしていたのですね。

それから、もう一つ気になることは、事故があったから原発はいけないという発想である。(中略)事故が起こるのは、ある意味では原子力技術の必然であるが、事故はなくても、原発というのはいろいろな歪んだ構造をもたらしていくわけで、廃棄物問題や核の軍事利用の問題はもちろん、社会的な差別の問題や管理の問題、地域の自立の問題、人間の自由と尊厳の問題、自然と人間の関係の問題などがある。

一方で私たちは自然の征服者として、鋭いメスで自然を切り刻み、その同じ人間が、一方であたかもその補償行為として、さながら自然の美を称えるような文化を発展させてきた。しかし、もはやしだいに多くの人々が、このような二元論の使い分けが成り立たなくなりつつあることを、感じ始めたのではないだろうか。私たちが直面する深刻な自然と社会の危機は、この二元的に私たちの精神の内部で引き裂かれた自然観を、より新しい観点で統一的に把握し直すような根源的な作業なしには、克服されないのではないだろうか。

杜鵑は梅雨空の下でも、また夜であっても、時として鳴くことがあります。烈しく、そして哀切に訴えるその声は、高木仁三郎からの警告の声のようにも感じられます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿