友達と話をしていて、
自分でも気づかなかったことが明らかになったりすることがある。
だからそーゆーのって大事だ・・・と思うのだけれど。
こないだの日曜日、清治と話していて気付いたこと。
あの頃(高校時代)の僕には、昼の世界と夜の世界があって、それが同時進行していたのだ。
昼の世界というのは学校・・・は、ほとんど どうでもよくて、
放課後の、佐治と岩佐と庄司と三太とモ吉でやっていたバンドの世界のこと。
精一杯イキがった、不良スタイル(ヤンキーとも言う)の彼らと、音楽的実験、実演の毎日。
バンドで音が出せるだけで幸せだったのに、さらに自作のオリジナル曲をやるのだ。
僕の知る限りでは・・・・そんなこと、やってる奴は近辺には他に誰もいなかった。
最高だった。
そこでの僕は、彼らの関西弁を真似して、それらしく関西弁を喋っていた(つもりだった)。
「せやな」とか「あれやねん」とか。
そこの仲間内での主役は、ベースの岩佐だった。
バンドの中心人物は佐治だったのだが、岩佐の影響力はかなりのものだった。
その当時は、岩佐抜きではバンドは、考えられなかった。
そして、夜の世界は、学生寮に帰ってからの、
清治と、様々な事柄について話し込む時間だった。
(バンドのほかのメンバーはみんな自宅通いだったのだ。)
大げさに言えば我々(清治と俺)は、生き方を模索していたのだ。
そこでの僕は、関東弁・・・・というか、東京にいた時の、子供時代の喋り方だった。
(清治は、埼玉から来た奴だった。)
関東弁のほうが自分にとっては自然なのだ。それは実は、今でもそうなのだけれど。
「だからさぁ」とか「あれじゃん」とか。字に書くと軽薄だけど。
冗談抜きで毎日、朝方まで話し込んでいた。もう何と言うか・・・馬鹿である。
しかし、どうあがいても
昼も夜も、濃いィことこの上ない。
でも全然違う世界だった気がする。
だから本当に眠くて眠くて、学校の授業の80%は眠って過ごしていた。
二時間目くらいから眠って、気が付いたら昼だったこともある。
でも、そうだったんだよな・・・・・と思った。
あれからもう、40年近く経つ。
今になってやっと、自分で言語化して自分で気付いた。
あの頃の僕には昼の世界と夜の世界があって、それが同時進行していたのだ。
僕自身がその後、長きにわたって言語的に分裂(関東弁/関西弁)してしまったのも無理はない。
何を隠そう、その言語的分裂は・・・・今でも続いている。
でも僕の関東弁は、「今」に、生きているものではない。
昭和47年くらいの、古い古いものなのだ、多分。
そして、関西弁にも、いまだに馴染んでいない自分がいる。
こないだの日曜日は、清治の喋り方がとても気持ち良かった。
久しぶりに聞いた関東弁だったからだ。
と言っても今では、
関西弁を愛している自覚もある・・・・自分では上手く喋れないけどさ。
分裂、分裂、分裂。
昼と夜はそれでも、分裂していたようで、そうではなかった。
ものごとの本質は、そんなに変わらないものでもあったのだ。
あの頃はそれに、気付きもしなかったけれども。