無題。

2019-10-08 21:55:16 | Weblog

しかし気付けば私も五十をとうに過ぎてしまっている。


私的には、自分にいちばんしっくり来た年齢は十九だった。

今でも、十九の頃から成長した気はしない。

それはさておき

五十過ぎという年齢について思うのはそんなの、

ブルースマンの年齢としてはまだまだヒヨッコだぜ、ということだ。

だがしかし、

若かった頃はそんな風に思わなかった。

私の、画家だった大叔父は五十代で亡くなっているのだが

そのことについて私は

「大往生じゃん」みたいに思っていたのだ。(1970年のロッカーたちは二十七歳で死んだから。)


思ってただけでなく、口にしたこともあったと思う。

若い、というのは愚かである、というのと同義だ。

今思えば五十代で死なねばならなかった大叔父はどれだけ無念だったか。

そして

最愛の兄を失った私の祖母がどれだけ悲しかったか。

そういう想像力・・というか配慮に欠けていたのだ、若かった頃の私は。

考えてみたら、

いくつで亡くなったとしても、その死は無念だし、百歳超えたとしても大往生なんて、ないのだ。

でも今、50過ぎの私は、

まだ死にたくない・・と思う半面、

もういいかな?とチラリと思ったりも、する。

生きることには希望も絶望もあるから。

でも最近になってやっと、ささいな日常の楽しみ方を知った・・というような気もする(だから生きたい)し、

そう思う反面、

もしもこれ以上生きなくてもいいなら、そりゃ楽でいいや・・・・・

などと不謹慎なことを思ったりもする。


12年前、死の床にあった友達はどんなことを思ったのだろう。

そして

今、それに近い状態にいる友達は・・・・・・・・・・・・・・?






今、それに近い状態にいる友達よ、俺だって、誰だって、

大きく言えば、それに近い状態にいるのだ、だから何も恐れないで欲しい。

君はそこまで生き延びてきたのだ。

それはそれで、大したものだと、俺は思うんだぜ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする