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渋谷陽一追悼・その2

2025-07-24 15:15:47 | Weblog

僕にとっての渋谷陽一は、何より洋楽誌「ROCKIN’ON」の人だ。

僕は若かった頃ずっと「ROCKIN’ON」の影響下で洋楽を聴いてきた、と言っても過言ではない。

 

でも思い返せば、彼が作った雑誌を読む、ということ以外にも、

彼の、ロックに対する先鋭的な姿勢そのものに影響を受けた、という部分もある。

 

 

、というのは・・・・・・・・・・・・・・・

 

以前、「ばるぼら」というバンドをやっていた。

僕と、ボケロウと、マーボーと、キヨシと、4人で。

1993年から始めて、1999年まで続いた。

3枚のアルバムを残したし、SXSWにも出た。

で、その「ばるぼら」がやっていたのは結構、特殊な部類の音楽だと自負していて、

つまり、ノイジーでジャズ風味もあって、轟音ロックで、型破りで。

いちばんの特異点は、メロディのない歌。

ラップ調でもない、

言ってみれば、非・デリケートな、叫ぶような詩の朗読・・・・みたいなヴォーカルの曲が多かった。

それは確信犯的に。

で、それをやる動機のひとつとなったのが、渋谷陽一の発言なのだ。

詳細は覚えてないし、ラジオで言ったのか、「ROCKIN’ON」誌上で言ったのかも

忘れてしまったのだが、

大意としては

「型にはまってるロックがとても多いように思う。表現したいことがあるなら、

”メロディに詞を乗せる”ことすらもどかしい、っていう気になったりしないのかな?

とにかく言いたいことを言うんだ!みたいに、もっと初期衝動的にやれてもいんじゃないか?

ラップみたいな「型」にはまったやり方でなく。

そんなロックって、ありそうでないよね」

 

というような内容のことを渋谷陽一は1990年代初めに、確かに言ったのだ。

それはボケロウにしても僕にしても、本当に同感で、

その渋谷陽一の言葉とか、ビートニクの詩人たちの朗読とか、浅川マキとか、NYアンダーグラウンドとか、

ソニック・ユースとか、チャーリー・パーカーとか、トム・ウェイツとか、キャプテン・ビーフ♡とか、

そういった要素すべてを参考にして咀嚼して吸収して血肉にして僕らは「ばるぼら」をつくった。

 

そういう「言葉」が、創作の刺激になったりすることって、あるのだ。

 

 

で、思い返せば「ばるぼら」は、1998年に「ROCKIN’ON JAPAN」の

取材を4人で受けて、そのインタヴューは、雑誌に載った。

インタヴュアーは当然(というか)、渋谷さんではなかったけど、

「ROCKIN’ON」(JAPANではない)の長年の熱心な読者としては、嬉しかった。

 

 

その後、1999年だったかな?

大阪・梅田のタワーレコードで

仲井戸麗市こと”チャボ”さんと、渋谷陽一の「ミニライヴ&トークショー」というのがあって、

僕は出かけて、生身の渋谷さんとチャボさんを、間近で見た。

あれが一番、接近遭遇した日だったな。

トークショーで2人が何を話していたのかは忘れてしまった。

チャボさんのミニライヴは、とても良かった。

そのあとの握手会はチャボさんだけで、渋谷さんは奥に引っ込んでしまった。

だからチャボさんと握手してもらって、一言二言、お話をして、

「渋谷さんにもこれ、聴いて欲しいんです」と言って「ばるぼら」の

3枚目のアルバム(FUCK  FANCLUB)を2枚、チャボさんに渡した。

 

チャボさんは渋谷さんに、ちゃんと渡してくれたのだ、と確信している。

まあ、渋谷さんは、聴いてないかもだけど。

 

 

 

渋谷さん、お疲れさまでした。ゆっくりお休みください。

 

 

世の中を面白くしてくれる人が減って行って、寂しい限りだ。

 

 

 


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渋谷陽一追悼

2025-07-24 14:35:50 | Weblog

渋谷陽一というひとは、様々な顔を持っていたように思う。

今の人にとっては、「ROCKIN’ON」フェスの主催者、という存在だったかもしれない。

でもあの人はもともと「ROCKIN’ON」という洋楽ロック雑誌の編集長で、

有名なラジオDJでもあった(誰でも知ってるかもしれないけど)。

1980年代に、NHK-FMで夜10時からやっていた「サウンドストリート」という

ラジオの音楽番組で、洋楽ロックをさんざん、紹介していた。

最近でも「ワールドロック・ナウ」というラジオ番組で

新しい洋楽ロックを紹介していた。継続する信念と情熱がすごい・・・と感服する。

僕は、「サウンドストリート」に関しては水曜日の甲斐よしひろのファンで、

中学生だった当時、けっこう熱心に聞いていた。

木、金は、あんまり聞かなかったな。

あの人の根本的な信念のひとつに、

「いいものは必ず売れる、だから極論すれば売れてるものは、いいものなのだ(いいところがあるはずなのだ)」

というのがあったように思う。

もうひとつ、僕があの人から感じたのは

「新しいものは聴くべき・・・というか聴かなければならない」という絶対的信念だった。

そしてもうひとつ、「ロックは常に進化してゆく、行かなくてはならない」、と。

その3つの彼の信念に、賛同できることもあれば、出来ないこともあった。

でも1980年代中ごろから、

僕は、雑誌「ROCKIN’ON」の読者になった。いつの間にか、大好きになっていた。

「ROCKIN’ON」の編集長は言わずもがな、の渋谷陽一だ。

あんな面白い雑誌は、後にも先にも、なかった。

ロックを、理詰めで評論するのだ。しかも紙面は読者の「投稿」を中心に構成されていた。

取り上げるアーティストは浮ついたものでなく、

かっこいいロックばかり、もちろん、英・米の洋楽アーティストばかり。

デヴィッド・ボウイ、プリンス、ルー・リード、ビートルズ、ストーンズ、クラッシュ、U2、

キンクス、pil、ディラン、スザンヌ・ヴェガ、ETC ETC・・・・・・・

写真も美しいものばかりだった。

1990年くらいから編集長が渋谷さんから増井という人に替わって、

「ROCKIN’ON」自体が、かなり変化した。

基本は同じ・・・なのだが内容が、かなり乱暴なことになった。

例えば・・・インタヴューでアーティストを「オマエ」呼ばわりしたりする。

作品や人を馬鹿にしたようなことも平気で書くし・・・・。

編集部内でのパワハラ的な記事も多く、とにかく乱暴、としか言いようがなかった。

しかしそれでも、異常に面白かったのだ。

「面白さ」という点では、それ以前より加速した。

僕は1980年代は、「ROCKIN’ON」を、買わない月もある、って感じだったのだが

1990年代はもう、必ず、欠かさず、毎月、買っていた。

でも内容が濃いので、次の号が出るまでに、今月号を全部理解できるかどうか?という感じだった。

その頃の紙面はその増井という編集長の色が濃かったのだが、

渋谷さんが増井さんと闘いながら、コントロールは、していたと思う。

最終的に、1990年代後半に、渋谷さんと増井さんが大喧嘩をして、

増井さんは「ROCKIN’ON」を辞めた。同時に、乱暴な面白さは失速したが、

それ以降の「ROCKIN’ON」も、高クオリティで、ちゃんと面白かった。

後から気づいたのだが1990年代は特に、洋楽ロックシーンも爆発的に面白かったのだ。

グランジの台頭、ネオパンクの登場、ブリットポップの隆盛、失速。シューゲイザー、

ミクスチャーロック、ビートルズの発掘音源、もうてんこ盛り。

カートの自殺もあったな。

2000年代に入ってからはネオ・ロックンロールの台頭とか。

ホントに、ホントに、面白かった。

僕は「ROCKIN’ON」に、頭から尻尾まで影響を受けた。

 

長くなるので、次の日記に続く。

 


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ピカソ、絵画、そして絵の具の値段。

2025-07-22 16:11:54 | Weblog

絵画、というものに 子供のころから 少しは関心があった。

 

昔、僕の実家の押し入れには大量の油絵があって、いつもうっすらと油絵の具の匂いが漂っていた。

その押し入れの絵はほとんどが習作か、書きかけの未完成のもの。

実は祖母の実兄が画家で、それは彼が描いたものだった。

片山公一、僕の大叔父にあたる。

事情があって・・彼の死後、習作や未完成作品ばかりがウチに送られてきたのだそうだ。

だから、というわけでは全然ないのだが

コドモ道郎も絵が好きで、でも時代的に漫画とかイラストだったので、

僕が描いたのは線画だ。今でも線画は描く。最新作はROCA’66のTシャツに結実した。

僕の母が生まれる前、祖母たち(祖母と、祖母の姉)は画家の兄を支えるべく、福山から上京した。

だから東京で母が生まれ、僕も東京で生まれたのだ。

その頃の苦労話みたいなのを、祖母が楽しそうに語るのを何度も聞いた。聞いていても楽しかった。

「油絵の具って高価いのよー!」と言っていたのを覚えている。

そう、高価いのだ。今現在とはだいぶ違うと思う。

しかも、色によって値段が違っていたらしい。

 

今読んでる本、池田満寿夫という人の著作「私のピカソ、私のゴッホ」という本が面白くて。

引用するから、ちょっといち部分だけでも読んでみて。

 

中央公論 「私のピカソ、私のゴッホ」池田満寿夫著より

以下引用

「確かに赤系統の色のほうが青系統の色よりも遥かに高価だった。

ピカソの「青の時代」はプルッシャン・ブルーという最も安い絵具しか使えなかったからである、

という逸話がいかにも真実味をもって私たちを感激させたものだった。

輝かしく派手な色はそれ自体が贅沢な象徴だった。文学者や詩人なら、一つ一つの言葉に

値段がついているわけではないので、どんな言葉でも平等に使える。

しかし画家は、カドミウム・レッドを使いたくてもクロムソン・レ―キで我慢しなければならなかった。

だからピカソの青は、あらゆる象徴的な意味をはぎ取っても、貧乏な画家の絵であることを

現実感として、若い画家たちに訴える力をもっていたのである。」

 

引用終わり

 

すごいよなあ、それ。

戦後の日本は貧しかったから、わかる気もするんだけど、

エコ―ル・ド・パリ当時の、本場のフランスでもそうだったのだろうか??????????

使いたい色が使えない???絵の具が高価いから?????

ピカソ「青の時代」(の時期の絵画)は、貧乏の産物???????

 

本当なら壮絶な話では、ある。

絵を描くのはきっと、さぞかし贅沢なことであっただろう、と推測する。

 

 

僕の大叔父は、

東京の画壇に挑戦するために、福山を離れて上京した。

(成功したのだろうか?でもオギクボに家買ったらしいから、少なくとも喰えてたんだろう。)

そういう感じって、現代の我々みたいな感じかもしれない。多くのバンドマンたち。

メジャーデビュー目指して上京した、そんな人、いっぱいいたよね。行って、戻ってきた人も。

バンドを、人生賭けてやれるのは、贅沢なことだったと思う。

僕としては上京しても全然良かったんだけど、

その機会はついに訪れなかった。いろいろあるのだ。

結果、関西に居つくことになったのだけれど今思えば、それでよかったと思う。

 

 

僕らは、これは時代のおかげなのだが

多少貧乏でも 最上級のフェンダーとかギブソンとかのギターを使える。

エフェクターにしてもアンプにしても、最高のものを選べる。

単純に、エレキは高価だからアコギでやってる、というような人は、いないのではないだろうか。

(もし、いたらごめん。)

 

しかし、絵画にしても、

我々のやってる音楽にしても、

アートというのはいいものだなあ、と思う。

 

 

 

写真は、うちの玄関に飾ってある

片山公一の絵画。生前の祖母から直接、頂いたもの。

 

 

 


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散文詩「ユー・ガット・ムーヴ」意訳

2025-07-21 22:59:07 | Weblog

オマエが俺を動かす

オマエ以外は面白くない

何故そう?なのかはわからない

ただそれは事実

どうしようもない

心の動き

誰かがそれを動かす

 

オマエが俺をハイに上げる

オマエが俺をローに落とす

何が原因かわからない

オマエはエンジンなのかとも思う

ガソリンの要らない

永久不変のエンジンかと

 

 

黄金がゴミに変わる

純銀が無価値なものになる

心の価値観はころころ変わる

何が正しいのか誰にもわからない

ただお前が俺の心を動かす

 

愛は不変ではない

万物が流転してゆく

1秒たりとも留まってはいない

何もかもが失われる

それはそれでいい

刹那は刹那だ

それ以上でもそれ以下でもない

 

オマエは動く

その動きこそがすべて

オマエは愛する

何もかもが失われゆく

全部それでいいのだ

そうでしかないのだ

ユー・ガット・ムーヴ

 

 

 

 


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魔の記念日・1993年・夏

2025-07-21 20:47:23 | Weblog

参議院選挙の結果は、心愉しいものではなかったようだ。

思うのは、

僕にとって、何が正しくて何が間違ってるのか?を

自分として、

ちゃんと判断できるように、していたい。

気を抜かず、手を抜かず、惑わされず。

そして

「自分が正しい」と、思い込み過ぎないことも大事だよな、と 今、

思っている。

譲れないところは譲れないけどね。

 

 

 

 

 

そうだ、昨日は「魔の記念日」だったのだ、僕にとっての。

・・・・・・・・・・・・・というのは、

1993年の7月20日未明に僕は250CCのバイクで単独大事故を起こし

(路上駐車の大型ダンプに突っ込んだらしい)、

 ほとんど他には被害を及ぼしてない(みたい)なのだが・・・本人は死にかけた、ということがあったのだ。

(ダンプはおそらく違法駐車で、バンパーがへこんだけど賠償はいらない、と言って去ったらしい。)

バイクは廃車。

本人も廃車になりかけた。気を失って血だらけで、深夜の路上に横たわっていた(と、後で知った)。

馬鹿だからヘルメットのあごひもを緩めて乗っていたのは覚えている。

誰か知らない親切な人が通報してくれたらしい。

その前後のことは何も覚えていない。

もちろん、その瞬間のことも、何も記憶にない。

(後で尋ねたら、医者によればそれは、ひどい脳震盪のせいだという。)

で、頭蓋骨の内側では脳出血していて、その次の日の夜が

生きるか死ぬかの「ヤマ」だ、ということで、

親、兄弟がはるばる福山から呼ばれたようで、来てくれた(らしい)。

しかし奇跡的に脳出血は止まり、手術は、せずに済んで、

骨折も、していなかったので、大事には至らなかった。

10日ほど入院はしたが。後遺症も、深刻なものはなかった。(でもその入院中の記憶は、ない。)

しかし、腰まで伸ばしていた髪の毛は知らないうちに救急隊のバリカンで刈られ、丸坊主になったのだ。

それは、脳手術する可能性があったから。

32年も前のことだ。

毎年毎年、このことは書くことにしている。

自戒のために。自己嫌悪的な猛省を薄れさせないために。

あの頃の、20代後半の僕は目も当てられないほど馬鹿で、

高慢ちきな馬鹿がベルボトムを履いて歩いていたようなものだった。

任意保険にも入ってなかったし、自賠責すら切れかけで危うかった。

そして、自分がどれけ非常識で、はた迷惑な存在か、気づいてもいなかった。

愚かにも、選挙にすら行ってなかった。

今現在は、あのころと比べると格段にマトモだと思う。

そうであってほしい。

それ以外のことでもきっと、周囲にいてくれたトモダチの多くにきっと、

多大な迷惑をかけていたと思う。

だから、

自分がいかに馬鹿だったか忘れないように、毎年 書いている。

ダンプのバンパー以外、誰も傷つけずに済んだ(みたい)なのが不幸中の幸い。

1993年の7月には僕は26歳で、

あと2か月足らずで27歳になるところだった。

(誕生日は9月なのです。)

後になって「27クラブ」の話を知った時は、心底、ゾッとした。

27歳っていうのは、天才だろうがそうでなかろうが、

人が「死」に、最も近づく年齢なのだと思う。

 

生きてて良かった、

と思えるワタシはきっと、シアワセなのであろうと推測する。

 

 

 

でもあれは、後で思えば人生の「重大な転機」だった。

あれのせいで・・・・翌年の、「ばるぼら」結成に至るのだ。

 

 

あれがなかったら「ばるぼら」は、なかった。

 


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昨夜はありがとう2025年・夏

2025-07-20 18:02:25 | Weblog

とてもとても良い夜になりました。

お客さんとして来てくれた友達と、我々を呼んでくれたライヴハウスの友達と、

対バンで共演してくれた友達と、バンドメンバーの友達に感謝を

捧げます。

本当にありがとう。無職療養中の私にはピンとこないのだが世間様はどうやら

連休、というものらしくて、

関西のあっちこっちで面白いライヴが目白押しだったみたい。なので昨夜は、

人が・・・・あまり、来てくれないのではないか?

もしかして「閑古鳥」が鳴くようなことになるのではないか?と

散々心配されたのですが蓋を開けてみると、多くの友達が来てくれました。

盛況、と言っても罰は当たらないのではないか。 

共演はトモダチのバンドばかり。知り合いばかり。

1番手の「CLOVER」とは随分久しぶり。

ジャズ風味が増して、素晴らしく音楽的なバンドになっていて驚きだった。

彼女らが、歳を取らないのも驚きだった。全員若く、綺麗なまま。

2番手は我々「ROCA’66」だった。

持ち時間いっぱいに曲を詰め込んだので普段よりさらにMC少な目。

少な目、というかMCほぼ「なし」だな。まあいいだろう。

演奏は ちゃんと出来た。大音量で音響も完璧なので、異世界にワープしそうな感じ。

お客さんたちが、じっくり聞いてくれてたのがわかる感じですごく良かった。

何人かは、一緒にワープしてくれたんじゃないか?と思う。

3番手の 「THE LULA」 も良かった。

宮木くんの使用ギターは昨夜はフェンダー・ムスタング。大好きなギターだ。

曲と演奏がいいよね、このバンド。

4番手、トリは「忌(イム)」。ピンクの髪の毛のチェリーくんのバンド。

ガチャガチャした感じのニューウィーヴ風味の音。かっこいい。

テンポは速いし、リフやフレーズが細かいから、演奏は難易度高いはず、特にベース。

とても良かった。昨夜は、生命の儚さ、を感じさせるMCが多かったのが印象的だった。

(たるたにくんと一緒に音楽やってたものね・・・・。)

チェリーくんは、まるで遊んでるような、それでいて深く生真面目なような、不思議な人。

 

僕としては近年は、バンドがメンバーみんなが揃って、元気で、

演奏をキチンと、いい音で、良い環境でやれたら満足なのです。

それが普通に出来ることではない・・・ということは痛感している。

誰かに共感してもらうのは、もっと難しい。

トラブルなく、チカラを発揮出きれば・・・自分としては否応なく、感覚が「作品世界」に没入していきます。

そこは懐かしく、「痛み」もあるが

「僕の失ったすべて」と言っても過言ではない世界。

そのためにこそ、そこに行くためにこそ、

仲間と共に音楽をやってるのだ、ということを再認識できた夜でした。

人前で演奏できるだけで、それだけで楽しく、嬉しいのに ライヴの前後ではいつも、

久しぶりの友達と会えたりして、すごく楽しい時間も過ごせます。

 

出演させてくれるライヴハウスはとても貴重だ。

そして、お客さんとして来てくれる人が、本当に貴重で、ありがたい。

理解してくれてありがとう。感謝してます。

 

 

 

新作ROCA’66 Tシャツも昨夜持って行って販売したのだが、

買ってくれた友達が何人もいた。ありがとう。

そんなに枚数、作ってないので、わりとすぐ・・無くなると思う。2500円デス。

 

もし、「買ってやるぜ」、という人がいたら早めに、

ライヴに来てね。Tシャツは年内には無くなってしまうと思う。

バンドはずっと存続するけどさ、もちろん。次回は

8月9日に、京都・祇園の「シルバーウィングス」に出るよ。

 

 

写真は、昨夜の、ROCA’66。

共演のTHE LULAのベーシスト、由美ちゃんから頂きました。ありがとう!

 

 

 

 

追記・あ、そうだ、今日、選挙にはもちろん、行ったんだよ。

この現状をひっくり返してくれそうな、

我々の「人権」のこともちゃんと考えてくれそうな政党の人に

投票した。

結果が楽しみだ。

 


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明日は夜想でライヴ、明後日は選挙!!!

2025-07-18 13:19:00 | Weblog

まずは訂正。

明日のライヴの出演順、ROCA’66は2番手の登場です。

以前に書いた日記の出演順が間違っていた。

正しくは

 

CLOVER

我々ROCA’66

THE  LULA

忌(イム)

 

という順番。

我々の出演時間は同じ、19:40分から。

ということで

明日、京都・四条大宮のライヴハウス「夜想」に来てください。

 

それぞれ持ち時間はたった30分なれど、ギュッと詰まったライヴをやります。

チャージは2000円プラス1ドリンク600円。

 

 

 

 

ということで、ここから日記。

 

 

 

夏の盛りが到来、でもなんだか緩やかに日々は進む。

でも、そろそろ慌しくなってくる予感がする。

明日はROCA’66のライヴ。

バンドは生き物で、酸素とか呼吸しながら、少しずつ変化する。

我々も例外ではなく、脱皮とか羽化とか孵化とかを繰り返して今に至る。

 

今年の夏はおそらく自分史の中でも特殊な夏であろうと思う。

4月に突然訪れた首の頸椎ヘルニア(激痛)のせい・・・というかおかげなのだが、

実に久しぶりの「夏休み」が訪れたかのような。

 

日課はとにかく、歩くことと、首のリハビリ、向日葵の世話、そして音楽。

 

ここ10年くらいトラックに乗りながら、なかなかに充実したラジオ・リスナー生活をしていた。

たった3か月前までの話だ。

ピーター・バラカンの音楽ラジオ番組や、

ジョージ・ウィリアムズの音楽ラジオ番組をたっぷり、浴びた。

まるでラジオ漬け、みたいな日々だった(仕事しろよな)。

それで、インプットが自分の中に、だいぶ溜まってきたかもしれない。

仕事を辞めてトラックに乗らなくなってから、ほぼまったく、と言っていいほどラジオを聞いていない。

テレビはもとから絶無に見ないし、家ではレコードもCDも聞かない。

どうするか?と言えばもう・・・創り出すこと、しかない。

そしてその「創り上げたもの」を みんなの前でメンバーと共に、じょうずに演奏して、

僕の見た「世界」を音楽で再現して、

もしも「共感」してもらえたら、それ以上のことはない。

僕が望むのはそれなのだ。

 

 

 

明日、「夜想」で、多くの人に会えるのを期待してます。

 

 

そして、その次の日は「選挙」だ。

ブランキーの浅井さんが・・・あそこを支持してるらしい、とか

いろいろと選挙の話題が、いつもより盛り上がってる気がする。

盛り上がるのはいいことだ。

当然ではあるが、

多くの人が投票するべきだ、と僕は思う。

どこを支持したって自由だ。誰に入れるのも自由だ。

選挙に行かないのも自由だけど、

投票権破棄するのは、もったいな過ぎる。

面倒くさくても、投票はしよーぜ。

 

 

 

写真は、今日の私と向日葵。

今年の向日葵は例年になく上手くいっていて、開花が楽しみである。

 

開花したら絶対、写真載せるからね。

 

 

 


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さらば たるたに 2025年 夏

2025-07-16 16:43:59 | Weblog

大阪の茨木市の斎場まで、たるたにくんの顔を見に行ってきた。

あんなに人が集まってるとは思いもしなかった。

着いた当初から100人以上いて、あとからあとから続々とやって来る。

しかもボーダーTシャツ着た人ばかり。ちょっと変わった人も多い。

たるたに と 「ぱぱぼっくす」 が いかに愛されていたかが、わかる気がする。

ライヴハウス関係の懐かしい顔・顔・顔。

そんな大勢の前で

泣きはらした目で泣き笑いしながら、たるたにの作った「ぱぱぼっくす」の歌を

ちゃんと歌い切った沢田さんが見られて良かった。

「ぱぱぼっくす」は、今後も続くのだそうで、それはとてもいいことだ。

酒宴もなかなかのカオスで、やっぱ行って良かった。

しかし、やっぱ、すごいなあ、音楽関係の人脈って。

大好きな人たちとたくさん会えて僕はシアワセだった。

たるたに にもう会えないのは寂しいが

彼の作った歌たちは残っていくだろう。

 

さらば、たるたに。

またライヴハウスで会おう。

 


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人と人との距離。

2025-07-15 14:51:53 | Weblog

人と、どれだけ近づけるか?という話。

 

今現在の世界人口は80億人(!)だそうだが、

このうちの99、9%以上の人と僕は知り合えずに終わるだろう。

(数字に根拠はない。99,9999999%かもしれない。)

でも、もうちょっと大きく考えたら80億の人たちと僕は「同時代に生きている」という共通点を持てている。

例えばマリリン・モンローと僕は同時代を生きていない。ジェームズ・ディーンも。

縄文人も、古代ローマ人も、多くの江戸っ子たちも。

僕が産まれる前に以前に生き、そして死んでいった人々って、どれくらいの数になるのだろう?

想像もつかないよね。

同時代を生きているということは同じ太陽、同じ月の下で同時刻に「存在している」ということだ。

 

次に・・・・一方的に僕が知ってる人はいる。ロックスターとか、文人とか政治家とか。

歴史上の人物とか。これだってほんのささやかだが「接点」だ。

僕はジーザス・クライストを知っているし、宮沢賢治を知っている。一方的に。

 

 

そして「知り合う」ということにおいては、

まず、偶然に、

学校で同じ学年になった人、とか同じクラスになったことがある人、というのがいる。

東京の幼稚園、小学校、福山の小・中学校、奈良の高校、大阪の専門学校。

 

そして僕は仕事も随分転々としたので、職場で同僚だった、という人もいる。

アメ村の古着屋、大阪・本町の画材屋、大阪・福島の自動車部品屋、心斎橋の安物時計店、

神戸・三宮の安物時計店、大阪・八尾の軽トラ運送屋、西成区の靴工場、

大阪・ATC、梅田、岸和田、茨木、京都駅前での高額時計売り場。

京都・伏見のダンプ産廃業者、同じく伏見の運送屋。

 

それぞれの仕事での「お客さん」という人々もいる。

その人にとっての僕は「ただのトラック運転手」だったり「店員さん」だったりする。

 

ここまでくるとだいぶ接近している。その人と、手が触れたことぐらい、あるかもしれない。

 

 

話は前後するが、

同じ学校で同じ学年、同じクラスになって、その中でも・・・話をするようになる人。

そこからさらに、友達になれた人。

 

トモダチになる・・・・・これは一つの関係性の帰結であり、始まりでもある。

 

もっと進んで、お互いの家を行き来するようになり、そうなると必然的に親の顔とかも見ることになる。

兄弟とか。おばあちゃんとか。

そしてついには、バンドを結成したりする。

ここまでくるともう、「ものすごく近しい存在」だ。

ソウルメイトみたいなものである。

僕にとっては「バンド組んだ人々」は、親兄弟よりも近しい存在に感じる。

 

で、紆余曲折会って・・・そのバンドが不特定多数の人の前で演奏したりすることになる。

そうなると、そのバンドのライヴを一方的に見てくれた人、というのがいるはず。

中学校の時のザ・レイン、高校でのネクスカ、

学校をドロップアウトしてからの ランブルフィッシュ、風の歌、

ばるぼら、MITT’S、ピカレスク、ROCA’66。

ライヴは見たけど、すぐ帰ったから本人は知らないわ。っていう人もいると思う。

かと思えば

お客さんとして来てくれて、しかもすぐ帰らずに、話しかけてくれた人。

あげく、一緒に打ち上げで酔っぱらって、意気投合した人。

そんな風に、トモダチになれた人。

 

 

その我々のバンドと、同じライヴハウスに同じ日に出演して、

対バンになって、知り合って、一緒に酔っぱらったりして個人的にトモダチになれた人、というのも出現する。

ただし、電話番号も交換していないし、2人だけでライヴ以外で会ったこともない。

ただライヴハウスでお互い、何度も何度も会うし、そのたびに意気投合するのでそのうちに、

精神的にすごく近しい存在になる。

そーゆートモダチ、である。

ただ、ライヴ以外では会う機会はない。

暇なときに電話で話したりもしない。手紙を書くこともない。

こーゆー人が僕は、ものすごくたくさんいる。

今では有名人になってしまった人、とかもこの中にいる。

今現在はこーゆー人とSNSで繋がれる。ありがたいことだと思う。

 

そしてそこから一歩踏み出して

電話番号とかも交換し合って、ライヴ以外でも外で飲みに行くようになったり、

近くまで来たら電話くれたりする。

家に行ったり、家に呼んだり。

で、事情にもよるが、家に泊めてもらったりする。

 

バンドメンバーとは、毎月毎月、関西でライヴするのとほかに、

ツアーに出たりする。観光ツアーではなく、演奏旅行。

毎日「打ち上げ」と称して、一緒に居酒屋で酔っぱらう。

同じ車に8時間以上も詰め込まれるのは日常茶飯事、

クルマに泊まることもよくあった。

スタジオで一緒に泊まるし、時には飛行機で海外まで一緒に旅をすることもあった。ホテルは同室だ。

ランブルの時はツアーの途中で福山の僕の実家にも寄って、

両親や祖母と、バンドメンバーがご対面していた。

 

入院すれば(遠方でなければ)お見舞いに行ったり、する。

こちらが入院した時には お見舞いに、来てくれたりもする。

 

 

亡くなれば、その時の都合にもよるが、

お通夜に行くこともあるし、お葬式に行くこともある。

 

あえて行かないこともある。

 

 

 

 

 

人と人との出会いと別れって、興味深く、面白いものだわよね。

 

 

 


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訃報あり

2025-07-14 19:42:04 | Weblog

トモダチ、というほど親しくしてたわけではないのだが

「ぱぱぼっくす」の たるたにさとし が亡くなったみたいだ。

そうか・・・・・・1年前に正垣祐樹の「お目出度い集まり」で

西成クラブ・ウオーターの2階で会った時は 元気そうに見えたんだが。

明日の夕方、茨木に 顔を見に行ってみようかな。


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