まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第4回中国観音霊場めぐり~特別霊場「誕生寺」

2019年08月14日 | 中国観音霊場

津山線の誕生寺駅を降りて、向かうのはその名も誕生寺。国道53号線の脇道の集落に沿って歩く。途中にはサボテンや食虫植物などを扱う店があるが、店頭に掛けられた温度計は36度を指している。こんな暑い日に寺参りなどしなくても・・。

この店の角を左折するとあとは一本道である。津山線のガードをくぐると、念仏橋というのがある。これから目指す誕生寺とは、浄土宗を開いた法然の生誕の地に建つ寺である。その法然に弟子入りした熊谷次郎直実(一ノ谷の戦いで平敦盛を討ち取ったが、後に出家した)が法然自作の像を背負ってこの地にやって来て、法然の生家の館を目の前にして感激に号泣して、橋の上で念仏を唱え続けたという。念仏橋の名前はここからついたし、この館の地に誕生寺を開いたのは直実である。

観音霊場めぐりで浄土宗の、その中でも由緒ある寺に来るとは意外である。だから特別霊場というゲスト扱いなのだろう。

「南無阿弥陀仏」と大きく書かれた塔があり、その奥には娑婆堂という地蔵堂がある。六地蔵が祀られていて、中国三十地蔵尊霊場の第1番とある。観音霊場と同じように岡山から始まって中国地方をぐるり鳥取まで回る巡拝ルートである。

山門に着く。先ほど地蔵めぐりに触れたが、誕生寺は他にも法然上人二十五霊場の第1番、山陽花の寺二十四寺の第12番と、なかなか手広い。

まずは法然が植えたとされるイチョウの木を見て、正面の本堂に上がる。この本堂に祀られているのは法然が自作して、熊谷直実がここまで背負って来たとされる法然上人像である。そのためか、寺のほうでは御影堂と呼んでいる。法然上人像は厨子のガラスの向こうに安置されていて、穏やかな表情をしている。ちょっとここではいつもの般若心経のお勤めは違うようでどうしたものかと思うと、厨子の前にいくつもの木魚があり、これを叩きながら南無阿弥陀仏と唱えてくださいとの貼り紙がある。その通りにて何べんか念仏を唱える。

誕生寺は先に書いたように熊谷直実が開いたが、元々は法然の生家、漆間時国の館の跡だった。本堂の奥には父母の像も祀られている。

法然が9歳の時、父の時国が他の武士から襲撃されて命を落とす。亡くなる前に法然は父の仇を討つことを誓うが、時国はそれを戒める。例え仇を討ったとしても、それがまた新たな憎しみと仇討ちの連鎖になるとか。その後法然は人の道を求めるために菩提寺で勉学に励み、やがて勧められて比叡山に学ぶことになった。

そして美作から比叡山に旅立つ時の法然と、その無事を祈る母の像が境内に建てられている。その後浄土宗を開くに至るのだが、その辺りはいろいろ参照いただくとして、ここでは割愛する。

本堂から見て左手(山門から見て右手)に阿弥陀堂がある。最近建てられたもののようだ。こちらには阿弥陀如来が祀られている。

本堂の奥に進むと勢至堂がある。勢至菩薩を祀るとともに、法然の両親の霊廟でもある。なお法然の幼少期の名前は勢至丸と呼んでいた。

法然の産湯の井戸もある。大きな柄杓で汲めるが、生水では飲まないように煮沸してとの注意書きがある。

境内を抜けると、小川に沿って歌碑が並ぶ散策路が伸びている。夏の夜はホタルも見られるそうだ。ただこの先に行っても他になさそうなので引き返す。

さて、中国観音霊場なら観音菩薩はどこかというところだが、これは本堂から見て右後ろ、勢至堂の手前にある。別に存在に気づかなかったわけではなく、最後にお参りしようということだ。

祀られるのは聖観音像で、「お七観音」とも呼ばれている。「お七」とは、江戸時代から歌舞伎やドラマまどの題材にもなっている「八百屋お七」のこと。浄土宗の名刹ではあるが、なぜ美作の誕生寺で八百屋お七なのだろうか。生まれがこちらとか?

八百屋お七は別に美作の生まれではなく、江戸の八百屋の娘である(八百屋といっても横丁の八百屋というよりは、大名家にも納品していた大店だったようだが)。江戸で大火事があり、家も被災したのでしばらく寺に身を寄せていた。そこでお七は寺の若い僧と恋仲になった。

やがて再建された家に戻るが、お七は僧のことが忘れられない。そこで、もう一度火事になればまた逢うことができると思い込んだ末、自宅に火をつける。これはボヤで済んだが、お七は捕らえられて奉行所で裁きを受けることになった。

当時も今も放火は大罪で、当時は火あぶりの極刑とされていた。ただし少年法の精神は当時もあったのか、15歳以下なら罪一等減じて島流しだったそうだ。お七はちょうど16歳になったばかりだったが、奉行は不憫に思い「15歳であろう?」と誘導尋問する。しかしお七はかたくなに、正直に16歳だと主張し、奉行もやむなく市中引き回しのうえ火あぶりとした。

この事件がワイドショー的に江戸の人たちに広まり、井原西鶴の作品にも取り上げられ、後に歌舞伎や浄瑠璃の題材になった。演出はいろいろあり、中にはお七は放火をしておらず、火事があった時に振袖姿で半鐘を叩いて恋人に危機を知らせたというものもある。

その後、誕生寺の法然上人像の出開帳が江戸で行われることがあった。その時、お七の遺族が「弔ってほしい」と誕生寺の住職に頼んだという。やはり江戸で弔うことは憚られたようだ。住職はお七の位牌と振袖を預り、誕生寺の観音堂に一緒に祀った。これがお七観音と呼ばれる由来である。

その位牌と振袖は本堂で保存されているが、振袖もボロボロである。明治時代に大阪で開かれた博覧会に出したところ、お七の美貌にあやかろうとか、恋のまじないとか、はては火の用心とかで振袖をちぎる人たちが相次いだという。今なら考えられないが・・・。

ともかく誕生寺が中国観音霊場の特別霊場になっているのはこのお七観音があるためだろう。こうした由緒があることに触れたことも勉強になる。

納経所に向かう。いろいろな札所になっているためか朱印のサンプルもさまざまだし、浄土宗関係から観音、地蔵めぐり関連までさまざま置かれている。納経帳を出すと「観音様ですね」と、大悲殿の墨書をいただく。

誕生寺をいろいろ回り、再び歩いて駅に戻ると次の津山行きまで少し時間があるところ。しばらく駅のベンチに腰かけて列車が来るのを待つ。

12時58分の津山行きに乗り込む。またもボックス席を占領である。この先津山では次の列車まで1時間ほどの待ち時間となるが、その合間を利用して、せっかく津山に来たのだからということで、あるスポットを訪ねることに・・・。

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第4回中国観音霊場めぐり~津山線を行く

2019年08月13日 | 中国観音霊場

第4回となる中国観音霊場めぐり。今回は「津山線シリーズ」ということで、特別霊場の誕生寺と第5番の法界院を訪ねることにしている。夏の青春18きっぷの3回目利用である。

時刻表をあれこれ見る。誕生寺は津山線の同じ名前の駅から徒歩10分のところだが、停まる列車が少ない。そのために、誕生寺をどう訪ねるかが時刻表を見る中でのカギとなる。いっぽうの法界院は津山線の快速「ことぶき」も停車するし、岡山駅からの路線バスも通る。また津山線も津山から南下するか岡山から北上するかの選択肢がある。さらに大阪~津山も、姫新線に乗るのか高速バスに乗るのか選ぶところだ。

時刻表をいろいろと見て、これで行こうとルートを決めた。しかし8月に入ったある日、某旅行会社のホームページを見ていると、9月某日に岡山県内を巡る鉄道絡みの日帰りツアーを見つけた。岡山駅に昼集合・夕方解散だから実質半日ツアーなのだが、時間を見ると大阪から青春18きっぷでの日帰り往復ができる。さらに、早い時間に出れば慌ただしいながら集合までの時間で法界院を訪ねることもできそうだ。

そうなると青春18きっぷの1回分でツアーと法界院を組み合わせたほうが面白いかなと、今回は法界院はパスし、津山線の中でも美作に位置する誕生寺のみ訪ねることにする。空いた時間でどうするかは現地で考えるとしよう。

8月9日、実はこの日から早めの休暇をいただき、世間は平日ダイヤの中、大阪6時51分発の新快速に乗る。これも平日ダイヤ限定で、土日ダイヤなら6時21分発の快速に乗ることになる。姫路到着はどちらも7時56分。編成ダイヤの新快速は大阪始発だがホームには早くから長い列ができていて、座るのがやっとである。本当の平日ならもっと多くの通勤通学客が乗るのだろう。

窓越しに須磨の海と明石海峡大橋を見た後はウトウトするところもあり、姫路に到着。ここからは山陽線で岡山に向かう。次の岡山行きは8時01分発で、隣のホームから出る。青春18きっぷの時季は特に席の取り合いで、移動の階段の上り下りは競走となる。4両編成で、何とか車両の隅の席にありつく。車内にもそれらしき客がヘビーからライトまでいろいろいる。

上郡を過ぎると船坂峠を越えて岡山県に入る。この先の中国観音霊場めぐりでも、この県境を何度も通過することだろう。

吉井川を渡り、万富駅の横にはキリンビールの岡山工場を見る。上に書いたツアーではここにも立ち寄るそうで、ビールの試飲もできるのかな。

9時29分、岡山に到着。この先山陽線を急ぐ脚はホーム向かいの三原行きに乗り継ぐ。コンコースも新幹線と在来線の乗り換え客でごった返している。

ここから津山線に乗り継ぐ。次の列車は9時46分発だが、これは快速「ことぶき」。誕生寺には停まらないし、これに乗って途中の駅まで行っても、都市部のように先行の鈍行が待っているわけでもない。満席となった「ことぶき」の発車を見送り、次の10時26分発の鈍行を待つ。

暑い中、先の山陽線の列車から1時間待ちの形だが、10時前には折り返しとなる列車が津山方面から入ってきた。昔ながらのキハ47の2両編成で、下車客と入れ替えで車内に入れたので、ボックス席に陣取る。網棚の上に後付けで置かれた昔仕様のエアコンと、今や希少価値の扇風機が回る車内だが、ホームにいるより断然涼しい。発車までの一時、ボックス席で靴を脱いで足を向かいのシートに投げ出してリラックスする。こうしたスタイルも本来マナー違反だろうが、今やローカル線汽車旅でもなかなかできないものである。

ダイヤの巡り合わせか、こちらの鈍行はボックス席に一人の割合で発車する。立ち客が出ることもないので、そのままの向かいのシートに足を投げ出したままである。次は法界院で、津山線を1駅区間だけ乗って下車する客も多い。住宅地でもあるし、岡山大学も近いところだ。発車すると、左手の車窓に注意する。寺の法界院の本堂らしい屋根瓦を見ることができた。ここはまた次回の岡山行きで訪ねることにする(中国観音霊場も区切り打ちからコマ切れ打ちになりつつあるが)。

住宅地もいつしか旭川の車窓となる。ただそれでも岡山市内である。近年合併を経て新たに政令指定都市となった岡山市だが、そのためにいろいろな郡部も巻き込む形となった。

福渡の辺りが備前と美作の境だそうで、そのまま美作に入る。誕生寺は美作にあるということか。中国観音霊場めぐり、旧国名なら11か国(備前、美作、備中、備後、安芸、周防、長門、石見、出雲、伯耆、因幡)に分けられるが、まずは前回の木山寺と合わせて美作をコンプリートすることになる。旧国名の数だけで見ると、四国八十八所よりもスケールの大きさを感じる(四国はどこまでいっても4か国だから)。

素朴な里山の景色を見るうち、11時30分、誕生寺に到着。涼しい車内から出ると一気に熱気が身体を覆う。

ホーム1本だけの駅だが、まずはホームの向かいに寺の誕生寺の看板を見る。駅舎は木造ながら比較的最近に建てられたようで、落ち着いた感じである。壁には地元の同好会の手による俳句の短冊が掛けられている。ちなみに駅は1898年、現在の津山線の前身である中国鉄道本線開業時の設置である。

駅前に標識と石柱があり、誕生寺への道を示している。次の列車は1時間半後の12時58分発の津山行き。それまでの時間でお参りである・・・。

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東海道線~名鉄特急~近鉄アーバンライナー

2019年08月12日 | 旅行記D・東海北陸

青春18きっぷで静岡を訪ねた後の復路。乗るのは17時02分発の浜松行きで、この列車の始発は熱海である。ロングシート車が来るのはわかっているから、普通に通勤列車を待つのと変わらない。静岡で多くの乗客が入れ替わることもあり、無事に着席することができる。

さすがにこの時間となると、朝から乗り継ぎで来たことと、先ほどの「茶っきり」が回って来たか、往路ほどしっかり景色を見ることもなく静かに過ごす。外は田園地帯や山の緑が広がり、夏の車窓だなというのが印象だった。

18時14分、浜松に到着。次は18時28分発の豊橋行きで、豊橋からの折り返し列車に乗る。こちらは転換クロスシート車両だ。

そろそろ日が暮れる頃合いで、浜松の西にある貨物ターミナルのあたりで夕日を見る。もうすぐ浜名湖で、もう少し何とかならないか期待して外を見るが、浜名湖を渡る鉄橋のところでは太陽が雲に隠れてしまった。

19時05分、豊橋到着。最後に乗るのは名古屋21時00分の特急アーバンライナーのため、十分に間に合う。先ほどは締めの一品をいただいていなかったので、コンコース内のスタンドできしめんをいただく。

ふと、このまま東海道線を行くより、帰りの時間が見えてきたので変化をつけてもいいかなと思った。この日の青春18きっぷ(2回目)の元は十分に取れている。なお大阪市内~静岡の片道乗車券は6260円、静岡~豊橋の片道乗車券は1940円する。1回目では大阪~長浜、近江今津~大阪と乗車したが、すでに2回目で全5回分の料金11850円に迫ろうかというところ。

ここでいう「変化をつける」というのは、名鉄線に乗ることである。東海道線の新快速、特別快速と、名鉄の特急では所要時間にそれほど差はない。ならばということで名鉄線のホームに下りる。名鉄線は歴史的な経緯があって飯田線と同じホームに発着するので、飯田線の列車と並ぶ姿が見える。

購入したのは19時32分発の新鵜沼行き特急の特別車両券(ミューチケット)。名鉄の特急には自由席車両もあるのだが、ここはせっかくなので快適に移動することに。豊橋のホームには浴衣姿の人も目立つ。8月3日、夏祭りでもあるのだろう。

この時間となると外は真っ暗で、また特急は途中の駅を高速で通過するので、どういうところを走っているのかよくわからない。そんな中で、外に花火が上がるのが見える。どこでやっているのかと検索すると、走行位置から見て御油の夏祭りのようである。さすがに音は聞こえないが、こうした車窓を見るのもよい。

花火はこの先岡崎でも見ることができた。こちらは矢作川の河畔で行われる岡崎城下家康公夏祭り。規模としてはこちらのほうが大きい感じだった。いずれも写真に収めることはできなかったが・・。

そのまま快走を続け、地下に入った名古屋に20時21分に到着。そのまま連絡改札をくぐって近鉄のホームに出る。後は近鉄特急に乗るだけだ。

21時00分のアーバンライナーのデラックスシートに乗る。前日に照会した時には1人席がすでに満席で、2人席の窓側に陣取る。このままの状態で発車する。

名古屋から特急に乗ると、藤井寺に戻るのに鶴橋回りにするか、大和八木から橿原神宮前に戻るのか選択肢がある。特急券は鶴橋まで購入しているが、その後の乗り換えや混雑具合を比べるのだ。そして結局は大和八木での下車を選ぶ。

以降の乗り継ぎは、22時38分に大和八木に到着し、22時49分発橿原神宮前行きで22時55分着、23時07分発古市行きで23時36分着、23時37分発大阪阿部野橋行きで23時44分に藤井寺に到着した。朝出発したのが5時17分発の始発だったから、文字通り一日仕事だった。その中での古市行きは、4両編成で乗客は10数人。ロングシートもガラガラで、シートに横になる人もいる。寝過ごしは大丈夫かな。

今回は静岡での町歩きや昼飲みがメインということになったが、いずれは、遠く行けるところまで行って、滞在先がほんのわずかでとんぼ返りするという、机上旅行にとどまらず実際にチャレンジしてみるのもいいかなと思ったことである・・・。

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静岡浅間神社と「ちゃっきり」

2019年08月11日 | 旅行記D・東海北陸

駿府城から少し行くと大きな鳥居がある。浅間(せんげん)通りということで、静岡浅間神社の参詣路で、両側には商店が並んでいる。

山田長政の像がある。江戸時代初め、シャム(現在のタイ)の日本人町を中心に活躍した人物である。彼の出身がこの駿府とされており、沼津藩主の大久保忠佐の駕籠かきをしていたが、朱印船に乗ってシャムに渡った。現地では傭兵部隊に加わって頭角を現し、日本人町の頭領となり、やがては地方の王に任じられるまでになったが、それに不満を持つ勢力の手により毒殺されてしまう。その後日本人町の勢力は衰え、鎖国政策もあって滅びてしまうのだが、戦国の気風を残す武士たちが最後にもう一旗をと夢見たのがシャムだったのかもしれない。

正面に鳥居が見える。石柱には「大歳御祖神社」とある。静岡浅間神社は地元では「せんげんさん」として親しまれているが、浅間神社、神部神社、大歳御祖神社の三社の総称である。

大歳御祖神社は応神天皇の頃に鎮座したとされ、神大市比売命を祭神として、農業・漁業・工業・商業など産業繁栄の神として信仰されている。

そして浅間神社、神部神社という二社に出る。正面から見て左手の浅間神社は木之花咲耶姫命を祀っており、平安時代に現在の富士宮の分霊を勧請したものである。右手の神部神社は大己貴命を祀っており、崇神天皇の頃に鎮座したこの地方で最も古い神社とされている。駿河国の魂の大神を祀る総社でもある。

他にも八十戈神社や少名彦神社などが建ち、合計7つの社を回ると境内を一回りとなる。各社にはスタンプがあり、これをラリー感覚で集めることもできる。

楼門もあるのだがこちらは改修工事中。

浅間神社(総称として)は古くから朝廷、武士たちからの信仰を集めている。今川氏も氏神として祈願を行っているし、徳川家康が元服した(当時は松平元信)のも浅間神社だという。そのこともあって江戸時代には幕府の祈願所として2千石の領地を持っていたそうだ。見どころは大拝殿で、天守閣のてっぺんを切り取ったような形をしており、朱塗りの柱に数々の装飾が施されている。当時は日光の東照宮に次ぐ美麗な神社と評されたそうで、江戸時代当時の、というより徳川家の趣向なのかなと思う。

今回は神社に手を合わせただけだったが、実はこの奥に賤機山(しずはたやま)という山が続いており、山じたいに神が宿るとして信仰されたのが浅間神社全体の始まりとされている。今の「静岡」の地名も、賤機山から来ているのだとか。

境内の一角に文化財資料館があり、かつて武将たちが奉納した武具などが展示されているという。ただこの日は、何となく浅間神社に来たということもあり、資料館の存在には気づかなかった。お参りを一通り終えると、暑いということもありそのままバスに乗って駅まで戻ってきた。

さてここから静岡の「味」である。時刻は15時を回ったところ。帰りの乗り継ぎの時間を考えると17時には静岡を出ることになるので、要は昼飲みである。さすがは県庁所在地、土日ということもあってかそういう受け皿もちゃんとある。

その中で駅北口の「ちゃっきりや」というのを見つける。年中無休、毎日14時から開いているそうだ。メニューにも静岡ものがいろいろ並んでおり、初入店のこちらに決める。テーブル、座敷がメインの店だが大勢の人で賑わっている。店員の声も元気だ。静岡の人もこんなに昼飲みをするのかな。空いていた入口のところの小さなカウンターに陣取る。この後も入店があってカウンターも埋まり、15時すぎにして早くも満員御礼となった。

日中暑かったぶん、生ビールのジョッキが気持ちいい。まずはこれで一息つく。

おすすめということでカツオの刺身、沼津産アジのなめろうをいただく。こちらのほうに来るとこうした魚が美味いイメージがあるが、結構なものだった。

メニューに桜えびと生しらすがあるが、これは春もののイメージである。果たしていずれも「生」はやっていないそうだが、代わりにメニューにあったのが生しらすの塩辛。これは初めての味だったが、こういう保存方法、食べ方があるのかと感心した。ビールもそうだったが、ご飯も進みそうだ。静岡駅でも売っているかなと帰り際に探してみたが残念ながら見つからず。

焼き物は黒はんぺん。そしてここで静岡名物の緑茶割りにスイッチする。緑茶割りは「しぞーか割り」とも呼ばれるが、この店では店名にあるように「茶っきり」と呼んでいる。注文すると店員が大きな声で「茶っきり!」と通し、そしてすぐに出てくる。他の店で緑茶割りを「茶っきり」と呼んでいるかどうかは知らないが、「ちゃっきりぶし」という民謡もあることだし、そこからいただいた呼び名かな。

この緑茶割り、茶っきり、飲みやすくてついつい普通の緑茶を飲んでいるような感覚になる。

そして仕上げにおでんの盛り合わせ。他にも気になるメニューはあったが一人ではこの辺りが限界。グルメサイトでは料理の味についてはさまざま意見が挙がっているようだが、一通りのものを無難に、かつ地元店(全国チェーン居酒屋ではないという意味で)でいただけるとして、予備知識なしで入れてよかったと思う。次に静岡に来た時にものぞいてみたい。

店を出て静岡駅で土産物を物色したところで時刻は17時前。まだ日は高いが十分満足したところで大阪に向けて戻ることにする。帰りは17時02分発の浜松行きから再び乗り継ぎとなる・・・。

   
   
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駿府城跡

2019年08月10日 | 旅行記D・東海北陸

青春18きっぷでの列車乗り継ぎで到着した静岡。これから夕方まで滞在とする。

どこかに出かけようかと地図を見る。そういえば街の中心にある駿府城に行ったことがないなということで、駅から徒歩15分ほどということでまずは歩いて向かう。堀と櫓が見えてきた。

そこで出迎えたのは以外にもこの二人の像。十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんである。道中では江戸っ子を気取ってはいるが、実は二人とも駿府(府中)の出身で、いろいろトラブルがあって江戸に「駆け落ち」したということが、作品の冒頭に書かれている。十返舎一九も駿府の出身であり、刊行200年を記念してこの像が建てられたそうだ。弥次さん喜多さんの像は京都・三条大橋で見たことがあるが、駿府にもあったとは。府中という故郷に帰ってきたためか、あるいは、ここまでの道中でごまの灰(泥棒)に遭って旅費に苦労したがここで融通してもらうことができてホッとしたためか、表情が弾けている。

東御門から入る。東御門、巽櫓は平成になって復元されたものである。巽櫓が公開されているので中に入る。まず出迎えるのはかなりお年を召した様子の家康像。

駿府は駿河の国府ということで、かつては今川氏の領国だった。今年2019年は今川義元の生誕500年に当たるとして幟も出ている。この地には今川館という居城があり、徳川家康も少年時代に今川氏の人質として駿府で生活したが、現在のような城郭となったのは家康が駿河を領国としてからのことである。

家康はその後関東に国替えとなるが、江戸幕府を開き、将軍職を秀忠に譲った後で駿府に戻り、「大御所政治」の拠点として駿府城を拡張する。先ほどの家康像も、大御所となって駿府に移った後のイメージで作成したのかな。また近くを流れる安倍川はかつては今の市街地にも流れていたそうだが、駿府城の拡張とともに現在の静岡の町にもつながる駿府の町造りをするにあたり、大規模な治水工事も行った。これらの城郭は町造りには大御所の威光で全国の大名家に普請を命じ、安倍川の治水は薩摩の島津家が請け負ったことから「薩摩土手」と呼ばれる堤防が今も残る。

しかし築城からわずか30年足らずで火災に遭い、天守閣を初めとした城の大半が焼失してしまう。ただ泰平の世を迎えようとしていたためか、その後天守閣が再建されることもなく、また当時の史料も少ないためにそもそもどのような姿だったのかよくわかっていない。規模としては安土城や大坂城に並ぶものではないかとされているようだが。

天守閣がない駿府の町並みを描いた屏風がある。大名行列の様子だが、大名行列でよくある「下に~、下に」で民衆が土下座をするというシーン、駿府では大御所のお膝元ということでそうしたこともなかったそうである。

さらに奥では今川氏に関するパネル展示が行われている。今川義元というと桶狭間の戦いで織田信長の奇襲にて討ち取られたこともあり、よく「公家のマネをした軟弱な大名」というイメージを持たれる。私も、「信長の野望」で出てくる今川義元、息子の氏真というのが白塗りのキャラクターで、BGMも公家風のものなのでそうしたイメージを持っている。そのような人が多い中で静岡市としては「軟弱」イメージを少しでも払しょくしようと、生誕500年に合わせて今川義元の功績を紹介したり、ゆるキャラを作ったりあれこれPRしている。

その一角では、家康が今川氏の人質時代に臨在寺で学んだ「竹千代学びの間」が再現されている。

巽櫓から外に出る。今は公園として町の人の憩いの場となっている。ただこの暑さ、木陰のベンチで昼寝している人もいるが大丈夫かと思う。

城の中心に建つ家康像。先ほど巽櫓で見た像よりも恰幅がよく、表情も締まっている。こちらは最初に駿河を領国とした当時の姿かな。

その家康像の後ろにはフェンスが並び、ブルーシートが広がるのが見える。ここが駿府城の天守台跡で、現在2020年度までの5年がかりで発掘調査が行われている。天守閣が焼失してからは天守台だけが残されていたが、明治時代に廃城となった際に天守台も取り壊され、その時に出た土砂で堀を埋めてしまったのだという。何もそこまでしなくてもと思うが、やはり明治政府、徳川憎しという感情でもあったのかな。

発掘の過程で、家康の最初の時代、大御所となってからの普請の時代と、城が拡張された様子も少しずつわかってきているようだ。駿府城の天守閣が安土城や大坂城に並ぶほどではなかったのかともされるのも、この調査の結果である。静岡市としては今後天守台跡をどのように整備するか検討するようだ。城に隣接して歴史博物館の開館も予定しており、町の新たなPRにしたいようだ。

先ほど巽櫓で係の人に教えてもらい、隣接する高い建物に向かう。静岡県庁の別館で、この21階を土日も展望スポットとして無料で開放しているという。通用口からエレベーターに乗って21階へ。

ここはなかなかのスポット。市街地の向こうに駿河湾を見ることができるし、久能山、日本平も望む。

冬の澄んだ空気ならこの向こうに富士山を見ることもできるそうだ。静岡というのはこういう地形にあるのだなというのを目で感じることができたのは新鮮だった。

まずは静岡のシンボルを見たということで、この先もう少しだけ歩いてみることにする・・・。

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青春18東海道を行く(静岡県各駅停車)

2019年08月07日 | 旅行記D・東海北陸

豊橋発10時43分の浜松行きに乗る。この先の区間は純粋な「各駅停車の旅」となる。青春18きっぷの利用者にとっては修行の場とも言える。

その中でクロスシートに座れたのはラッキー。またしばらくは新幹線の線路がすぐ横を走る。あっという間に抜き去り、またあっという間にすれ違う。走行する新幹線の車両をカメラに収めようとするが難しい。

静岡県に入り、新居関、浜名湖という景色のよいところを走る。浜名湖に面したホテルも並び、リゾート気分で一度こうしたところにも泊まってみたいものである。

地元客が駅ごとに乗ってきて車内も満員となったところで、11時17分に浜松到着。ここからは隣のホームに移る。次は11時28分の静岡行きに乗るが、10分あれば階段下の売店で買い物くらいはできる。

そして静岡行きに乗るが・・あれ、左手にあるのは何かな?

静岡に来たらということで、以前出会ったサッポロの「ふじのくに限定 静岡麦酒」である。本来ならシートに座って・・と行きたいが、ご案内の通りこの先は通勤型のロングシート車両である。発車前にいただいてしまう。

多くはロングシート車3両で運行のところ、この列車に限っては6両編成である。まさか大阪から乗り継いで来た客のことを考慮したわけでもなく、車両運用の関係だと思うが、6両あれば乗客もゆったり座ることができる。

浜松を出るとまずは天竜川を渡る。また浜松近郊を走る中で、新幹線の線路と時に並走したり、少し離れてみたりする。新幹線というのが東海道線の線路を増やした複々線として建設された歴史を持つことを強く感じられる区間である。

ただ掛川を過ぎると新幹線は離れ、金谷に向かう牧之原の峠越えとなる。こうした区間は新幹線は直線に走っていく。

大井川を渡る。今や砂利ばかりが目立つが川幅は広く、越すに越されぬ大井川の姿は今も残る。大井川といえば大井川鐵道で、この日東海道線に揺られる中で、静岡に行かず大井川鐵道に乗るのも面白いかなと時刻表を広げた。千頭まで往復は可能で、この日のダイヤだと千頭からのSL列車に乗ることもできるとある。ただ、スマホで確認するとそのSL列車は満席とあった。まあ、子どもの夏休み中の土曜日で、増発期間でもないからそうなるだろうな。結局金谷はそのまま通過して、大井川を渡る。

金谷の次の島田で下車する人も目立つ。島田に用事があるというよりは、この先の乗り継ぎのためである。今乗っている静岡行きが島田を発車した11分後の12時24分発に、島田始発の熱海行きというのがある。仮に今の列車の終点の静岡まで乗ったとしても、熱海まで(正確には興津から先まで)乗るのなら、その島田発熱海行きの列車に乗ることになる。つまり、始発の島田からなら熱海まで座れる確率が高いわけだ。静岡を挟んで、東行きなら島田、西行きなら興津で同じことがある(興津始発の浜松行き)。青春18きっぷで東海道線、特に修行区間とされる静岡県をいかに乗り切るかのテクニックとしてかつては知る人ぞ知る乗り継ぎだったようだが、現在はスマホの乗り継ぎ検索でも普通に島田、興津乗り継ぎが表示されるから、それはそれでロングシートの争奪戦になるのだろう。

そんなことを思ううち、いつの間にか焼津からの日本坂越えを経て、静岡市内に入る。最後は安倍川を渡り、12時41分、静岡に到着。浜松から1時間あまりのロングシート移動だったが、車窓も新幹線の線路や沿線の工場、田畑など見るもの多く、まあ空いていたこともあったので修行とまでは思わなかった。個人的には、青春18きっぷの客が不平を言うのは、ロングシート、クロスシートがどうというより、編成の長短ではないかとも感じている。編成が長ければ、座れずに立つことになっても客が分散されて少しは隣との空間ができるのでまだマシではないだろうか。

静岡ではホーム上に昔ながらの駅そばのスタンドがある。昼食は軽く、駅そばをいただこう。出汁が完全に東日本の濃口になったが、個人的には好きである。

さてここで初めて改札口を出る。さくらももこさんのイラストと竹千代像の出迎えを受けて、午後は静岡の町歩きである・・・。

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青春18東海道を行く(とりあえず愛知県まで)

2019年08月06日 | 旅行記D・東海北陸

夏の青春18きっぷの2回目。8月3日の予定が空いたので、さて中国観音霊場めぐりか西国四十九薬師めぐりかというところだが、この1回分での札所めぐりはお休みとする。

行き先の候補の一つに、福井の武生にある丹南球場でのBCリーグ(福井対信濃)というのが目についた。天気も雨の心配はない。ただふと、真夏の35度超の猛暑の中で座っていられるかが気になった。福井鉄道の駅から徒歩20分はいいとしても、一度訪ねたこの球場は日陰というのがまったくなかったと記憶している。それは屋外球場ならどこも同じことではあるが、まあ、またの機会にすることに。

他には中央線で美濃から木曽まで行くかとも考えた。何なら途中でサイコロを振って行き先を決めるとか。

そんな中で出たのが、東海道線をひたすら東に向かうというもの。時刻表をたどって乗り継ぎを見てみると、大阪を6時21分発の快速で出ると、米原、豊橋、浜松と乗り換えて、12時41分に静岡に着く。静岡も宿泊したことはあるが、街中に出たことはほとんどない。帰りは近鉄名古屋からアーバンライナーに乗ることにすれば、夕方まで滞在することができる。さらに東を目指して何もせず折り返すだけなら、熱海の先、小田原くらいまで行けそうだが、今回は乗り鉄と見物、後は静岡の食ということで、静岡折り返しの日帰り旅だ。

朝からムワッとした空気の中である。まずは大阪駅に現れる。青春18きっぷのシーズンも本格的になっており、それらしい客の姿も目立つ。6時21分発に乗れば京都で湖西線~北陸線乗り継ぎで北陸にスムーズに抜けられる。私も何度も利用したダイヤである。

朝の時間帯は本数が少なく、また編成も8両と短いので、滋賀県内に入っても県内の移動客で混んでいる。車窓を見ながら、また時折うとうとしながら進む。

8時06分、米原到着。次の8時25分発の豊橋行き新快速はホームの向かい側から出る。先ほどと同じ8両だが、北陸線に乗り換える人もいるためか着席は問題なさそうだ。8時15分頃に貨物列車が通過した後の8時20分頃に入線するとのアナウンスも流れる。

ここからがかつての東国の入口である。水がきれいな醒ヶ井を過ぎ、近江長岡、柏原と抜ける。伊吹山の姿が見えないのが残念だが、夏の蒸し暑さの中では仕方ない。関ヶ原まで来ると関西から別の地方に来たということで日常からの変化を感じる。

ここからは平野部。大垣、岐阜である程度乗客が入れ替わり、次は名古屋に向かう客で賑わう。通路を挟んで隣に座ったご夫婦は名古屋から先、あおなみ線に乗ってレゴランドまで行くようだ。

尾張一宮を過ぎる。先日、大相撲の名古屋場所の観戦に出かけ、西国四十九薬師めぐりとの組み合わせで津に泊まったが、その前には一宮での宿泊を考えていた。名古屋まで10数分で移動できるし、名古屋市内と比べても割安で泊まることができそうだ。また機会があればと思う。

新幹線や名鉄との並走を楽しみ、名古屋に到着。ここで多くの下車があった。

新快速の走りを楽しむ。名古屋近辺の列車に乗ることもなかなかないので、景色もいろいろ見る。大府から武豊線が分岐するが、その先の知多半島もまだ未踏の地が多い。実はこの日も、知多半島の最南端の師崎や、その先の島めぐりをしてはどうかとも考えていた。ただ結局は、青春18きっぷの時季でなくても、近鉄と名鉄でアクセスして、後はバスに乗れば・・と、見送り。以前にもこういうことがあった。いずれは訪ねてみよう。

それと同じことが名鉄にも言える。名鉄も岐阜~名古屋~豊橋の本線だけではなく、愛知、岐阜両県にいろんな路線がある。JRの駅に接続する線もあり、赤い車両が停まっていると、「乗らなければ・・」という気にもなる。知多半島、名鉄乗りつぶし・・・いつかはね。

名鉄の接続駅である蒲郡あたりでは三河湾を遠くに見ることができる。そのまま豊川を渡って豊橋に到着。乗り継ぎの時間はあるが、豊橋~浜松は本数が減り、本数も短くなる。座って行くならすぐに並びたいところだ。

この時は浜松方面からクロスシートの折り返し列車がやって来て、運よく窓側に座ることができた。東海道線、静岡に向けてまだまだ乗り継ぐ・・・。

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第30番「宝厳寺」~西国三十三所めぐり3巡目・3(夏の琵琶湖横断)

2019年08月05日 | 西国三十三所

竹生島に上陸する。西国めぐりの3巡目だが、夏に上陸するのは初めてである。「夏の島」というと避暑とか、海のレジャーを楽しむとかいう連想もするが、竹生島はご案内のとおり「信仰の島」である。また、島全体が花崗岩の一枚岩で、切り立った岩壁に松の木が生えている形をしているので、島を歩いて一周するというのは不可能だ。唯一の入口は遊覧船が発着する波止場で、その横に釣りくらいできるかというところがちょこっとあるくらいだ。建物と言えば宝厳寺、竹生島神社に関するものと土産物店しかないが、寺社の関係者や土産物の店員も島の外からの通いである。もし昼間どこかに隠れていて、夜にこの島でひっそりと一夜を過ごす・・・仮にそういうことをすれば、やはり不法侵入とかの罪に問われるのかな。

今回は次の今津行きの遊覧船まで1時間ある。その次の便でもいいのだが、竹生島で2時間以上の滞在というのはさすがにもてあますので、さっさと入島料?拝観料?の400円を払って石段を上がる。

過去の参詣では石段をそのまま一番上まで上がって宝厳寺の本堂からお参りしたが、今回は途中で横道に出て竹生島神社からお参りする。昔から神の棲む島と言われており、奈良時代に聖武天皇の勅願で行基が弁才天を安置したのが竹生島信仰の始まりと言われている。その後長く、都久夫須麻神社と宝厳寺の神仏習合状態が続き、弁才天を本地仏として竹生島権現とも呼ばれ、弁才天は厳島神社、江ノ島と並ぶ日本三大弁才天の一つとされてきた。その中でも竹生島の弁才天が由緒あるそうで、年に一度、6月に行われる祭りには江ノ島と宮島の弁才天の分霊を竹生島に招くという。

明治の神仏分離で竹生島神社と宝厳寺に分かれ、弁才天は島のてっぺんに安置されることになった。厳密には別の神社と寺なのだが、普通に竹生島に来てお参りするぶんにはそのことを気にする様子の人は見なかった。

国宝の本殿に手を合わせた後で、琵琶湖に臨む龍神拝所に向かう。ここでは多くの人がかわらけ投げに挑戦する。かわらけ2枚を渡され、1枚目には自分の名前、2枚目には願い事を書いて投げる。鳥居の間を通過すれば願いが叶うとされているが、なかなか上手く行くものではない。投げる様子を動画で撮りあっていた若者グループもいたが、結局全滅していた。私も惜しいところまで行ったがだめだった。

豊臣秀吉の御座船の木材を使って建てた舟廊下を渡り、宝厳寺側の観音堂に向かう。唐門を含む建物の修復工事はまだ続いている。こちらの千手観音が西国三十三所としての本尊で、ここで観音経偈を含むお勤めとする。ただスペースは狭く、神社と寺の巡拝の通り道の途中で人の行き来も多いので、お勤めも気をつかう。西国巡拝の団体ツアーが一同に介するのは無理で、その人たちは広いスペースがある本堂でお勤めとするのだろう。その場合、観音堂や竹生島神社は帰りの遊覧船までの「自由参拝」にするのかな。

順序が逆のようだが、竹生島神社、観音堂と来てようやく本堂に着いた。ここは弁才天が祀られているが、先に書いた事情もあってか西国の納め札や写経も受け付けている。ただ、西国めぐりが目的で宝厳寺に来て、本堂にお参りしたはいいがその後観音堂を素通り、あるいはパスしてしまう人もいるのではといらん心配をしてしまう。本堂と同じレベルで納経所があるからなおのこと。

先達用の納経軸への重ね印と、西国曼陀羅の八角形の朱印をいただく。西国曼陀羅はここもあらかじめ書かれていたものとの引き換えである。いずれもこの仕組みでやっているのかな。私は別に書き置きのものが出てきても何とも思わないが、中には「ここでこれ(自分が持参した用紙)に手で書いてもらわんとアカン」という人もいるのだろう。この用紙に小さくまとめて墨書するのも結構大変だと思うのだが。

ここまで回り、最後は三重塔と宝物館も見る。宝物館ではさまざまな弁才天が安置されていて、改めて竹生島の歴史を語ってくれる。

そして時間が近づき、遊覧船乗り場に戻る。まあ、1時間がちょうどよかったかなと思う。土産物で琵琶湖のしじみの佃煮、近江八幡の赤こんにゃくを買い求め、さらに船上用でアサヒのナントカも手にする。お参りも終えたし、夏の船上である。ほら、昔のビールのCMの定番のシチュエーションですやん・・・。

・・CMと違うのは、船のデッキではなく客室の中。いや、帰りも湖の風を受けてと思っていたが、竹生島もあまりに暑かった。この場合はエアコンの冷気のほうがほしかった。

・・ということで、帰りは行きの「いんたーらーけん」より一回り大きい「べんてん」の客室最前列の座席に陣取る。客室からもしっかり景色は見えるし、また位置が低いぶん湖面の波を近くに感じられる。この日は湖西に向かう航路も穏やかだった。比叡、比良の山を越えてくる風は強いものがあり、特に冬だと琵琶湖にも高波が生まれる。過去から現在までも、西からの風で舟やボートが転覆して亡くなった事故も多い。それも琵琶湖の姿の一つである。

この日はそうしたことは全くなく、穏やかに琵琶湖の西岸、近江今津に到着した。『琵琶湖周航の歌』の歌碑を見ながら駅に着く。

帰りは新快速。京都方面から12両でやって来た敦賀行きのうち、敦賀に行くのは前の4両のみ。残り8両は近江今津止まりだ。この8両が折り返しの新快速(乗った列車は網干行き)となり、敦賀から来た4両を後につないで12両編成となる。近江今津からなら当然前の8両に乗るところ。

湖西線、文字通り琵琶湖の西側を通る。夏の琵琶湖は大いなる遊び場。特に近江舞子の辺りは砂浜もあるし、水上ボートも盛んである。列車で来たのか、遊び終えた人たちが歩く列が湖岸から駅までポツポツと見られた。

さて、竹生島を訪ねたのが7月の終わりで、8月となると夏本番で琵琶湖周辺もより賑わっていることだろう。ただ、今や夏といえば猛暑、そして熱中症というのがニュースでも大きく取り上げられている。もう、運動禁止、外出も控えろというレベルである。まあ、そんな中で相変わらず道楽をしているわけですが・・・。

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第30番「宝厳寺」~西国三十三所めぐり3巡目・3(またも野球中止の代替で・・)

2019年08月04日 | 西国三十三所

今年、というより令和になって初めてとなる台風6号が上陸したのが7月27日。

ちょうどこの日は、彦根で予定されていたBCリーグ・滋賀ユナイテッド対福井ミラクルエレファンツの観戦を予定していた。台風は三重県から東海、関東と進み、それほど甚大な被害や交通機関への影響が出ることもなかったが、野球はもちろん悪天候のため中止である。

実はこの彦根でのBCリーグの試合、滋賀ユナイテッドがBCリーグに新加入した2017年に1試合だけ予定されたことがある。私も彦根城の見物をした後に観戦しようと出かけたのだが、朝からの雨の影響で中止になった。翌年は開催そのものがなく、今年はこの7月27日に組まれていた。ただそれも中止である。彦根近辺在住の滋賀ユナイテッドのファンがどのくらいいるか知らないが、なかなかご縁がなく残念なことだろう(まあ、同じ県内にある甲賀や守山、湖東で観戦できるのだが)。8月にも試合が組まれており、そのうち25日の石川ミリオンスターズ戦なら私も行けそうなのでチェックしておく(また雨てなことにならんように)。

西国めぐりのことを書くのに彦根の野球が中止になったことが出るのも妙なものだが、実は琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺に西国2巡目で訪ねたのが、前回の彦根での試合が中止になったのを受けてそのまま長浜に移動し、遊覧船に乗ったものである。その日は朝からの雨で正直どうかなというのがあったので、リュックの中にはBCリーグの選手名鑑と西国の先達用納経軸の両方を入れていたのだ。長浜から遊覧船に乗る頃には雨が止み、竹生島は普通に訪ねることができた。

さて今回。さすがに27日は朝から台風が接近しており、進路によっては滋賀県を突き抜ける予報もあり、上記のような展開にはならないと思ったので外出はなし。そして翌28日は、台風一過というより本格的な猛暑の訪れとなったが、雨は大丈夫そうだ。中国観音霊場、西国四十九薬師めぐりもあるが、ここは青春18きっぷを投入しても元が取れる琵琶湖まで行くことにしよう。

夏の時季は長浜航路を中心に増便も出ている。大阪をゆっくり目の10時発の新快速で出発し、1時間40分で長浜に到着する。観光客の姿も多い。長浜の町並みから少し外れたところに、西国四十九薬師の札所である総持寺というのがある。長浜の町歩きはその時のお楽しみかな。

駅から歩いて数分で遊覧船乗り場に着く。次に出るのは12時05分発の増発便で、竹生島には12時35分に着く。そして13時40分発の今津行きに乗って琵琶湖横断ができる。竹生島滞在は1時間見ておけば十分である。

竹生島に向かうのはこれで3回目だが、真夏に行くのは初めてである。だから琵琶湖の景色もまた違ったもので、関西の夏の一時の楽しみをもたらしてくれる優しい、おおらかな表情を見せる。

乗船するのは「いんたーらーけん」という、琵琶湖汽船では高速船に当たる一隻。いんたーらーけんとは何ぞや?と見ると、スイスにある都市の名前である。湖に面しているというつながりで大津と姉妹都市提携があるそうだ。

船に乗るのだからと、上段のオープンデッキに陣取る。時間となり出航して、長浜の町を後方に見る。湿度が高いためか伊吹山は霞んでほとんど見えない。

夏だからか、琵琶湖には水上バイクが走り回っている。景色としてあまり歓迎するものとは思わないが、これも夏の風物詩だろう。遊覧船と着かず離れず、ジグザグに走らせながら後を追いかけてくる。遊覧船のデッキの客と手を振り合う場面もあった。ただ途中でさすがについてこなくなる。バイクが走れる範囲が決められているのかもしれないが、ふと、遊覧船に集まってくるカモメを連想する。天橋立や伊根の遊覧船で、客が投げるかっぱえびせんを目当てに集まってくるアレである。

水上バイクはおいとくとして、オープンデッキを抜ける風は猛暑日でも心地よい。夏の一時を体感しているなと勝手に思う。

前方に竹生島の姿が見えてきた。西国めぐりに限らず竹生島は夏の琵琶湖観光のメジャーなスポットである。折り返し便を待つ行列もある中、到着する。

さてこれから参拝とする・・・。

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第3回中国観音霊場めぐり~第4番「木山寺」

2019年08月01日 | 中国観音霊場

第3回の中国観音霊場めぐりは、美作に位置する真庭市落合町。落合サンプラザから木山神社を経て山道を木山寺に行くつもりだったが、どうも道行きが怪しいので車道の交差点に戻ったところ。

左折して3キロとある。クルマならどうということもないだろうが、徒歩の3キロ、しかも上りとはきつい。これが最初からわかっていれば気の持ちようも変わっていたが、残り「数丁」から数倍に延びたわけで・・・。

ただ文句を言っても仕方ないので、黙々とアスファルトの道を歩く。時折周りの山々も開けるが、結構高いところまで来たものだ。

四国八十八所の遍路道を思い出す。公共交通機関をメインにしたので遍路道を歩いたのも全コースの数分の1にしか過ぎなかったのだが、昔ながらの山道も何ヶ所か訪ねている。「遍路ころがし」と呼ばれるところもあり、上り、下りとも厳しい区間もあった。ただ、歩く人が多いからか、道案内もしっかりしていたし、標識がなくとも電柱やガードレールにさりげなく貼られた矢印のステッカーも気分的に支えとなったのを覚えている。四国の場合は札所と同様に途中の道そのものが信仰の対象になっているというのもあり、地元の人たちやボランティアが道の草刈りなどされていることがある。

ただ、他の札所めぐりはなかなかそうはいかない。日本最古の巡礼とされている西国三十三所でさえ、一部に「西国古道」の復興のプロジェクトはあるが、それほど広がっていないように思う。鉄道や路線バスが出ているところも多い。

そして、中国観音霊場や、同時に回っている西国四十九薬師霊場となると、昭和や平成に発足したこともあり、札所間を歩いて回ることは想定していない。ましてや普段クルマ社会とされる中国地方となるとなおのこと札所めぐりはクルマ前提だろう。

そこをあえて歩く、しかも大暑の気候の中、ダラダラ汗を流しながらである。本当に歩いて中国地方を一周するわけではなく一時のものだが、これも上等やと笑うしかない。

右に分かれる上り坂があり、ここから1.2キロとある。一番苦しいところだ。時折立ち止まって給水しながら進む。木山神社を出てから40分以上経過して時刻は12時30分近い。帰りは美作落合駅14時46分発の津山行き列車に乗り、津山から中国ハイウェイバスに乗り継ぐのだが、寺の参拝と帰りの歩く距離が延びることを考えると間に合わないのではと思った。でもまあ、ここまで来たらともかくは寺に行こう。

最後の直線?に入り、あじさいが咲く一帯に出た。木山寺は夏のあじさいや秋の紅葉の見所でもあるという。

ハスの開花が近い池に出て、赤い鳥居をくぐる。最後の石段から門をくぐる。木山神社から50分で木山寺にようやく着いた。寺なのに鳥居があるのは木山神社でも触れた神仏習合の名残である。石段の上に建つ風格ある山門は元禄期のもので、木山寺に現存する最古の建物である。

境内は山寺の風格を感じる。中央の石段をさらに上がると本堂があり、石段の麓には大師堂と弘法大師像が建つ。鳥居があることを除けば、ふと、四国八十八所のどこかの札所を再訪した気になる。もっとも平日の昼間、他に遍路姿や参詣者の姿は見えないが。

境内の端に新しいトイレとベンチがあり、お参りの前に腰を下ろす。自販機もあったので喉を潤す。そして落ち着いたところで、帰りの津山発のバスをキャンセルする。時間を考えると美作落合駅に間に合わないとした。その代わり、落合サンプラザ発16時04分の梅田行き阪急高速バスを押さえた。さすがにこの便には間に合うだろう。こちらは予約も数席しかなく余裕だった。つまり今回は梅田~落合サンプラザをバスで往復というので落ち着いたわけだ。

そうと決まればお参りもゆったりできる。まずは石段を上り、また鳥居をくぐって本堂に出る。扉が開いていたので外陣に入る。正面の額には「木山牛頭天王」「木山善覚稲荷」と二行に書かれている。ここにも神仏習合の名残があり、案内によると木山牛頭天王は薬師如来の化身で、木山善覚稲荷は十一面観音の化身とされている。中国観音霊場としては木山善覚稲荷=十一面観音が札所としての対象である。

木山寺を開いたのは弘法大師とされる。弘法大師が美作を訪ねた時、木こりの姿をした翁が現れて、この山が仏堂の建立にふさわしい地であると説いた。この翁は薬師如来の化身で、弘法大師はこれを喜んで寺を建てたという。元々、先ほどの木山神社とは一体だったはずだが、神仏分離の歴史があるからか、それぞれ伝承も異なるようだ。

本堂の脇に納経所がある。「ただ今席を外していますので、ご用の方は下の本坊へ」とある。ならばと石段を下りて本坊に向かう。普通の家庭用のインターフォンがあるので鳴らしたが、応答がない。うーん・・・やはり平日の昼間。寺の方もどこかに出られているのかな。ただ、ここまで歩いて来て朱印がいただけないというのも、暑さが余計にぶり返すようである。もう一度あの坂道を上って来なければならないのか。

もう一度本堂に上がる。納経所を見る。すると、隅にインターフォンがある。ダメ元でそれを押すと、以外にも早く「はーい」との応答があった。納経帳である旨を告げるとしばらくお待ちくださいとあり、やがて本坊から続く廊下を渡って来たのか、寺の人が姿を見せた。先ほどは何か手が離せなかったのかもしれないが、そこは触れずに納経帳に朱印と墨書きをいただく。やれやれ。

石段下の大師堂にも手を合わせる。お堂の脇には「美作八十八所」という幟がある。ここにもあるのだな。1984年に開創された霊場で、かつての美作国の地域をぐるりと回るコースになっている。その中で木山寺の本堂が34番、大師堂が35番という割り振りになっている。先ほど歩き遍路道のことにも触れたが、美作一国なら少しずつ歩いて回る人がいてもおかしくないかな・・・。

もう一度トイレ、ベンチのほうに向かうと、その奥に「木山牧場 木山ひみつきち」という手作りの看板がある。何かなと少し坂道を上ると、そこにはミニ牧場がああり、柵の向こうに牛が2頭いる。「こはる」と「もちつね」という名前である。2頭だけとは寂しいかなと思うが、調べてみると、完全放牧のジャージー牛の乳からバターオイル「ギー」を製造するプロジェクトの一環とある。木山寺に隣接する耕作放棄地を地元の郷土保存会が借り受け、岡山県立大学の学生と開墾、整備した地に牛を放牧したという。もっともプロジェクトは立ち上がってまだ間もなく、「ギー」の製造量もごく限られたものだそうだが、寺の横に牛が放牧されているというのはこれまでで初めて目にした光景である。

木山寺でしばらく休憩もできて、落合サンプラザまで歩いて戻ることにする。

あじさいが咲く一帯に来ると、左手に道が分かれているのを見つける。これは何かなと入ってみると、少ししてかつての参道らしい道に出た。ひょっとしたら、木山神社からの山道を歩けばここに来ることができたのかな。もっとも右手(神社側)を見ると草が生い茂っていて、とてもではないが普通に歩いて来ることはできないだろうと推察する。やはり普段歩く人がいないためか、参道として整備されていないのである。木山寺に来るまでに3キロの大回りをしたが、今思えば、あのまま無理に山道を突破しなくて正解だったようだ。

ただ反対に左手(木山寺側)に少し上ると、山門に出た。このまま進むとかつての木山神社の奥宮に出るようだ。今回奥宮には行くことがなかったが、かつては木山神社から山道を通り、この山門をくぐって奥宮や木山寺にお参りするということが行われていたのだろう。

帰りも暑い中、来た道を戻りつつもう一汗かく。ただ今度は下りなのでまだ気持ちの面では楽である。

落合サンプラザに戻ったのは15時前。梅田行きのバスが16時過ぎだから1時間待ちである。どこか温泉でもあれば湯船に浸かりたいがそれもなく、トイレでシャツを着替えて少し落ち着く。1階のショッピングセンターにフリースペースがあり、地元のお年寄りや高校生が時間を潰す場所になっている。私もしばらく腰かけて冷房で涼む。ようやく回復してきた。

落合に来たのだからと何か名物はないかと食品コーナーを回る。本音の部分では帰りのバスの中で缶ビールでも開けようということでアテ探し。そこはスーパーなので安く手に入る。美作落合の名物としては羊羮、茶葉といったところだそうだが、その中で見つけたのが鯖寿司。

鯖街道というのがある。有名なのが若狭と京都を結ぶもので、朽木を通ったり琵琶湖畔の近江今津に出たりというのがある。 美作落合で鯖寿司が売られているのは、このエリアを通る出雲街道もまた鯖街道としての歴史があるからのようだ。出雲の鉄を大和に運ぶための街道だが、同じように出雲沖で獲れた鯖を塩漬にして瀬戸内側に運んだところ、中間地点の美作でちょうど塩が馴染んで食べ頃になったという。同様の理由で、島根県の雲南市も鯖寿司や焼き鯖が名物なのだそうだ。写真を撮るのを忘れたが、帰宅後に夕食として落合の鯖寿司をいただいたところ、なかなかの味だった。

帰りのバスが到着。当日予約だったがまたも運転手後ろの席を確保した。行きと同じ運転手だったらびっくりだがさすがにそれはなかった。運転手には申し訳ないかなと思いつつ、中国自動車道に入ったところでプシュっとやる。もちろん運転するわけでなく、高速バスでのビールは犯罪でも何でもないが、やはり背徳感のようなものを感じる。まあ、有給を取っているとは言え平日の夕方前という時間帯でもある。

三次発のこの便は津山北バス停まで乗車扱いがあり、バス停ごとに停車する。ただし私ともう一人が乗った落合サンプラザ以降は乗客がなかった。 休憩は行きと異なり、1回目で津山を過ぎた勝央に停まる。美作に来たということでホルモン焼きうどん関連のものも土産物で購入。

2回目は兵庫県に入り、社で休憩。さすがに買い物はもういいかな。

中国池田で下りるまでは順調に来ていたが、やはりそこから新御堂筋に出るまでが18時台ということで混雑する。このまま行けば梅田着は定刻より10分以上遅れそうだ。

その中でようやく千里ニュータウンバス停の案内がある。北大阪急行の桃山台駅に隣接しているが、「なんば、天王寺方面へお越しの方はこちらでお乗り換えください」と続く。なるほど、このまま新大阪、梅田まで乗ったとしても乗り換えで時間がかかるとあれば、桃山台で乗り換えほうが早そうだ。バスの全線乗りとおしの旅でもないので下車する。事実、駅ホームに下りるとすぐに列車が来て乗ることができた。中国自動車道から高速バスで大阪市内に入るにあたっては、桃山台乗り換えは有効な一手だろう。

さて、公共交通機関では難関と懸念していた木山寺を回ることができた。次は特別霊場の誕生寺、第5番の法界院という津山線シリーズとなる。中国観音霊場の最初の県である岡山県の巡拝も佳境に入る・・・。

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