まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

被災地復興を見る~東松島・野蒜

2019年08月26日 | 旅行記B・東北

日本三景の松島の町を通過し(まあ、先ほど七ヶ浜側から見たからよしとして)、いったん国道45号線から外れて県道を走る。この後も仙石線に沿って走る。仙石線は津波の影響をモロに受けた路線で、6年前に訪ねた時は特に被害の大きかった高城町~陸前小野間が不通で、松島海岸~矢本間は代行バスが走っていた。大型バスと何台かすれ違ったものである。

2015年に不通区間の線路のかさ上げや、陸前大塚~陸前小野間の線路を内陸側に移すことで仙石線は全線復旧した。また、近くを走る仙石線(松島海岸~高城町間)と東北線(塩釜~松島間)を結ぶ連絡線が新たに敷かれた、「仙石東北ライン」という名前で乗り入れ運転が開始された。「JR乗りつぶし」としては、この連絡線は対象になるのかどうか。「JTB時刻表」やJR東日本の路線図を見ると強調されて書かれているが、検索すると実際の路線距離は0.3キロ。やはり「未乗」の扱いになるだろう。この機会に乗ってもよかったが、やはり乗るなら他の路線やBRT区間と合わせてだろう。

仙石線の新しくなった高架橋が高台に伸びる。私もそれについて行くように県道からいったん外れる。向かった先は「野蒜ヶ丘」である。両側には新たに建てられた家が建ち並び、それこそどこかのニュータウンに来たかのようである。少し走ると東名(とうな)駅に出るが、駅前には「野蒜ヶ丘MAP」という案内板もある。

もうお気づきかと思うが、この野蒜ヶ丘は津波の被害を受けた野蒜地区の主要機能をまるごと移転するために、山林を切り開いて新たに造成し、2016年に完成したところである。東松島市がUR都市機構と合同で進めた「防災集団移転促進事業」によるもので、95.1ヘクタールの広さを持ち、一般住宅や災害公営住宅のほかに小学校や消防署、郵便局、病院、地域の交流センターなども新たにできている。

同じ野蒜ヶ丘の中に、こちらも移転した野蒜駅がある。前回来た時、被災した駅舎やホームを見て被害の大きさを感じたところだが、今はこうしたニュータウンの駅となっている。

駅の横に「東松島市東日本大震災復興祈念公園」の案内板がある。移転前、被災した野蒜駅を復興祈念公園としているとある。ここから0.7キロということで歩くことにする。地下通路を行く形だが、この通路は野蒜ヶ丘を整備する際に出た土砂を東名運河の南側に搬出するベルトコンベアの設置跡だという。

駅から少し下ったところで広場に出る。今の野蒜駅の南口と言ってもいいだろう。家が点在する中、その向こうに見覚えのある駅舎とホームが見える。てっきり解体されてしまったものと思っていたが、残されていたのか。

こちらが元々住宅が建ち並んでいたところで、さまざま工事も続けられている。現在家が建っているところは一部損壊で済んだのか、あるいは自力再建の家だと見えるが、やはりところどころに更地ができている。自力再建の家も、町並みの高台移転や内地移転が進められた一方で、何らかの事情で取り残されたように見えないこともない。

野蒜も高さ4メートルほどの津波被害に遭い、東松島市全体で1000人を超える犠牲者を出した。駅舎の裏手に設けられた復興祈念公園にその慰霊碑が建てられている。「鎮魂・復興・感謝 東松島一心」と刻まれた石碑の両側には、犠牲になった人たちの一人一人の名前が書かれている。

また、皇后さま(現上皇后さま)の御歌として「野蒜とふ 愛しき地名あるを知る 被災地なるを深く覚えむ」と刻まれた歌碑もある。今年2019年の3月10日に建てられたばかりだという。皇居の庭で摘んでいた野草のノビルから、被災地の野蒜に思いを致したという一首だそうだ。

そして、野蒜駅跡である。フェンスで囲われていて中には入れないが、津波に遭ったホーム、屋根、傾いた柱、駅名標、線路などがそのままの形で残されている。6年前はそれこそ津波に遭ったそのままの形で、駅舎は板を打ち付けて中に入れなかったが、ホームには上がることができた。線路も内陸や高台に移設するし、この駅もいずれ解体されるのだろうなと思ったのだが、こうした「震災遺構」として残す方法を取った。

6年前の時は、まだがれきも片付いておらず、津波に遭った建物もまだ放置されていたり、祈りの場所となったりしたところも多かった。しかし震災から年月が経ち、新たな町づくりが各地で進められる中で、こうした建物をどうするかの議論が起こった。解体すべきか残すべきか。その答えはさまざまな形で、地元の人たちや行政がそうした答えを出したわけだが、これからそうしたものをいろいろ見て回るとしても、どちらかが正しいというものでもないだろう。

ただ、私が鉄道好きだからなのかもしれないが、「駅」が「震災遺構」として残されていることについては、「そこに行ってみよう」「津波があったことを振り返ろう」という一つの動機にはなった。野蒜駅というと、この駅で行き違いをして発車した上り・下りの列車が地震発生でそれぞれ緊急停止したが、それぞれの場所によって津波の明暗が分かれた・・ということも思い出す。

旧駅舎は「東松島市震災復興伝承館」として改装・保存されている。展示館が2階にあり、階段を上がると野蒜駅にあった自動券売機、行き先案内板が展示されている。また、野蒜小学校にあった、地震直後の時刻を示す時計もある。

他は写真パネルも並ぶ。震災発生前、津波直後、そこからの復興と定点で撮影されたものもあり、また正面のスクリーンでは震災について取り上げたテレビ番組だろうか、当時の様子が流れている。インタビューに答えていた男性は奥さんを津波で亡くしたのだが、それが実に悔やまれるという。津波の警報が出てペットの犬を連れて避難所まで二人で逃げたのだが、「避難所ではペットは受け入れられない」とかで、奥さんは犬を自宅に置いて来ようと自宅に向けて戻ってしまった。それがあだとなって津波の犠牲になったという。

津波被災の爪痕、またそこからの新たな町づくり。旧駅舎の2階から、被災したホーム、祈念公園の向こうにある新駅舎を見る。複雑なものが入り混じる。この先、この一帯がどのように歩んでいくのかもまた気に留めておきたいことである。

再び歩いて新駅舎に戻り、またクルマに乗り込んで内陸側に向かう。再び国道45号線に合流して、夕方近くなって石巻市に入る・・・。

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