まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

被災地復興を見る~南三陸町

2019年08月31日 | 旅行記B・東北

国道398号線から国道45号線に出たところにあるのが気仙沼線の陸前戸倉駅。内陸にある前谷地を出た気仙沼線は、この辺りから海沿いを走ることになる。

とは言うものの、現在の気仙沼線は鉄道ではなくBRTでの運行である。前谷地~柳津間は列車の運転もあるが、気仙沼に直通するのはBRTである。バスは柳津~陸前戸倉までは国道45号線を走り、陸前戸倉からはかつての線路の路盤を改修した専用ルートを主に走行する。BRTは元々は自動車渋滞の緩和や環境対策として取り入れられた交通システムだが、この気仙沼線と、この先の大船渡線(気仙沼~盛)については、津波被害からの復旧が困難で、また採算も見込まれないことから実質鉄道廃線~バス転換により誕生したものである。もっともJRとしてはあくまで現役の路線の一つという位置づけである。

BRTはバス単体での運行ということで、必要があれば増発も容易だし、駅(停留所)の配置やルート設定も柔軟にできる。町が高台移転すればルートを変更して駅(停留所)が設けられたケースもある。現に鉄道時代よりも運行本数は増えているし、後に訪ねる陸前高田の「奇跡の一本松」も新たに設けられた駅(停留所)だし、支線ルートができたりもしている。

こう書くとBRTは良いことづくめのように思われるかもしれないが、やはり道路と同じスピード制限があるし、朝夕は交通渋滞に巻き込まれることもあり、鉄道より所要時間が延びたという話もある。何事も100%とはいかない。

こういう話になると、鉄道が失われたことで町の存在感が低下した・・と思ってしまうのは、鉄道ファンの勝手な気持ちだろうか。要は地元の人たちがどう感じているかだが。

繰り返しになるが、今回BRTでの移動を組まなかったのは残念である。あれこれ書くのなら、やはりまずは乗らないと・・。

時折BRTの専用線を見ながら国道45号線を走る。沿線は三陸自動車道も整備されているし、入江をオーバークロスする高架橋の建設も進められている。地域全体としては、いかにクルマでのルートを確保し、強化するかに重きが置かれているように見える。まあ、そうなんだろう。

そんな中、南三陸町の中心の志津川に差し掛かる。その中心スポットが「南三陸さんさん商店街」。前回訪ねた時はもう少し内陸のほうにあり、仮設店舗が何軒かあって頑張ってるなという印象だったが、今はかさ上げした土地に28の店舗が集まっている。駐車場に入るのも少し待たなければならないくらいの賑わいだ。

地元の人向けに日用品を扱う店もあれば、観光客向けに「南三陸キラキラ丼」というご当地の海鮮丼を出す店もある。興味を引かれたがまだ昼には時間があるし、食事はこの先の気仙沼かなと思っていたので、ここは見るだけにする(後でこの判断を悔やむことになるのだが・・)。

その一方で引かれたのが商店街の一角にある写真店。この「さりょうスタジオ」、店主の佐藤信一さんによる「南三陸の記憶」という展示館でもある。事前にこうしたスポットがあることを知らず、「南三陸の記憶」の案内パネルを目にしてもどこか別の場所でやっているのかなと追って行ったら実は目の前の写真店だった。

南三陸町での津波による死者・行方不明者は約900人。かつての津波の教訓から防災意識も高い町だそうだが、それでもこれだけの犠牲者が出た。また、南三陸町の防災対策庁舎のことも悲劇として伝えられている。最後まで防災無線で避難を呼び掛けた職員が津波に呑まれてしまったところである。これが大きく取り上げられて、防災対策庁舎は慰霊の場として多くの人が手を合わせることになった。

私が前回6年前に訪ねた時も、この防災対策庁舎については「ぜひとも行かなければ」という気持ちがあった。そして現地に着き、その生々しい様子や、まだ建物の残骸が残る周囲の様子に心を痛めつつも、「すごいもん見た」という興奮のようなものを感じたのを覚えている。地元の人たちから見れば実に無礼な思いなのだが。

その3月11日、津波が来るとなった時、佐藤さんはカメラを持って高台に避難した。そして町を襲う津波の様子を記録した。展示パネルには時刻が挿入されていて、その光景を分刻みで伝えている。徐々に水位が高まり、水面の下に沈む建物、少しでも高いところにしがみつく人たち、それらが切迫感とともに見るものに伝わってくる。佐藤さんの自宅兼写真店もこの時に流されてしまったそうだ。それでもこの時を残さなければならない・・写真家の性なのかもしれないが、当時の状況がどのようなものだったのか、その一瞬は?・・というものをこうして少しでも共有できるのは実に貴重だと思う。

佐藤さんはその後の避難生活、そして復興への道のりについて「写真の力を信じて」「伝えてゆく」ということをテーマとして写真を撮り続けてきた。時が経つにつれて地元の人たちの笑顔のカットも少しずつ増えたように見える。そして到達点の一つが、楽天イーグルスが2013年に優勝した時。さんさん商店街でもパブリックビューイングを実施したようで、皆が喜ぶ姿を写した1枚も印象的だった。

さて、防災対策庁舎は現在どうなっているか。このさんさん商店街から川の土手を挟んだ対岸に見ることができる。この土手もかさ上げされたもので、防災対策庁舎は周囲を土手に囲まれたようにして存在している。ちょうど、佐藤さんの「南三陸の記憶」の写真パネルがあり、被災当時の状況と見比べることができる。前回訪ねた時は周囲もまだ津波の爪痕が残り、気仙沼線の志津川駅も変わり果てた姿で、写真パネルに近い状況だったのだが、今は庁舎だけを残して周囲一帯が復興祈念公園の工事の最中である。関係車両以外は中に入れないようだ。

防災対策庁舎を残すかどうかはさまざまな議論となった。殉職した職員の行動は道徳の教科書に載ったこともあるし、「原爆ドーム」のように震災被害の象徴と位置付ける向きもある。一方で津波の惨劇を思い出したくないという人もおり、取り壊してほしいという意見もあった。結局は、国が震災遺構の保存に対する支援策を表明したこともあり、南三陸町ではなく宮城県が2031年まで保有するという形で保存が決まった。震災から20年というのをひとまず区切りにして、その間に「その後」どうするかを地元でよく考えるようにということである。阪神・淡路大震災もそうだが、20年も経てば街じたいは「復興」として新しい景色が見られる一方で、「風化」はかなり進むのではないかと思う。その時、震災を忘れない、震災を語り継ぐ術としてどのようなものがあるだろうか。

志津川を後にして、国道45号線に戻る。この先も入江が次々に現れ、その都度「津波の到達地点」の標識を目にする。南三陸町から気仙沼市に入る。

気仙沼線の小金沢駅に向かう。国道には「小金沢駅⇒」という標識はあるが、現在は「跡地」である。海が見える駅として知られていたが、ここも津波の被害に遭ったところである。海が見えるといっても目の前にあるわけではなく崖の上にあるのだが、それでも津波はやって来た。標高でいうと13メートルほどで、建物でいえば4階くらいか。いかに大きなものだったかが感じられる。

一方で次の大谷海岸駅は目の前が砂浜という駅だった。前回訪ねた時は献花台があったように思うが、併設の道の駅も少し移転したようだし、かつて駅があったところも工事をしているようだ。

当初はこのまままっすぐ気仙沼の中心部や、前回訪ねられなかったリアス・アーク美術館に向かおうかと思っていたのだが、前日エリア情報をネットで見る中で、震災に関するある施設が新たにできていることを知った。それは中心部の手前の階上地区にあり、いったん国道45号線を離れて海岸方面に向かう・・・。

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