石巻市街から石巻線に沿って女川に着く。町の手前から、カーナビにはない道路が伸びている。これも復興工事によるものか、そのまま町中に出る。
13日夜は女川に宿泊だが、その前に町を一回りする。宮城県の中でも特に被害が大きかった女川だが、特に被害が大きかったのが町の中心部である。町の人口の約1割に当たる1000人を超える死者・行方不明者が出た。津波の高さは14.8メートルだが、場所によっては20メートルの高さまで津波が押し寄せたという。七十七銀行の3階建ての屋上に避難したものの津波の犠牲になった行員について、銀行の安全管理責任を問う訴訟も起こされた(これは最高裁まで行って遺族側の敗訴となった)。
前回6年前に来た時は、中心部である港の一帯は町の原形を止めていないように見えた。工事車両だらけで一般のクルマが近寄るのもはばかられる感じだった。その中で津波の避難場所にもなった町立病院に行き、何もなくなった町並みを見下ろして辛い気持ちになった。
今は女川地域医療センターと名前を変えた建物の駐車場に立つ。まだまだ更地が目立つが、新たな女川の町づくりは少しずつ、それでも着実に進んでいるように見える。
医療センターの下には、七十七銀行やその他の企業で津波の犠牲になった人たちの慰霊碑がある。これは行政ではなく有志の人たちが建てたもののようだ。
その中で、津波で横倒しとなった旧女川交番を震災遺構として保存するための工事が行われている。交番の周りの土地をかさ上げして、メモリアルパークのような造りにするのだという。
そういえば町全体もかさ上げされたようで、地域医療センターからそのままの高さで女川駅に行くことができ、新たな家や公共施設も並んでいる。そしてその中心にあるのが新しい女川駅である。ウミネコがはばたく姿をイメージしたそうで、駅舎内には被災前と同じく温泉が併設されている。またも、列車で来ればよかったかなという思いがよぎる。
ロータリーにはこのような記念碑がある。今年建てられたそうで、「我等が郷土の再建の為、春夏秋冬昼夜分かたず現場で尽力された全ての人々に心から感謝を捧ぐ」と、復興事業に携わった多くの人への感謝の言葉が刻まれている。慰霊碑とはまた違ったものだ。女川は「復興のトップランナー」と称されることもあり、この記念碑も復興を成し遂げた達成感から来ているようにも見える。
ただ女川の現状もなかなか厳しいようだ。震災前には1万人超の人口だったのだが、震災で約1000人が死亡・行方不明となり、2015年の国勢調査の結果では6300人あまりと、震災前から約4割も減少したとある。原発事故の影響で町全体が他の土地に避難せざるを得なかった福島県の町よりも落ち込みは激しかった。元々人口が少ないうえに、町が壊滅するほどの津波があったとなると、復興に期待できず町を離れた人が出るのも致し方ないだろう。だから強力に町並みを整備して復興を進めたのだろうが・・。
この日の宿泊は女川駅のすぐそばにある「ホテルエルファロ」。ここは旅行会社のプランではなく自分で予約したところである。エルファロとはスペイン語で灯台を意味する言葉で、女川や被災地、そして日本を多くの人が照らしてくれたのに対して、これからは自分たちが照らしていこうとの願いが込められているそうだ。
このホテルだが、ビジネスホテルのようなビルではなく、コテージのようなものが並ぶ。さらに、建物ごとにトレーラーのタイヤがある。そう、ここはトレーラーハウスなのだ。
ここは、震災に遭った女川の旅館や民宿の経営者たちが共同で立ち上げた宿泊施設である。復興工事で女川に来る関係者たちの宿泊施設が不足したことからトレーラーを改造した簡易施設を提供したのが始めで、その後、女川の活性化につながればと高台に移転して今のホテル形式にしたという。当時は行政との衝突もいろいろあったそうだが、今では女川の名所の一つにもなっている。トレーラーハウスはツイン、またはロフトがあるトリプル仕様だが一人旅でもOKということで、ツインルームに一人泊まることになった。
指定の部屋に入る。1台のトレーラーハウスを2つに区切っている。ビジネスホテルとは違い、ドアを開けるといきなり客室だが、奥にベッドが2台あり、手前には簡易ながらもソファーとテーブル、さらにはデスク、小型冷蔵庫もある。ユニットバスもあり、全体では前夜の宇都宮のホテルよりも、いや私の自室よりも広く感じる。
部屋の周りもこんな感じで、どこかの避暑地のペンション村に見えなくもない・・かな。家族連れの利用も多いようで、中央でバーベキュー(別料金)を楽しむ光景も見られる。
さて、夕食をどうするか。エルファロでいただくこともできるようだが、事前予約のプランの中に、女川駅前の居酒屋の晩酌セットつきというのがあった。ならば晩酌セットだけでなく地元の魚を楽しめるのではと申し込んでいた。
チェックインの時に晩酌セットのクーポン券をいただいたが、まずは駅前をぶらつく。ここも震災からの復興事業で整備された商店街で、パッと見るとどこかのニュータウンの一角と勘違いする。その中には、女川の海産物を扱う店もあり、海鮮丼を売りにする店もあるものの、閉店は早い。昼間に来ればより賑わいを感じることができただろう。
こうした店を気まぐれにのぞく楽しみはあるが、私が入るのはホテルのプランにある居酒屋「ようこ」。ただ店先の印象は、あくまで私個人の主観なのだが、クーポンがなかったら入るのをためらったかもしれない店である。店頭にオススメや値段が書かれたメニューがあるわけでなく、グルメサイトに載ってもいないのでどのくらいの相場の店かわからない。ひょっとしたら女川には居酒屋、大衆酒場が見つからないかもしれず、食いっぱぐれは嫌なのでこのプランにしたのだが、果たしてどうだろうか。ままよとドアを開けて入る。
中は居酒屋の造り。ただ正面奥にはカラオケの画面があり、壁には演歌歌手の色紙が並んでいる。これは料理を楽しむというよりは、常連さんが大将や女将さん(この人が「ようこ」さんなのだろう)と話をしながら飲むのがメインなのだろう。私にとってはあまりないタイプの店である。壁には演歌歌手らしいサイン色紙もずらり並んでいるから、その筋では有名な店なのかもしれない。時には歌手たちもお忍びで来る、みたいな。
もちろん入るのは初めてで、常連さんらしい先客もいる中で女将さんから「久しぶり?」と声をかけられる。すぐに勘違いに気づいたようだが、誰か似た人がいるのだろう。
ホテルのクーポンは晩酌セットで、ドリンク1杯と小皿がついてくる。皿に乗って出てきたのはカツオの造りとさんまの煮付け。いずれも女川の代表的な魚である。セット相当のものを現金で頼むと1000円くらいするかな。
セットの他にもちろん別払いで追加は可能だ。他の魚でおすすめを訊くとメヒカリの塩焼きを薦められる。小魚ではあるが、出てきたものは思っていたより大ぶりのものだった。店の人と常連さんの話を聞くともなくいただく。食べごたえがあった。
結局軽く飲んだ感じだが、女川でも一杯やれて満足として店を出る。もう一度商店街をぶらついてから向かったのは駅併設の温泉「ゆぽっぽ」。震災前廃車となった気動車を休憩スペースに開放していたのを覚えているが、全てが津波の被害に遭った。それが年月を経て、駅の再開とともに町の人たちの憩いの場として復活した。入浴料は500円だが、ホテルに割引券があったので400円。
浴室に行く途中に震災関係のギャラリーがある。関連の書籍販売や復興にいたる写真展示もあるが、目を引くのは石巻日日(ひび)新聞。震災直後に手書きの「壁新聞」として避難所に貼り出す形で発行された現物を額に入れて展示している。震災3日後の3月14日付で、「全国から物質供給」「余震に注意」「15日は冷え込みが予想される」という記事である。何の気なしに見れば集会所のお知らせの張り紙としか見えないが、当時の状況、物資もそうだが情報も何もない中で、必死の思いで出された壁新聞として見ると、その時の現場の切迫した様子や、また新聞が一筋の光にも見えたであろうことがうかがえる。当時、新聞社は津波の浸水はそれほどでもなかったが、電気系統がやられて通常の新聞発行はできなかった。それでも新聞発行を絶やしてはいけないと、新聞用のロール紙を取り出し、油性マジックで記事を手書きして、避難所やコンビニに貼り出す形で発行を続けた。これが3月12日~17日の6日間行われ、世界のジャーナリストからも大きく称賛された。
入浴。温泉と白湯の2種類の浴槽があるだけのシンプルなものだが、半日レンタカーを動かす中でも結構疲れたのでリフレッシュできる。地元の人たちの寄り場にもなっているようだ。
そのまま部屋に戻り、ソファーに腰掛けて1人二次会とする。先ほど「ゆぽっぽ」の売店で買い求めた石巻で加工されたクジラの大和煮や、ホヤの燻製がいける。東北に来たならホヤは食べてみたい食材で、東北新幹線のお供には「ほや酔明」が欠かせない。店によれば刺身もあるはずで、この日は出会えなかったが翌日から泊まる大船渡では何とかいただきたい。
宿泊といえば、これから3日後の16日は三陸海岸の普代村にある国民宿舎を予約していたのだが、この夜、キャンセルをした。旅程切り上げではなく、別のところに宿泊変更である。岩手県内には変わりないが、ここに来て被災地めぐりからの趣向変えである。どこに泊まるかはまた改めて書くことにする。
そろそろいい時間となり、寝ることにする。トレーラーハウスというのも初めてのことだが、周りが静かということもり、ぐっすりと眠ることができた・・・。
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