善通寺は広い。45000平方メートルに及ぶ面積で、弘法大師の誕生院である西院と、元々の善通寺の伽藍がある東院に分かれている。甲山寺から来ると西院と東院の真ん中に着き、仁王門があるのでそちらが正面かと思い入ろうとするが、これは西院の玄関口である。やはり順番で言えば本堂のある東院に行き、その後で大師堂(善通寺では「御影堂」と呼ぶ)と納経所のある西院に行くところだろう。
善通寺の西院と東院は元々は別々の寺だった。東院は、唐から帰国した弘法大師が唐の青龍寺を模して建立した寺で、父の諱「善通(よしみち)」を取って善通寺と名付けられた。一方の西院は鎌倉時代に生家の佐伯氏の邸宅跡に誕生院という別の寺が建立されたもので、明治時代になって一つの寺となったという。高野山、東寺と並ぶ弘法大師の三大霊場とあり、四国八十八所の総元締めと言えるところである。四国八十八所めぐりを行うと決めた時、親から「四国の一番は善通寺から始まるのか?」と訊かれたことがある。瀬戸内側の出身なのでそういう認識だったようだが、現在は鳴門の霊山寺が1番だが、これは江戸、上方方面から淡路島を経由して四国に入るようになったことからついた順番で、やはり元々は善通寺、誕生院から回る、あるいは善通寺を目指すというルートだったとも考えられている。最盛時には多くの塔頭寺院も有していたが、明治以後の廃仏毀釈などもあり、敷地の一部も軍の施設に転用(現在は公共機関や民間の建物となる)されたところもある。
東院の本堂(金堂)に着く。江戸中期の建物で、中に入ることができる。天井も広く、中央には3メートルの高さの薬師如来像が出迎えてくれる。また脇には伊予大洲の十夜ヶ橋の言い伝えを表すかのように、布団を掛けられた弘法大師の寝像も祀られている。布団がかかった像といえば、西国三十三所の穴太寺の寝釈迦像を思い出す。穴太寺では布団をめくって自分の治してほしい部分をなでてお祈りすることができるが、さすがにこちらの弘法大師像は触れることはできない。それにつながる独鈷に触れてお祈りする。
本堂に対面する五重塔は、江戸末期から明治にかけて再建されたものである。45メートルという高さは東寺や興福寺よりは低いが、それでも木造としては日本屈指の高さで、明治以降の五重塔として初めて国の重要文化財に指定された建物である。四国八十八所の中ではもっとも高い建造物ではないだろうか。
東院の境内を囲むように五百羅漢の像が並ぶ。それと合わせて西国、坂東、秩父の日本百観音の本尊も並ぶ。今回は門の周辺のものを見ただけだが、これら全部を回ると結構なボリュームになりそうだ。
東院から西院に移動する。その間には観智院、華蔵院という塔頭寺院がある。
改めて仁王門から西院に入る。御影堂まで回廊が続いており、弘法大師の生涯を絵にしたパネルが掲げられている。そして御影堂へ。ここまで来て、ようやく一区切りついた心持である。この御影堂は弘法大師が誕生したその地に建てられたという。
御影堂の向かいには御影の池があり、弘法大師、そして両親の像が祀られている。その手前には七福神の布袋像がある。七ヶ所まいりそれぞれ七福神が当てられているが、善通寺で布袋という結びつきはわからない。代わりに目立つのは「善通寺」を「善く通る寺」として、合格祈願や必勝祈願につなげているところ。
納経所に向かう。朱印と通常の本尊御影をいただくのと合わせて、七福神の布袋の御影、そして「弘法大師様の御影を」とお願いする。この時は朝からの暑さで限界に来ていたし、ともかく善通寺まで来たことで安堵したこともあってよく確認しなかったのだが、この日の夜に荷物を整理したところ、この時弘法大師の御影と言ったはずのものが、手元にあったのは本尊薬師如来のカラーの御影だった。本尊と大師を寺の人が聞き違えたか、あるいは私がはっきり言わなかった、その場で確認しなかったか。七ヶ所まいりは七福神の御影と、中央に弘法大師の御影を専用の台紙に貼りつけてコンプリートしようと思っていたが、これでは大師が抜けてしまう。また翌日にもう一度出直してくるか。
他にもいくつかのお堂もあるが、これだけの広さの割には日差しをよけるところが少なく、ベンチが少しあるだけで休憩所もない。暑さと疲れのためにもう切り上げようと、再び東院を通り抜けて駅の方向に向かう。商店街を抜けながら1キロあまりの距離である。
時刻は13時を回り、本来なら昼食の時間。駅までの通りにはセルフのうどん店もあり、せっかく来たのだからうどんを・・・と思ったが、食欲が起こらない。体調が普通なら迷いなく入るのだが、そのまま通り過ぎる。どう見ても異常だ。
駅に到着する。ちょうど13時18分の高松行きが着くタイミングで、これに乗り込んで丸亀に戻ることにする。ようやく、冷房の効く空間にたどり着けた感じでシートにどっかりと腰を下ろす。扇子で仰ぐと眠気と生あくびが出てくる。意識はしっかりしているが、これは熱中症の症状の一つなのかなとぼんやり考える。
丸亀に到着。時刻は14時前で、さすがにまだホテルの部屋には入れないだろう。駅コンコースのベンチに腰かけて時間を過ごす。すると急に咳とともに吐き気を催した。トイレに駆け込もうとするが間に合わず、汚い話だが駅を出たところの道端で戻してしまった。ほとんどが水分(胃液?)で、水の摂りすぎ(食事は朝の列車の中での軽食のみ)によるものかなと思う。
コンビニで捕食用のゼリーなどだけ購入して、ともかくホテルに向かう。時刻は14時半で、チェックインは15時からというが大丈夫だろうか。ホテルに着くとクルマを駐車場に入れようとしていたり、チェックインをしている客の姿もあったので安心した。一部の部屋はまだメイキング中だったが私の部屋は入ることができ、和室にたどり着く。シャワーを浴び、ともかく休むことにする。アラームを2時間後にセットして昼寝。ちょっと悔しい気持ちもしながら眠るのであった・・・。
善通寺の西院と東院は元々は別々の寺だった。東院は、唐から帰国した弘法大師が唐の青龍寺を模して建立した寺で、父の諱「善通(よしみち)」を取って善通寺と名付けられた。一方の西院は鎌倉時代に生家の佐伯氏の邸宅跡に誕生院という別の寺が建立されたもので、明治時代になって一つの寺となったという。高野山、東寺と並ぶ弘法大師の三大霊場とあり、四国八十八所の総元締めと言えるところである。四国八十八所めぐりを行うと決めた時、親から「四国の一番は善通寺から始まるのか?」と訊かれたことがある。瀬戸内側の出身なのでそういう認識だったようだが、現在は鳴門の霊山寺が1番だが、これは江戸、上方方面から淡路島を経由して四国に入るようになったことからついた順番で、やはり元々は善通寺、誕生院から回る、あるいは善通寺を目指すというルートだったとも考えられている。最盛時には多くの塔頭寺院も有していたが、明治以後の廃仏毀釈などもあり、敷地の一部も軍の施設に転用(現在は公共機関や民間の建物となる)されたところもある。
東院の本堂(金堂)に着く。江戸中期の建物で、中に入ることができる。天井も広く、中央には3メートルの高さの薬師如来像が出迎えてくれる。また脇には伊予大洲の十夜ヶ橋の言い伝えを表すかのように、布団を掛けられた弘法大師の寝像も祀られている。布団がかかった像といえば、西国三十三所の穴太寺の寝釈迦像を思い出す。穴太寺では布団をめくって自分の治してほしい部分をなでてお祈りすることができるが、さすがにこちらの弘法大師像は触れることはできない。それにつながる独鈷に触れてお祈りする。
本堂に対面する五重塔は、江戸末期から明治にかけて再建されたものである。45メートルという高さは東寺や興福寺よりは低いが、それでも木造としては日本屈指の高さで、明治以降の五重塔として初めて国の重要文化財に指定された建物である。四国八十八所の中ではもっとも高い建造物ではないだろうか。
東院の境内を囲むように五百羅漢の像が並ぶ。それと合わせて西国、坂東、秩父の日本百観音の本尊も並ぶ。今回は門の周辺のものを見ただけだが、これら全部を回ると結構なボリュームになりそうだ。
東院から西院に移動する。その間には観智院、華蔵院という塔頭寺院がある。
改めて仁王門から西院に入る。御影堂まで回廊が続いており、弘法大師の生涯を絵にしたパネルが掲げられている。そして御影堂へ。ここまで来て、ようやく一区切りついた心持である。この御影堂は弘法大師が誕生したその地に建てられたという。
御影堂の向かいには御影の池があり、弘法大師、そして両親の像が祀られている。その手前には七福神の布袋像がある。七ヶ所まいりそれぞれ七福神が当てられているが、善通寺で布袋という結びつきはわからない。代わりに目立つのは「善通寺」を「善く通る寺」として、合格祈願や必勝祈願につなげているところ。
納経所に向かう。朱印と通常の本尊御影をいただくのと合わせて、七福神の布袋の御影、そして「弘法大師様の御影を」とお願いする。この時は朝からの暑さで限界に来ていたし、ともかく善通寺まで来たことで安堵したこともあってよく確認しなかったのだが、この日の夜に荷物を整理したところ、この時弘法大師の御影と言ったはずのものが、手元にあったのは本尊薬師如来のカラーの御影だった。本尊と大師を寺の人が聞き違えたか、あるいは私がはっきり言わなかった、その場で確認しなかったか。七ヶ所まいりは七福神の御影と、中央に弘法大師の御影を専用の台紙に貼りつけてコンプリートしようと思っていたが、これでは大師が抜けてしまう。また翌日にもう一度出直してくるか。
他にもいくつかのお堂もあるが、これだけの広さの割には日差しをよけるところが少なく、ベンチが少しあるだけで休憩所もない。暑さと疲れのためにもう切り上げようと、再び東院を通り抜けて駅の方向に向かう。商店街を抜けながら1キロあまりの距離である。
時刻は13時を回り、本来なら昼食の時間。駅までの通りにはセルフのうどん店もあり、せっかく来たのだからうどんを・・・と思ったが、食欲が起こらない。体調が普通なら迷いなく入るのだが、そのまま通り過ぎる。どう見ても異常だ。
駅に到着する。ちょうど13時18分の高松行きが着くタイミングで、これに乗り込んで丸亀に戻ることにする。ようやく、冷房の効く空間にたどり着けた感じでシートにどっかりと腰を下ろす。扇子で仰ぐと眠気と生あくびが出てくる。意識はしっかりしているが、これは熱中症の症状の一つなのかなとぼんやり考える。
丸亀に到着。時刻は14時前で、さすがにまだホテルの部屋には入れないだろう。駅コンコースのベンチに腰かけて時間を過ごす。すると急に咳とともに吐き気を催した。トイレに駆け込もうとするが間に合わず、汚い話だが駅を出たところの道端で戻してしまった。ほとんどが水分(胃液?)で、水の摂りすぎ(食事は朝の列車の中での軽食のみ)によるものかなと思う。
コンビニで捕食用のゼリーなどだけ購入して、ともかくホテルに向かう。時刻は14時半で、チェックインは15時からというが大丈夫だろうか。ホテルに着くとクルマを駐車場に入れようとしていたり、チェックインをしている客の姿もあったので安心した。一部の部屋はまだメイキング中だったが私の部屋は入ることができ、和室にたどり着く。シャワーを浴び、ともかく休むことにする。アラームを2時間後にセットして昼寝。ちょっと悔しい気持ちもしながら眠るのであった・・・。
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