まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第11回四国八十八所めぐり~第40番「観自在寺」

2017年08月24日 | 四国八十八ヶ所
17日の朝、朝日が部屋に差し込む。テレビでは「関東は今日もぐずついた天気で」と言っているが、四国はまた今日も猛暑日近くなるのかなと思う。

この日は宇和島が宿泊で、天気も問題なさそうなので夜は宇和島の丸山公園野球場での四国アイランドリーグ観戦である。宇和島まではバスで移動するとして、朝7時前、朝食の前に観自在寺にお参りとする。金剛杖に、納経グッズ一式とタオルをリュックに入れ、その他の荷物はホテルに置く。寺までは歩いて10分かからない。その門前には他にも小さなビジネスホテルや旅館も並ぶ。また寺には宿坊もあるそうで、歩き遍路はこれらのほうに泊まるのだろうか。

道幅の狭い参道を上がると山門に出る。横からスクーターが上がってきて門の前に止まる。乗っていた人はヘルメットを脱いで山門に手を合わせて深々と頭を下げる。どうやらこちらにお勤めの坊さんのようだ。

観自在寺は「菩提の霊場」とされる伊予の国の最初の札所で、1番の鳴門の霊山寺からの距離がもっとも遠いそうだ。このため遍路の中では「裏関所」との呼び名もある。札所番号はまだ先だが、距離について言えばちょうど折り返しに来たのかなというところだ。寺の由来は、弘法大師が平城(へいぜい)天皇の命でこの地を訪れて、一本の霊木から本尊の薬師如来、脇侍の阿弥陀如来と十一面観音を彫り、安置したという。平城天皇は、後の嵯峨天皇との争い、また藤原氏の勢力争いから起こった「薬子の変」で敗れ、仏門に入る。弘法大師が世に出たのは薬子の変の後ではなかったかなと思うが、ここは平城天皇が行幸し、遺髪も葬られているそうだから、平城天皇がオリジナルで弘法大師は後付けなのかもしれない。まあ、どちらでもいいことだが(ちなみに、このあたりの地名は「平城」と書いて「ひらじょう」と読む)。

本堂に向かう途中に八体仏がある。それぞれの干支の守り本尊で、丑年の私は虚空蔵菩薩。こちらに手を合わせて本堂前に立つ。境内は何度か火災に遭っており、現在の本堂、大師堂は昭和の再建である。まずは本堂の建物を入った外陣でお勤め。

続いて右隣の大師堂でもお勤めをする。大師堂の脇に、篠山明神の祠がある。この方向の遥か向こうに篠山という山があり、信仰を集めていたそうだ。観自在寺の奥の院に篠山神社というのがあり(かつては観世音寺というのもあった)、この辺りが篠山というのを信仰の中心にしていたのかなと思う。以前の記事にも書いたが、この辺りの札所は五来重の『四国遍路の寺』で取り上げられなかったところなので、奥の院も絡めた歴史的なことがよくわからない。

観自在寺が昭和の再建のために新しい感じに見えた後で、再び本堂に入り、中の納経コーナーに向かう。「えらい汗やな」と、先ほどのスクーター乗り付けとは別の坊さんが扇風機を向けるてくれる。「もう少し右に立ち。そこやったら、風行ってる?」と言う。ありがたく、ちゃんと来てくれている。坊さんはそう言いつつ、私の納経帳の奥付を見て、「大阪藤井寺・・・うーん、大阪のどの辺?」と尋ねる。大阪市街地から見れば南東、地図なら右斜め下と答えるが、今一つピンと来ない様子である。

「堺の隣?」いや、そうではない。

「近くは何市なん?」羽曳野、柏原・・・。

「うーん、知らんなあ・・・ごめんな」・・・まあ、そういうものだろう。

山門を出る。脇には、この先の遍路道について解説した看板がある。宇和島に向かう遍路道は三つあり、灘道、中道、篠山道とある。今はその中で国道56号線とも重なり、宇和島行きのバスも走る灘道がメインルートだが、歴史探訪ということなら残りの2ルートも歩く価値はあるそうだ。

朝に札所一つを回ることができて、ホテルに戻り朝食。和定食をいただき、新聞も見ながらゆったりである。先ほど宇和島まで三つの遍路道・・・と書いたが、今回はそれらは無視してとりあえずバスで移動する。朝の一時で、来る前のプランからいろいろ動かすことにした。その中身はまた次の記事にて・・・・。
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