まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第40番「竹林寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(小野篁出生の地へ)

2022年07月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

7月半ばはいろいろと所用があったが、18日に広島新四国八十八ヶ所めぐりを進めることにする。6月に、白市にある第39番の光政寺を訪ね、その次の第40番・竹林寺にも行こうかと思ったが、夕方の時間となったために断念し、次の機会に回すことにした。今回は竹林寺のほかに、第41番・観現寺、第42番・福成寺と回り、いったん東広島シリーズを終わらせることにする。

この日は午後から雨の予報も出ており、朝からクルマで出かけて、なるべく早い時間に戻ることにする。朝7時すぎに自宅を出発し、国道2号線を走る。竹原市に入って北上し、県道に出る。前回、白市から糸崎まで出るのに通った道である。確かこの道沿いに竹林寺へのクルマルートの看板が出ていたはずだ。ここまで下道で1時間半ほど。

果たしてその看板がある曲がり角に出たが、合わせて道路工事のため通行止めの看板も出ている。2018年の豪雨の影響で一部区間の復旧工事が続いているようだ。地図があったのでそれに従って迂回する。そのまま広島空港のすぐ横まで走り、また山道を戻る。結構大回りとなった。

通行止めの先の区間と合流した。竹林寺へはもう1キロほど走る必要があるが、警備の人に聞くと寺に行くのは問題なさそうで、先ほどもクルマが2台ほど向かったという。竹林寺へは公共交通機関なら山陽線の入野、または河内下車で、そこからは1時間半ほどのハイキングコースである。健脚ならそれもありだが、夏の暑さ、そして雨が降るかもしれないという条件ならクルマだろう。

急な坂を上り、2~3台ほど停められる駐車場へ。果たして先客のクルマがあった。本堂まではもう少しあるが、この先は一般車は入れない。

山門の手前に「小野篁生誕之地」の石碑が建つ。百人一首では「参議篁」として登場する人物である。石碑の横には竹林寺と小野篁に関する説明文がある。これによると、竹林寺が開かれたのは奈良時代、行基による。この山で霊光を放っていた桜の樹から千手観音を刻んでお堂を建てたのが始まりという。そして平安時代、この山の麓に八千代という女性がいて、千手観音を信仰して千日の参詣を続けていたところ、お堂の中から童子が現れ、五色の玉を授けた。八千代は後に男の子を産むが、その子が「われはこれ篁なり」と名乗ったという。成長して都に出ると、詩歌や書に優れた人物として有名となり、後に関白の小野家を継いで「小野篁」となった。

小野篁といえば、昼間は朝廷で官吏として働き、夜間は冥府で閻魔大王に仕えて亡者たちの罪を裁いていたと言われる。その出入口が京都の六道珍皇寺に残る井戸とされている。

ただ、ここ竹林寺はその先の話が伝わっている。篁は亡くなった100年後、この世に生まれ変わって僧となり、竹林寺にて地獄十王像のうち九体を彫り、自らは残り一体の像として生身の仏になったという。そのことから山も篁山と呼ぶようになったという。小野篁という人物もなかなか謎めいている。小説、映画のネタにしても面白そうだ。

海抜535メートルとあり、午前中、曇りということもあるが案外涼しく感じる。

山門をくぐり、西国三十三所の本尊も出迎える。山間、緑豊かなところである。

そのまま参道を進む。途中に架かるのは八千代橋という。

そのまま進むと本堂に出る。室町時代からの建物で、国の重要文化財である。障子扉を開けてお参りくださいとあり、中に入る。まずはこちらでお勤めとする。

本堂の右手には十王堂、そして左手には篁堂がある。小野篁と母の八千代を祀っているという。こうした静かな山の中に現世と地獄を行き来していた人物ゆかりの地があるとは初めて知ったことで、うなるばかりである。

ポツンと一軒家のような竹林寺とその一角、石州瓦の庫裡に向かう。竹林寺の朱印とともに、前回無住のためいただけなかった光政寺の朱印も別の箱に収められていた。光政寺の朱印料は別の貯金箱に納めるようで、それぞれ300円ずつ納める。

これで広島新四国もようやく40番台に入り、西に向かう。先ほどの通行止めスポットから今度は北へ、山陽線側に向かう。次の第41番・観現寺は東広島の市街地にあり、山陽線に沿って戻る形である・・・。

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