カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

戦艦ポチョムキン

2009-08-24 | 映画
戦艦ポチョムキン/セルゲイ・M・エイゼンシュテイン監督

 映画の中の映画だとか、世界的大名作だということはさんざん聞かされていて、そういうことではあるけれど何故だか見逃していて、そのまま無視して観なくてもいいような気にはなっていたわけではあるけれど、やっぱりあれ見てないの?というようなことをいう若者とは今は付き合いが無くなったにせよ、今更だとは思っても何となく英会話を勉強したくなるようなことはある訳で、つまりは思わず目にとまった折になんともなしにレジまでもっていくような行動を敢行できたおかげもあって、やっと名作を堪能する機会にあいなったということである。
 いや、妙に長いセンテンスで言い訳をいう必要もないわけであるが、名作と言われる古典作品を観る場合は多少の根気も必要かと覚悟くらいはしていたものの、実に単純に楽しんで観賞することはできた。いや、面白い映画ですね、流石に。
 この映画では当然「オデッサの階段」の名シーンだけでも観るべきだということがいわれており、もちろん僕はその場面に出くわして直ぐに、ああ、そういえばこれは観たことがあるような気がするなあ(いかに多くの映画がこの場面をパクって〈オマージュともいうらしい〉いることか)という感慨とともに、なるほどなるほどと二回ほど膝を打つように見入ってしまったのも確かで、古いといえば古いけれど、大仰といえばその通りだけど、流石に迫力があって凄いものだなあとは思った。もちろん、映画を観終わった後に再度そのシーンはピックアップして再見した。
Battleship Potempkin - Odessa Steps scene (Einsenstein 1925)


 しかしながら、もともとは食事用の肉にウジがわいていることに怒った船員たちの暴乱が引き金になるわけで、そういう意味では食い物の恨みは恐ろしいということが改めて言えることで、もともとの抑圧のはけ口となるきっかけがそうであるとはいえるにせよ、ひょっとするとそういう具合に革命というものは起こってしまうのかもしれないとも思ったのだった。
 いづれにしろ、日本人なら我慢強く辛抱して終わるのかもしれないとも思う訳で、ある程度の血の気の多さが無いと、世の中というのものは変わらないのかもしれない。
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チャリティ番組の問題と寄付を断られること

2009-08-24 | culture
「24時間テレビの過ち」「ヌードで寄付を拒否される」

 根本的にチャリティ番組じゃなかったという事実はかなり痛い。しかし、これはテレビ局の構造的な問題だということも分かる。災害地の義捐金のことを思うと、たとえ日本の文化であっても寄付というものが根付いていない訳では無いことは分かることだ。それを利用した商売をやろうとすることと、それを見て見ぬふりで盛り上げることはある意味で同罪なのではないかという疑問もわく。
 しかしながら僕は、どの局がチャリティで、どの局がお祭りなのかさえ理解していなかった。そういえばこの間一日中やっていて子供が見ていた番組は、チャリティですらなかったのか、と今初めて気づいた。ああいう長時間特別番組は、テレビ局の社会貢献のためのものだと思っていたようだ。僕が勝手に勘違いしていたにしろ、そういう意味でも文化的に罪深い番組であるような気がしてならない。いいことをしたいという欲求の受け皿として、偽善が混ざっているという受け皿の怪しさは、裏切り行為もいいところではなかろうか。方針を転換して改める気が無いのであれば、もう止めるべきなのではないか。

 もう一つの話題である若槻千夏は、行為としてはそれなりに偉いように見えて、しかし理解されないのなら意味が無いところが痛い。
 しかし教会などの寄付問題では、このようなことはしばしば歴史的に問題になっていたことではあると聞いたことはある。例えば極悪人が寄付する金と善良な人が寄付する金は、そもそも価値が違うのではないか。使われることがいくら善であっても、元になっている金が悪行によってもたらされているのであれば、意味が変わるのではないかということのようだ。これは僕にはよく分からない。そうであっても必要なところに金がいかない問題はどうなるのだろう。どうしても、そこのところが気になる。しかしやはり悩ましい問題であることは確かにそうだ。
 若槻問題に戻ると、そもそもモトの企画に問題がありすぎるようであるので、個人がかわいそうな気がするのかもしれない。単なる脱ぎ損というか。そういう男気(心意気)が報われないというのは、やはりお金には色があるということの証明ではあるようだ。あしながおじさんの寄付のような匿名性が必要なのは、寄付としての王道なのかもしれない。しかしやはり寄付という善行を動機として脱いだということを考えると、上手くいかないことがあるということを含めたギャブルであるということも同時に理解して行う必要があるということだろう。いまさらその金を引っ込めるわけにもいかないだろうし、出来るだけ自分の納得のいくところを探し求めるより他にないのではなかろうか。
 しかしこのような善行のためということで、いわゆる苦行を強要するようなことを、もっと厳しく糾弾する必要もあるような気がする。若槻は単なる詐欺にあった可能性があるのではないか。
 いいことのためにという前提の他に、どれだけ信用のあることなのかという疑問は、寄付という行為の中に必ず持っておくべき心構えなのかもしれない。
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