黙祷
2009-08-09 | 時事
イベントの打ち合わせ途中で11時近くになって、もう少ししたら黙祷しましょうと担当者が言うので、皆同意してというか、誰がそう言い出すかなんとなくそわそわと感じていたので、ちょっと安心する。そうして時計で11時まわったと思われたころに、その場で立ち上がる。どこかでサイレンがなっているはずだが音は聞こえない。別の席で同じように立ち上がった年配の人が「じゃあ黙祷」と号令をかけて、しばしの沈黙。ちょっと長くて途中でつい薄目を開けてしまって、なんだかバツが悪かった。黙祷が終わると、そのままそれぞれ仕事に戻っていく。
まあ、長崎ではごく当たり前の風景ではあるけれど、このような思いというのは、本当に当たり前なのだろうか。
米国民の6割以上は、原爆投下を肯定しているというし(過ちとさえ思っていないらしい)、オバマ大統領の核軍縮の背景も不景気による軍備縮小の方便だというし、技術的な根拠を基に考えると、実際には核拡散の時代に入っている状況は紛れも無い事実のようだ。国家レベルでは実用的にはほとんど無意味の兵器(だってテロ以外に使用しようがない)ではあるにせよ、核廃絶の可能性はどのような屁理屈をこねようと、現代においては現実的には不可能である。ましてや個人レベルで何か出来ることというのは何も無い。
だがしかし、この問題は不毛であるがゆえに議論は必要という不思議なジレンマを抱えている。核問題というのは、人間というか人類が背負ってしまった宿命的なおろかさの象徴となってしまった。比較的に可能なことをどれだけ実行できるのか。すでにそれ以外にやるべきことは残されていない。あとは自分が生きている間だけでも、ボタンが押されないことを祈るしかないのであろう。
まあ、長崎ではごく当たり前の風景ではあるけれど、このような思いというのは、本当に当たり前なのだろうか。
米国民の6割以上は、原爆投下を肯定しているというし(過ちとさえ思っていないらしい)、オバマ大統領の核軍縮の背景も不景気による軍備縮小の方便だというし、技術的な根拠を基に考えると、実際には核拡散の時代に入っている状況は紛れも無い事実のようだ。国家レベルでは実用的にはほとんど無意味の兵器(だってテロ以外に使用しようがない)ではあるにせよ、核廃絶の可能性はどのような屁理屈をこねようと、現代においては現実的には不可能である。ましてや個人レベルで何か出来ることというのは何も無い。
だがしかし、この問題は不毛であるがゆえに議論は必要という不思議なジレンマを抱えている。核問題というのは、人間というか人類が背負ってしまった宿命的なおろかさの象徴となってしまった。比較的に可能なことをどれだけ実行できるのか。すでにそれ以外にやるべきことは残されていない。あとは自分が生きている間だけでも、ボタンが押されないことを祈るしかないのであろう。