カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

無言の警告

2007-09-06 | 散歩
 朝の静かな時間を歩いていても、そのさわやかさとともに心安らかでいられるとは限らない。一番ギョッとして心乱されてしまうのは、なんといっても動物の死骸の多いことだ。夜のうちに死んでしまった動物が、早朝の道路に転がっている。多くは交通事故の被害者(者じゃないな)であるようだ。夜中に歩いていて、車に跳ねられたものだろう。まだ誰も片づけをしないので、そのままの姿で残っている。
 そのまま、と書いてしまったが、厳密にはそのままという姿ばかりではない。激しく内臓が飛び散っているもの。とにかく血だらけのもの。体の部分が削れたり陥没したもの。かなりのホラーぶりを見せてくれる死骸も多い。
 しかしながら意外なことに、早い時間だとあんがい死骸もきれいであることは確かに多いようだ。特に交通量が少ない場所で転がっている死骸は、それなりにきれいだ。本当は寝ているんじゃないかという安らかなものもある。近づくとむっくり起き上がるのではないかと期待してみるが、やはり死んでいることには変わりない。見ず知らずの関係だが、誠に残念なことだ。
 死骸が悲惨な状態になる多くの原因は、転がっている死骸を後から来た車両がさらに踏み潰すなどするためであるのだろう。
 また、カラスなどがやってきて、つつきまわすということもあるようだ。ある子猫の死骸は、見た目にはきれいだったのだが、よく見ると眼球に穴が開いていた。さっきまでそばにいたカラスの仕業なのだと思う。死んだ後だから痛覚はないのだろうけれど、かなり痛ましい思いがする。カラス君ももう少し丁寧につついてくれないものだろうか。
 野良猫と飼い猫を差別するのは本来の趣旨ではないが、明らかに飼い猫でエレガントな趣のある猫が横たわっていることがある。家人が心配していることだろうが、安否を伝える術はない。もし見つけたとしても、どのようなお悔やみをかけてよいものやら…。
 必ず毎朝見かける訳ではないけれど、ここ数日で10匹以上の死骸を見たことは間違いがない。これだけ多くの動物が交通事故に会うという事実は、間違いなく人間にも危険であるということでもあると思う。夜に出歩く習慣のある人は、用心して歩いて欲しいものだと思う。
 また、もし動物をはねたという経験のある方がいたら、今後はさらに用心をして欲しいと思う。動物だから関係ないと思うのは大間違いで、交通事故を起こす人の多くは、動物をはねた経験のあることが分かっている。自分の中に運転の危険要素があることを自覚すべきだ。蛇さえ踏まないドライバーが事故を起こすことは、あんがいまれなことなのだ。出所は忘れてしまったが、結局は日頃の心がけ次第で、かなりの事故は未然に防げる。
 ものをいわずに死んでしまった動物達の犠牲は、はねてしまった人に対する警告なのである。交通安全で交差点で旗を持つのも意義はあろうが、違反点数が多くなった人には、路上の動物の片付けをしてもらうのがいいのではないか。もちろんふと思っただけだが、結局は知らないままだから、実感もわかないのであろう。
 いつも事故は手遅れの結果であるのは、本当に悲しい限りである。
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素直な衝撃

2007-09-05 | 時事
 僕はお笑い系の話題にはかなり疎いのだけれど、やっとというか、何故か魔が差して、「小島よしお」の画像をユーチューブで初めて見た。
 いやあ、衝撃を受けました。これは世紀の大発見ではないか。基本的には誰でも出来て、完全に面白い。もちろんこの人だから面白いということもそうなのだが、このアイディアを考え出したということがなによりすごい。日本語の分からない人でも、恐らく巻き込む力があることだろう。何しろ日本語で聞いていても、わけがよく分からない。
 これからのお笑いの歴史を変える出来事なのではないか。お笑いに疎い僕ではあるが、小島よしおをターニングポイントして、時代が動いてしまったような気がしてならない。
 本人が天才であるかどうか気づいているのか分からないけれど、自分の成し遂げた功績が後世に伝わっても、本当に自分が変えたという自覚がわくものかどうだか。しかし、このわけが分からなく、ひょっとして一時的に消えてなくなるかもしれない芸自体は、お笑いの玄人を確実に掴んで動かすだろうと思われる。あんまりやかましい世の中は望んでいないけれど、年末あたり、さまざまな亜流が派生することだろう。
 不思議といつまでも見ていたい奇妙な魅力があるにもかかわらず、危うく儚い。この未熟さ加減が、なにより人を切なくさせるのであろう。以前から噂を聞いていたらしいのだが、馬鹿にして気にも留めていなかった。まったく僕は愚かであった。
 これほどの人が日本から誕生したということを、素直に祝福したい気分だ。
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英語早期教育のかんちがい

2007-09-04 | ことば
 新聞を取りにいくついでに、いつの間にか慣性の法則で、そのまま散歩にでてしまうようになってしまった。朝早くから特別業務があるということで、本当は時間に余裕が無いのに、遠回りしないと気持ち悪い。いや、杏月ちゃんの所為もあるけれど、理事会で深夜帰宅したくせにさらにいつもより早くに起こされて、ものすごく眠いのに散歩してしまう。昼過ぎにきつくなるんだけどなあ、と困りながら距離を律儀に稼いでしまう。特に今は前のようにファイトがあったり明確な目標などないのだが、まあ、歩くのは楽しいのだからいいのだろう。ほんの10分だけのつもりでいつの間にか20分歩いてしまった。もう汗びっしょり。せっかく朝から着替えたTシャツがもったいない感じもする。靴下も交換。急に雨が多くなってつれあいは洗濯に苦慮しているという。ちょっと罪悪感である。
 しかしながら遅刻したわけではなくてちゃんとそれなりに早く職場に到着。
 バリバリ仕事してまた汗びっしょりになって気持ちよかった。労働は喜びである。むちゃくちゃ疲れるのは確かにつらいが、少し疲れたなあというぐらいの肉体労働はかえって爽快だ。毎日これぐらいの労働があるといいのに、と思う。まあ、飽きっぽいので、いつも同じことだとやっぱり嫌になるのだろう。敵はいつも自分自身である。

 さて、地区大会の講演で、ヤンキー先生のお話があった。ほんとかなあ、と思わないところもないではないが、概ね肯定はする。議員さんになってもがんばって欲しいものだ。
 話の中で、小学生から英語教育に力を入れるべきだという意見があった。他人がどんな意見を持とうがそれは自由だし、特に僕自身が反対派の立場ではない。しかしながらその理由が、自分はしゃべれないが、国際社会に英語ができたほうがいいからだ、というのは、あまりにも納得できない気がした。自分はしゃべれないで今の立場になったのならば、英語は必要じゃなかったということだ。可能性というのは誰にでもあることで、そういうもので正当化するのは卑怯だと思う。
 英語を勉強したい人は、それなりにがんばってくれればいいことだと思う。日本が国際社会でどうだというのは、英語を小学生の頃から勉強したからといってたぶん何も変わらない。多くの人は勘違いしていると僕は思う。多くの日本人が英語をしゃべれないのは、現実問題として英語というのは必要のないものだからという理由があるに過ぎないと思う。それが本当の現実なのだ。
 日本人が日本の国で英語ができなくて何も不自由しない。至極当たり前な話だ。国際社会であろうと、それは今後も変わることは恐らくない。
 国際社会で特に日本人が英語が下手だというが、日本の人口比で英語を使えるということを根拠に考えるとそうかもしれない。しかし、実際の国際社会上で活躍している日本人の数から考えてみれば、明確に相当数の人が英語をこなしているというのが現実だろう。国際人として日本人の数が少ないというのは認識違いだろう。むしろ相当数の日本人が、流暢に英語を扱って世界を闊歩していることだろう。
 日本人はほとんど誰でも気軽に国外に行けるような豊かさを手にして、ほんの少し外に出てコンプレックスを感じているに過ぎないのだと思う。その程度ならどこの国の人であっても、英語ができなくて当たり前なのである。観光に来た外国人が日本語が下手なことと、同じ光景に過ぎない。むしろ日本人の英語下手という評価は、そういう人が大勢他国を回れるぐらい豊かになったということに過ぎない。他のアジア諸国の人々は言語が流暢だというけれど、本当に優秀な人しか国外に出られない事情もあるはずである。失礼ながら不法入国者などの人で、最初から流暢であるという話はあまり聞かない。むしろそういう人たちのほうが、市井の人に近いと考えるほうが自然だろう。
 留学生ならその時間に応じて、相当流暢に日本語を話すだろう。それは程度という問題に過ぎない。言葉というのは、本当に必要ならば(それは程度はあるにせよ)誰だって習得可能なのである。
 英語という言語は、言語の中でも特に習得がむつかしい言語だといわれている。もちろんチェコ語やスラブ系の難関言語があるというのも確かだが、それは超難関言語があるということに過ぎない。英語においては、歴史や複雑さという背景も重なって、非常に複雑化した言語形態を持ってしまった。
 地勢的な問題や経済の動向によって、国際的に使われることが多くなったというのは確かなことだと思うが、英語という言葉が広がったために定着していっているのではなく、むしろひどく難しいものへと変貌しているという話がある。ただでさえむつかしいものだから、ちゃんと習得できるものは僅かである。その地区特有の独自の英語が育つようになってしまったらしい。
 よくキングスイングリッシュだとか、米国語という言われ方をする場合があることはご存知だろう。元は同じものが変化したためである。もちろん大筋では通じるが、トラブルも起こすものらしい。香港英語というものもあるらしいし、ベトナム英語もあるらしい。なんというか忘れたが、西海岸の一部の英語というものも含めると相当なバリエーションがあるらしい。方言というものとは明らかに違う、形態の変化といえよう。
 英語圏の子供の言葉も、かなりひどいものだということも聞く。それはどの言語も同じではないかと僕は思っていたのだが、実際上は日本語のひどさどころではないらしい。たとえ英語圏の中で生活している子供であっても、言葉がむつかしすぎて、なかなか長い間かかっても正確に習得できないのだそうである。
 その上に第二外国語として英語を話す人が大量に流入してくる。本当に正しいという言語であることすら、既に怪しくなっているのが現実だという。英語は国際語になることで崩壊の道を歩んでいるのかもしれない。
 なお、英語圏に生まれた人は、なかなか第二外国語を習得しようとしない。本当の国際人は二ヶ国語以上習得する必要があることがグローバルにはスタンダートの時代に、ひとつの言語だけで執着してしまうことになってしまって、かえって交渉事は不利な立場におかれていくということもあるのだそうだ。今は英語のネイティブな人より、そうでなく後から英語を習得して利用している人口のほうが上回っているのである。交渉の基本は母語以外で交わすのが当たり前の時代に、わざわざ英語のみの確認だけで裏を取らない。後になって一所懸命訴訟を起こしても、取れる相手のみ通用する話で、そうでなければ被害が拡大するだけである。
 確かに日本語は書くにはむつかしい言語(表記が多様だから)らしいが、話す上では習得がやさしく、普及しやすい言葉であるといわれている。せっかくそういう国に生まれておきながら、日本語をもう少しゆっくり楽しんで勉強したらどうなのだろうか。日本語という言葉をしっかり習得することは、言語を学ぶ上で自分の基本(ベース)となることは間違いがない。
 日本語のしっかりしない人間が、他国語だからしっかり流暢に話せるようになるとは、原理的にありえる話なのだろうか。「チョーむかつく」とかしかいえない人間が、英語でどんな表現を好むか。それが国際人なのか。頼むからそのまま帰ってきてくれるな。
 日本人は自国語のことはむつかしいと思っているらしいことも、僕には良く分からない問題だ。本当に日本語で不自由しているのだろうか。まあ、脱線するので、これは別の機会に語ろう。
 英語という言語は、読み書き中心に勉強すべき分野だと思う。それでも大変なのだから、別に流暢にしゃべることに腐心して時間をとられるのは誠にもったいない話だ。時間をかけて、せめて少しぐらい読めるようになるだけで、ずいぶん世界が広がることだろう。
 現在のオーラル偏重の傾向は、無知ゆえ、または変な誤った認識による劣等感の現われのような気がしてならない。
 また、嫌な考え方であることは確かだが、これだけ話せる人が増えた現在、価値としても投機的に重要視するのは得策ではない。むしろ別の言語を選択する人のほうが、これからの時代は重宝されていくことは間違いがない話だ。
 まあ、言葉を勉強するのは楽しいので、早くから勉強させようというのであれば、僕は素直に賛成である。日本語と比較してさらに日本語の理解を深めることにもなろう。英語神話を信仰して早期教育に取り組む姿勢は、ただ滑稽なだけである。
 ヤンキー先生。あなたは少し無理をして、英語のスピーチの機会を受けるべきだったのだ。不完全でもそうすることが、教育者として子供達にもおおきな指針となったことだろう。
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実行委員長の挨拶は良かった

2007-09-03 | 雑記
 二日間宮崎の都城に行っていた。内容についてはいろいろ書いている人がたぶんいるだろうから端折ろうと思う。いや、書きたいけれど、とても短時間で書けるような内容ではない。しかし参加して本当に良かったと思える大会だった。得たものが多すぎて、しばらく個人的に反芻して楽しもうと思う。

 朝早くからの集合ということだったけれど、なかなか集まりにはばらつきがあった。しかし時間が来たら出発というのは個人的には大好きだ。例会もそういう感じになればいいと思う。仕事の都合があるとか、そういう理由はもういいのではないか。時間が来たらサヨウナラ。僕が一番憧れる世界なのかもしれない。未練や配慮はそのときは要らない。むしろ集まらなかった人が、集まった人に配慮すべきだろう。これは僕がJCの先輩に一番言いたかったことなのかもしれない。僕は多くの先輩からまじめに集まった僕らに向かって、集まらない人への配慮や、いない人の分の説教を聞かされてきた。はっきりいえることは、まったく不当な話に過ぎなかったということだ。そう自分が思うのなら、各人に訪問して説教すべき問題なのだ。そんなこともできずに卑怯である。すり替えてそういう話を聞かされすぎて、僕はすっかりひねてしまったと思う。嫁姑問題ではいじめられると代々同じ意地悪をするようになるそうだが、僕は同じような先輩にはならないようにとだけ思い続けて今まで来た。おかしな歴史は断絶してもいいと思う。
 いえ、A水君はいいのです。後から来たからそれでいい。人によって違っても、僕はそれはそれでいいという人間です。いや、良いか悪いかは各人で考えればいい問題なのだ。

 着いてから早速セミナーで、なんども「出来る出来る」と言わされる。まあ、そういう心構えは大切ですね。僕も簡単にはあきらめないようにしよう。しかし切り替えも肝心。見切ることも大切ですよ、九州男児。
 昼食どうしようかなあ、としばしぶらぶらして駅前うどん屋に入る。数人の客で既にパニックになっているママさん(という感じの店だった)がいて、そばを注文したのにそばがきれていてうどんになった。S田ッちはフォーラムに間に合わないということで先に席を立ってしまったが、僕らは何故か余裕があってゆっくり食事をとった。思いのほか美味いうどんで、ごぼう天もその場でかりっと揚げてあってざくざく感が心地よかった。値段も驚くほど安い。あれは長く商売が続かないのではないだろうか。

 ああやっぱり時間切れ。
 僕が今回最大の失敗をしたと思ったのは食いすぎてしまったことだ。懇親会でいろんなブースから食い物をかき集めてきて一気に食って腹いっぱいなのにまだまだ食おうとする自分の姿を見失ってしまった。二次会もヒゲダンスを踊りながら食って、三次会四次会と流れてフィニッシュラーメンである。流石にもたれてしまったのに早朝目覚めて散歩して朝飯も食ってしまった。反省は後からするものだが、簡単に自分を見失う弱さに呆れてしまった。体重も驚きの3キロ増。排泄するのに何日必要なのだろうか。

 多くのギャクは、本当には最後まで理解や共感が出来なかったけれども、T永委員長はじめとする委員会のホスピタリティには正直ありがたいと思った。何とかして盛り上げて楽しんでもらいたいという気持ちが、から回りしていたけれど尊いと思った。もう二度とヒゲダンスのテーマを聞く気にはなれなくなったが、ムーディは良かったと思う。連続していれば尚良かった。僕らのほとんどが人のいい連中なので、寛大さに磨きをかけることが出来た。人間はいろんな意味で成長できる。ほとほと疲れたが、僕の最後の九州はこうして終わったのだった。
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