カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

英語早期教育のかんちがい

2007-09-04 | ことば
 新聞を取りにいくついでに、いつの間にか慣性の法則で、そのまま散歩にでてしまうようになってしまった。朝早くから特別業務があるということで、本当は時間に余裕が無いのに、遠回りしないと気持ち悪い。いや、杏月ちゃんの所為もあるけれど、理事会で深夜帰宅したくせにさらにいつもより早くに起こされて、ものすごく眠いのに散歩してしまう。昼過ぎにきつくなるんだけどなあ、と困りながら距離を律儀に稼いでしまう。特に今は前のようにファイトがあったり明確な目標などないのだが、まあ、歩くのは楽しいのだからいいのだろう。ほんの10分だけのつもりでいつの間にか20分歩いてしまった。もう汗びっしょり。せっかく朝から着替えたTシャツがもったいない感じもする。靴下も交換。急に雨が多くなってつれあいは洗濯に苦慮しているという。ちょっと罪悪感である。
 しかしながら遅刻したわけではなくてちゃんとそれなりに早く職場に到着。
 バリバリ仕事してまた汗びっしょりになって気持ちよかった。労働は喜びである。むちゃくちゃ疲れるのは確かにつらいが、少し疲れたなあというぐらいの肉体労働はかえって爽快だ。毎日これぐらいの労働があるといいのに、と思う。まあ、飽きっぽいので、いつも同じことだとやっぱり嫌になるのだろう。敵はいつも自分自身である。

 さて、地区大会の講演で、ヤンキー先生のお話があった。ほんとかなあ、と思わないところもないではないが、概ね肯定はする。議員さんになってもがんばって欲しいものだ。
 話の中で、小学生から英語教育に力を入れるべきだという意見があった。他人がどんな意見を持とうがそれは自由だし、特に僕自身が反対派の立場ではない。しかしながらその理由が、自分はしゃべれないが、国際社会に英語ができたほうがいいからだ、というのは、あまりにも納得できない気がした。自分はしゃべれないで今の立場になったのならば、英語は必要じゃなかったということだ。可能性というのは誰にでもあることで、そういうもので正当化するのは卑怯だと思う。
 英語を勉強したい人は、それなりにがんばってくれればいいことだと思う。日本が国際社会でどうだというのは、英語を小学生の頃から勉強したからといってたぶん何も変わらない。多くの人は勘違いしていると僕は思う。多くの日本人が英語をしゃべれないのは、現実問題として英語というのは必要のないものだからという理由があるに過ぎないと思う。それが本当の現実なのだ。
 日本人が日本の国で英語ができなくて何も不自由しない。至極当たり前な話だ。国際社会であろうと、それは今後も変わることは恐らくない。
 国際社会で特に日本人が英語が下手だというが、日本の人口比で英語を使えるということを根拠に考えるとそうかもしれない。しかし、実際の国際社会上で活躍している日本人の数から考えてみれば、明確に相当数の人が英語をこなしているというのが現実だろう。国際人として日本人の数が少ないというのは認識違いだろう。むしろ相当数の日本人が、流暢に英語を扱って世界を闊歩していることだろう。
 日本人はほとんど誰でも気軽に国外に行けるような豊かさを手にして、ほんの少し外に出てコンプレックスを感じているに過ぎないのだと思う。その程度ならどこの国の人であっても、英語ができなくて当たり前なのである。観光に来た外国人が日本語が下手なことと、同じ光景に過ぎない。むしろ日本人の英語下手という評価は、そういう人が大勢他国を回れるぐらい豊かになったということに過ぎない。他のアジア諸国の人々は言語が流暢だというけれど、本当に優秀な人しか国外に出られない事情もあるはずである。失礼ながら不法入国者などの人で、最初から流暢であるという話はあまり聞かない。むしろそういう人たちのほうが、市井の人に近いと考えるほうが自然だろう。
 留学生ならその時間に応じて、相当流暢に日本語を話すだろう。それは程度という問題に過ぎない。言葉というのは、本当に必要ならば(それは程度はあるにせよ)誰だって習得可能なのである。
 英語という言語は、言語の中でも特に習得がむつかしい言語だといわれている。もちろんチェコ語やスラブ系の難関言語があるというのも確かだが、それは超難関言語があるということに過ぎない。英語においては、歴史や複雑さという背景も重なって、非常に複雑化した言語形態を持ってしまった。
 地勢的な問題や経済の動向によって、国際的に使われることが多くなったというのは確かなことだと思うが、英語という言葉が広がったために定着していっているのではなく、むしろひどく難しいものへと変貌しているという話がある。ただでさえむつかしいものだから、ちゃんと習得できるものは僅かである。その地区特有の独自の英語が育つようになってしまったらしい。
 よくキングスイングリッシュだとか、米国語という言われ方をする場合があることはご存知だろう。元は同じものが変化したためである。もちろん大筋では通じるが、トラブルも起こすものらしい。香港英語というものもあるらしいし、ベトナム英語もあるらしい。なんというか忘れたが、西海岸の一部の英語というものも含めると相当なバリエーションがあるらしい。方言というものとは明らかに違う、形態の変化といえよう。
 英語圏の子供の言葉も、かなりひどいものだということも聞く。それはどの言語も同じではないかと僕は思っていたのだが、実際上は日本語のひどさどころではないらしい。たとえ英語圏の中で生活している子供であっても、言葉がむつかしすぎて、なかなか長い間かかっても正確に習得できないのだそうである。
 その上に第二外国語として英語を話す人が大量に流入してくる。本当に正しいという言語であることすら、既に怪しくなっているのが現実だという。英語は国際語になることで崩壊の道を歩んでいるのかもしれない。
 なお、英語圏に生まれた人は、なかなか第二外国語を習得しようとしない。本当の国際人は二ヶ国語以上習得する必要があることがグローバルにはスタンダートの時代に、ひとつの言語だけで執着してしまうことになってしまって、かえって交渉事は不利な立場におかれていくということもあるのだそうだ。今は英語のネイティブな人より、そうでなく後から英語を習得して利用している人口のほうが上回っているのである。交渉の基本は母語以外で交わすのが当たり前の時代に、わざわざ英語のみの確認だけで裏を取らない。後になって一所懸命訴訟を起こしても、取れる相手のみ通用する話で、そうでなければ被害が拡大するだけである。
 確かに日本語は書くにはむつかしい言語(表記が多様だから)らしいが、話す上では習得がやさしく、普及しやすい言葉であるといわれている。せっかくそういう国に生まれておきながら、日本語をもう少しゆっくり楽しんで勉強したらどうなのだろうか。日本語という言葉をしっかり習得することは、言語を学ぶ上で自分の基本(ベース)となることは間違いがない。
 日本語のしっかりしない人間が、他国語だからしっかり流暢に話せるようになるとは、原理的にありえる話なのだろうか。「チョーむかつく」とかしかいえない人間が、英語でどんな表現を好むか。それが国際人なのか。頼むからそのまま帰ってきてくれるな。
 日本人は自国語のことはむつかしいと思っているらしいことも、僕には良く分からない問題だ。本当に日本語で不自由しているのだろうか。まあ、脱線するので、これは別の機会に語ろう。
 英語という言語は、読み書き中心に勉強すべき分野だと思う。それでも大変なのだから、別に流暢にしゃべることに腐心して時間をとられるのは誠にもったいない話だ。時間をかけて、せめて少しぐらい読めるようになるだけで、ずいぶん世界が広がることだろう。
 現在のオーラル偏重の傾向は、無知ゆえ、または変な誤った認識による劣等感の現われのような気がしてならない。
 また、嫌な考え方であることは確かだが、これだけ話せる人が増えた現在、価値としても投機的に重要視するのは得策ではない。むしろ別の言語を選択する人のほうが、これからの時代は重宝されていくことは間違いがない話だ。
 まあ、言葉を勉強するのは楽しいので、早くから勉強させようというのであれば、僕は素直に賛成である。日本語と比較してさらに日本語の理解を深めることにもなろう。英語神話を信仰して早期教育に取り組む姿勢は、ただ滑稽なだけである。
 ヤンキー先生。あなたは少し無理をして、英語のスピーチの機会を受けるべきだったのだ。不完全でもそうすることが、教育者として子供達にもおおきな指針となったことだろう。

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