カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

命名のセンス

2007-09-21 | ことば
 大相撲が開催されているが、今場所はまったく関心がわかない。別段朝青龍のファンだったわけではないが、日本社会が嫌になったのかもしれない。やんちゃ坊主がいて、何が悪いのだろう。あの社会は許容の範囲が狭いのだろうと思った。まあ、それを要求したマスコミがもっと悪い気もするが…。僕もいろんなものを許容しないが、時々息苦しくなる。多くの人はそうならないのだろうか。
 ところでしかし、朝青龍という四股名はあんまり好きではない。僕は敬愛する高島俊男の影響で、ちゃんとした和語の四股名の力士を愛している。高砂親方は、愛嬌のあるいい力士だったし、なんとなく好感を持っていたのだが、その上確か大学卒業のはずだが、四股名の朝にこだわりすぎて失敗しているのではないか。この際指導力より、知性のほうをどうにかして欲しいものだ。高砂という部屋の名前が泣いているぞ。
 どういうわけだが外国人力士の曙や小錦、武蔵丸などはいい響きだった。日本らしさを出そうとすると、やはり和語でなくてはならないようだ。最近の力士の四股名は、音だけで脅しているようで、センスがないような気がしてならない。
 そういうわけで福岡出身の魁皇も応援したいが、名前がいけない。今は覚えたからいいようなものの、音だけ聞いて名前の見当がつかない。どうもその頃からこういう傾向が強くなって、いい名前のお相撲さんが少なくなった。取り巻きの連中が意見する感覚もなくなっているのであろう。

 相撲ではないが、そういえば芸人の名前のセンスも変わってきた。以前と比べるとこちらの方は普通っぽくなっているようにも思う。野口五郎はどうかと思うが、郷ひろみとか西城秀樹っぽい名前の人があんまりいなくなった。正直にいうと今の人たちがどういう名前か思い浮かばないぐらい疎いのだけれど、玉木宏という俳優の名前を聞いた時、なんとなく時代が変わったように思った。普通っぽくて二枚目らしくない響きだけれど、彼は端正な二枚目であった。
 僕らの頃には氷室京介という人がいてかなり気持ち悪かったが、ここまで来ると普通のバカではないという気もしてくる。その上あれは僕にとってはロックではない。しかしながら年をとるのはいいことで、いつの間にかいなくなってしまった。まあ、宝塚じゃないんだから、芸能人であっても普通でいて欲しいものだ。
 芸人ではないが、最近の子供の名前はずいぶんな惨状になっており、名簿などを見ると知性のかけらも感じられない。少女漫画にはかなり以前から変わった名前が見られたが、そういう世代がお母さんになって、子供に変な名前をつけてしまうのではないか。僕の名前は祖父が名付けたそうだが(だからといっていい名前ではないが)、今の世代は人の意見を聞かずに名前を考えているのであろう。
 それにしても書いてある名前が読めなかったり(少なくとも知らなければ読めない)、不規則な状態であるという国があるのだろうか。おのずと命名にはセンスが表れるものだろうけれど、センスという基準が変わってしまったということか。まあ、よく考えて見ると米国の特に黒人の名前もずいぶんへんてこで笑えるので、国際的傾向なのかもしれない。
 そうとはいえ、一般大衆の知性はかなり低くなったのではないかと心配だ。格差社会だとかいう以前の問題ではないかと思う。あの名前を読まされる先生方は可哀相だ。ときどきグレても仕方ないのではないか。
 とはいえ、名前なんて記号なんだから実はどうでもいいという気持ちもある。違いが分かれれば都合がいいだけの話で、あれこれいう人が特に嫌いである(既に自分で言ってしまってるくせに)。
 特に姓名判断というのがどうしても好きになれない。勝手に信じている分には趣味だからかまわないが、意見をいう人は呪われて死ねばいいと思う。
近所に姓名判断か何かで社名を変えたという会社があって、そういう会社の信用さえ怪しいと思ってしまう。たとえ必要になっても、そういう会社に仕事を頼みたくない。
 名前や漢字の字画に左右される人は、容易に別の影響で左右されるということだ。信じている人には悪いが、そういう人が近くにいるのは迷惑である。
 ああ、しかし許容できない人間ははじかれる運命だ。朝青龍よ戻っておいで。お前がふてぶてしく世間を変えてくれればいいのだ。
コメント
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