カワセミ側溝から

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

名監督は名選手の中の一握り

2017-07-21 | 雑記

 名選手名監督にあらずというが、スポーツ界の指導者の多くは、いわゆる名選手と言われた人が務めている場合が現実として多い。野球の世界もそうだし、サッカーもそうだろう。日本的な相撲においてもそうであって、もともとの条件として、ある程度活躍した人でなければ務められない地位が監督ということであろう。
 もちろん、なんとなく言いたいことは分かる。そのような名選手の中でも、地味だった人が、あんがい指導者として優れている場合があるという期待が、巷間にはあるのではないか。選手として残念だったとしても、指導者として花を咲かせることは出来る。そういう美談は、話の組み立てとして好かれることかもしれない。また、選手として華々しいスターだった人が、監督指導のような、細やかで地道な努力を、他人に施すことができるのか。選手としての力量が、時には自分を犠牲にしてまで決断を強いられるような立場をまっとうすることができるのだろうか。そうして、選手の時のように輝いていた人が、監督のような指導者ではあんがい地味になるという印象もあるのかもしれない。しかし、選手より目立つ監督が、そんなにいいとは思えないけど。
 もっとも監督になった時に、すでに現役時代の活躍を忘れられているような人もいる。実際に選手としてはたいした記録も残せず、人気も無い(しかし人望や政治的には手腕があったのだろう。監督になれたのだから)、という人も居ないではない。日本では珍しいが、実力主義の米大リーグには、結構そんな人はいるようだ。しかし多くの場合、たとえ現在が地味に見えたとしても、現役時代はそれなりに目立った活躍もし、怪我などで惜しまれて引退し、人望があってコーチなどに招聘されたような人だからこそ、後の監督になったりしている。当たり前と言えば実に当たり前で、指導者同士の信頼や連携も必要だし、ある程度の指導経験や客観的な手腕がなければ、やれるわけが無いのだ。特にプロの世界になれば、組織的にも巨大になってくる。そのような世界で、まわりに目配せしながら人を動かすことは、誰だって容易には出来ることでは無いのだろう。さらに結果がついてこなければどうにもならない訳で、ダメな時期でも見通しを立ててフロントを説得できる政治力も持っていると考えられるところである。
 さらに一番重要だと思われるのは、指導を受ける立場から考えることも必要だ。その世界の実力がたいしたことが無いと分かっている人に、一流と自分で思っているような選手たちが、本当についていくものだろうか。いうことを素直に聞くことがあるんだろうか。できればその世界でも憧れられるような人から、直接薫陶を受けるような体験をしてみたいというのが、人情ではないか。そういう人から認められたいからこそ、さらに努力や研鑽を積む。そういう心情は、選手じゃない人でも理解できるのでは無いか。
 要するに指導者はやはり、名選手が圧倒的に名指導者になりやすいことは間違いなかろう。名指導者になり切れなかったような場合も(結果が伴わなかった)あるという意見は残るかもしれないが、その監督時代の事情は複雑で、政治的に辞めざるを得なかった人だっていたことだろう。少なくとも名選手で無く名指導者になるような人こそが、もの凄く珍しい訳で、選手として才能が開花しなかったような人は、素直にその世界から離れていく方が自然なのではなかろうか。機会さえ少なく実際に実在の人物さえ少ない幻想の印象が、この言葉を形作っているような気がしてならないのである。
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