カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

やはり武士のしあわせは過去のもの   柘榴坂の仇討

2014-09-23 | 映画

柘榴坂の仇討/若松節朗監督

 静かに丁寧に描いている場面が多く、いわゆるチャンバラ・カタルシスを狙ったものではないかもしれない。もちろん殺陣にも見せ場はあって、緊張感もあってよい。むしろそれまでの緊張感の方が静かに醸造されていくような展開で、それまでは俳優の演技合戦を楽しんでいるような感覚があった。間合いも長く、役についた人間の力の見せ所という感じもある。役者さんにも位のようなものがあるとは聞くが、そのような役者同士の演技の戦いというような場面も多い。競い合っているとばかりは必ずしも言えないのだろうけれど、その都度中井貴一が戦いながら演じているような悲壮感さえ漂っている。こういうのが我々日本人が日本の役者から感じ取れる機微ということである。日本映画の演技を観るというのはそういうことで、おそらく西洋人だって、これがあるから諸外国の人間が自国の映画を理解できないのではないかと考えていることもわかるわけだ。映像だからそのままでよいはずだが、しかしそのような文化ということも考えさせられる演技と映像美なのではなかろうか。
 別にドキュメンタリーを撮っているわけではなく、史実をもとにしたファンタジーであることは間違いがない。そういうことをやっていて、やはり当時の視線と現代の考え方が混在することになる。その境界はきわめてあいまいになるが、自分が今どこのあたりにいるのかということを見ながら時々考えてしまう。もっとも完全に当時の人間のようには考えられるはずはないのだが、感情移入でかなり近づく感覚はある。そうしてみると、時々現代的な物言いが混ざることに、少なからぬ違和感をぬぐえなくなるということはあったようだ。時代劇の宿命かもしれないが、リアルに演じようとすればするほど、現代的な価値観が少し邪魔をするのかもしれない。結論的にはかなり落ち着くが、それでよかったのかは、果たしてわからない。それはやはり現代的な視点が邪魔をしているということだろう。今や武士の心情など、正確にはわかりようがない。滅びた美学は、時にはエゴだ。現代的にはそれでよかったと安堵するが、それで本当にしあわせかは、やはりわからない。時代に翻弄されたり、運が悪かったり、それで生死すらかき乱される運命の人間には、たまったものではない。最終的には人間は自分の感情に嘘はつけない。そういうことを思いながら、今の自分のしあわせも感じるのであった。
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