ドラマを見ていたら、戦時中息子や夫が出兵する場面があった。つれあいがふと、僕もあんな場面になったら出兵していくんだろうか?と言った。もちろん、今の僕ならありえないことだが、当時の立場としてなら、それはそうなんだろう。
戦争当時のことは生まれる前のことだから当然知らない。しかし親は昭和一桁なので、親が子供としての戦争の話は聞かされている。またいわゆる戦争の語り部のお話も聞いたこともあるし、小さい頃には戦中生まれの人はそれなりにいた。働き出して、ぎりぎりそういう人とも一緒に仕事をした経験もある。もちろん彼らは現役バリバリではなかったが、彼らの青春としての戦争という話を聞くのは、不思議な感覚があったことは覚えている。もちろん、小説をはじめ戦争の書物もそれなりに読んでいる。さすがに古いので、今となっては嘘もあっただろうことも知っているし、また本当がなんであるのかを正確に知るというのは、やはりそれなりに難しいものがあるだろう。全体像としてざっくりと戦争を理解しているという感じで、本当にそれで戦争を理解しているのかというのは、ひょっとすると違うものがあるのかもしれない。
両親から聞いた戦争話は、主に貧困である。とにかく腹が減っていたらしく、育ち盛りに食べられなかった日常というのが、彼らの戦争に対する一番の思い出のようだった。
そういう中でひとつよく覚えているのは、父が戦中に祖父(つまり父の父)から、「これは学校で言っちゃいけないが、どうも日本は戦争に負けるようだよ」と聞かされたという話である。父たちは戦時中には上海にいたらしい。そこで祖父はアメリカの雑誌をどこからか手にして(おそらくタイムだろう)、戦況を報じた記事を読んだらしい。既に戦況はほぼ決しており、戦後日本がどうなるというようなことまで書いてあったという。そういう話を聞かされた父は、そうか、というより、怒りを覚えたという。父(祖父)はいったい何を弱気なことを言っているのだ。日本人である皆が必死で勝つことを信じて戦っていて、そうして日本は勝つという。それは何の疑いも無いことではないのか。
そのときはそう思ったらしいが、しかしやはり日本は戦争に負ける。今まで威張っていた兵隊は真っ先に町から居なくなり(先に逃げた)、家族はその後に苦労して引き上げたらしい。支配していた日本人が一気に最下層になって投げ出される。まさに生きるか死ぬかの逃避行で、やっとの思いで日本に帰って来たらしい。そういう中で、俺は今まで騙されていたんだな、父(祖父)があの時言ってたことが、ほんとだったんだな、と改めて思ったらしい。考えてみると洗脳から解けたという経験をしたものと思われるが、その頃の子供はみんな、多かれ少なかれ、そのように世の中を捉えたのではなかろうか。
個人の戦争体験からすべてを理解するのは不可能だが、一部の意識高い系の人が、戦争中もずっと戦争に反対していたという話は、あまり信用できない。現在のドラマから戦争を知ることは、残念ながら少ないとさえ思う。軍の暴走があったというのはそれらしいが、しかし大衆の圧倒的な支持に応えるという図式であったことは、今となっては自明である。しかし、やはりそれでも先の戦争の否定の意味でも、日本の悪の部分に焦点が当てられすぎていることはいがめないだろう。
要するに、たとえ僕が当時に生きていたのなら、おそらく不安はあるにせよ、喜んで戦争に行ったのだろうと思うのである。それが人間の本質的なものなのではないか。それは洗脳によって間違った考えを刷り込まれたということではなくて、自然に大衆的にそのような考えを良しとして、そうして進んで理解できることを喜びとしたのではなかろうか。
そういう自分の姿は確かに恐ろしい。しかし、そういう信じられない自分の姿を、さらに信じられないという思いから全否定することが、本当に平和への思いにつながるのだろうか。たとえば現在であっても、国際的には戦争と呼べるような紛争は、実にあちこちで繰り広げられている。彼らは野蛮で信じられない人間の愚行を行っているに過ぎないのか。もちろんまったくの共感は不可能かもしれないが、彼らの立場なら、彼らのように振舞う方が、実は自然なことなのではないのか。
戦争から学ぶ教訓というものがあるとしたら、まさにそのような人間の姿なのではないだろうか。人間らしい考え方の、いわばコアなものとして、戦争をする人間というものがあるのではないか。嫌悪するのは鏡に映っている自分の姿だ。それは想像力の無い人間には分からないだけのことなのではないか。僕が怖いのは、そういう姿を見ていない人間たち、ということになるかもしれない。