興味ないなら書かなきゃいいじゃないかと自分でも思う。でも少し時間もたって、あんまりタイムリーでもないし、いいじゃないかとも思う。それというのも24時間テレビ。
以前は見ていたかというと少しくらいは見ていたかもしれない。夏休み中だと友人の家だとか、そういうチャンスはあったかもしれない。また、この番組に協賛する自動車メーカーから車を頂戴した恩義もある。助かったこともあるなら疑義をはさむべきではないのか、というのとは違うから、個人の感情として見たくないは肯定されてもいいだろう。
だいたい正月のテレビも嫌いだ。基本的な感想と、そうして答えとしてはそういう意味だ。見ている人がいることは分かるけど、僕と同じような人もそれなりにいるだろうことは当然だろう。同じようにひねくれているだけのことだ。好きな人からするとそういう態度もどうかと思うのだろうけど、同時に理解も出来るんじゃなかろうか。でもだから、好きな人とそりが合わないわけではなかろうし、そんなもんかね、程度のことだろう。
ボランティア批判というのはあるが、確かにボランティアが混ざっているのが紛らわしいというのは製作側が考慮すべきとは思う。有償チャリティ・ショーだということは明確化してやればいいだけのことだ。ボランティアじゃないのにボランティアを謳うのは、批判されてしかるべきだ。有償でボランティア支援をするのはしかし、そこまで悪いわけでもない。だからそのような立ち位置は明確にすべきだろう。
人気があるらしいつくりであるというのが、それなりに不思議というのはある。感動したいのなら他にも方法はあるだろう。ドキュメンタリーが混ざっているなかで、物語を創作している感じも、いわゆるテレビ的なやらせ体質が露呈しているということかもしれない。これを見てそれを感じないということに、不思議さを感じるということかもしれない。みんな育ちがいいんだな。それともやはり了解済みということか。
さらにやはり僕はその道の人だというのが一番あるんだろうな。知らないことも多いけど、やはり少しは知っている。そうするとどうしても複雑な感情を持たざるを得ない。これは無いだろう、というのが、少しどころか多すぎる。それでも善意だからいい、という意見には、とても肯定する気分になれない。善意だったら何をやってもいいのか問題は、やはり内容次第だろう。
お金を集める手段よりも、恐らくテレビ局としても、タレントやその事務所、そうしてスポンサーに対して営業などの理由があるらしいことは簡単に想像できる。それは仕事なんだから批判できない。彼らとしても、そのような金の使い方の一環として、このような都合と合致するものがあるということだろう。結果やはり金が集まったり周知できたりすることで、何らかの役に立つという図式は定着はしているらしい。ただ、やはりそれを隠れ蓑にしない方がいいとは思う。割り切ってやった方が、フェアだし、妙な混乱も無くなるだろう。堂々とやって有償支援とすべきなのだ。ちょっと違うかもしれないけど、僕は杉良太郎は肯定できる。売名行為だと自ら逆説的に謳ってやっていて、本当に清々しい。本当はまったくの売名意識なんて無いのだろう。だからやはり分かっている人というのを期待しているのだろう。
人間にはいろんな感情があるし、個人の中にも良心や悪の心情が普通に混在しているのが当然だ。それだけ複雑だからこそ人間的なんだと思う。それじゃあこんなことやってらんないよ、というのも理解できないではない。だから結局見ないだけのことになってしまうのだろうけど、だけどやっぱりなんとなく割り切れないのだ。普段からそんなことばっかり考えているのも不健康かもしれないけれど、一面だけ見て満足されてもやってらんないよ、というのが本音かもしれない。だからこれはむしろ罪深いのではないかとさえ思うのである。
結局そういう議論が毎回あがって、少しは考える人もいるかもしれない。本当の意義はそういうことかもな、と思ってやり過ごすわけなのであった。