ビフォア・サンセット/リチャード・リンクレイター監督
限られた時間だからこそ生きてくるものはある。たっぷり時間があるから十分に語り合えるとは限らない。制限があることは最初から分かっている。時間が来たらさようなら。そのことの制限は、ここでは飛行機が飛ぶまでの時間ということになっている。これは少し含みが無いではないが、しかし強力な時間制限であるとは思われる。9年ぶりの再会。そしてその9年間の間に二人には何が起こったのか。そういうありえないことも含めて、めまぐるしくドラマが展開していく。
しかしながら基本的に会話をしている時間だけの映画だ。前作はほとんど一日近く歩き回っていたが、今回はリアルな時間とほぼ同じ状態(カットはあるが)で話が進む。ミニ講演じみた集まりを終えて、主催者から空港まで送ってもらう手はずになっている。おそらく廻りの人間は、ファンか知人と少し話があるくらいにしか思っていない状態だろう。ほんのちょっとだけ二人でお茶でも飲みながら話をする程度と誰もが思っている。しかしながら二人には事情がある。歩いて話してお茶飲んで話して船に乗って話して、結局彼女の部屋にまで上がりこんで歌まで聴くのである。運転手は待たされっぱなしだろうけど、しかしもう二人は離れられないし離れたくない。そういう切なさが最後まで持続して途切れることは無い。
もともと再会の約束をしていた。運命的な出会いをしてから半年後。つまり9年前のことだ。しかしそのときは再会を果たせていない。厳密には男のほうは会いに行ったのだが、女のほうは事情があって行けなかった。このあたりは名画「めぐり会い」のオマージュといったところ。前作は「ローマの休日」だったから、今作もそういう仕掛けということだろう。そういう仕掛けもさることながら、それからのすれ違い人生が本当に切ない。実は本当に近くですれ違ってばかりだったかもしれないのだ。運命で出会った二人に運命のいたずらが残酷にのしかかってくる。会話をしながらそうした自分たちの運命を、失われた9年間を、まさに呪うような気持ちになる。既にお互いには違ったパートナーがいる。そうして9年という歳月のなか、お互いに違った相手とは本当にはしっくりしていないのだ。それは他でもなく運命的に出会うべくして出会った自分たちの、代用のパートナーでしかないからなのだ。運命のいたずらで一時期横道に外れただけのことかもしれない。本当に欲している自分たちの対象というのは、他でもなく9年間離れていなくてはならなかった二人に微塵の違いも無いということだ。
時間の残酷さもさることながら、二人の出会いが運命的だったからこそ男は小説を世に出すことが出来たわけだ。ある意味でこれは執念である。これが出た事は必ず彼女に伝わるはずなのだ。本当に運命的な二人なのだから、必ず再び出会わなければならない。詩のことを分かっているから、その道を自ら切り開くしかないわけだ。実際に小説家になってしまうという荒業は見事としか言いようが無いけれど(宝くじに当たるようなものだ)、しかしそれでしか二人の運命は再び呼び込むことは出来なかったのかもしれない。多くの人は、そうやって運命の人を失う。運命であることを悟った二人が何をすべきなのか。これ以上示唆的なことを語る映画他にあるまい。自分らの運命を過信したために半年後のタイミングさえ失ったのだ。そうしてその後の時間さえも。
実際には携帯電話のある現代において、このような物語は成立が難しいのかもしれない。ロマンチックを取るかその後の人生を取るか。選択はあるが選ぶまでも無いだろう。そもそも二人は離れてはならない。それこそが運命的な二人に言える最大の教訓であろう。