カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

たとえ善意であっても

2011-05-17 | 雑記

 お母さん方と話し合いの席で、夏休みに子供たちにボランティアをさせたいという意見が出た。廃品を回収していくばくかお金を作り、東日本の震災の義捐金に充てるなどしてはどうだろうか、という提案であった。それはよさそうだという賛同の声もあがり、具体的に何をどうするかという算段に入りかけた。
 すると最近は廃品がお金にならないらしいという話が出たり、町内会の協力はむつかしい(それ自体が予算化されているらしい)という意見が出たりした。最終的には相当な量を確保する必要があり、(現金化するためには)また市に登録したりしなけらばならないという面倒もあるらしいとのことだった。業者任せにしてもある程度はまとめてやらないと却って迷惑をかけそうなのだという。
 軽トラックを持っている家庭にお願いをしたり、アルミ缶などを各家庭で確保してもらうなど分別の下準備なども必要なようだ。しかしそうなると、おそらく大人たちばかりの仕事が増えて、結局子供は何もしないということになりはしないか、という意見が出た。
 結局これが決定打だったようで、なんとなく話は立ち消えになってしまった。
 善意の行動も簡単にはできない。ましてや子供に何かをさせたり学ばせたいというような思いは、大人の思うようにはなかなかいかないということなのであろう。
 善意は分からないようにしなくてならない、という話も聞いたことがある。そのようにして子供自身に自然に分かってもらうにはどうしたらいいか。つまりは親の背中なのではなかろうか。
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