カワセミ側溝から(旧続・中岳龍頭望)

好きな言葉は「のこのこ」。好きなラジオ中継「相撲」。ちょっと苦手「煮た南瓜」。影響受けやすいけど、すぐ忘れます。

首相の声は天使か、悪魔か

2011-05-09 | 時事

 原発を稼働している電力会社は、好きで原発で発電しているのではない。電力を供給する使命があるから仕事として原発を利用しているにすぎない。災害の被害を受けた上に過剰に世論から痛めつけられ、さらに国からも見放されるという想定外の被害をこうむる現実にあって、誰よりも切実に原発を止めたがっているのは、ほかならぬ電力会社の首脳部連中であるだろう。
 しかしながら現実問題として原発を止めるような無責任なことをするわけにはいかない。使命や責任が強いからこそ、原発を不用意に止めるようなことは断じて選択できないというのが現実なのだろう。そもそも原発推進は、利権のためでなく国益に叶うから推し進められたものであり、オイルショックの悪夢から選択不可避な流れだったことをやすやすと忘れられるほど痴呆症状があるわけではない。今後の日本の電力政策においてどのような指針で取り組まなければならないのか。その道筋が無いうちに行動するのは単なる無謀であるだけでなく、逃避である。
 逃げ腰の経営者にとって首相からの要請は、天使の(いや、悪魔かも)声に聞こえているに違いない。これで電力の供給不足による言い訳も立つ上に、事実上国からの補償も上乗せできる。さらには消費者への負担増も織り込んでいいようである。浜岡以外の原発についても、是非首相は言及すべきだとホンネでは考えているに違いないのである。
 先に脱原発を宣言したドイツにおいては、稼働中の原発を止めることにより電力輸出国から輸入国に転落した。電力に色は無いということで、フランスなどの原発による電力に頼ることにしたのだ。日本の見本として見習うべきはこのような姿なのだろう。さて、中国やロシヤが、そのように応じてくれるかどうかだが。その前に電力消費が減るように、日本から企業が居なくなっているかもしれないけれど…。
 それでも原発は止めるべきだというのはよく理解できる。それが信念であるのなら、そのために本当の努力を惜しまないことだ。だからこそ原発を止めるためにも、まずは今原発を止めてはならない。本当に国民を守るというのは、そのようなリスクを背負いながらも戦う姿勢であるはずだ。優先すべきはそのような現実であって、無責任な連鎖の助長なのではない。
 大人のいなくなったこの国に、何を言っても始まらないか。
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プレシャス

2011-05-09 | 映画
映画『プレシャス』予告編



プレシャス/リー・ダニエルズ監督

 それにしても見事に太ってるな、というのが第一印象。ヒロインとして最も異質な存在という話も聞いたような気がする。確かに黒人のまるまる太った頭の悪そうなヒロインというのは聞いたことがない。途中では夢見る乙女の側面はあるものの、いつも不機嫌そうだし態度も悪い。おおよそどこに愛すべきところがあるというのだろう。
 しかしながら彼女の境遇というのが、実にすさまじい。十代で妊娠している(それも二度目らしい)のが明るみに出て学校を退学させられ、その子供の父親は母親の恋人(つまり父親なんだろうか)であることから、母親から激しい嫉妬と虐待を受けているのだ。母親は生活保護を受け続けることしか頭になく、どこかに預けている娘の一人目の子供すら利用している。そういう境遇で読み書きさえできないプレシャスは、代替学校というところで教える黒人女教師にどんどん憧れを抱いていく。
 それにしてもこの閉塞感は何なのだろう。実の母親から受ける虐待から逃れられないだけでなく、おそらくまともな仕事に就くことすらとても不可能にみえる。何しろまだ十代というだけでなく、二人の幼い子供まで抱えていくのだ。想像の世界へ逃避してみても、その一時に時間にどれだけの救いがあるのか。学校に来ている同級生(のようなもの)にしたって、どう見ても同じように問題のある人たちばかりなのだ。おそらく個人の力では切り開くことができない。牢獄のような閉塞感のみが現実を覆っているのである。
 しかしあこがれの先生はプレシャスに日記を書かせるだけだ。文字を書いたからといって何になるのか何も分からない。しかし何でもいいからといって書き続けることだけを強要する。プレシャスはその言葉を信じているわけではない。しかし確かに書くより仕方がないのかもしれない。徐々に何かを書くようになり、そして徐々に自分というものを正面から見つめるようになっていく。
 この物語が救いの物語であるのかどうかも僕にはよく分からない。映画が終わった後にも現実は続いていくだろう。プレシャスの子供は大きくなり、いったいどのような人間になるのだろうか。彼女と母親は違うとはいえ、同じようなふるまいをしないとは限らないではないか。ひょっとするとそのような連鎖の中に、深くはまりこんでいるのではないか。僕はスラム街というのはよく知らないが、そういう状態が人々をのみ込んで離さないのではないか。本当にその世界から抜け出すためには、逃げるより無いのだろうか。逃げた外の世界も、またなにも温かい世界である補償すらない。貧困というものが人間をとりこんでしまうと、人間というものはそう簡単に這い上がることなどできないのではなかろうか。
 家族というもっとも根源的な単位でさえも信じられなくなった世界。やはりそこが崩れてしまうと、人間らしい生き方が根本から崩れてしまう。しかしそこからでも個人は再生できる。おそらくそれは教育によって。そしてそれは教育を受ける個人次第なのだ。
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